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4 さやのしあわせ (1)


 江戸日本橋の貧乏長屋、もう随分前から空き家となっていた一番奥の部屋の前に何を間違えたのか、場違いであるかのような美しい女性が立っていた。

 集まった長屋の皆はバツ悪く散々となるが、残された数馬は動くことも出来なかった。

「さや、どの……」


 話を数日前に戻そう、箱根峠の中程付近、街道を外れてなお山道を登ると昔からの駒形山・山岳信仰の社、駒形神社がある。その境内の長い石段を更に上がると広い空地がある、空地の一角は鋭い崖に面している、ここを踏み外せば万に一人も生きられる者は無しと思える崖である。

 そこに身を投じるが如く倒れ込み嗚咽おえつむせる若い娘がいた、その脇には黒鉄の六角棒を突き立て同じようにむせぶ若者もいた。

 勿論娘は小田一刀斎が娘、沙耶。若者は兵頭家下男、五郎である。

「数馬はここから…… ここから……」

「沙耶さま、あぶねえでだ、沙耶さま、あぶねえでだよ」

「五郎、数馬の後を追うのはわたくしの定めじゃ、数馬に何かあれば生きてはおらぬと誓ったのじゃ」

「沙耶さまぁ……」

「五郎、もうよい、ありがとう、帰って沙耶は数馬のところへ行ったと父上に伝えておくれ……」


 大垣藩では数馬の死亡説が広まっていた、又右エ門と共に脱藩した健吾がその旨の書状を家老側近の近森刑部に送ったとの事なのである。

 その噂が沙耶の耳に届けばどうなるか……おわかりのハズである。


 一刀斎が道場に沙耶を呼び、五郎と共に別れの盃を交わす。

「沙耶、そなたは其方の道を行け、数馬の噂は定かではない、やつが生きておれば奴につき従うが良い」

「ただし、噂が本当であったとしても、死ぬのは許さんぞ!死んでしまえばそれで終わりじゃ、例え絶望の果てを歩むとも、人は生きてこそ次の人生が必ず与えられるのじゃ、ゆめゆめ忘れるな?」

「……」

 沙耶は聞いてはいなかった、ただただ数馬の元へ行きたかったのである。

「五郎、お前も親がある身で村にも帰らず、兵頭家やわし達まで真の親の様に尽くしてくれる、わしは其方のような倅を持ちたかったぞ」

「めっそうもありあせん…… です」

「五郎よ、自信を持つのじゃ、嫌な事に目を背けてはならん、五郎なら何があ

っても解決出来るはずじゃ!」

「はぁ、はい、」

「上々じゃ、沙耶、母には黙って発て、あれはお前ほど強くはない。 五郎、沙耶を頼んだぞ!」

 と言うコトになって、今箱根峠にいる。


「沙耶さま、沙耶さま、いけねーだ!」

「五郎、離せ!」

 その声を聞き、石段を上ったところから全力で駆けてくる熊の様な者がいた、誰かが見たら本物の熊と思っただろう……。

「何してるんだや!」

 五郎が持つもう片方の腕を掴んで引っ張り上げた、そう、四朗であった。

ただ、尻もちをついた時腰に下げていた水筒(竹筒)が割れた。

「あっ、竹筒が……」

「こんただもんどげでもいい!それよりあんた、さやさんかえ、そしておめぇが五郎かえ!?」

「??? あのぉ?」

「おめぇが五郎きゃぇー!!」


 四朗はこのところ、めっきり具合の悪くなった母親の回復祈願に、毎日駒形様を訪れていたのである、石段を上る時から”沙耶さま”、”五郎”の声が聞こえたのであわてて駆け寄ったのである。

「ほんとに数馬さまは生きているのきゃ!?」

「生きてらい! ぴんぴんしよったで! ほんでも、おまえらあぶなかったでぇ、おらさもうちょっと遅けりゃ、二人とも落ちとったで、おっかぁも悪いっちゃ、もう助けられんかったに……」

「すみませんでした、四朗さんまで危ない目にあわせてしまって」

「おらぁ獣を捕るぶん人は助けるだよ、おまはんらに限った事じゃないよ」

「おっかぁの面倒みるで、家さ来てくんろ、そこで話すべ」

 街道から猟師道を下り山小屋へたどり着く、そこに老婆が横たわっていた。

「おっかぁ、けぇったよ、沙耶さんと五郎も一緒だぜ!」

「……」

「おっかぁ、大丈夫きゃぁ?」

「…… 沙耶さんと五郎さん? 数馬のか?」

「そうです、おばあさん、沙耶でございます、数馬のことお聞かせください」

「おおう、待った甲斐があったわい、わしの最後の仕事になりまする」

「じゃがのぉ、沙耶さん、五郎さん、最初に言うとくぞ、人間は生きてこそじゃぞ! わしも生きておるからこうして話せる……」

 数馬を助けた一通りを話した、数馬から聞いた事もすべて伝えた。

「お婆さま、今は身に染みて分かります、発つ日にも父から色々諭されましたが聞く耳は持っておりませんでした、恥じ入るばかりで聞いております」

「いえいえ、良いのです、この婆は最後の定めを果たしただけ、数馬から沙耶さんの話を聴いた時、そなたはきっとここへ来ると思うてのぉ、沙耶さんもここへ来たと言うことは相当な想いをなされたはずじゃ」

「いえいえ、わたしの苦労などは、数馬……、数馬さまに比べると」

「さあさあそれじゃ、沙耶さんは自分の幸せは見んのかえ?」

「数馬さまの幸せがわたくしの幸せなのです」

「そうじゃのぅ、沙耶さん、今頃数馬は江戸であれの本懐を遂げようとしておるはずじゃ、沙耶さんが行って…… そなたも数馬も幸せになれるかのう」

「……」

「沙耶さんはとても強い方だと聞いておるよ、沙耶さんはもっと自分の幸せを考えれば良いのです」

「……」

「数馬のことよりも自分の幸せを考えればよいと言っているのじゃぞえ」

「そんなことは考えられませぬ」

「考えられぬか? 数馬の幸せが沙耶さんとなるまで待てぬのか?」

「そのような日が来るのでしょうか?」

「来る、数馬が大役を果たさば必ず沙耶さんの元に戻るとわしは思う、今は追い掛けてはいかんと思うがのぅ?」

「そうだ、沙耶さん、数馬がここでうなされていた時、何度も何度も沙耶さんの名前を呼んでいたぎゃ、それでおらぁ沙耶さんのことも知ったがや」

「沙耶さん、数馬がそなたの元に戻った時こそ、数馬が幸せでなければならん、その日のために沙耶さんのすべきことは山ほどあるぞえ?そう思うがのぉ?」

 その夜を沙耶と五郎はそこで過ごした、沙耶は数馬が寝ていた場所にゴザで横になった、数馬がここで生死を彷徨ったと思うと、涙が出て止まらなかった、いつもは獣たちの鳴声で騒がしさもあるが、この夜は静かだった、いや、沙耶のすすり泣き、時に大きな泣き声が谷の音を消していた……。

 翌朝、リスが木の実を屋根に落とす音で目が覚めた。

 老婆は正に眠ったまま亡くなっていた、昨夜あれほど気丈に語ってくれたのに、本当に役目を果たしたようにあっさりと逝ってしまった。

 皆が悲しみに打ちひしがれたが、四朗が気を取り直し言った。

「おっかぁは幸せよ、三人に見送られるんだぎゃ、ほんでもう数馬のところへ行っとーかもしれん、どんだけ数馬のこと心配しよったか」

 沙耶が彼女に薄く紅をさし、荷物の中から小袖を取り出し掛けてやる。

「数馬に逢う時に用意した物、お婆さまが着て逢ってくださいね」

 みんなで泣いた、男も女も無い、この日は泣いて良い日なのである。

 ここでもう一泊をした、三人でばあばの葬式のまね事をしたのである。

 沙耶は引き返す決断をした、決意した顔は美しい中に以前よりももっと意志の強さを秘めるものがあった。

「五郎は江戸へ行け、数馬を見つけ出し、きっと助けるのです!」

「沙耶さまを一人で帰すのは気が引けますがの、おら、数馬さんを助けることは生死の中で誓ったことだ、です。」

「五郎、お前はお前の言葉で良い、江戸で大垣弁を広めておやり! 四朗さんは寂しくなりますね?」

「いやぁ~おら寂しくはねえっさ!兄貴や弟がいっぱいいりゃぁ!」

「……」

「そこに五郎がおるで、どこかに一郎も二郎も三郎もいりゃぁ!兄貴だで、五郎に会うてそう思ったちゃ、だで、なんも寂しくはねえっさ!」

「よく言っていただきました、安心して去る事が出来ます、ありがとう四朗さん、五郎も気を付けて行きなさい」

「大丈夫だで沙耶さま、数馬さんはおいらがきっと連れて帰りますよぉ!」


 (少し長くなりましたが、っと言う訳で、長屋から出てきたのは、どちらの”さやどの”かお分かりになりましたね?)


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