56、
フリズス城の麓には、澄んだ色の湖が広がる。
広葉樹がつらなる湖畔には平坦な道が伸び、散策にはぴったり。
鳥のさえずりを聞くと、私はスカートの裾をひるがえしてくるりと一回転した。
「気持ちいい! 風も穏やかだし、最高の散歩日和ね」
今日はゲオルグと湖畔散策を楽しんでいた。
私のアイデアをまとめた紙束と参考書数冊もグナーに持ってきてもらっている。散歩が終わった後はゲオルグと論文談義をするのだ。
「皇宮は世界樹<ポンプ>を手に入れたヤルンヴィット神興国がその動力を加工するために建設した施設だったんじゃないかと思っている」
「だからハツデンキや昇降機が残っているのね。それを知られたくないミドガルズ帝国とニブルヘイムが皇帝の居城として再利用したって説はありかも」
「君が出版室に就いたらそのあたりの調査権限も与えるつもりだ。ただし、自分の論文だけでなく他の出版に関する政務もちゃんとやれよ」
「えっへへへ、分かってるわよ」
結局、散策中もそんな話題ばかりになった。
私は論文の話になるとどうしてもデレデレしてしまう。今もゲオルグの腕に掴まって、彼に頬をすり寄せている。
「自分に都合のいいときだけ張り切るじゃないか。いいか。愛情表現はこうやるんだ」
横を歩いていた彼が私の前に立ち、キスをしてきた。
頬ではなくて、口にするやつだ。
「んっ」
ゲオルグは仕草が優しい。
視線を合わせてくれるし、実は私が緊張で震えていても肩を撫でて落ち着かせてくれる。
横柄で尊大でいっつも偉そうなのに、こういうときは私を最優先してくれるからずるいと思う。余計に彼に対する気持ちが大きくなるというか。
唇が離れると、ニヤつくゲオルグが目に入った。
「夫婦になったらこのくらいのスキンシップは当たり前だからな」
「キッスは毎日するものなんですか」
「いい加減慣れろ」
「わあわわああああ」
私は心の中に湧いた甘酸っぱさをうまく消化できず、全力で走り出した。
「おい、待て」
「うおおおお」
後ろにいるゲオルグに何か言われたが構わず走り続け―――……ようとしたが無理だった。
ボチャン!
湖に落ちる。
「フリッカ!」
大慌てでゲオルグが駆け寄ってくる。
幸いにも浅瀬だったので溺れることはなかったが、私の服は水浸しになってしまった。冷たいし気恥ずかしいしで合わせる顔がない。
何とかその場を誤魔化そうとしてゲオルグを見上げると、彼は眉をひそめて湖を見つめていた。
「ゲオルグ……?」
その表情の意味が分からなかったのだが、湖に大きな水しぶきが上がったためにすぐに疑問は解消された。
人間1人を喰らいそうな怪魚が、ものすごい勢いで私に近づいている。
「な、なにこの魚!?」
「なんで君はこうやって得体の知れないものを呼び寄せるんだ……」
「もしかして新種の魚かしら」
「くだらん興味を抱いていないで早く逃げろ」
逃げようとしたけど、転んだ拍子に足を捻ったらしい。
すぐには立ち上がれなかった。
舌打ちしたゲオルグが、森のほうに向かって告げる。
「槍を持て」
そう言って彼が手を伸ばすと、森の木陰から出てきた近衛兵がゲオルグに槍を渡した。
槍の柄を掴んだ彼は湖に踏み込み、腰を落とす。
怪魚が目と鼻の先に接近してくる。
ゲオルグはタイミングを見計らうと、狙いを定めて魚の頭部に槍先を突き刺した。
魚は見事に一発で仕留められた。槍から逃れようとビチビチと往生際の悪さを披露しているが、もう一度突くと完全に動かなくなった。
「フリッカ、怪我はないか」
「ええ、大丈夫よ。……格好よかったわ、ゲオルグ」
「まさか槍で魚を仕留める日が来るとは思わなかった」
うう、強くて賢いなんて考えれば考えるほど格好いいな。全ゲオルグが格好いい。
本人には言わないけど。
「その魚、食べられるのかしら」
「変なことを言うなよ。こんな気持ち悪い魚は食べたくない」
苦い顔をしたゲオルグは、巨大な獲物が刺さったままの槍を再び近寄ってきた近衛兵に渡した。兵士は必死に槍から魚を取り外している。
「まあそうね……ハックション!」
興奮がさめた瞬間に、湖の冷たさが戻ってきた。
両肩を抱いて震えていると、ゲオルグが私を横抱きにする。私は慌てた。
「ゲオルグも濡れてしまうわ」
「構わない。城に戻って着替えればいい」
「でも」
「そんなことを気にするくらいならもうちょっと自分の行動を顧みたらどうだ?」
苦笑しながら諭された。
走りたくて走ったわけじゃないけど、湖に突っ込んでいったのは私も短慮だったと思う。
せっかくゲオルグと湖畔散策を楽しむ予定だったのに。
「ごめんね……」
「まあいいさ。君と結婚したのだからトラブルは折り込み済みだ。湖の中に突っ込んでいくとは思わなかったが、そういうフリッカを追いかけるのも俺の役目だ」
再びキスをされた。今度は頬だ。
「もっとくっつけ。そうしたら温かくなる」
言葉通り、私はゲオルグの首に手を回して彼の胸に頭を預けた。
胸板の厚さを感じる。皇帝ともなると毎日は無理だろうが、今でも槍の鍛錬は続けていると言っていた。そのせいか年齢特有の衰えもないし、世間的には精悍な部類に入るのだろう。
フリズス城に滞在してまだ数日だと言うのに、夫の魅力が激しくて毎日倒れそうだった。
◇
城に戻ると、主階段ホールにいた使用人から湯の準備ができていることを知らされた。
「一緒に湯に入るか」
ゲオルグは事もなげに言う。
やっぱり倒れそう。今すぐに倒れそうだ。
「は、あ!? 駄目に決まってるでしょ」
「そのままだと風邪を引くぞ」
「湯に入るのが駄目なんじゃなくて、一緒に入るのが駄目なのよ。 言うまでもないわ」
「もう夫婦なんだから問題ないだろう」
「男女が一緒に湯に入るなんて」
破廉恥です、と続けようとしたのだが、ゲオルグの纏う空気が変わったので言葉を止めた。
表情は変わらない。でも分かる。
彼はしょげているのだ。
おじさんになっても人はしょげるのだと、彼を見て学んだ。
「分かった。君は湯に入ってこい。俺は着替えくる」
あーあーあー。
「待ちなさい!」
私は立ち去ろうとするゲオルグのシャツの裾を掴んだ。
何を怖がっているのですかフリッカ。
寄宿学校でも学んだじゃない。
教科書通りに手順を踏めば大丈夫。恐るるに足らず。
「分かったわ、ゲオルグ。私と」
「お嬢様~~ふわっふわのタオルをお持ちしましたわ~~」
グナーが幸せいっぱいの笑顔で話しかけてきたので、私は一世一代の告白の機会を逃した。
後から己の罪に気付いたグナーが崩れ落ちたのはいうまでもない。