61、
「帝国の前身であるにも関わらず、ミドガルズには技術も文化も一切伝わっていない。そして、祭祀部屋にあるヤルンヴィットの古語は世界樹の壁画でかき消されている」
まるで、その文明そのものを隠すかのごとく。
そして諸島国家の船乗りと会話をしたニブルヘイム人の男性は、今もニブルヘイムが帝国を監視していることを名言していた。
「ヤルンヴィットがたった7日間で滅んだ背景にニブルヘイムが関わっているとすれば、答えはおのずと絞られてくるわ」
「つまり、別の文明にポンプの主導権を奪われたニブルヘイムが、再びどこか別の国家にポンプを悪用されないように、ヤルンヴィットの存在を隠したといいたいのかな」
「その通りよ」
パパは椅子に深くもたれ、私の言葉を吟味するように口をもぞもぞさせた。
「もしもヤルンヴィット神興国の残党がいるのなら、彼らはもう一度ポンプの主導権を握りたいと思うだろうな」
ポンプの主導権を握れば世界征服が叶うからね。パパは楽しそうだった。
「パパの言う通りだと思うわ。ニブルヘイムが今もミドガルズの地を監視しているのは、再びポンプが悪用されて戦争になるのを防ぐためだと思う」
「ヤルンヴィット神興国はもう滅んでいるのだから、わざわざ監視する必要はないんじゃないの?」
それよ。私は大事な点を強調すべく、人差し指をピンと立てた。
「ニブルヘイムが警戒しているのはヤルンヴィット時代に憧れる懐古主義派だと思う」
「懐古主義派ね」
パパは思案気に窓の外に視線を投げた。
「お前もゲオルグも懐古主義派を目の敵にしているが、ここは冷静に議論をしなければならないよ」
パパは椅子から立ち上がると、私とヴェーリルの周囲を一歩一歩踏みしめるように歩いた。少し大げさにも感じるが、これがパパの思考中の癖だ。
「懐古主義派は帝国だけに限らず、大陸全土に存在している。いわば信仰のかたちのひとつ。彼らの願いというのは本来、『世界樹が存在していた神話時代を追体験したい』という素朴なものだったはずだ」
ここ100年の間、大陸では飢饉が起き、格差が増大。
北部では戦争、南部では内乱が勃発した。世の中に嫌気が差すのも当然の時代。
そういうとき、『古き良き時代に戻ろう』という呼びかけは絶大な力を持つ。人心に響くのだ。
「そういう人々だって『世界樹は人が作り出した筒でした』と言われたら、嫌だと思うけどね。彼らも世界樹の真実を隠したいんじゃないのかい?」
パパは宗教学や神話学の研究を続けてきた学問の先輩だ。
さすがに背景に詳しい人の質問は一味違う。
でも楽しい。
私、ずっと議論に憧れていたの。
「そうよ。だから私は当初、自分が懐古主義派に殺されたんだと思ったわ」
15年前。
私は、自分が書いた論文を疎ましく思った懐古主義派に殺害されたのだと考えていた。
「でも、バナヘイムの懐古主義派はそれほど目立ったテロ行為を行わない。だから今でもバナヘイムでは、私を殺した相手はただの強盗だと思われている」
でもゲオルグだけは、違った。
私を殺したのが懐古主義派だと思っていたのだ。
それは、彼が帝国の懐古主義派の実情を知っていたから。
「帝国の懐古主義派だけは、他の国と違うのよ」
7年前まで国内に内乱を起こしていた恐ろしい集団。
だからこそ過激派と呼ばれる。
「彼らが他の国よりも過激で、過去にしがみつく理由。それは、彼らの目指す回帰が、世界樹の生えていた時代のことじゃなくてヤルンヴィット神興国が大陸を支配していた時代への回帰だからよ」
「そこは私からも発言できるところだよ」
ヴェーリルが口を開く。彼の表情は真剣だった。
「先帝時代の内乱がヤルンヴィット時代への回帰を目的にしていたのは、高爵位の貴族には一目瞭然だった。ミッドガルド一族の権威は地に堕ち、彼ら自身もどうすれば帝国の権威が復権できるか分からなかったんだ。だからこそ、鉄の森時代の化け物めいた国の姿に憧れを抱いた」
「ヤルンヴィット家の人たちがそう言ったの?」
「実際のヤルンヴィット家は単なる子爵家だったから、彼らは御旗として利用されただけさ。内乱が成功していたとしても、子爵家の人たちが重用されることはなかったと思う」
不憫な話だ。
その血の古さだけが利用されたのね。
「今上帝がそういう意味で尊敬を集めているのも、本人にとっては不快だろうね」
ゲオルグは革命時、懐古主義派に属した貴族を徹底的に処刑した。その処刑方法はかなり過激で、彼が恐れられるようになった理由でもある。
プライドを重視する貴族にとって許しがたい見せしめを披露したにも関わらず、国内に残存する過激派は今のところ大きな動きを見せていない。
それは単に機を狙っているだけなんだと思っていたけど、もしもゲオルグに流れている血のせいなのだとしたら、彼にとっては最大の侮辱になるだろう。
ゲオルグの特徴でもある、猛禽類のような黄色の瞳を思い出す。
「つまり、まとめるとこうだね」
私とヴェーリルの会話に聞き入っていたパパが、考えをまとめる。
「フリッカが論文を発表したいのは『世界樹がポンプと呼ばれる人工物だった』こと、その真実を隠すために創世神話が作られたことを世間に伝えるため」
「そうよ」
「神話を作ったのはニブルヘイム。ニブルヘイムは帝国の前身であるヤルンヴィット神興国と戦争をしていて、二度とポンプを奪われないようにヤルンヴィットを滅ぼした上で、蓋封じ代わりにミドガルズ帝国を建国。さらにポンプを“堕ちた森”に隠した」
「そうそう」
「そして、現在はヤルンヴィット神興国を崇拝する過激派が動いていて、それをニブルヘイムが監視している」
「その通りよ。分かってもらえた? さっそく論文の改稿作業を」
「ダメだ」
パパの表情が険しくなる。
それは自宅でのほほんと本を読んでいるときのものではない。大陸最強の軍を率いた大将の顔だった。
「今の状況では、とてもではないが論文出版など許可できないね」