33、
カーテンの隙間から光が差し込んでいる。もう朝だ。
フギン・ムギンとの口論の後、不安を抱えながらもいつの間にか眠ってしまっていた。
結局、ゲオルグは顔を出さなかった
真っ赤に腫らした目をこすって周囲を見回す。
厚い布地にゆったりとしたヒダを持つ薄緑色のカーテン。部屋の中央にベッドが配置され、それを灰鉱石の暖炉や木製テーブル、アンティークチェストなどの家具が取り囲む。
ドアや天井の梁には騎士と馬、植物――おそらく世界樹だろう――の彫刻があしらわれている。
「一夜にしてお姫様になった気分だわ」
そして目の前には、先ほど侍女がシルバーワゴンに乗せて運んできた山盛りの朝食。
ひき肉とチーズを混ぜたクネーデル(ラヴィオリ)やポロネギのスープ、ベリーを添えた鹿肉のロースト、白パンなどなど。フェンサリル家のディナーよりも多い。
「でも、私はお姫様になりたいわけじゃないのよ」
はあ、とため息をつきながら朝食を吸い込んでいく。
「しかも当の王子様が浮気してるなんて最悪じゃない。一体何人の女とよろしくやってんのよ……」
帝国貴族にとっては一夫多妻なんて珍しくないのかもしれないけど、身分制度のないバナヘイムでは一夫一妻が当たり前。私もその感覚が強い。
「まさかゲオルグって……もう子どもがいるんじゃないでしょうね!?」
地団駄を踏んだりカーテンに殴る蹴るの暴行を加えたりしていたところへ、聞いた人間の心を弾ませるような声が響いた。
「お嬢様!」
それは、小さい頃から私に付き添ってくれた優しいお姉さんの声。
「グナー!」
私は飛び上がってドアを開けた。彼女に駆け寄る。グナーも涙を滲ませながら私を抱き寄せた。
「舞踏会の後、お姿が見えないので心配しておりました。まさか皇宮におられるとは……!」
「私もまだ混乱しているのよ。でもグナーの顔を見たら安心したわ」
「フリッカ様のいる場所が私の居場所です。二度と不安な思いはさせません」
相変わらず騎士みたいなことを言うわね。
でも、そうやって笑いかけてくれる彼女がいればきっと皇宮でもやっていける。
グナーの後ろから続いて出てきたのはヘイムダルだった。ここまでグナーを連れてきてくれたのも彼だろう。
「フリッカ様。もしよかったら朝食の後で庭園に散歩に行きませんか」
「それは嬉しい提案だけど、キノコに外出するなって言われているのよ」
「キノコ?」
グナーとヘイムダルが目を丸くした。少ししてからヘイムダルが笑い始める。
「ああ、フギン大家令ですね。今日は僕が外出許可を取るから大丈夫です。多忙な陛下の代わりに皇宮の説明をさせてください」
◇
帝国貴族の庭園では草木を図形に模して左右対称に配置するものが多い。対して、皇宮の庭園は庭というよりも小さな森と表現するほうが適切かもしれない。
森の木々は大半がトネリコだった。神話に出てくる世界樹もトネリコだと言われている。温暖な気候でないと育たないため、バナヘイムを含む北方国家ではあまり見かけなかった。
「こんなにたくさんのトネリコの木は見たことがありません。花も綺麗です」
見上げたグナーが感嘆の声を上げる。
綿のように白くて細い花弁が、木々の先端にふんわりと咲いていた。
トネリコは育成が難しいとされている。これだけの花を魅せるために、一体どれほどの庭師を抱えているのやら。
庭道をまっすぐ進んだところに東屋があった。白いテーブルの上にはポットと茶器、そして茶菓子があつらえてある。でも肝心の侍女がいない。
どうするんだろうと首を傾げているとヘイムダルが進み出た。
「僕が淹れますね」
「あなたが?」
ヘイムダルは近衛兵。すなわち軍人だ。
私の疑問に対して目を細めた彼は「趣味なんです」とはにかむ。
「陛下はいつもお忙しいので……少しでも休んでもらいたいなと思って練習しました」
優しい眼差しで茶葉の様子を見守りながら、ヘイムダルはぽつぽつと語り始めた。
「僕は陛下の近衛特兵という立場にあるので、家令の方々に対しても融通が利きます」
近衛特兵は皇帝直属の近衛兵で、わずか5人しか存在しないらしい。暗殺などを防ぐためお互いを監視し合っていて、ヘイムダル自身も知らない伏兵がいる可能性もあるという。
「陛下の周囲にはそれだけ危険が多いんです。本当はフリッカ様の傍にいたいはずですが、それができないのも懐古主義派の殲滅作戦が迫っているからなんです」
「私を襲ってきた男たちも懐古主義派だってゲオルグは言っていたわね」
こちらを心配そうに見つめるグナーに補足で説明しながら、私はヘイムダルに質問を重ねた。
「ええ。……フリッカ様の外出を制限するのも、過激派に襲われないようにするためだと思います」
「それならそうと自分の口から説明してほしいわ。ゲオルグに信用されていないのかなって思っちゃう」
「軍を動かす会議と婚儀の準備が重なり、陛下は一日中公務に忙殺されているんです。それに、その……帝国は身分に厳しい国なので、皇宮の中を歩く際も慎重を期するほうがいいんじゃないかって」
過激派だけじゃなくて、身分の低い皇妃を良く思わない奴らからも命を狙われるってわけね。
全方向が敵。どこにいても殺されそう。
私は東屋の椅子に座りながら改めて背後の皇宮を振り返った。
高くそびえる複数の守備塔は飛ぶ鳥を刺す槍のよう。
尖塔に囲まれた真っ黒な城は古代文明によって建設され、その建築素材となった黒い石は現在のミドガルズのどこにも存在していない。
「やっかいなお家だこと」
でもね。
危険が多いのは分かったけれど。
何も聞かされずに部外者がすべてを決めてしまうっていうのが、私は一番嫌いなのよね。
「それはそうと、ヘイムダルはお茶を淹れるのが上手なのね」
飲み干した瞬間に甘い香りが広がる、柔らかい口当たりのお茶だった。島国産の果物エキスで香りづけをしているのだろう。
私はさりげなくティーカップを観察した。器の裏面には独特な紋様が描かれていた。
褒められたヘイムダルは嬉しそうに笑っている。
「帝国の衛兵はみんなそうなの?」
「いえ、僕は陛下が即位する前から使用人として仕えていたので……」
ようやく合点がいった。
だから彼には軍人らしさがないのね。
「それって、ゲオルグが子爵家次男だった頃の話?」
「そうです。――フリッカ様は陛下からお話を伺っているのですか?」
「聞いてないわ。彼は自分の家のことは絶対に話してくれなかった」
でも、と言って私はティーカップを掲げた。
「これ、ヤルンヴィットの紋よね?」
ヘイムダルの顔が一瞬でこわばり、青ざめた。
その変化は面白いほどで、さっきまで笑っていた彼と同一人物とは思えない。
「なんでそれを」
「私が論文を書くのにどれだけ証拠を集めたと思ってるの。わずか7日間で滅んだ超大国文明、鉄の森――― ゲオルグってヤルンヴィットの生き残りなのね。過激派を殲滅する皇帝が過激派に信奉される王子様ってのも大変だわね」
ヘイムダルの独眼には私を警戒する光が宿っている。
「騙したのですか、陛下を」
「はあ?」
それはどっちよ。
「馬鹿にしないで。考えればすぐに分かることよ。それよりも、自分のお嫁さんに出自も説明できないのならもういっぺん出直してこいって、あのおじさんに伝えてくれる?」




