52、 飛んでいくなら追いかける
若草の絨毯が風で波立つ。スカートの裾がぶわりと広がるのも気にせず、私は思わず立ち上がった。歩いてくる彼に駆け寄る。
「なにしてるの!」
こんなところにいるべきではない人が、ここにいる。
きつい口調になってしまったけど、それだけ私も混乱しているのだ。
「迎えに来た」
風で乱れたくせっ毛を整えながら、ゲオルグは抑揚の乏しい口調で答えた。
「待てなかった」
「ま、待てなかった……?」
子どもか。私は困り顔でゲオルグを見上げた。丸眼鏡が陽光に反射するせいで、彼の瞳は見えない。
「君のことは信じている。それでも待てなかった」
理屈屋のゲオルグからまったく理屈の通らないことを言われて呆然とする。
「いや、でも約束して」
「遺跡に迷い込んだら帰ってこないかもしれないだろ」
絡み方がウザすぎる。
もしかしてこいつ、拗ねてるだけなのでは。
「……まさかたった一人で来たの? 衛兵も連れず」
「近衛特兵は隠れてついてきているはずだ。俺は断ったのだがな」
「あのね、皇帝にこんな暴挙が許されるとでも」
「もう皇帝ではない」
二度目の呆然。今、なんていった?
「あんな重いマントを着るのはもうこりごりだ」
「は? えっと……えっ?」
「退位した」
「はあ!?」
「フギンに伝えてきた。まだ手続き中かもしれんが」
「いやちょっと待って! 退位……退位なんて、そんな、嘘でしょ!?」
慌てる私を前に、ゲオルグは鼻を鳴らした。
「なぜだ? 俺にとって優先順位は明確だ。君と結婚できないなら皇帝を辞める。それだけだ」
応援してくれたはずの皇宮の人々に恨まれるイメージが脳裏に浮かぶ。
「フリッカがいない人生で皇帝をやろうと思ったんだ。君がいる人生で皇帝にこだわる価値はない。君が飛んでいくなら、俺が追いかければいいのだと気付いた。皇帝を辞めたら暇になるから、論文の査読もできるぞ」
私がヴェーリルに査読をお願いしたことを怒っているんだ……。
「ちょ、ちょっと……あなたが辞めたらこの国の法令は変わらないのよ! そうなったら論文出版もできなくなっちゃうじゃない」
「そういえばそうだな」
ゲオルグは空を見上げながら「じゃあもう少しだけやってもいいか」ととぼけて見せる。なんなのこの人。
冷静になってくれればいいと思って皇宮を出たのに、ゲオルグはさらに感情的になっていた。でも彼の表情は、重い荷を下ろしたようにスッキリしている。
「俺がどういう立場であっても、ヤルンヴィット家の血を引いている限りは懐古主義派の奴らは近づいてくるだろうし、君は転生者であり古語の表現で言えば世界樹の欠陥だ。互いに問題が多いのは、俺だって分かっている」
ゲオルグも私と同じことを考えていたんだ。
それに。
「やっぱり、あなたはあの古語の内容を知っていたのね」
「祭祀場の下には、世界樹<ポンプ>の熱を動力に変換する“タービン”と“ハツデンキ”が埋まっている――その取扱い方が、壁の文字には書いてあった」
きっと、デンキを生み出す装置だわ。
「祭祀に興味がなかったからあの部屋のこともよく知らず、君が意識を失った時に部屋に入って初めて文字を読んだんだ。……あの部屋がおかしな効力を持つのも、装置が生み出す力に影響されるからなんだろう」
世界樹の壁画で文字が上描きされているのは、おそらく先代までの帝国官僚たちの仕業だということだった。
ゲオルグは革命で代替わりをしたので、当時の高官たちは処刑されている。
鉄の森の技術を外部に知られたくなかったのかもしれない。
ゲオルグは私の疑問に答えてくれた。だから、私も隠さず言わないとフェアじゃない。
「ゲオルグ。私たちの本当の敵は懐古主義派だけじゃないのよ」
「どういう意味だ」
「かつて懐古主義派はあなたのお父さんやお兄さんと結託して古い血を復活させようとした。その背後にはヤルンヴィット神興国時代への回帰という夢があったんだと思う」
国力の落ちた帝国にとって、大陸全土に影響力を誇った鉄の森には憧れがあっただろう。
「そして、ミドガルズ帝国を建国させてヤルンヴィッド神興国の存在をなかったことにしようとしている国―――それがニブルヘイム」
ニブルヘイムは鉄の森が復活しないように、今も懐古主義派の動きを注視している。
あくまでもこれは私の推測でしかないけど、これまでの証言やミドガルズ祭祀の状況を見る限り、そう考えるのが理にかなっている。
「15年前に私を殺したのはニブルヘイム人じゃないかなって思ってる」
「……帝国人ではないのか」
愕然としてゲオルグが呟く。
ゲオルグは自分の血筋のせいで私が殺されたと思っていたのよね。
「まだ分からないけどね。つまり私は懐古主義派からもニブルヘイムからも狙われるわけで」
「ならば俺は、そのどちらからも君を守るだけだ」
ゲオルグが私の髪を撫でた。
その感触を堪能したいけど、今は言葉を止めるわけにはいかない。
「大陸を管理してきた神さまみたいな人たちに狙われるってことは……私はまた、ゲオルグを悲しませるかもしれないのよ」
言葉を濁したが、彼らはきっとまた私を殺しにくる。
そして、それを止めるのは難しい。
ゲオルグがミドガルズ大帝国の皇帝だろうと、神さまには勝てないと思うし。
私のせいで彼に何かあったら、それこそ耐えられない。
「そんな私が皇妃になったら、あなたも国も無傷ではいられないわ」
「なるほど、それがフリッカの本音か。ようやく聞けたな」
かがんだゲオルグが私の手を取る。
指先に彼の唇が寄せられると少しくすぐったかった。
「君は気が強くて自己主張強く振る舞うが、自分の中にある優しさに嘘をつくことができない。だから時折、言動が不安定になる」
「私が?」
「そうだよ。ずっと見ているんだ。それくらい分かる」
そんなふうに言われたのは初めてだった。
恥ずかしさもあるけど、ちょっと嬉しい。嘘。だいぶ嬉しい。
「そういうフリッカだから愛しているんだ。守らせてほしい」
鼻の奥がツンとした。
彼のバリトンボイスがワントーン高くなる。
「君が生きて、俺と話をして、笑ってくれるこの時間が至上だ。他は些細なことだと割り切った」
そこまで言うと、ゲオルグは短く息を吐く。
「それを、一番最初に伝えればよかったんだな」
「……そうね。私もあなたも、まだまだお互いのことを伝えきれていないわね」
私が年上の夫の精悍な顔を見上げると、彼は私の背に腕を回した。
「少しずつ話をしていこう。俺も君の話を聞きたい」
「もちろんよ」
「愛を囁かせてほしい。君が倒れない程度に、ちょっとずつ」
「わ、分かったわ」
「君といると感情の波ばかり訪れる。喜び悲しんで毎日が忙しい。でも、君が隣にいなければどれも知ることはできなかった」
そうだね。ゲオルグの言う通り。
私も、ゲオルグが予想以上に――私にかかわると――感情的になるとは知らなかった。
普通に考えればよくないことだけど、私が近くにいれば彼の参謀役になることができる。そんなふうに自然と考えている自分を振り返って、ハッとする。
私の中で答えが出ている。
丘の上には、こちらを見守るグナーがいる。私は大きく手を振ってグナーに気持ちを伝えた。
もう大丈夫だよ。
次話で「結婚トラブル編」エピローグになります。