37、
「お嬢様。本当によかったのでしょうか」
グナーが情けない声を出す。先ほどの迫真に満ちた演技が嘘のようだ。
「皇宮を抜け出せば陛下は悲しむと思います」
「そんなことしないわ。私が向かうのは皇宮の地下よ」
「……地下?」
「皇妃が御詞を読むっていう祭祀場」
『誰が作った? 皇宮 <ドラウプニル>』を読む限り、地下には牢屋や倉庫、水路といった日陰的な機能が集めてある。
というか皇宮の地下はあまりにも広すぎて未だに未整備の区画が多く、高貴な身分の者は近づかない場所だとされていた。
そんな場所に皇帝の正妻がこもる祭祀場があるというのも、不思議な話だけど。
「ただでさえいわくつきの祭祀場なのに、本によれば部屋の壁には古代文明の言語で婚儀の祝詞が書かれているらしいわ……! これは世紀の大発見よ。さすがにじっとしていられない」
伝えてはみたがグナーは首を傾げただけ。
納得していない、という顔だった。
「お嬢様がそう言うなら、きっとそれはすごいことなのでしょう。でも、部屋を抜け出した理由は本当にそれだけですか? 昨日までは文句を言いながらも、ここまで荒っぽい手段を取るご様子はなかったように思います」
そう言われて思い出すのは、昨日の寝室でのひとときだ。
プライドが高く、常に横柄な態度を崩さないゲオルグが見せた焦りと弱さ。
そして。
『俺との閨は嫌ではないのか』
夫婦の契り弩砲……!
恥ずかしくて気が動転してしまったけど、すごく嬉しかった。
彼に病んでほしくなくて私なりに励ましては見たけど、それはそれとして弱さを見せられることも、求められることも、単純に嬉しい。そう思ってしまう。
朝に弱い彼が不機嫌最高潮で起床するまでの間、ずっと彼の寝顔を見ていた。
「ふ、へへ」
おっと、含み笑いを漏らしてしまった。
聞き逃さなかったグナーがジト目になって質問を重ねてくる。
「……お嬢様。もしかして何かあせっていらっしゃいますか?」
「え? そんなことはないと思うけど」
「そうですか。では何か舞い上がっていらっしゃいませんか?」
「そんなこともないわね」
「……そうですか。私の思い過ごしならいいのですが」
やっぱりグナーは鋭い。
子供の頃から一緒にいた彼女は、私の感情の動きを的確に察してくる。
でも、昨日のようなゲオルグを見てじっとしていることはできそうにない。
私だってゲオルグを支えたいのよ。
グナーの理解を得るためにも、ちゃんと言葉にすべきだろう。皇宮の廊下に響かないよう声量を落とし、説明を再開した。
「懐古主義派というのは、ようするに『神話の時代――世界樹が存在した時代が素晴らしいので我々もその時代に回帰しましょう』と訴えている集団なの」
そして前世の私は、その世界樹が「嘘っぱちだった」と主張する論文を書いたために殺害された。
懐古主義それ自体は決して悪いものではない。帝国だけでなくグルヴェイグやバナヘイムなど大陸各国にそういう考えを持つ人はいる。
ただしその中でも、過激派が多いと言われているのが帝国だ。おそらくだが、帝国独特の身分至上主義と相まった結果だろう。
――とはいえ、さすがに転生した後で再び命を狙われるとは思わなかったわ。
「時代が遡れば遡るほど、血縁というのはシンプルになっていくからね。ミドガルズであれば皇族のミッドガルド一族、文明国ヤルンヴィットであればヤルンヴィット一族……国家の始まりに存在した尊い血こそ至上という考え方が、結果的に貴族純血主義にも行きつくのだけど」
本当はもっと複雑で根が深い問題ではあるが、今は端折った説明しかできない。
「ゲオルグが敵対する懐古主義や純血主義派の奴らに対しては、これまでさまざまな知識に触れてきた私にしかできないアプローチがあると思うの」
相手を知ることはすなわち弱点を知ること。
戦っていくためには知識が武器になるのだと、私は知っている。
だって前世はそれだけに人生費やしてきたんだもの。
こんなやんちゃが知られたら、またゲオルグに何か言われるかもしれない。
でも皇宮から出るわけじゃないし許容範囲でしょ、と自分に言い聞かせた。
「……フリッカ様、決してご無理は禁物ですよ。私とも約束をしてくださいね」
諦めたように笑うグナーの、外套の下から覗く目はどこか暗い光を放っている。その声も硬かった。
「ただし純血主義は、絶対に許すことはできません」
騎士男爵家の末娘だった彼女は、先帝時代の“騎士家弾圧”の被害を受けた一人。彼女の家族は農奴として連れていかれた。
家の存続が不可能になるまさにその直前にフェンサリル領主――今世の私のパパだ――の支援によって助かり、その恩に応えるかたちでグナーは私の侍女になったのだ。
純粋な貴族ではない上、爵位も低い騎士男爵家を「汚れた貴族」として蔑む帝国貴族は未だに多い。
本当は論文を出版してそういう奴らに一矢報いたいのだけど、それはもう少し後に取っておくわ。
「ありがとう、グナー。急ぎましょうか」
◇
地下に続く階段は昇降機の真下だった。
真っ黒な石材のせいで分かりにくいが、メイン階段の裏に凹凸がある。あそこが地下へ続く階段だ。
大階段の左右には当然のように衛兵が立つ。
普通に考えれば誰何されるだろう。一方、帝国軍の中にはヘイムダルのように外套を被っている者もいるので一か八か切り抜けられるかもしれない。
もたもたしていると大騒ぎになる。こういうときは度胸が大事。思い切って衛兵の前を通り過ぎた。
「おい、どこへ行く」
ダメだった。
予想はしていたのでそれっぽい理由をでっちあげる。
「ええと、武器庫です。先日発注した弩砲用ロープの品数確認をするためでして」
「弩砲用ロープ……? そんな細かい品目まで確認してたっけ」
徹底的な戦場の地理理解と武器の充実なくして勝利を得られるわけないでしょうが。
日頃からそれくらいの粒度で確認しておきなさいよ、と心の中で吠えておく。
さてさてどうしようかなと考えているところへ、別の方向からお気楽な声が聞こえてきた。
「あれ? そこの君、もしかして」
最初は私に向かって話しかけられているのだとは思わなかった。衛兵が、私の後ろに現れた誰かに慌てて敬礼しているのを見て、ようやく「君」が私のことだと気付いた。
「まさか今度は皇宮で会うとは思わなかった」
「え?」
「お久しぶりです、ご令嬢」
ご令嬢。
この言い方。
私はゆっくりと声のほうを振り向く。
「あなた、なんで、ここに」
さすがに理解が追いつかない。
目を見開いたまま、言葉を失う。
帝国図書館、そしてテューリンゲン公爵邸で見たときと変わらない理知的に輝く切れ長の目。後ろでゆったりと束ねられた色艶の良い金髪。
そこにいたのは、舞踏会で別れたきりのヴェーリル・フォン・エルムだった。




