46、
ベッドで横になっている私を揺り起こす人がいる。
眠い目をこすりながら上体を起こした。ここはゲオルグと私だけの寝室だ。警備の衛兵も控えているが、彼らのほうから私に話しかけたり触れたりすることははない。
「……ゲオルグ?」
「フリッカ。済まない」
心なしか控えめな低音ボイス。そこには確かにゲオルグがいたが、後ろに別の人間が控えているのが見えた。
つややかな瑠璃色の髪がさらりと流れる。フライアだった。
「フライア!」
「お久しぶりです。フリッカ様」
彼女と会うのは後宮でゲオルグがブチ切れて以来だ。
その後の様子が気になっていたが、思ったよりも元気そうだった。
私よりもずっと強い芯を持っている女性なんだわ。
改めて彼女の強さが羨ましいと思った。
「君が寝ている間、彼女と打ち合わせをしていたんだが」
カーテンの隙間から見えるのは暗闇。まだ真夜中だ。
二人でどんな話をしていたのかしらね。
心配が晴れた瞬間にそんなことを思う自分が恥ずかしい。
けれど、どうしても意地悪く考えてしまうこの気持ちをうまく扱うことができない。
相変わらず聡明な彼女の笑顔も、なんだか言い訳のように聞こえてしまうゲオルグの説明も今は消化する余裕がなくて、投げやりな相づちで済ませた。
「その、フライアが君に婚儀の件で伝えたいことがあるそうだ」
「婚儀? だって婚儀はなくなったんじゃないの」
「それはそうなのだが……」
「夫婦の営みに関してでございます。申し訳ありませんが、これだけは殿方同席でお話するわけには参りませんので」
後宮の女主人の笑顔はどこか得意げだ。対して、ゲオルグの表情は不満でいっぱいだった。髭を撫でる手にも苛立ちが見て取れる。
「明日は軍演習の視察もあって皇宮を離れなければならない。本当は連れていきたいが、本調子ではない君に無理をさせるわけにもいかないからな」
独占欲が強いというか……愛が重い。
ゲオルグは後宮での一件以来、私が他人と話すことを嫌がっていた。男女関係なく、だ。
そんな事情もあったわけだが、なんやかんやで私は久しぶりにゲオルグと離れて過ごすことになった。
◇
祭祀場の隣に広がる区画には甘い香が焚かれていた。
優しい灯りを届けるランプや奥ゆかしくも存在感のある家具。後宮に配置された調度品には味わいがある。窓のない閉塞感を忘れさせる空間作りに、フライアのセンスを思った。
私が後宮に入ると、侍女たちが素早く動いてお茶を用意する。
同時にフライアは先日の件に関して謝意を示した。
「あのときはありがとうございました。フリッカ様に止めていただかなれば、私は五体満足ではいられなかったでしょう」
「まさかゲオルグがあんなに怒るなんて思わなかったわ」
「お言葉ですが……私は予想しておりました。そしてこれからも、ああいう場面が出てくるのだろうと思います」
「え?」
「だからフリッカ様、率直なお気持ちを聞かせてください。あなたがどうしたいのかを」
質問そのものは漠然としている。
けれど、フライアが何を聞きたがっているのかは理解できた。
「それを聞いて、フライアはどうするの?」
「フリッカ様にお覚悟があるのならば、臣下として陛下と皇妃様の行く末に死ぬまで付き従う所存です。ですがそうでない場合は―――」
「結婚を阻止する、ってところかしら」
フライアはそれには答えず、侍女から届けられたお茶に手を付ける。
伏せられたまつ毛がわずかに震えるのを見つめながら、私は彼女が口火を切るのを待った。
「先帝は愚帝でした。今上帝は賢帝です。――今のところはね」
フライアの口上は残酷だった。
「ミドガルズ大帝国は7年前に革命が起きてから急激に変化しました。近隣国の侵略に耐え、南方国家群における一強の立場を築きつつある。その手腕は独裁的で大勢の貴族の恨みを買いましたが、それでも陛下の決断力と強引さがなければ……今頃どこかの属国になっていたかもしれません」
それは私も痛感している。
ゲオルグに付き添って分かったのは、帝国国政の稚拙さだった。バナヘイムに比べると、帝国ははるかに遅れている。内政も未整備な部分が多く、確かに論文出版どころではない。
軍に関してもそうだ。各領主である貴族家が保有している騎士団を招集する形式であるため、主要貴族家の機嫌を損ねれば軍事力そのものが低下する恐れがある。
皇宮がエルム公爵家に対して強硬手段を採れないのも、それが理由だった。
「陛下は間違えません。見事な政治的駆け引きを日夜成し遂げておられます。――ですが、そんな御方がたったひとつの事柄だけは間違った判断を下そうとしている」
「それが私、ということ?」
フライアは頷いた。その目が冷たく光る。
「フリッカ様を巡る一連の対応です。結婚であり、諸外国への対応であり、エルム領を含む過激派の処罰についてです」
「……そうね。それは私も思っていたわ」
息を整える。
自分の考えを整理するためにも、ここは口を開くべきだ。
「皇帝と皇妃の結婚は国事。国を挙げての一大イベントに各国要人を呼ぶのは、互いの友好関係を確認する大切な外交行為ですものね」
それを反故にするというのは、巡り巡って他国の不信感を募らせる結果につながる。
「エルム家についても分かるわ。帝国軍におけるエルム家の負担を考えれば、今は強く出るべきではない。たとえヴェーリルが提出した証拠が軍を陥れる罠の情報であっても、皇帝に従う意思を示したエルム家を即座に処罰すればゲオルグにとっては敵を増やすだけ」
どれだけ時間がかかっても、皇帝側もエルム家が“黒”だと断定できる証拠を世間に示してからでないと、大義を得ることは難しい。
つまり、エルム家当主の息子であるヴェーリルをこの時点で勾留するのは、ゲオルグにしては珍しい勇み足だということ。フライアはそう思っているのだ。
私もそう思うし、おそらく皇宮の中にもそう考えている人はいるはず。
「フリッカ様は聡明でいらっしゃいますね」
このタイミングで褒められても全く嬉しくない。
「それらの間違いは全部、私との結婚のせいだって言いたいのよね。フライアは」
「きつい言い方になりますが、その通りです」
きついわよ。
私の心に言葉の刃が突き刺さる。
『フリッカもゲオルグもお互いにベタ惚れだろう。特にゲオルグはダメだね。あれは完全に理性を失っている』
ふいに、前世のパパの言葉がよみがえった。
あれはゲオルグにプロポーズを受けた直後の会話だったと思う。パパは15年前にゲオルグの気性を理解していたのね。
賢いゲオルグのことだから、彼自身も自分の判断にリスクが伴うことはさすがに承知しているでしょう。
それでもなお、その判断を変えないのは……私を守るため。