51、
自室に心地よい風が吹き込んできた。こんな日は丘の上でピクニックがしたくなる。でも、今の私は眼前の活字と戦っている最中だった。
落ちてきた髪を耳にかけ直し、『ネルトゥスのことば』の擦り切れた一ページをめくる。『ネルトゥスのことば』は、世界の終わりを予言する魔女ネルトゥスを巡る童話だ。
「もうすぐ地面が赤い海に落ちる。私と仲良くしていればあなたは助かる」
「大きな道の中はとても熱くて、人は溶けてしまうの。ほら、道はすぐそこよ」
魔女ネルトゥスの言葉は人々の心に不安を植え付けた。最終的には行き過ぎた言動が古王国の目にとまり、偉大な王様に倒されてしまうのだ。
「単なる童話として読まれているけど、ネルトゥスの発言って他にも記録されているのよね。となれば彼女は実在した魔女だったかもしれない」
そしてこの発言内容。原初の地盤と世界樹<ポンプ>を知る転生者とも考えられる。
「この本ももう一度読み直さないといけないわね。そうして論文の内容に組み込まないと」
「……お嬢様」
「ネルトゥスのいた場所はバナヘイムとエインヘリヤルの中間。現地に何らかの手がかりがあったりしないかしら……?」
「お嬢様!」
「わわっ」
すぐそばで呼ばれたのでびっくりした。慌てて振り返ると、フェンサリル家筆頭執事のポンデムーチョが呆れている。
「ちょっと、びっくりするじゃない」
「私は何度も呼びましたよ。相変わらずの集中力ですなあ」
「何よ、何か用?」
「旦那様がお呼びです」
せっかくいいところだったのに。
読書を邪魔され、むすっとした顔で食堂に行く。そこには娘の登場を待ちわびるデレデレのパパが両手を広げていた。
「フリッカ! 領地のみんなが羊一頭を持ってきてくれたよ!」
食卓には巨大な骨付き羊肉。さらに可愛らしい装飾菓子やファイゲ(いちじく)のジュースも並んでいる。どれも私の大好物だ。
「あら、美味しそう! みんな、どうもありがとう」
パパと農村主、森の管理者である長老たちが歌を歌いながら私の帰還を祝ってくれた。さっきまでの不快な気分も飛んでいく。
この家に戻ってきて、私は久しぶりに自分に戻れた気がした。
皇宮から帰ってきて、今日で3日。
パパもママもポンデムーチョも、帰宅した私の姿を見て目が飛び出るほど驚いていたが、次の瞬間には涙を流して喜んでくれた。
私がゲオルグと結婚することになったのは、皇宮から送られてきた親書で知ったそうだ。
パパもママも私とゲオルグの接点を知らないから「娘は無理矢理召し上げられたのではないか」と動揺したらしい。
グナーとともに家に戻った私は、ゲオルグとの結婚が私の真意だと伝えて両親を安心させることができた。それだけでも家に帰ってきた甲斐はあるというものね。
「フリッカ様が皇帝陛下と結婚!?」
「信じられん」
「いやしかし、お嬢様は幼少の頃から人とは違いましたからな。今上帝に見る目があったということでは?」
領地のみんなは我が事のように結婚を喜んでくれた。
嬉しい反面、「実は悩んでいたから帰ってきました」とは言い出せないのがつらい。
私は息苦しさを払拭しようと、目の前で談笑している両親に話しかけた。
「ねえ。そういえば、パパとママはどうして結婚したの?」
娘からの質問に、弦楽器奏者みたいな父親は目を見開いた。なんだか言葉を濁しているようにも見える。
そんなパパをよそに、隣に座っていたママはいつものように優しい笑顔を見せてくれた。
「駆け落ちしたのよ」
「駆け落ち!?」
15年間生きてきて、初めて聞く両親のなれそめは衝撃的だった。
「ママは北方にある辺境伯家の生まれでね。隣国グルヴェイグの資本家との結婚が決まっていたんだけど、ちょうどグルヴェイグに出かけていたときにパパと知り合ったの」
なんとママに一目ぼれしたパパが、資本家に決闘を申し込んだのだという。
「パパが決闘!?」
弱そう。
「そうなの。パパ、とっても弱かったの。すぐ負けちゃって」
納得しかない。
パパは小さくなって話を聞いていた。
「でも絶対にあきらめなくて、何度も立ち向かっていったのよ」
ママは頬に手を当てて笑っている。その目がパパへの愛情で溢れているのを、私はしっかりと目に収めた。
「こんなに素敵な人を逃したら絶対に後悔すると思ったの。だから駆け落ちしちゃった」
「そうだったんだ」
ママらしいと言えば、ママらしい。
この人たちが私の両親だと思うと心が温かくなる。
「お前がそんな質問をするのには何か理由があるんだと思うけどね」
椅子に座っていたパパが葡萄酒の杯を食卓に置き、咳払いをして立ち上がる。
そして私に近づいてきたと思えば、おもむろに私を抱きしめた。
「パパ?」
「お前が後悔しない道を選びなさい、フリッカ」
パパもママも、どうして私が家に帰ってきたのか分かっているんだ。
「うん。ありがとう」
◇
冷静になればなるほど、私は皇妃に向いてないことが分かる。さてどうしたものか。もんもんと悩んでいる間に日にちが過ぎていく。
今日はグナーに誘われて、フェンサリル邸裏の小丘でピクニックをしている。水筒に入ったハーブ茶と焼き菓子。遠くに見える森のほうには羊たちの群れ。陽光の下で過ごす素敵なひととき。
気分の晴れない私を連れ出してくれたグナーには頭が上がらない。
「顔色が良くなられましたね」
お茶を飲みながら、侍女兼親友の彼女が言った。
「本当によかったですわ」
「心配かけちゃってごめんね」
皇宮にいる間、グナーは言葉を抑えながらも必死に私を支えてくれた。泣きそうな顔で私の背中に手を当てる彼女のほうが、心を痛めていたんじゃないかなと思う。
「私は、お嬢様が幸せならどんな選択でも歓迎します。皇帝も大家令も関係ありません。お嬢様の幸せはお嬢様が決めればいいのです」
「グナーは格好いいわね。私もそうやってスパッと決断できればいいのだけど」
「ふふ。……で、お嬢様の居場所は定まりましたか?」
風に揺れる草の上。グナーは私の横に座って、顔を覗き込んできた。少しだけいたずらっぽく、少しだけ心配そうに。
「グナー」
「はい」
「私は、それなりに頭がいいって自負があるんだけど」
「存じております」
「いざとなると考えるよりも前に体が動いてしまうのよ」
「存じております」
「そんな私に皇妃って務まると思う?」
「…………」
グナーの声が途絶えた。
いや、そこで黙っちゃうの?
「グナー? 一言くらい答えてくれても……」
隣の彼女を見ると、なぜか丘の向こうを凝視している。
何かあったのかしら。
私もつられてそちらを見る。
結果的に、私も言葉を失う羽目になった。
ダブルカラーのワイシャツと丸眼鏡。まるでバナヘイム大の学生に戻ったような出で立ちのゲオルグが、たった一人で丘を登ってきている。




