50、 実家に帰らせていただきます
あと三話くらいで第二部完結です。
もう少しだけお付き合いいただけると幸いです。
「死ぬほど危険な目に遭ったのに、また自分から危険に飛び込もうとするな!」
「しょうがないでしょ! 論文を書くのは実質アドベンチャーなのよ!」
「それを待つ俺の身にもなってみろ。今の俺の立場では、遺跡に向かう君について行くこともできないんだぞ」
「さすがに皇妃になったら軽々しく遺跡に行ったりしないわよ! あなたこそ私の留守中に後宮で浮気するかもしれないしね」
「浮気?」
言われたゲオルグは面食らった顔をしている。
「そんなわけあるか」
「男の人って不潔!やだ! いったい何人の女性とよろしくやって」
「俺は15年間、誰とも関係を持ったことはない」
「えっ」と声が出た。私以外からも聞こえた気がする。
皇帝のそっち方面の秘話が出てしまって、周囲がさらに冷え上がった。
時代が時代ならば、聞いた人間は全員処刑されてもおかしくはない。もはや極寒の様相だ。
永遠の冬が訪れた部屋の中で、唯一私だけは体温が急上昇していた。
「あ、あの」
「そういう欲求は15年前になくなった。死ぬのと同等の絶望を味わった俺にとって、別に恥じることでもなんでもない」
「えっとえっと」
「理由は言わずとも伝わると思うが」
「わあああああ」
「後宮などと……。思い込みも甚だしいな」
ゲオルグは猛禽類の瞳をヴェーリルに向け、忌々しそうに舌打ちした。ヴェーリルは明らかに困惑している。
「フリッカこそ、こういう男が好みなのか」
「はっ!?」
なんて?
えっ、ゲオルグ、今、なんて?
「いや、勘弁してくださいよ。痴話喧嘩に巻き込まないでもらえますか……」
「なんだと」
ヴェーリルの悲鳴に、ゲオルグの大人げない声が重なった。
ここはさすがにヴェーリルに同情したくなる。ゲオルグだって思い込みが甚だしい。
「そんなわけないでしょ! わ、私はゲオルグが好きなんだから」
心の中の火柱を抑えながらしどろもどろで気持ちを紡ぐと、好きだと告げた相手からなぜか悲壮感たっぷりの言葉が返ってきた。
「なら、君は俺の傍にいろ」
「何言ってるのよ? ……傍にいるじゃない。 今だって」
「置いていくな」
「は?」
「俺を置いていくな、フリッカ」
「なによ、何なのよ」
ゲオルグが一歩踏み込んできて、私を掻き抱く。
その腕の強さに心臓がギュッとなった。
「ゲオルグ!? ちょ、ちょっと」
衆人環視の中で、こんな―――……。
そう思ったところで、私はある可能性に気付いてあ然とした。
私が限界を迎えてしまったのと同じで、彼も。
「俺を置いて危険に飛び込むな。俺以外のところへ行くな。今の俺は動けないんだ。後を追うことすらできない」
限界だったんだ。
どうしてもっと早く分かってあげられなかったんだろう。
これまで、私もゲオルグも自分の気持ちにいっぱいいっぱいで、互いにちゃんと向き合ってこなかった報いなんだろうな。
だからこそ、今が大事な瞬間なのだと思い直す。
彼との関係を壊さないためにも、今の私にはやるべきことがある。
「ゲオルグ」
私よりも背の高い彼を見上げて、その両腕に手を添える。
「私の気持ちは変わらないわ。あなたのことが好きだし、あなたの傍にいたい」
ゲオルグは言葉を挟まないが、私の決意を感じ取っているのだろうと思う。
現に今、彼の黄色い瞳が揺れている。
「でも、私もあなたも頭を冷やす時間が必要なんだと思うの」
「どういう意味だ」
「少しだけ。少しの間だけでいいわ。実家に帰らせて」
フライアとキノコが息を呑む。私は「違うわ」と慌てて言葉を添えた。
「結婚を止めたい、というわけじゃないのよ。でも、私は皇妃になることや論文出版についての考えを整理しきれていないし、今のゲオルグは感情に走りすぎているし。少し時間が必要よ」
怒られるかと思ったが、皇帝はやはり何も言わなかった。
「フライアやキノコに何度も注意されたけど、やっぱり私は自重できない。そんな自分でも皇妃が務まるのかどうか、ありのままの自分に戻れる場所でもう一度考えたいわ」
「……それで」
目の前にいる大好きな人が言葉を絞り出す。
「それで、万が一君が、“自分に皇妃は務まらない”と考えたらどうするんだ」
うーん。
「そのときは後宮に入ろうかしら。フライアに修行をつけてもらって立派なレディになるのもありよね」
「俺は君を側室にするなんて考えたこともない」
「分かってる。あなたの気持ちは嬉しいわ。でも、そう言ってしまうゲオルグもちょっと冷静になってほしいの」
ゲオルグの目が伏せられた。明らかにショックを受けている。
効果音をつけるとしたら「もしょもしょ」あたりだろうか。
私はその様子を見て胸を痛めると同時に、傲岸不遜の皇帝に保護欲が湧く不思議な体験をした。
「……どのくらい待てばいい」
「実家に戻るのを許してくれるの?」
「許すも何も、君は決めたら曲げないだろう」
まあ、そうです。
「どのくらい待てばいいんだ。俺は君みたいに強くはない。15年も待ったのに、これ以上は待てない」
ゲオルグもまた、ヴェーリルと同じ言葉で私を評した。
こんなに悩みだらけの私が強いだなんて、自分では思ったことないんだけどな。
「そうね。……じゃあ一ヶ月。一ヶ月だけ、時間をもらえるかしら」
そうしたら必ず、あなたのところに戻ってくるから。
私はスカートのすそをつまみ、ドレープが広がるように意識した。片足を後ろに引き、膝を折ると、不器用な恋人に向かって頭を下げた。
「将来のため、実家に帰らせていただきます」
◇
部屋を出た私の眼前には、全てが真っ黒に染まった皇宮の廊下が続いていた。
自分の足で歩きだした私の背に、声がかけられる。
「私は当初、陛下とそなたが結婚するのを反対していた」
首を半分、後ろに向ける。
皇帝の右腕を自称する彼が、音もなく廊下に姿を現していた。
「陛下には別の嫁を娶ることを何度も進言した。が、今生で選ぶのはそなただけだそうだ」
それはとても静かな口調だった。
「初めてゲオルグ殿と出会ったときはなんという傲慢な男かと憤った。しかし、先帝派と戦っているうちに、彼が過去に大切な存在を亡くしたことを知った。女の名は知らぬ。ただ、かつてゲオルグ殿に遺した言葉を伝え聞いたことがある」
『ゲオルグ。国家は必ず形骸化するけど、また新たな国が生まれる。生まれて死ぬ、人生と同じよ』
それは、私の言葉だ。
『子どもが生まれたら祝福するのは当然でしょう? 私は論文を書いて、子どもたちが良い方向に変わっていく手伝いがしたいの』
それは、前世で、私がゲオルグに伝えた言葉だ。
「だからせめて、子供を守ってから死にたいのだとゲオルグ殿は言った。私はその言葉を聞いて、この方と共に革命を成功させようと誓ったのだ」
大家令はそこまで言うと、白いローブの裾を床に引きずりながら歩き出す。
私の横を通り過ぎる際に、ぽつりと言葉を残していった。
「――早く戻ってこい」




