36、
使用人との打ち合わせ、そして婚礼衣装の採寸を終えた頃には日も暮れはじめていた。
しかし。
私は今、生き生きしている!
「机に向かっているお嬢様は元気いっぱいですわね」
紙と本が詰まれた机の片隅に、グナーがそっとお茶を置く。返事もせずにそれを飲み干した私は、本能のままにペンを動かし続けた。
「よし!できた」
勢いよく立ち上がったのでガタッと椅子が倒れた。
「やっぱり文字にするとすっきりするわね」
書き上げた数十枚の紙の束を掲げた。高笑いが止まらない。グナーが倒れた椅子を直してくれた。
「初稿だから内容は荒いけど、着眼点は妥当だと思うわ」
「お嬢様、今回は何について書かれたのですか?」
「『ミドガルズ祭祀にひそむ“世界樹”正当化の眼差し』よ!」
「さいしにひそむ……?」
首をかしげるグナーに、私は簡潔に言い放った。
「ミドガルズ帝国では“世界樹”を神さまとして扱っている、ということよ」
今日の朝、ヘイムダルの指示を受けた使用人が紙と本を持ってきてくれた。
本は三冊。今は文字があるだけでもありがたいので冊数に文句は言わない。タイトルはそれぞれ『ミドガルズ、皇宮祭祀の歴史』と『誰が作った? 皇宮 <ドラウプニル> 』、『後宮の役割』。
私の不安を解消するような本のチョイスにそっと感謝した。
ただ、一番最後の本はまだ心構えができていないので読むのは後回しにしている。
提供された書籍の内容と、タイミングよくなされた婚儀の打ち合わせ内容を吟味して、私は意気揚々と論文執筆を始めた。
そして完成したのが『ミドガルズ祭祀にひそむ“世界樹”正当化の眼差し』というわけである。
◇
使用人との打ち合わせで印象に残ったのは、祝賀パレードの前に行われる「皇宮祭祀」についてだった。
「婚礼当日は皇宮庭園に祭壇を設けます。国母として帝国を支える皇妃がトネリコの祝福を一身に集め、国家繁栄の祈りを捧げるのです」
打ち合わせ中、祭祀担当者は長いひげを撫でながら大仰に述べた。
「ふーん。なんとも前時代的な催しね」
聞きながら私は少し戸惑っていた。
ここって宗教国家じゃなくて帝政国家のはずよね?
「庭園で祈りを捧げた後はですね、皇宮地下にある虹の祭祀場にこもって身を清め、夫となる今上帝の御代繁栄を約束する御詞を読み上げていただきます」
「……地下? 地下に祭祀場があるの?」
「皇宮が建てられた頃から存在する崇高な空間です」
私が口元に手を当てて思案し始めたことなどお構いなしに、髭爺は胸を張った。
「建国以来、長年にわたって続けられてきた催しです。皇妃が捧げた祈りによって国家繁栄が約束されてきたと言っても過言ではありません」
そんなわけないでしょ、とは思うけれどここで議論をしても無意味だ。
この髭爺だって職務に忠実に働いているだけ。私は義務的な返事をするにとどめた。
◇
髭爺との打ち合わせを終えた私は『ミドガルズ、皇宮祭祀の歴史』を読み、気になる記載をピックアップした。
『万物を生み出した世界樹は偉大な存在である。堕ちた森に沈み、その姿を消してなお大陸を支え、ミドガルズの地を繁栄に導いている』
『世界樹は上に向かって伸びる。世界樹を敬うことは上を敬うこと。諸王の王たる皇帝は上から国家を統べるべし』
いろいろと興味深い記述を目にしたが、総じて皇妃のお祈りが世界樹のために捧げられるもの、と定義していることが読み取れた。
「皇帝こそが万物の頂上に君臨する」という国是の帝国で、神話伝承に出てくるだけのでっかい樹が皇帝と同等に讃えられているっていうのは面白いわね。
こういう形式におさまった背景には何かありそう。
「あーーっ、面白い! 考えるだけでゾクゾクする」
「ところでお嬢様、その文章はまだ途中なのですよね? 続きはまた別の本を借りて書くんですか」
問いかけにピタリと止まる私。
「そんなわけないでしょう。自分が見聞きした一次情報から事柄を推しはかり論じる――― 仮説かくあるべし」
私は壁際のチェストに近寄ると、そこから2人分の外套を取り出す。「夜は冷えるから厚手の外套が欲しい」とあらかじめ侍女に要望していたものだ。
「今すぐこれを着て。ここを抜け出すわよ」
「はい?」
グナーの頭の上に浮かんだ疑問符を無視して、私は大きく息を吸った。
そして危機感を演出するのにうってつけの悲鳴を上げる。
「あぎゃあああ! 助けて」
分かりやすく廊下が慌ただしくなった。ドアが乱暴に叩かれる。
「フリッカ様!? 何かありましたか」
「あ、怪しい男が窓の外に」
「お部屋を確認させていただきます!失礼いたします!」
衛兵2人が必死の形相で入室してきた。剣を構えている。
「賊はどちらに!?」
「窓の外側に張り付いていたのよ。怖いから確認してほしいわ」
震える手で窓の外を指差す。
しかし衛兵の一人が「ここ6階なのに?」と至極真っ当な疑問を呈した。
まともか。
相手側に冷静な判断ができる人間がいるのはこちら側にとっては不利でしかない。
私はグナーに視線を送った。
「は? え?」とすっとんきょうな声を出したグナーは、しばらくの間頼りない表情で私を見返していたが、咳払いとともに気持ちを切り替えたらしい。やや尊大な口調で衛兵に詰め寄り始めた。
「フリッカ様は怖がっておられますゆえ、一時的に私の部屋でお休みになっていただこうと思います。よろしいですね」
「え、いや……フリッカ様の御移動にはフギン大家令の指示がないと」
「この方は将来の皇妃ですよ。あなたたちは皇妃の体調をないがしろにすると言うのですか?」
もちろん演技なのだが、普段は優しいグナーの無慈悲な様子は新鮮だった。やりとりがなされている間に私はササッと外套を羽織る。
「ほら、ちゃんと窓のほうも調べて。賊が逃げてしまうじゃないの」
最後の一押しだ。
そうして困り果てた衛兵が再び後ろを向いたタイミングで、私とグナーは廊下に踊り出た。




