32、
目が覚めれば、転生―――はしていなかったけれど、赤ん坊になったときに感じたふんわりおくるみの快適さに包まれていた。
肌に接する柔らかい綿の感触。
雲の上にいるのではないかと錯覚するぼよよんふわふわ感。
あーーー……ずっとここで寝ていたいわ……。
重い瞼を少しだけ上げる。私は大きなベッドに寝かされていた。
羽毛でできた敷布の下で手足を伸ばしてみてもはみ出ることはない。ばたつかせても大丈夫。とても大きな寝台を独占している。
天井から流れ落ちる天蓋の布の外から会話が聞こえてきた。
一人はゲオルグの声。もう一人は知らない男性の声だった。
「倒れた?」
「ああ」
「理解が追いつかないのでもう一度繰り返しますね。口に無花果の食べカスがついていたので陛下自らが拭ってやった結果、恥ずかしさのあまり意識を失ったと……そういう理解でよろしいですか?」
「まあ、そうだ」
詳細かつ具体的な説明をするな。めちゃくちゃ恥ずかしいでしょうが。
ていうか誰だお前。
でもそのおかけで、私がゲオルグとデート中に額を打って昏倒したことを思い出した。
しょうがないでしょ。
初心な女の子の前でこれみよがしに無花果を舐めとるだなんて……破廉恥すぎるじゃない?
プロポーズは受けたけどまだ結婚もしてないのに。
「これから皇妃になる女性ですよね? 世継ぎも産みますよね。え? その程度で倒れるのですか」
「ちょっと奥手な娘なんだ。気にするな」
「いや、奥手以前の話ではありませんか? 口吸いしたら死ぬんですか」
キスでは死ななかったわよ、と心の中で反論する。
「当分の間は世継ぎの話はしないでやってくれ。婚儀が落ち着いたら俺のほうから話す」
「正妻たる女子の最大の仕事は世継ぎを産むことです。それは陛下もお分かりのはず。むしろこの結婚に意味があるのかどうか」
ふかふかに包まれていい気分だったけど、だんだんイライラしてきた。
「今ならまだ間に合います。どこかの公爵家もしくは大公家から正妃を招いては……」
我慢ならん。
勢いよくふんわりベッドから起き上がる。
私がシャっと天蓋布をのけると、ゲオルグとその横にいるツッコミ男がこちらを向いた。
ゲオルグよりも背が小さいキノコ型の金髪。私はそいつに鋭い一声を浴びせた。
「倒れた上にいきなり連れてこられた女の子に対してずいぶんな言い草ね!」
絶句している金髪キノコは白いローブを纏っていた。私はその布地を睨む。
赤いパー・シェブロン(逆V字に二分割した形)の上に知恵を象徴する黒い鳥紋の刺繍。帝国で一、二を争う大貴族、ムニン大公家のマークだ。
ムニン大公家は先の内乱に貢献した恩賞により、帝国行政のトップである大家令(大臣)の職を与えられたと聞く。
確か現当主の名前は――フギン。
「なるほど、あなたがフギン・ムニンなのね」
「な、なんで私の名前を」
大家令は皇帝の右腕。
こんな小姑みたいな奴がゲオルグの側近なのかあ。
今後の面倒が容易に想像できた。
「大家令なんて皇宮官僚の規範でしょうが。もうちょっと紳士的な態度を学びなさいよ」
「突然なんなのですかこの小娘は!? なんでこんなに偉そうなんですか」
取り乱すキノコを差し置き、ゲオルグが近づいてきた。
私の髪を撫でる彼の様子を見る限り、ゲオルグはキノコの癇癪に慣れているらしい。完全にスルーしている。
「いきなり倒れるから心配した」
「あ、あなたが恥ずかしいことするからでしょ」
ゲオルグは私の返事を聞いてニヤついた。
明らかにこっちの反応を見て楽しんでいる。
「ようやく君と話ができて浮ついていた自覚はある。すまんな」
自嘲めいた彼の呟きになんと返していいか分からず、わずかに視線を落とす。
そんな私の視界に、舞踏会の正装を解き、その身分を象徴する“いかにも”な緋色のマントを羽織った彼が映った。
そうか。今の彼は公務に追われる皇帝なのだ。
「本当はもう少し話していたいが、俺はこれから軍事府の会議がある。ここは婚儀が終わるまでの間、君の寝室になるから自由に過ごしてくれ。明日にはフェンサリル家の侍女も連れてくる」
グナーのことだ。
正直、不安でいっぱいの私はすぐにでもグナーに会いたかった。
「皇宮の生活や婚儀のこともおいおい説明していくから心配するな。不安があれば家令を呼びつけろ。すぐに対応させる」
「……今日はもう一緒にいられないの?」
ゲオルグの眉がわずかに下がった、気がした。
「婚約者なんだから同じ寝室で寝られるでしょ。 忙しいのは分かるけど、夜もあなたの傍にいたい」
デートを中断してしまったせいだ。
まったく話し足りない。
昨今の貨幣価値についても話したいし、法令発布のときの伝令馬の選定方法についても聞いてみたかった。
転生してから15年。
知的レベルに関して気負わずに話ができるのは未だにゲオルグだけなんだもの。
「も、もちろん明日でもいいわ! 私もあなたも今日は疲れているし。そこまで甘えたことは言わないけど、その、寝る前に少しだけでも……」
ゲオルグが顔を覆って黙ってしまったのでその黄色い瞳を覗き込む。
「ゲオルグ?」
「奥手なのか積極的なのか分からん娘ですな」
存在を忘れていたキノコがぐいと顔を出してきた。
「ちっ、キノコめ」
「皇妃になる方が陛下の邪魔をしてどうするのです」
フギンが「後はお任せを」と告げ、黙ってしまったゲオルグの背中を強引に押して退出させた。
その後で大仰に振り向いた彼は、杖のような長い棒を床にカツンと叩きつけて滔々と述べ始める。
「これまで結婚の御意向が皆無だった陛下がなぜあなたのような小娘を妃に選んだのかは分かりませんが、国母となるためにはそれなりの段階を踏んでいただく必要がございます」
耳をほじってやり過ごす。
「婚儀が終わるまでの間、御身を傷つけることがあってはなりません。原則この部屋から出ることは禁止。仮に必要に追われることがあった場合も皇宮内の行動のみとしてください」
「それじゃまるで監禁じゃない」
「皇帝が正妃を娶るのは一世一代の国事です! それくらいのことは当然です」
「うう~~~っ……」
フギンの言うことも分かるけど、つい先ほどまで自由を謳歌していた娘にそんな言い方はないと思う。
「本来であればあなたはまだ子爵家の令嬢に過ぎません。こんな部屋などわざわざ用意せずとも後宮に放り込んで教育してもよかろうに、陛下ときたら」
「後宮」
後宮って閨房学で聞いたわね。
確か皇帝や国王の嫁、側室がたくさんいる場所……。
えっ。
「待って。ゲオルグのための後宮があるの?」
「ミドガルズ大帝国の皇帝ですぞ。当然です」
聞いてない。
「そんなの浮気じゃない!」