65、
ギンコ伯爵夫人は若くて感じの良い女性で、皇宮での会食もつつがなく行われた。
初めての公務で緊張するかと思ったが、夫人の人柄の良さに救われたかたちだ。
「お噂には聞いていましたが、これほど魅力的な方が皇妃様になられただなんて国民は幸せですわ」
おしとやかに笑う夫人もまだ18歳。別の伯爵家から嫁いできて、40歳の夫と結婚したばかりなのだと言う。
「お恥ずかしい。私なんて陛下に迷惑をかけてばかりです」
「ご冗談を。皇妃様がお隣にいらっしゃれば陛下も毎日が幸せでしょう」
そう言ってから、夫人ははにかんだ。
「あの……もし皇妃様がよろしければもう少しお話に付き合っていただけませんか。私も結婚したばかりの身。どうすれば皇妃様のような良妻になれるのかを知りたいのです」
むしろ悪妻に近いのだが?
謙遜でも何でもなく彼女の要望の対象としてはそぐわない気がしたけれど、おそらく彼女の本当の望みは「新婚の不安を誰かと共有したい」のだと思う。
それは分かる。
夫にどう思われているか、不安よね。
そろそろ会食も終わる頃合いだったが、夫人の申し出によりもう少しだけ彼女に付き合うことになった。
「私で良ければ」
食後の腹ごなしも兼ねて、私と夫人は皇宮の庭を散歩することにした。
「夫とどうやって話題を合わせればいいのか分からないのです」「夫の趣味は鷹狩りなのですが、私は鷹が苦手で……」など、会話の中身はほとんどお悩み相談だった。
ギンコ伯爵は典型的な政治貴族で、出世のための駆け引きや趣味に精を出すタイプ。対する夫人はおっとり型で、そんな夫に合わせるのに苦労をしているよう。
私とゲオルグは学問の場で知り合ったから、共通の話題には事欠かないのよね。
でも、夫人のような困りごとを抱えている貴族令嬢は多いんだろうな。
私は寄宿学校で教えられたままを彼女に伝えた。政治好きな夫のサポート、話題の合わせ方、狩りに付き添わずとも趣味を尊重する方法……。
「すごいですわ……! 皇妃様は本当に物知りなのですね」
「ただの受け売りよ」
会話の内容は夫人に大層喜ばれた。最後の最後にはがしっと手を握られる。
「ありがとうございます! きっと夫にも喜んでもらえます」
「気にしないで。伯爵とうまくいくといいわね」
友情が芽生えたような気がして、私も嬉しくなった。
そろそろ皇宮へ戻ろうかと思っていたところへ、「お嬢様!」とグナーが駆け寄ってきた。
彼女は肩で息をしている。相当に慌てて走ってきたんだわ。何かあったのかしら。
「おじょう……失礼、皇妃様、ギンコ伯爵夫人。お伝え申し上げます。実は今しがた、ギンコ伯爵が皇宮を辞したという連絡がありまして」
「えっ」
「そんな!」
私も驚いたが、夫人はなおさらだ。顔が真っ青になっている。
「夫人を置き去りにしたってこと?」
「そこは分かりません。もしかしたらご夫人が庭園にいると気付かなかった可能性もあります」
「そんな、どうしましょう……。私、このままだと旦那様に怒られてしまうわ」
涙目になる夫人の手をそっと握る。伯爵と夫人の関係性はさきほど聞いたばかり。彼女が怯えるのも無理はない。
私はしばし考えを巡らせてから口を開いた。
「泣かないでちょうだい。大丈夫よ、何とかするから」
「皇妃様?」
「グナー。家令たちに馬車の用意をするように伝えて。私も行くわ」
「お嬢様!?」
今度はグナーが驚く。
「ギンコ伯爵の領地は帝都から片道5日間以上はかかる。いきなり地元に帰るわけはないから、必ず帝都の公爵家別邸に立ち寄るはずよ。皇宮の馬車で今から追えば十分間に合うわ」
私の発言を聞いた夫人が小さな悲鳴を上げた。
「そんな、皇妃様にそこまでしていただくなんて」
「気にしないで。私が庭園に出ることを家令に伝えていれば防げたはずだし、帝都の伯爵家別邸ならすぐそこだもの」
グナーが何かを言いたそうだったが、私は目で制した。
初めての公務にトラブルを持ち込みたくなかったし、何よりも夫人を悲しませたくはなかったから。
◇
帝都の通りを急いた馬車が駆け抜ける。
ギンコ伯爵家の邸宅は、公爵家別邸が立ち並ぶエリアの最南端にあった。
爵位が低いにも関わらず好条件の立地である状況に、エルム家による後ろ盾の存在を思わせる。
丘の中腹にあるギンコ伯爵邸にたどり着いたとき、邸宅の門の前に伯爵家の家紋が描かれた馬車が停まっているのが見えた。ちょうど男性が一人、馬車から降りてくる。
「旦那様!」
伯爵夫人が駆け寄ると、ギンコ伯爵は夫人を凝視した。
確かに驚いているようにも見えるけれど、その程度は私から見ても浅いものだと感じる。
「ローラ、なぜ馬車で……?」
やっぱりこの人、わざと夫人を置いて行ったんじゃないかしら。
会ったこともない他人に良くない疑惑を押し付けるのはどうかとも思うが、なにかひっかかる。
伯爵は、夫人が後から来ることが分かっていて、その到着が予想外に早かったことに疑念を抱いた……そんな表情だったというほうが納得できる。
「旦那様、申し訳ございません。実は私、皇妃様との会食の後で庭園を散歩していたのです」
「それは気付かなかった」
「ええ。私が勝手に決めたことです。旦那様が結婚したばかりの皇妃様によくよく話を聞くようにとおっしゃっていたので、私がつい皇妃様にわがままを申したのです」
ほーう。
よくよく話を聞くように、ねえ?
夫人は泣いて伯爵にすがっている。
私はいたたまれなくなって、伯爵の前に近づいた。
「伯爵、どうか夫人を責めないでください。私は気にしておりませんし、彼女のおかげで楽しい時間を過ごすことができました」
「皇妃様」
伯爵は私の存在にようやく気付いたとでも言うように、仰々しくその場に跪いた。
「わざわざ妻を送り届けてくださったこと、感謝いたします」
「大したことではありません」
「妻の非常識は私の不徳の致すところ。今後はこのようなことがないよう、強く言いつけますので」
だから気にしてないって言ってるでしょ。
話を聞け。
表向きは敬っているように見せながらも、その実、明らかに私のことを軽蔑している。
その理由が小娘だからなのか子爵家出身だからなのか知らないけれど、この伯爵の人柄が知れるというものだわ。
本当は伯爵夫人にも声をかけたいけれど、皇妃である私がここに長く滞在することは彼女の心象も悪くしてしまう。
若干の悔いを感じながらも衛兵に手を引かれて帰りの馬車に乗り込もうとしたのだが、私の動きを止めたのは御者の悲鳴だった。
「何!?」
衛兵の手を突っぱねて、馬車の前に出る。
目の前に広がる光景に愕然とした。
幅広の剣を持った外套の男たちが、馬車を囲んでいたのだ。