45、 すれ違い
彼は怒っているの?
どうして?
「エルム領の調査を終えるまでヴェーリルは皇宮に勾留することにした。よかったな、いつでも会えるぞ」
「ねえ、待って! 私まだうまく歩けなくて」
私の腕を捻り上げたゲオルグの背後から、フライアが素早く近づいてきた。
「陛下、手をお離しください。フリッカ様の仰る通り、まだ容態は回復しておりません」
「軍としてもあいつの正体が分かれば次の一手が打ちやすい。いい加減懐古主義派の対応にも飽き飽きしていたところだ」
「陛下!」
フライアがゲオルグの腕にしがみつこうとしたところで、彼女の体が弾き飛ばされた。
開いていた後宮のドアから無音で侵入した近衛特兵がフライアに一撃を加えたのだ。
「フライア!」
私は驚いて叫んだ。ヘイムダルとは異なる近衛特兵だった。背丈が私の倍近くある。巨大な鉄球を背負っていた。
「フライア、口が過ぎるぞ。それ以上喋るなら舌を切る」
ゲオルグが本気で言っているのが伝わってきて、鳥肌が立つ。
「フリッカの気性を甘くみていた。今日からずっと俺の傍に置く。医師も常駐させれば良い。それが一番良い選択だと気付かなかった俺も愚かだな」
そんな。
思わず顔が歪んだ。
彼の決定の背後に、私の意思は存在していなかった。
「あなたの結婚相手は人形ではありませんよ、陛下」
床に倒れたフライアはゆっくりと立ち上がる。
どれだけ暴力に圧倒されようとも、彼女は凛々しさを失わなかった。
「フリッカ様は魅力的な女性ですが、幼さを抱えています。陛下に対する感情にも迷いがあります。そういう不安定な時期に、彼女を導くべきあなたがこの体たらくでは、結婚しても不幸な結末が待つだけです」
わずかな言葉を交わしただけなのに、フライアは私の気持ちを見通していたんだ。
私がゲオルグの周囲の人と比べて勝手に焦っていることも、まだ会ったこともない側室の女性に嫉妬していることも。
ゲオルグのことが大好きなのに、なんとなく彼とすれ違っていることも。
「……俺とフリッカの関係を知らない女にどう言われようと関係ない」
「そういうところはお兄様とそっくりですね。ゲオルグ様」
それが彼の逆鱗に触れたのだと私も感じ取ることができた。部屋の温度が下がる。ヒュッと喉が鳴った。
ゲオルグの背後に控えていた近衛特兵がスッと進み出た。鉄球に手がかかる。まずい。直感的に悟った私はゲオルグにしがみつく。
「行くわ! あなたと行くし、言うことも聞くから、これ以上フライアに怪我をさせるのはやめてちょうだい」
ゲオルグが片手で兵士の動きを制する。そして反対の手で私の髪を撫で、額にキスをした。
その仕草は、彼の二面性を表していた。
「大丈夫だ、フリッカ。任せておけ。俺の言葉だけ聞いていればいい」
彼の言葉は熱烈で、いっそ怖いほど。
先日のように純粋には喜べなかった。
◇
その日から私の住まいは再び皇宮の地上へと舞い戻った。
ただし婚儀の打ち合わせは全て中止。結婚衣装の採寸も最低限に留まった。
理由は簡単。私が終始皇帝陛下の行動に付き添うことになったからだ。
玉座で足を組んだ彼に拝謁を乞う役人と貴族の行列。それを一日中横で――顔が見えないように外套を被りながら――眺める羽目になった。
報告の遅い高官の部屋に殴り込み、会議は分刻み。体力が追いつかずに倒れそうになる日もあった。
そういうときは付き添っているグナーと医師に介抱された。
最近は言葉を交わす元気も湧かず、グナーはもの悲しそうな視線を向けるだけ。
文字通り、ゲオルグとはずっと一緒だった。
ただ、彼は政務に忙殺されていて会話をする暇がない。たとえ二人で食事を取っていたとしても、ゲオルグは傍らの役人の報告を聞きながら済ませる。私はご飯の味もよく分からなかった。
寝室も同じになった。あれだけ楽しみにしていた彼との時間。でも、私は疲れてしまって先に寝てしまう。悲しい。
一方で、ゲオルグの愛情表現はとんでもなく分かりやすかった。
どんなに忙しくても、隙を見ては話しかけてくれて。「寒くないか」と言って寄り添ってくれて「以前も甘いものが好きだったろう」と言って食後の菓子を分けてくれる。
ベッドに倒れ込み、うとうとする私の髪を優しく撫でて、後ろからぎゅっと抱きしめられた。「君が隣にいるとよく眠れる」と口元を緩める彼を見て、泣きそうになった。
私って、すごく愛されているのね。
これだけ大切にされていると、その愛情に溺れてしまいそう。
でもそれと同時に、かつてフェンサリル家で過ごしていた日々が懐かしくなってしまって、また涙を我慢することになる。
私は好きなときに本を読んで好きなように文章を書いて、これが知りたいと思ったら自分で歩いて探しにいきたかった。そこに危険が潜んでいたとしても、歩みを止めたくない。
止まったら、息ができない。
ゲオルグにはこの気持ちを相談できなかった。
皇妃になるのは自由のない生活に慣れることだと思っていたし、これほどの愛情を注いでくれる人にまた「身勝手だ」と言われるのが怖かったから。
なによりも彼が感じていた15年分の辛さを思えば、私の気持ちなんて大したことはないはずだから。
そうやって必死にやり過ごしていたある日のことだった。
結婚まであと一ヶ月。私の不安はピークに達した。
「ゲオルグ。婚儀に関してだけど、私分からないことが多くて……大丈夫かな」
役人の報告を聞き終えた直後に、私はゲオルグの裾を引っ張った。
婚儀の打ち合わせもほとんど行われない中、時間だけが過ぎていくことに懸念があった。
「大丈夫だ。祭祀もパレードも全て中止にすることにした」
「えっ」
そんなのは初耳だわ。
「いつ決まったの!?」
「数日前に決めた」
「私、聞いてない」
「『こんな婚儀は中止にすべきだ』と言っていたのは君だろう。各国の招待客にもこれから通知をする」
ゲオルグは、大事な決断を全て自分で行う。
その根拠は、それまでになされた部下や関係者の報告から緻密に計算されて出された回答であり、極めて現実的な選択だった。
独裁帝と称される彼の言葉や行動は、私にとってみれば非常に理解しやすい。
ただし、その最大の問題点は「誰にも相談しない」こと。
政治的な判断はまだ理解しやすいのだが、こと感情的な問題――特に夫婦的な面で……いやまだ結婚してないけど――については彼が何を考えているのかが分からず、全部彼が決めてしまうような錯覚に陥る。
「当日は最低限の式と謁見だけで済ませる。君は俺の隣にいてくれるだけでいい」
「そう、なの……」
胸の内に割り切れないものが広がった。
本当に大丈夫かな。
こんな様子でちゃんと結婚できる?
というか……。
私はゲオルグと、夫婦としてやっていけるんだろうか。