76、
実は昨日、印刷所設立の話をグルヴェイグの書物商に持っていったのだ。
帝国の書物商ギルドがごねるのはギルドメンバーの廃業、この一点だろうと推測できた。技術が移り変わるとき、旧世代が抵抗するのはこれが理由。
だからこそ、暫定的措置を講じる必要があった。
ここに大陸流通網を担う経済国家グルヴェイグの書物商を噛ませ、帝国の流通網を一部独占させる代わりに、活版印刷の技術を提供してもらうという寸法だ。
もちろん国内の活版印刷業を成長させないと帝国の国益にはつながらないので、国営印刷所で働かせるのは帝国の業者でなければならない。
一部始終を眠そうな目で眺めていたパパが「うちの娘にはいかさまの素質があるね」と呟いた。なんだか余計なことを言いそうだったので、その先の発言を強い眼力で封じる。
「皇妃様の御覚悟、とくと見せていただきました」
ギルド支配人が恰幅の良い体を震わせている。
「そこまでお考えいただいているならば、書物商ギルドとしてもご協力させていただきましょう!」
「ありがとうございます!ありがとうございます!」
支配人と私は力強い握手を交わした。
商売って面白いわね。
論文書かなかったら商売やってたかも。
お互いの熱が一定程度冷めたタイミングで、支配人が切り出す。
「すでに印刷所の建設が始まっているとおっしゃっておりましたが、活版印刷には鋳造・植字・製本と多くの作業が発生します。つまり相当数の人員が必要です。さすがにその人数全てを当ギルドでまかなうのは難しいかと……」
「そこは大丈夫です」
私はドン、と胸を叩いた。
「帝国西部にあるフェンサリル領の領民を動員します」
◇
「フリッカ~~~! 会いたかったよ」
「パパ! 私もよ」
本日の出版室のお客様はフェンサリル領領主・パパリーノ・フォン・フェンサリル子爵である。
言わずもがな現世での私のパパだ。
「えっと……フリッカ、この方は?」
パパがバナヘイムのパパを指さして不思議そうな顔をする。
便宜上、帝国のパパを今パパ、バナヘイムのパパを元パパと呼ぼう。
今カレと元カレみたいな感じがするけど気にしない。
「この方は都市連邦バナヘイムの元大将で、神話学者のステファーノ・コロンナ先生です」
「どうも、パパリーノさん。出版室の顧問を引き受けているコロンナです。皇妃殿下にはお世話になっています」
「学者先生ですって? こりゃあすごい方だ……! こちらこそお会いできて光栄です」
今パパは貴族のくせに今日も腰が低かった。元パパはうまく話を合わせてくれている。
まさかこの2人が同じ場所に居合わせることになるなんてね。
「フリッカ、コロンナ先生に失礼のないようにするんだよ。皇妃になったとはいえ、いろんな人がお前を支えてくれているのだからちゃんと感謝の気持ちを忘れないようにね」
「分かっているわよ。今日だって、フェンサリル領の人たちに来てもらったのには感謝しているのよ。今回の印刷所事業に快諾してくれたこともね」
「そりゃあ娘たっての頼みなんだ。断るわけがないだろう? それに、領内の新たな稼ぎになるなら私たちも大助かりだよ」
今パパの後ろからは、私の親書を受け取って領地から大急ぎでかけつけてくれた村長や森の長老も笑顔を見せている。
「ふふ」
バナヘイムの元パパが笑った。
「? どうしたの」
「いや、皇妃殿下は素敵な親御さんをお持ちだなと思ってね。僕も嬉しくなってしまった」
その発言の意味が分かるのは私だけ。
胸にこみあげるものがあって、鼻をすする。
相変わらず能天気な今パパには「フリッカ、風邪かい?」と言われたので私の心の中は笑ったり泣いたりと大忙しだった。
国営の印刷所は帝都からわずかに離れた郊外に建設されることになり、工事が進む間、活版印刷の進行について帝都の書物商ギルドで協議が進められていた。
今日はグルヴェイグから招かれた鋳造師が作字の実演を行っている。ギルド本部に集まったフェンサリル領の人々と写本屋からは、作字の作業が進むたびに「おーっ」と歓声が上がった。
「活版印刷で重要なのは活字の型、母型です。何度も使う型が崩れないよう、鋳造の金属も良いものを使います。そして型の元になる手描きの原図は誰でも読みやすいように書かれたものでないと良い型になりません」
鋳造師は金属でできた「あ」の母型を左手に、その型の元になった「あ」のイラスト――原図を右手に持ってみんなに見せた。
2つを参考にして、写本屋が原図を書き、フェンサリル領の角細工職人が原図を見ながら母型を彫刻していく。
写本屋の書く文字は鋳造師の持っていた原図と寸分違わぬ出来で、全く同じ「あ」がもうひとつできた。さすが元の字をそのまま模倣するプロである。
また、森の生き物たちの角を装飾や家具に加工する仕事をしている角細工職人も見事なものだった。
当初は「素材が違うから難しい」などとぼやいていたのだが、最終的にグルヴェイグから取り寄せた金属の塊には、見事な「あ」が彫られていた。
「すごいわ! まさか初回からここまで綺麗にできるなんてさすがよ」
「最初は素材の違いに戸惑いましたが、結論、彫刻という意味では同じですな」
やはり技術は応用できるのだ。
この様子なら挿絵や模様を鋳造する際、装飾屋にも仕事を任せることができそう。
今パパはそれぞれの職人の間を見回っては雑談を繰り返しているのだが、逆にそれが功を奏すかたちとなっている。
「フリッカ、製本は今よりも人が少ないほうがいいみたいだ」
「ここはもっと時間をかけたいと言っているんだがどうだろうか」
皇妃である私には面と向かって言えないことでも、お人好しのパパには愚痴もどんどん吐き出せる。それが職人たちの課題抽出につながった。
これが今パパ流領地運営の極意なのだ。私には絶対に真似できない。
「やっぱり私の目に狂いはなかったわね。フェンサリル領の人たちに任せて正解だったわ」
目の前では、作字、鋳造、版を作るための文字並べ、紙を束ねる製本など、それぞれの特技を生かした仕事がトントン拍子に割り振られていく。
私は腕を組みながら今後の事業計画を組み始めていた。