42、
フリッカが目を覚ましたとき傍にいたのは、瑠璃色の髪の女性だった。
「5日間ほど眠っておられました。まだ動かないほうがよろしいかと」
鈴を転がすような声で教えてくれたその女性はフライアと名乗った。
力が入らない私の上半身を優しく支え、銀のジャグから水を注いで飲ませる。優雅な所作だった。
私、5日間も寝ていたんだ……。
祭祀場で変な感覚に陥って気分が悪くなったことは覚えているが、そんなに時間が経ったという実感はない。
反応の薄い私に、フライアがゆっくりと告げる。
「ここは後宮です」
驚きはなかった。そうだろうなという気はしていた。
だってこの人……美人すぎるもの。
細い折り目のひだが広がる薄青のオーバーチュニックから覗く肌は雪のように白かった。こんなに綺麗な女性は滅多にいない。
「ここには女性の体をいたわるそなえもあります。陛下からはフリッカ様が快方に向かうまでお世話をするよう仰せつかっておりますので、安心して身を委ねてください」
「ありがとう……ございます」
フライアはたおやかに笑った。上品な中にも大人の魅力がふわりと漂う。
その後、私はベッドに横になったまま、侍女たちに食事を介抱してもらった。
温かくて口当たりの良い木の実のスープと、乳とスパイスで味付けした粥。食べ終わった後は薬草茶を飲んだ。
フライアが掛け布の上から、私の胸元にそっと手を置く。
「あの……ゲオルグはいつ来てくれるのですか」
「フリッカ様が目を覚ましたことは近衛に報告しました。明日、来られるそうです」
ゲオルグに会ったら、元気はつらつな私を見せて安心させてあげなきゃ。
そんなことを思いながらいつの間にか眠っていた。
翌日。
ベッドから上体を起こすことはできたものの、やはり自力で歩くことは不可能だった。
前日と同様に侍女たちに丁重に扱われた。着替え、食事を介抱してもらう。
その間、フライアは私の話し相手になってくれた。
優しくて聞き上手。そして美人。この人は絶対に―――男性にモテる。
「フリッカ様は、私と陛下の関係が気になっているのですよね」
私の挙動不審を見かねたのだろう。何度も質問をしようと口を開き、しばらくしてそっと閉じる行為を繰り返していたら、ついにフライアのほうから問いかけられてしまった。息の根が止まりそうになる。
「あ、あの」
「ヘイムダルのことはご存じですか」
予想外の名前が出てきて二重に驚いた。
「ヘイムダル?」
「私はあの子の母親です」
「えっ! じゃあゲオルグのお兄さんの……?」
「はい。私は陛下の実兄――ガンドル様の情人でした」
言われてみればヘイムダルの優しそうな面持ちはフライアと似ている。
「ガンドル様は女性の出自に大変厳しい方で、平民出身である私の存在を恥だと思っておられました。それゆえ私も息子も辛い目に遭いましたが、そんな親子を助けてくださったのがガンドル様の弟君だった陛下です。陛下は行くあてのない私に援助をほどこし、ヘムを使用人として傍に置いてくださいました」
なるほど。ヘイムダルがゲオルグを大好きな理由はそういうことだったのね。
そして、今この話をしているフライアの瞳にも愛情の光が宿っている。
それが敬愛の感情なのか別の種類のものなのかは、私には判断がつかない。
「私は先帝時代に過激派の情報収集を行うため、ゲオルグ様にいただいた資金を元手に、帝都で娼館を営んでおりました。それがここの前身です」
「じゃあ後宮というのは諜報用サロンの名残、ということですか」
戦争や外交時の諜報施設として娼館を利用している例は諸外国にもある。
「確かに始まりはそうですね。でも、今はれっきとした後宮です。陛下をもてなすために多くの女性が存在しています」
「う、うえ、それって、はあ」
「難しい話はまた今度にしましょう。湯の準備ができていますよ」
湯。
つまり入浴。
連れていかれた脱衣室から浴室を覗く。モザイク床の浴室に、井戸を大きくしたような丸い浴槽と四角い浴槽が埋まっていた。
どうやら私は侍女によって湯に入れてもらう手筈になっているらしい。
「あの……私、まだ湯に入る気分じゃなくて」
体もだるいし、浴室でふらついても困る。何よりも裸を見られることが恥ずかしかった。
「全て侍女にさせますから、フリッカ様は横になっているだけで大丈夫です。湯は弱った人の体に良い効果をもたらします」
女主人がそういうなら、そうなのかもしれない。
根拠も何もないのに信じてしまう自分はちゃんと頭が働いていないのだわ……。
だがしかし。
結論として湯は最高だった。
全身がポカポカして幸福感に包まれる。体が軽くなり、わずかに続いていた頭痛も消えた。
香油で体を揉まれると、全身の硬さがほどけていくようだった。
「ふわーお……」
気持ちいい。香油の香りで不安や緊張が和らぐ。頭がぼんやりとするが悪い気はしない。
湯の中でマッサージしてもらいながら、私はつらつらと考えた。
この浴室は皇帝をもてなすための設備。皇帝が楽しむ場所ってことよね。
私だって分かるわ。そういうのが必要だってことは。
閨房学で学びましたし。理解、ちゃんとあります。大丈夫。
フライアさんすっごく美人だったな。
大人同士、合う話もあるのかもしれない。
兄に好かれるなら弟にも好かれる可能性高いんじゃ……いや、何言ってんだろう私。
「ゴボボ」
「きゃあ、フリッカ様! しっかりしてください」
ちょっとだけ沈んでしまった私を侍女たちがすくい上げてくれた。
そうして湯から引っ張り上げられた私の頭に上質の浴布がかけられる。触り心地が最高だ。
どこか夢見心地でうっとりと目を細めていたところに、急に怒声が響いたので私は飛び上がった。
「フリッカ!」
私の目の前にゲオルグが立っていた。
浴室に、マントを羽織ったままの皇帝がいる。
世界の時間が止まった。
「はい?」
こちらは浴布で隠れているとはいえ全裸である。
「もう大丈夫なのか」
「陛下、お戻りください。わきまえていただかないと」
苦い顔をしたフライアがゲオルグの後を追ってくる。ゲオルグはうるさそうに舌打ちした。
「いちいち俺に指図するな。それよりもフリッカ、意識が戻ってから何か違和感はないか? 本当に体は大丈夫なのか」
強気な猛禽類の姿は影も形もない。
とても心配してくれているのは分かる。
けど。
「………」
元気はつらつな自分を見せる計画は失敗に終わる。
少しだけ、涙が出てしまった。
「……はっ?」
「ですから陛下、乙女心をわきまえてくださいと申し上げております」
ゲオルグは心底意味が分からない、というように声を上げた。それに対するフライアの態度は大変に冷ややかだった。




