3 ふたりの さや (1)
活気のない路地に冷たい風が落ち葉を舞い上げている、かつて栄えた小田道場に今は訪れる門下生も無く、閉ざされた門に風が落ち葉を運ぶだけであった。
半年前の次席家老・兵頭主膳の暗殺の下手人が小田道場の門下生と言う事で剣術指導の許可を剥奪されたのである。一刀斎においても剣術指南役はお役御免となり、三月謹慎の後、畑違いの勘定方補佐として平役勤務をさせられていた。
道場は閉鎖であるものの、当分住居することは許されていた、昼間はひっそりとしているが、夕刻になると毎日奥の方から何やら聞こえるのである。
「うぅ~ん、やっ!・・・うぅ~ん、やっ!!」
”ビューン” ”ドンドン!”
道場で五郎が六角棒を振り回していた、彼は兵頭家の下男として奉公しているが、夕刻はここに来て棒の稽古を一心に励むのである。
火の気も無く陽が落ちれば秋風が寒かろうに、上半身裸で棒を振る。 ”ビューン”と音が唸る度に汗が飛び散るのである。
一刀斎が下城し帰って来た、今は常の出入り口である裏口から入り、先ずは表の道場(稽古場)で神棚に拝礼する。その後、奥で衣替えである。
「五郎よ、大分振れるようになったのぉ」
「そうでがんすかのぉ? おいら先生の言われるままにしているだべ、まだ何がどうなって良くなっているのかなんもわかんにゃぁべ?」
「ははは、お前も江戸に行くのであろう? ならば棒だけではなく言葉も覚えねばならんのう」(笑)
「なんすけことばまで? おらのしゃべりがおかしいすけ?」
「ははは……、五郎よ、お前は本当に良い奴だな、しかし江戸と言う所は正直だけでは生きて行けんぞ!? ま、ここも一緒だがのぅ」
「続けよ! その分ではまだまだ江戸は遠いぞ?」
「はっ!」 「うぅ~ん、やっ! うぅ~ん、やっ!!」
一刀斎が奥へ行くと沙耶が胴衣の縫物の内職をしていた。
「沙耶、そのような事せずともよい、母に付いておればよいのじゃ」
「父上お帰りなさい、母上は毎日お茶、お花、あのお歳になっても習い事が必要なのでしょうか?」
「うむ、人には其々道がある、決めるのは自分、だが決めた以上は生涯その道から外れぬよう進んで行くのが使命と言うものじゃ、あれはあれで良い」
「では、わたくしの道はわたくしが決めるもの、母上に従うてはおれませぬ」
「ははは、沙耶は頑固じゃのぉ、それ、長屋の者が届けてくれた、文じゃ!」
「まっ、父上! それが先じゃ!」
油紙に包まれた薄い紙であった、差出人は”和”、他人に知れぬよう偽名である、受け取りも以前住んで居た長屋の者に頼んであった。
急いで文の結び紐をほどく。
”銀杏の葉に故郷をなつかしみ候 皆さまつつが無く候よし ”
「どうじゃ、数馬は健勝か?」
「……」
「?? どうした、沙耶?」
「これが文であろうか、半年待ってたったこれだけのこと……」
稽古を終えた五郎が、用事がないかと庭から顔を出す。半泣きの沙耶を見て
「どげぇなすった? 沙耶さま」
「五郎! 文と言うのはのう、もっといろいろ書くものじゃ!これでは数馬がどこでどうしているのかも分からぬではないか……」
「それに、妻である沙耶への言葉が一文字もない、うらめしゅうて…」
「沙耶、なにか落ちたぞ?」
油紙の間から、黄色い一枚のイチョウの葉が沙耶の足元に舞った、それを見て、数馬が初めて道場に来た日、井戸の側にある銀杏の木の、足元に落ちた黄色い葉っぱを頭にかけ合ったことを思い出した。
裾に落ちたイチョウを拾い上げると、裏に”さやどの”と書かれていたのである。あの時の無邪気で幼かった数馬が今は何処とも分からぬ地でたった一人……、沙耶は愛おしさを抑えるのが精一杯で、これ以上言葉は出てこなかった。
一方、数馬の足取りを辿ってみる、大井川を渡り島田へ入った数馬である。
「この度は危ないところをお助け頂いてありがとうございます、渡りの時からどうお礼を致しましたらと思案しておりました」
「いやいや、お若いそなたを母上君とお呼びして良いのか分からぬが、礼など無用のこと、むしろ私がそななたちを送って差し上げるのが礼儀と心得るが、私としては若干先を急ぐ身、この場にてお別れさせていただきましょう」
「さもありませぬ、わたくしは二宿先の岡部に住みまする名前は早也と申します、この娘は綾でございます、病で言葉が喋れません」
「なんと、さやどの? と申されるか、して、この子、喋れないとは?」
「はい、浜松に良い医者がいると聞いたもので連れては参りましたが、この子の産まれる前からの病気(遺伝)であるとの看立でございまして……」
「それは気の毒な…… 他にも良い医者がいないものか?」
「江戸にもう一方えらいお医者様がおられるとの事ですが、江戸はさすがに遠く、思案をするところでございます」
「うむ、難しくもあろうがその娘の将来も思って思案してくだされ」
「ありがとうございます、お足が違いますのでご一緒は出来ませぬが、二つ先の岡部宿で金物問屋を致している高岡屋と言うのが私の実家であります、事の次第を言うて少しでもお休み頂けたらと思うのですが……」
「いやいや、それには及ばん、また、厚かましゅうてよう立ち寄れぬ」(笑)
数馬は急いだ、宿場宿場で隻眼の侍の噂を拾うが、手掛かりは無かった、又右エ門がどれほどの足で行くのかも分からなかったが、金谷宿で追いつけた事を思うとさほどの足ではない、富士川を越える辺りで出会える可能性は十分である。箱根を越える前には沼津宿か三島宿で一泊するはずである。
数馬は沼津を選択した、沼津宿に着いた日から温泉宿の探りが始まった、と言っても温泉街をぶらぶらと歩くだけなのだが……。
二日目の夜である、着流しに編み笠の侍が三人、正面から無言で歩いてくる。
”これだ!”数馬が直感する。数馬も菅笠で顔を隠している。
道幅二間、広くはない、数馬が道を譲るように端による、すれ違い際
又右エ門を斬った、実際に切りつけたのではなく”気”で斬ったのである。
「待てぃ!」 顔を隠したままの又右エ門が数馬を呼び止める、後の二人もすかさず横に開き、既に刀に手をかけている。
数馬が殺気を隠し、深々と頭を下げた、又右エ門がしばらく窺っていたが。
「いや、よい…… 今夜は殺生はやめておこう」
「又右エ門どの、なにかあったのか?」
「いや、よいのじゃ、気のせいであった」
数馬は又右エ門の宿を確かめ、酒屋の丁稚に文を伝言た。
文面は「明日、箱根峠・駒形神社にてお待ち申し候・兵頭数馬」
箱根峠三島側においては霧の濃い日が多い、この朝も普段通り二十間先が見えぬ靄が発生していた。
数馬は立附袴に脚絆を巻き、履物は草鞋である、菅笠は被らず静かに峠を上って行く。峠の途中で旅姿の侍がたき火をしていた。
「お若いの! 寒いでござろう、あたって行かぬか?」
「結構でござる」
「では、焼き芋などお持ちくだされ」
と近寄ってきて、抜きつけに片袖を斬られてしまった、直ぐ応対するが侍はそのまま走って行ってしまったのである。 傷は浅いが出血はしている、手のひらにまで血が流れると刀を持つ手が滑るので、手ぬぐいを割き手当をする。
あれは昨夜の三人のうちの一人だとすると、又右エ門含め三人を相手することになると気を引き締めた。 少し息を切らして駒形神社に到着すると、既に又右エ門が長い参道石段の上で待っていた。
「数馬、久しいのぅ、道場で腕を磨いて来たか? しかし田舎道場の腕ではわしは斬れんぞ!?」
「又右エ門どの、何故父上を、あなたは剣に心を取られている……」
「おおう、一刀斎の口癖じゃ、懐かしくて涙がでるわ、数馬! 剣に生きようとは思わんか、剣は飾りではない、使うてこそ己も剣も生きるのじゃ!」
「ちがう! それこそが魔物、剣が無いと生きられぬ魔物である!」
「まぁ良い、数馬、上がって来い!そちの望み受けてやる」
ゆっくりと、辺りの気配を探りながら石段を上がる、社の陰に一人いる、社を背にした時後ろを狙われる位置になる。
「大丈夫だ数馬、わしの指図ではない!じゃが、それくらいの難は除けなければ剣豪にはなれぬぞ? ふふふ……」
道場で又右エ門と対したことは無かった、又右エ門は近年誰とも相手せず自分の手の内を見せることが無かったのである。
ただ、数馬は上級者の稽古を見る中では時折見せる又右エ門の擦り(すり)足を見ていたのである、打ち込む前は必ず右足を擦るのだ、初めての者には絶対に分からない微妙な擦り足…… これが又右エ門の致命傷と確信していた。
小さい社の前に広場がある、相撲でもとるのか中央に丸く砂が撒かれている、一方は崖になっていて、落ちると奈落の底、生きてはおられぬだろう。
決闘で負けた者はそこへ突き落せば良いのである。
「数馬、最後じゃ、剣で生きるなら親も仇もないこと、真の剣を教えるぞ?」
「……」
正眼に構える数馬は神経を剣先に集中していた、剣と一心同体。心の動きが剣の動きとなるのである。
又右エ門もゆっくりと愛刀の”孫六”を抜き放つ。
「ほう、兵頭家家宝の備前長船じゃな? 頂こう!」
「……」
じりじりと又右エ門が迫って来る、右の擦り足はまだない、右八相から左の下段、小野派一刀流にない、流れるような構えの変化である、隻眼になった又右エ門は尚一層魔物と化しているのだろうか?
さっき焚火をしていた侍が石段を駆け上がってきた。
「健吾! 手を出すんじゃないぞ!」
その言葉で社に隠れていた侍も姿を現した。
「とぅぅ!」
又右エ門が下段から繰り出す、数馬は正眼を相手に向けたまま紙一重で交わす、正眼を崩せば二の太刀が襲って来ただろう、正眼は相手の踏み込みを狙う構えなのである。 様子見の単発から切り返しの連続技が続く、本気の打ち込みの時こそ勝負なのである。 だが数馬はいつの間にか崖を背負わされているのに気が付いた、その心が乱れた瞬間に無言で又右エ門の右足が擦ったのである。
「や!」
これぞ本気の打ち込み、待っていたのである、しかし”キィーン!”と受け止めた数馬の長船は中ほどから見事に折れたのである。それに気付かず、仕留めたと思い突き出した半剣は又右エ門の胸には届かなかった。
「数馬、さらばじゃ!」
魔物に蹴り出され、数馬は奈落に落ちて行った。
”ガチャーン”大事な茶碗が割れた、沙耶が毎日数馬の為に供える影膳の茶碗である。急いで小箪笥にしまってある銀杏の葉を見る、”さやどの”の文字が薄くなって消えているのである。
非番の一刀斎は道場で瞑想をしていた。
「父上! 父上! お願いがございまする!」
「なんじゃ、騒々しい」
「沙耶に江戸行をお許しください、お願いします!」
もう半泣きで必死なのである。
「どうしたと言うのじゃ、ゆっくり話してみよ」
「数馬の身になにか……」
「数馬に? 文が来たのか?」
「いえ、そうではございませぬが私には分かるのです……」
(時系列がおかしい? いや、大丈夫!まあ、あまり気にしない事である)