0、プロローグ
ゲオルグは不思議な人だった。
帝国子爵家の次男坊。
家督は兄が継ぐからと、自分は趣味の学問に没頭するお気楽な貴族様。
私の住むバナヘイムは各国からの留学を歓迎している。
彼は南方の国家、ミドガルズ帝国からの留学生だった。
ゲオルグは世間から浮いていた。
貴族という身分がそうさせるのではなく、彼自身のスタンスによる。
世俗に興味がなく、面倒な課題や議論も涼しい顔で卒なくこなす。
政治談議を好むようだったが、相手に学がないと分かれば途端に敬意を手放して冷笑する。
大学生の多くが10代もしくは20代だ。
そんな中でもうすぐ30歳になるという彼の年齢もそういった印象を与えやすくしていたのかもしれない。
不思議なことに、私はゲオルグと話すのがとても楽しかった。
あまり人と関わりたがらないゲオルグも、私とは一緒に行動することが多かった。
「ゲオルグは卒業したら帝国に戻るんでしょ?」
学庭でお昼ご飯を食べながら、私はゲオルグに話しかける。
彼はチラリとこちらを見ただけだった。
「入学して1年。留学期間も終わるわよね? 帝国に戻ってお嫁さんをもらって、領主でもやりながら学問を続けるってところかしら」
ゲオルグは貴族。バナヘイムには身分制度がないので、私は平民。
彼の留学期間が終われば、おそらくもう二度と会うことはない。
一抹の寂しさを覚えていることに、自分自身が驚いていた。
「フリッカはどうするんだ」
少しだけかすれたバリトンボイスが耳に届く。
高身長だが姿勢の悪いゲオルグはぼそぼそと話す癖があった。
「私? そりゃ論文書きまくるわよ」
「そうか」
「パパが軍の退職金も使っちゃったから、うちにはお金がないのよ。頭が悪そうなお偉いさんをパトロンにして荒稼ぎしてやるわ」
「フリッカらしいな」
ゲオルグは芝生の上に手をついて空を見上げていた。
癖の強いセピアブラウンの髪が、彼の肩から零れ落ちる。
普段は眼光鋭い黄色い目はわずかに細められていた。
「フリッカ」
「なあに?」
ゲオルグが顔をほころばせている。
彼がこんなふうに笑うことは滅多にない。
私は目が離せなくなった。
なぜか胸が早鐘を打っている。その理由は自分自身にもよく分からなかった。
「―――俺は帝国に戻るつもりはない。爵位も捨てるつもりだ」
突然の告白に私は小さく「えっ」と漏らした。
「だから、俺と結婚してくれないか」
私よりも10歳年上の彼は決して若いとは言えない。
髪も跳ねてて髭も剃りきっていない。
大衆文学に出てくる見目麗しい侯爵様とは雲泥の差だ。
それでも、そのときの真剣な表情と、射貫くような目は誰よりも格好良く見えた。
「―――これってプロポーズ?」
念のため確認してみる。
研究でも事実確認は大切。
「そうだ」
ゲオルグは言った。
私は人生で初めてのプロポーズを受けた。
嬉しくないと言ったら嘘になる。
いや、すごく嬉しい。
けど、
「いや、あの、私たちまだ付き合ってもいないんですけど……」
ちょっとだけ戸惑った。
このときはまだ、彼が南方最大の国家であるミドガルズ帝国の皇帝になるなんて想像していなくて。
そして、この1週間後に私がこの世を去るなんてことも、もちろん誰にも分かるはずがなかった。