75、 戦争と活版
エルム領内にある帝国軍のオストベルク砦が過激派に奪われたという一報が皇宮にもたらされたのは、エテメン・二グルが皇宮を退った夜半のこと。
帝都に駐留させた軍に反応した過激派がしびれを切らして動き出した格好だった。
エルム領にある過激派拠点に複数のアジトから荷物が運び集められていたのは、帝国軍側も把握していた。
だがアジトひとつひとつを叩いていたのでは過激派全てを潰すことはできない。どこかに集まった拍子に一網打尽にできはしないかと、今日まで帝国軍がタイミングを謀っていたのだ。
オストベルク砦は東に位置する隣国、信仰国家ニーベルンゲンやさらにその先にある多民族国家カドモスとの戦時を想定して作られた砦だったが、国境ギリギリではなく若干内部寄りに位置している。そのため、攻防の要というよりも物資の輸送拠点といった意味合いが強い。
そこを奪われたからといって、国境警備に瞬時に重大な影響が出るわけではない。
だが、このタイミングで隣国に攻められたら、あるいは過激派が他国と連携をしたらどうなるか。その可能性に無関心でいるわけにはいかなかった。
ゲオルグは即座に反応した。
「フギン、ニーベルンゲンとカドモスに使者を出せ。まかり間違ってこの折に帝国に攻め入ろうものなら、国主人民残らず根絶やしにしてやると」
「御意」
「革命前ならいざ知らず、現状では二国程度なら返り討ちにしてやることは可能だ。それよりも過激派が他国に逃げ出さないように包囲を敷かねばな」
ちょっとゲオルグが暴走しすぎな気もしたけれど、ここで「皇帝は過激派に対してとても怒っています」と対外的にメッセージを送ることで、二国が過激派を匿う行為についての牽制にもなる。
これくらいの圧力がちょうどいいのかも。
万難を排したところで、ゲオルグはニブルヘイム用に駐留させていた帝国軍5000のうち、2000をオストベルク砦に差し向けた。
国内の過激派が集結しているのならば、これから起きる衝突は大規模な内乱鎮圧になる。
派兵数としては少なすぎるのではないかという疑問も生じるかもしれないが、この2000騎は帝国精鋭の男爵騎士家からの派兵であり、率いるのは不死鳥の異名を取るエッシェンバッハ大公だ。
ゲオルグ曰く「エッシェンバッハ一人で1000騎分の実力があるから問題ない」という。
人間か?
ところでエルム領に戻ったヴェーリルは大丈夫かしら。
外見は爽やかに見える一方で中身は得体が知れない……間違えた、したたかだからうまく切り抜けているとは思うけど。
ヴェーリルの身を案じつつ、ひとまず国内の懐古主義過激派の問題については砦鎮圧の報を待つ段階となった。
◇
さて、争いの行方が気にはなるものの特段できることもない。
というか私の本分は出版室の仕事である。
二グルがニブルヘイムの面々と協議をする間――彼がどこでどのように協議をするのかは「秘密」だという――、私は帝国の活版印刷の発展に貢献していた。
今日はパパと2人、帝都の書物商ギルド本部を訪れている。
大通りが全面に見える窓を背にしたギルド支配人は、大げさと言えるほどに大きく首を横に振った。
「いくら皇妃様の依頼と言えど、それは飲めませんな」
私は必死に食い下がる。
「ですから話を」
「皇妃様は写本屋を潰す気ですか」
これまでの帝国での本作りは、原本の絵や文章を別の紙に写す「写本」によって増版してきた。
写本の技術というのは並々ならぬもので、文字の癖や細かな絵の隅々までを丁寧に模倣しなければ二冊目の本は完成しない。
一方、大陸最大の都市バナヘイムや経済国家グルヴェイグなどでは文字の鋳型を作ってインキを流し込む「活版印刷」の印刷所が増えている。バナヘイムに至っては、ほとんどの本が活版印刷である。
今後、内政が充実すれば帝国における書物や紙でのやりとりも増えていくだろう。
出版室にはその舵取りも期待されており、私としては一度に大多数の印刷が可能になる印刷所を作る必要があると考えていた。
「北方の国々では活版印刷が主流なのはご存じでしょう。いずれこの波は帝国に来ます。少しずつでも活版印刷事業にシフトしていったほうが、ギルドのみなさんの廃業も少なく済みます」
書物商ギルドのメンバーには、直接本を売る書物商だけではなく、写本屋や本の装飾を担う書物装飾屋も含まれている。
ギルド支配人の頑強な姿勢は、彼らが職を失わないための必死の抵抗でもあった。
「最初の印刷所は帝国が建てます。国営ですから廃業の心配もありません。写本屋の方々を中心に雇っても構わないと、陛下からお墨付きを得ております」
「国営の印刷所ですと……?」
私が事業予定の一端を打ち明けると、途端に支配人の耳が大きくなった。
商売人は利益の気配に聡い。
「これまでの帝国は出版を疎かにしてきましたが、これからは違います。書物商も儲かる時代が来たのです」
最近はスピーチをする機会が多いわね。
過日はパパとヴェーリル。
先日は鉄の森とニブルヘイム。
そして今日は書物商ギルド支配人。
論文出版実現まであと一歩なんだから、どれだけでも喋ってやるわ。
「活版印刷での大量製造、大量消費のほうが商売的にも利が多いことは支配人ならばお気付きでしょう。唯一のデメリットは写本屋や装飾屋の廃業が危ぶまれること。ならば彼らを国営の印刷所で雇わせてください。そこで得た技術は書物商ギルドの皆さんで共有していただければ、国内に新たな印刷所が増える一助にもなる」
「活版印刷の技術をタダで学ばせてもらえるというのですか!?」
支配人が立ち上がる。
かかったわね。
私は心の中で高笑いした。
タダより高いものはない。
これで国内には雨後のノボロギクのように活版印刷所が増えていくでしょう。
「しかし、全ての写本屋が適応できるとは思えませんな。そもそも写本と活版印刷の方法がだいぶ違うので」
「ふふふ、ご安心ください」
私は腕まくりをした。商売人ではないのだけど体の奥底に潜んでいた商売魂がうずく気がした。
「ここだけの話ですが、国営の印刷所設営にはグルヴェイグの書物商に指導をしてもらう手筈になっています。彼らの実績を最大限参考にして、写本屋と活版の暫定分業方式を取り入れる予定です」
「暫定分業? それは初めて聞くやり方です」
「書物の金銀装飾などは帝国の活版印刷ではまだ対応しきれませんから、できる部分のみを活版印刷に移行し、まだできない部分は現行の写本で対応していきます。国営印刷所は、大陸初の分業生産体制を実現することになるでしょう」
私はここまで一気にまくし立てた後、揉み手をしながら支配人ににじり寄った。