35、 臆病な皇帝は嫌い
「陛下にもお考えはあるのでしょうが、やはり現状はお嬢様にとって辛いものだと思います。明日から少しずつ使用人たちに意見を伝えていきましょう」
つい先ほどまで私の手を握って話していたグナーも、今は長い廊下を渡り左城塔の自室に戻ってしまった。
私は腰掛けていたふんわりベッドから跳ねるように降りた。真っ白な寝間着の袖口にあしらわれたレースのフリルが舞う。
窓に寄れば、暗い空と帝都の街並みが見えた。
明日は婚儀の打ち合わせのために3人の使用人、さらに大室官・大交官担当者との予定が詰まっている。
早く寝ないと、とは思うけれどどうしても胸のわだかまりが消えない。
ぼんやりと窓の外を見つめていたところに、深夜の静寂を破る人の声が響いた。グナーかと思ったが違う。深みのある声の持ち主が寝室の前に立つ衛兵と会話している。
誰が来たのかすぐに分かった。急いでドアに駆け寄った。
「ゲオルグ!」
その場を離れようとしていた彼の豪奢なマントが翻る。
昨日の夜よりもやつれた顔がこちらを向いた。
「遅くなったので様子だけ聞きにきた。君を起こすつもりはなかったんだが」
「何言ってるの。わざわざ会いに来てくれたんでしょう? 私は少しでも話がしたいわ」
一見するとこちらを睨んでいるようにしか見えない剣呑な黄色い目が、わずかに色づく。
あまりにも分かりにくい感情表現に、思わず笑ってしまった。
私は皇帝の後ろにぞろぞろと付き従う家令や衛兵の言葉を無視して、彼を自分の部屋に引きずり込んだ。
ベッドの端に座らせて、落ちくぼんだ彼の目元をそっとなでる。
「――ちゃんと休んでる?」
言いたいことは山ほどある。
現状に対する不満も、彼自身の出自についても。――側室についても。
でも、ゲオルグの顔を見たら最初に出てきたのはそんな言葉だった。
ゲオルグは直接返事をせずに肩をすくめた。
「君は初日からフギンやヘイムダルを困らせたようだな」
「会話になっていないわね。疲れすぎて私の声も聞こえないのかしら」
「聞こえているさ」
腕を掴まれた。
「跳ねる君の声を聞いて、澄んだ君の目を見ている」
「……いきなり口説くのはやめてくれない?」
恥ずかしくてむずがゆい。が、それを言うゲオルグの心境を思うと少しだけ切なくなった。
彼が背負ってきた15年分の喪失の重さを、言葉の端々にひしひしと感じてしまう。
「君は若い。肌も柔らかいしな。生気に満ちている」
「ゲオルグ……」
「知っているか? 人は年を取ると臆病になる。俺は15年分、臆病になった。本音を言えば、君が今、目の前にいることも未だに信じられていないんだ」
あのゲオルグが私に、弱さを晒している。
私を守るために舞踏会までの間も相当無理をしたんだろうし、ヘイムダルの言う過激派殲滅の軍事作戦もハイペースで進行していると予測できるけれど。
ゲオルグを取り巻く苦難をちゃんと把握できていない自分が歯がゆかった。
私はベッドの上で膝立ちになって彼の肩をゆすった。
「私たち結婚するんでしょ。あなたを置いてどこかへ行ったりしないわ」
「どうだか」
自虐に満ちた笑い方だ。
その様子が昨日とは別人のようで、思わず息を飲む。
「君の精神は学生のときのままだ。意欲に溢れ真っすぐに進んでいこうとする。たとえここに閉じ込めても、きっとどこかへ飛んで行ってしまうんだろうな」
パン!
私がゲオルグの頬をはたくと、小気味良い音が室内に響いた。
「寝言みたいなポエムを詠んでいる暇があるのなら、ちゃんと食べて、しっかり寝てよね」
ドアの外でこんなことをすれば不敬罪。でもドアの中では恋人同士のたわごと。
今はなさけない表情でこちらを見る男が一人、いるだけだ。
恥ずかしさを押し殺し、私はゲオルグを胸いっぱいに抱きしめる。視線が泳いでしまうのは勘弁してほしい。
「フリッカ……?」
「ほら、私、生きてるでしょ」
前世のパパは、創世神話を聞かせながら私を抱きしめてくれた。今世のパパとママは、お誕生日のときに歌いながらハグをしてくれた。
このあたりの根拠は詳しくないけど、人の温かさを感じると安心する事例はたくさんある。
「今の状況に不満はあるし、あなたからの言葉も聞きたいわ。でも何よりもまず、私はゲオルグと一緒に生きると決めたんだから。あなたも私のことを信じてよね」
沈黙がおりる。
しばらくして、腕の中にいるゲオルグが「ふー」と長い息を吐いてもぞもぞし始めた。あんまり動かれると恥ずかしいな……などと思った矢先、彼もまた私の背中に腕を回してきた。
「わっ」
ゲオルグの腕に力が込められ、ぐいと横向きに倒された。気付けば私とゲオルグは向かい合う形でふかふかベッドに沈んでいる。
見れば、いたずらに成功した皇帝陛下がニヤニヤと笑っていた。悪い顔だ。
「頬をはたかれたのは初めてだ」
「でしょうね」
「腹が立つな。謝罪はないのか? フリッカ」
「ないわ。ここで立ち直ってもらわないと、私がゲオルグのこと嫌いになっちゃうもの」
ま、多分ならないけどね。
ゲオルグの不器用なところも結構好きだから。
ゲオルグがハハ、と声を上げて笑った。
「―――まいった。俺はやっぱり君にベタ惚れだな」
「あなたみたいにやっかいな男の面倒を見られるのは私しかいないわよ」
そう強がってはみるものの、ゲオルグの言葉に嬉しくなってしまう私も私。頬が熱い。
きっと顔は真っ赤に染まっているだろうけど、こういうときに限ってゲオルグも揶揄おうとはしなかった。
「なあ、フリッカ。君は俺との閨は嫌ではないのか」
「えっ」
えっえっ。
「そ、それってつまり……?」
包囲戦用大型弩砲が突如発射された……!
ドキドキしながら第二砲を待つ。
が、次第に発言者の瞼が下がっていき―――
「おいおい」
ゲオルグは寝てしまった。
発射しっぱなしかい。
今度は私が長いため息をつく番だった。でも、普段不機嫌そうに歪められているゲオルグの寝顔があまりにも無防備で、とても怒る気になれない。
その額にそっとキスをする。
「おやすみ」
今だけでもゆっくり休んでね。
自分よりも大柄な体に布をかける。
皇帝が眠ってしまったことを家令たちに告げるため、私は立ち上がった。