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ミドガルズ帝国2代目皇帝ミッドガルド2世が晩年に建設したフリズスキャルブ城は、南部高原の山頂にそびえている。
2代目皇帝は政治への関心が薄く、子息に帝位を譲った後は音楽や絵画に囲まれながらこの地で暮らした。
フリズスの城は三階建て。帝国内の公爵家や大公家の居城に比べるとこじんまりとしているが、立派な厨房や豪華な装飾がほどこされた寝室、歌人のための広間など休暇を過ごすにはうってつけの別荘だった。
馬車で通った麓の村には美味しそうなレストランもあったし、城の近くには気持ちよく散策できそうな湖もある。
ここで一ヶ月間、ゲオルグと水入らずで過ごすのだ。
期待で胸がいっぱいになる。
皇宮からついてきたグナーが、荷物を寝室に運び込んでくれた。グナーはニコニコしているが普段よりも口数は少なめだ。
「お嬢様。陛下との時間を楽しんでくださいね」
夫婦の時間を優先してくれているのだと分かって、照れながらも私は頷く。
皇宮に帰ればゲオルグは忙しくなるし、私も出版室での仕事が待つ。イチャイチャする時間は有限なのだ。
ノックの音がした。返事をすれば、近衛とともに城を見回っていたゲオルグが入ってきた。皇宮とは異なり、ラフなシャツ姿の彼は若く見える。
「設備は当時のままだった。生活には支障がなさそうだ。どうする? 一緒に城を見て回るか」
ゲオルグが話し出すと、グナーは小さな声援を送りながら部屋の外へ消えていった。
侍女の鑑だと思う。
「そうね、それもい」
グナーの代わりに、ずかずかと近衛特兵が入室してきた。背が高く筋骨隆々。フライアに攻撃したあの鉄球野郎だ。
こいつはもうちょっと空気を読んだほうがいいわね。
なんだか白けてしまうと同時に、私のお腹が鳴った。
「君が疲れていなければ、村へ降りるか? 食べ歩きがしたいと言っていただろう」
ゲオルグの提案に、私は目を輝かせた。
「デートね! 行きたいわ」
前世でもほとんどできなかったデート。好きな人と一緒にご飯を食べたり店を見たりするのにはおおいに憧れがある。
その様子を見たゲオルグが微笑んだ。「君も女の子なんだな」と言われて、なんだかくすぐったかった。
◇
高い空の下、私はゲオルグと腕を組んで石畳の道を歩く。人口の少ない村なので往来も少ない。
村外から来た夫婦は目立つのか、さっそく露店のおじさんに声をかけられた。
「ご夫婦かい? 林檎酒とソーセージはどう? うちのは格別だよ」
高爵位の貴族でなければゲオルグの顔も知らないだろう。あえて服装を簡素にしているからか、皇帝と皇妃だと気付かれることもない。
私はさっそく夫におねだりをすることにした。
「これ食べたい」
「店主、二人分くれ。林檎酒は一人分でいい」
木陰のテーブルに座って、緑色のソースがかかったソーセージをほおばる。
「ハーブを使ったソースなの? 酸っぱくて美味しい」
「このあたりでは数種類のハーブを刻んでサニーベリーの果汁と合わせてソースにする」
「帝国はベリーが豊富ね」
「俺はそんなに好きではないがな」
こうやってゲオルグとのんびり好き嫌いの話をするのは前世以来だ。
彼は甘いものや酸っぱいものが苦手だった。現に今も、林檎酒ではなくて麦酒を飲んでいる。
「学生時代も黒麦酒ばっかり飲んでたわよね」
「バナヘイムの黒麦酒が美味いんだ。帝国の麦酒はまあまあだな。北部よりも南部の麦酒のほうが美味い」
「あなたの実家って帝国の北部じゃなかった?」
「ああ。グルヴェイグに近かった。……もう存在しないが」
グルヴェイグは帝国の北に位置する経済国家だ。
その手前に、かつてのヤルンヴィット家領地があった。私と出会わなければ、ゲオルグは今頃その一部の領地を預かっていたはず。
私はわずかに湧き上がった苦い気持ちを林檎酒で喉奥に流し込んだ。
「ゲオルグはさ」
「なんだ」
「私と結婚しなかったら、他の人と結婚していた?」
「……なんだ突然」
「いいじゃない。こんなこと、もう聞く機会ないだろうから」
ゲオルグも麦酒を流し込んでいた。
「父は俺のことなど心底どうでも良いと思っていたが、兄は俺に領地の一部を継いでほしかったようだ」
兄。ヤルンヴィット家の嫡男だ。
確かフライアは「ガンドル」と呼んでいた気がする。
「兄のことは大嫌いだし今でも軽蔑しているが、兄は兄なりのやり方で俺のことを目にかけていた。不器用な男だった。フライアのような女がほおっておかないのも納得できる」
「つまりフライアと結婚していたかもしれないってこと?」
「どうしてそうなる? 君は論文が書けるくせにたまに馬鹿になるな」
ゲオルグが憐れむような眼差しを向けてきた。やめて。
「領主になるならば当然結婚していただろう。相手は誰でもよかった」
「ふーーーーん」
「ほう、存在しない相手に嫉妬しているのか。かわいいところがあるじゃないか」
「ゲオルグって大学時代も女の子に声かけられてたわよね」
「そうだったかな」
本人がとぼけているだけなのか本当に忘れているのかは区別がつかなかった。
ゲオルグは人当たりが冷たいので、人間関係が長く続くタイプではない。
が、ゲオルグの醸し出す独特の余裕と人を子馬鹿にした感じが、同年代の女性を惹きつけていたことを私は知っているのだ。
だって物陰から見ていたもの。
「やっぱり男の人って油断ならないわ」
「早く食べろ」
「あの頃のあなたって、実は女性関係が派手だったんじゃないかって」
「この辺りでははちみつをたっぷりかけたケーキも食べられるぞ」
「ずっと疑っているのよ……えっ、はちみつ!?」
少し酔ったゲオルグが声を上げて笑う。
はちみつたっぷりのケーキは捨て置けない。ソーセージと林檎酒を平らげると、次の店へと繰り出した。
そうしてすべてがうやむやになったと気付いたのは、フリズス城の寝室でお腹いっぱいになった体を横たえ天井を眺めていたときだった。