それは困難であり、覚悟である
あれはまだ雄馬が日本にいた頃だった。つまり、数か月前の会話である。自分と同じ志を持つ若年の俳優、平塚大志。うだつが上がらない日々を嘆きながらも、役者としての成長を確認する為に、オーディションが行われる前の週末はいつも同じ居酒屋でふたりだけの祝賀会を打ち上げる。今回は大志のオーディションの為に集まったのだ。もう何杯も酒を煽る様に飲む大志。そろそろ勘定を頼もうとした時、大志は雄馬の袖を掴んだ。
「先輩、今日はもう一軒行きましょうよ」
それは大志にしては珍しい提案だった。彼はお酒が強くない。それなのに日本酒や焼酎を好むせいで直ぐにへばってしまう。飲み方が良くないのだ。酒は少しずつ味わって飲むのが丁度いい、と言ったこともある。しかし、飲み方を指南された大志は、決まって日本酒を浴びるように飲むのだった。だから、今日も茹で蛸のように赤い。
「先輩、次の店は俺が奢りますよ。なんか、良い店見つけたんですよ」
居酒屋を出て、自転車を押しながら大志は雄馬を先導する。いつもはふたつ並んでいた自転車も、今は大志の分しか無い。渡米を控えている雄馬は既に家にあるほとんどのものを売り払ってしまった後だった。自動販売機でコーヒーをふたつ買う。大志が満足するまで帰れないのだとすれば、何かチェイサーになるものが必要だ。恐らく、この少年のように無邪気な若人は、チェイサーなど要らないと言うのだろうが。
しばらく歩いた後、大志は自転車を路肩に駐輪した。そこはテーブルのない、カウンターだけで形作られた飲み屋だった。最近ここにハマってるんですよ、そういうと大志は暖簾を潜る。中では着物を着た自分より若そうな女将が切り盛りしていた。おでんの香りが鼻孔を擽る。おでんに含まれた大根の微かにつんっとくる匂いに安心してしまうのは、自分が年を取った証拠なのだろう。そんなことを思いながら、若女将に会釈する。
「俺、今回のオーディションは本気なんですよ」
注文した熱燗が運ばれるまで待てずに、大志は語りだす。
「先輩が次、日本に帰ってきた頃には、俺今より有名になってます」
今はバイト暮らしですけど、すぐに役者業だけで食えるようになりますから。
熱燗を入れた小さな片手鍋がグツグツと煮えている。
「先輩は、なんでアメリカに行くんですか?」
それは不意な質問だった。
「そこに、なにか目的があるんですか?」
一から全てを再構築するというのは、とても勇気がいることだ。雄馬も大志も上京した経験があるからこそ、そのハードルの高さを知っている。だからこそ、アメリカに単身で行くには目的が必要だ。新生活にただ摩耗しないように、その先の何かが。
「世界に挑戦出来るのは今しかないんだ、と俺は思う」
今はバイト暮らしですけど、すぐに役者業だけで食えるようになりますから。
雄馬にもその想いはあった。だが、あとどれだけの期間そうやって我慢していられるだろうか?雄馬はもうすぐ三十路になる。時の流れが加速しているのは、肌で感じられるほど鮮明だった。今頑張らなければ、未来はない。そういって無理に期間を伸ばしてきて何年が経ったのだろう。渡米が逃げじゃないか、と言われれば、日本で必死にやってきたじゃないか、と言われれば、きっと雄馬は答えられなかった。だが、偶然大志が目的という言葉を使ったから、雄馬は挑戦だ、と断言できたのだ。それは雄馬の中に元々あった概念ではない。大志という男が彼の胸に置いていった手土産だった。
雄馬は今、やっと漕ぎ着けたアメリカでのオーディションに向かっている。ACIの撮影で知り合ったジョンに教えてもらった会場は都市部にあるスタジオだった。駐車場が足りないらしく、公共交通機関を使って来場する様に連絡が来ていた。
一律料金の交通機関は、多様な人々が乗り込んでくる。人種や文化によって異なる匂いが、バスの中で混ざり合って大変なことになっている。最近ではアメリカのことを「文化の坩堝」とは言わないらしい。代わりに、「文化のサラダボウル」と言うそうだ。溶け合って何か一つのものになる坩堝ではなく、ひとつひとつの味が独立しているサラダというわけだ。しかし、こうも主張が強いと頭が痛くなる。
頭が痛くなる理由はもうひとつある。オーディション用に送られてきた脚本(Script)が頭に入ってこなかったのだ。あらすじ(Synopsis)はこうだ。
ある男が友人の伝手で街にやってくる。その男はもともと粗暴な性格で、街のマフィアの鉄砲玉として雇われる。そして、ある依頼が任され、街で幅を利かせている麻薬売買を専門とするギャングを殺しに行く。そして、そのギャングが実は今は亡きマフィアの統領の隠し子であることが判明する。男はマフィアの跡目争いの中で暗躍していた陰謀の片棒を担がされていたのだ。
この映画の構成は大きく分けて三分割あるらしい。鉄砲玉、ギャング、そしてマフィアが主要人物として交差する。
つまり、脚本の文章では理解が難しいほど込み入っているのだ。雄馬が受ける役は鉄砲玉なわけだが、彼は序盤から終盤にかけてのキャラクターとしての一貫性がない。劇中で成長していく役割ということだ。最初は観客と同じ目線で何も知らないところから舞台となる街を発掘(Discover)していき、それがギャングの目には危険人物に、終盤ではマフィアにすら反旗を翻す重要人物にすらなっていく。
とても重要な役回りだ。全力で演じたいと思う。だが、脚本ではほとんど登場人物の心の起伏が描かれていないのだ。台詞(Line)と行動(Action)以外に記されているのは小道具ぐらいのもので、そこからは感情が読み取れない。たまに付いている副詞でさえ、雄馬には判断が出来ないのだ。「悲しそうにタオルを受け取った」主人公。この悲しそう、とはつまりどういう感情なのだろう。恐らく日本語では無自覚に判別できていた言葉のニュアンスが、外国語になった途端、まるで初めて出会ったかのように道を塞ぐのだ。きっと、送られてきた脚本にここまで翻弄されているのは雄馬以外居ないだろう。
嫌な臭いから逃げ出す様にバスを降りる。
会場には既に俳優が待機していた。皆、連絡先付き(Head)の写真(Shot)を片手に台詞を練習している。そういえば、と雄馬は思い出す。雄馬が渡米後何度も調べたオーディションには年齢や人種の規定があった。俳優団体に入っていない雄馬には応募することが出来なかったのだが、今回のオーディションはそういう規定がなかった。ジョンの助けを借りずに、ネットの応募を通していれば、もしかしたらあったのだろうか?
希望が見えていた目の前に曇天が立ち込める。
配布された脚本には載っていなかったが、もちろんどの配役にも人種の壁はあるはずだ。マフィアはイタリア系の方が本物らしいし、ギャングで日本人は不自然だろう。鉄砲玉ならどうだ?違う街から来た余所者、殺し屋、アジア人、……。
思考を遮るように名前が呼ばれる。やるしかない。
扉を開くと奥の方に三人座っている。
「こんにちは!座って」
人懐こい素振りの褐色肌の青年が雄馬を促す。その横に居るのは度の高い眼鏡を掛けた青いシャツの青年。そして、ACIでの撮影の前日に出くわした金髪の美女だった。
「アジア人か」
美女は呟く。
「どう、ルベン?撮影監督として、アジア人は綺麗に撮れるの?」
本人を前にしてルベンと呼ばれた褐色は唸る。
「今答えるのは難しいね……。あまりサンプルがないんだ、アジア人は」
「それは貴方の経験がない、っていう意味?それとも映画業界でそもそもあまり扱われていないの?」
「両方だよ。ハリウッドの歴史上、アジア人を中心に置いた映画は少ない」
楽しそうに体を振って話すルベンとは対照に、女はこちらをまじまじと見回す。印象は良くない。クリスマスにツリーの下に置かれた新しい玩具の箱を破る子ども様な無遠慮さがふたりにはあった。
「……ふぅん。新しいのね」
数刻置いて、自己紹介を促された。雄馬はふたりに対する不信感を上手く隠しながら自分の役割に徹する。緊張で文法が滅茶苦茶になってしまわない様に気を付けながら、綱渡りの様な心地で自己紹介を終える。
「日本人なのか!僕、昨日ラーメン食べたよ!日本はとても好きなんだ!」
ルベンが雄馬を囃し立てる。ラーメンがどの様に作品に繋がるのか分からないが、同調する他なかった。気に入られるに越したことは無い。
「与えられた役柄に対して自分が優れていると思う理由は?その第二言語を補って、他の俳優より勝っていると証明できる何かが、貴方にはある?」
女が出してきたのは雄馬が恐れていた質問だった。ルベンが彼女と雄馬の間に割って入る。
「駄目だよ、そんなに一杯質問したら!日本人は寡黙で少ししか話さないんだから!」
自分が日本人という人種によって作品に貢献できるなにか。それが無ければ雄馬は生き残れない。所詮、余所者なのだ。ならば、何が制作陣の興味を擽り、やる気にさせ、交渉の切掛けになるだろうか?余所者でありながら、魅力的に見せるもの。それは文化だ。
「例えば、鉄砲玉が日本からやってきたヤクザなら、それは俺にしか演じられない」
先程から何ひとつ喋らない眼鏡の方を向く。
「鉄砲玉の設定はまだ深く出来ると思います。ヤクザだと明言しなくてもいい。でも背景としてそれがあれば、物語は一層面白くなる」
「ジャパニーズ・ヤクザだって!?面白そうだね!!逆に、忍者とかどう!?」
ルベンが手を叩いて喜ぶ。女は値踏みをする様にこちらを見た後、眼鏡に耳打ちした。
「どうなの、スティーブン?」
スティーブンと呼ばれた眼鏡の男は相槌を打つ。
「確かに、鉄砲玉の裏設定は僕の脚本に盛り込める隙間はあると思う」
「この作品は失敗できないわ。でも、私は期待値を上げたい。アジア人を起用するのは、リスクではあるけれど、新しさはある。その設定を足すことで脚本を向上させることは出来るの?」
会場に沈黙が訪れる。人種としてしか自分を見ていないこの女にも、よく分からない先入観で話を遮るルベンにも、正直良い印象はない。だが、スティーブンが後押しをしてくれれば、もしかするとチャンスはあるかもしれなかった。
「決断をする前に、大切なことを聞かせてほしい」
そして、スティーブンは小声で雄馬に話しかけてきた。
「君は、僕の物語をどういうジャンルだと捉えているのか?」
ずっと、思ってきた。この脚本を読んだ時から、雄馬にはこの物語の解釈が浮かんでこなかった。メッセージ性がない大衆向けの映画。或いは、あったとしても風土を理解していない外国人には認知できない些細な拘りの様な、不確かな感覚。
彼の一言に、雄馬の海馬がピリリと反応する。ずっと、大志と話し合ってきた居酒屋での記憶が鮮明に蘇る。
「大志。物語っていうのはいろんなジャンルがあるよな」
おでんを突きながら、先輩面をして話した言葉。
「ホラー、コメディ、サスペンス、……」
「俺らにとっては演じ分けるのが難しいですよね」
大志はいつものように熱燗を煽る。雄馬は大志がどんなオーディションを受けるのかを聞かなかった。
だから、大きな枠で囲ったことしか言えなかった。
「物語の根本はさ。俺、愛だと思うんだよ」
それは純愛であったり、友愛であったり、時には歪んだ愛だったりする。だけど、人が動くときには必ず愛が存在する。だから、雄馬は大志にこう言った。
「この物語は、どんな結末になろうが、ラブストーリーだと思う」
今、目の前に大志は居ない。だが、三人の映画製作者がいる。人によって態度を変えたり、国によって話を変えてしまえば、きっと大志はがっかりするだろう。そんな風に思われるのは御免だった。だから、雄馬は胸を張ってそう言った。もし自分の解釈が間違っているのならば、それでもいい。違うのなら違うとはっきり示してくれれば、それを演じる自信はあった。
「なるほど」
ふいにACIの駐車場で彼女が揉めていた光景を思い出した。たしか、彼女の名前はシンシアだ。シンシアがメモを取る。
「ちなみに、貴方以外にラブストーリーだといった人はいないわ。スティーブンの意見を聞きましょうか」
「……僕は有りだと思う。映画はチームワークだ。彼が物語に新しい解釈を与えるかもしれない。それに、マフィア映画にヤクザを登場させるのも新しい」
「アジア人をメインにするのも新しいしね!どんな光の当て方がハマるのか、試行錯誤が必要だけど」
ルベンとスティーブンは互いを見て頷く。
「難しいのは問題じゃない。ふたりが新しいと考えるならやる価値はあるわ」
シンシアはそう言ってオーディションを続ける。雄馬は渾身の感情をこめて受け取った役の台詞を演じてみせた。この場に訪れるまでに何度も暗証した台詞に自分の気持ちを込める。一ページ半の会話から、世界を広げていく。雄馬には脚本の舞台が可視化出来ていた。
しかし、期待した反応がない。まるで、先ほどまでの好感触が覆っていくように、部屋は静まり返る。不安が押し寄せる。英語のイントネーションが違ったのだろうか?役柄の性格を読み間違えた?演技が終わった雄馬は立ち尽くす。シンシアは瞳にアクアマリンが埋め込まれた彫像のように無表情で、だが相手を圧倒する様に、眼光を向ける。
「本当に日本でも役者をやっていたの?」
不意の質問に言葉が出ない。自分はいつも通り(As usual)オーディションに立ち向かったはずだ。日本でも大志より自分の方がオーディションに受かってきた。
「質問を変えます。貴方の演技は、通用したのよね?」
この女は何様なのだ。雄馬は驚愕した。英語はシンプルで直接的ゆえにとても力強く対話する相手に伝わっていく。だから、英語が母国語の人間は自分の言葉を巧みに使い、間接的な表現を好む。だが、シンシアの言葉は緩衝材を一切使わない、無遠慮の圧がある。
「日本での撮影の経験もあるし、舞台もしたことがある」
彼女とは一緒に仕事をしたくない、と思った。空気がピリピリと重い。七味唐辛子が直接肺に入っていく様だ。
「貴方の演技は、というより、感情の表現は、アメリカ人とは異なっている」
ルベンが遠慮がちに口を挿む。
「違う文化圏の人間なんだ。見方を変えればそれだけ新しいってことじゃないか」
新しい。このオーディションで何度も聞いた評価だ。それは好評なのだろうか。理解が出来ないものに取って付けたような価値観を添えられているようでいい気分はしない。
「アメリカ人のように演じるから、もう一度やらせてくれ」
向きになった雄馬の申し出をスティーブンが断わる。
「いや、そうじゃない。君の役がヤクザになるなら、むしろアメリカ人と違う方がいい」
「むしろ、日本人が見た時に不自然な演技かどうかをシンシアは気にしてるんだよ」
ふたりの言葉に雄馬は納得した。だから通用する演技か気にしていたのだ。自信はある。日本で何年も役者をやってきた。チャンスは少なかったが、同業者からの評価はある。
「どうする、シンシア。僕も君もスティーブンも、彼を採用するなら新しいことに挑戦しなくちゃいけなくなるよ」
「挑戦。手堅くいくなら彼は採用するべきじゃない」
黙っていたシンシアはふたりを見る。彼女の役職は何なのだろう。撮影監督と脚本家が意見を求める相手。嫌な予感がする。
「映画は【新しい】を観客に提示する為にあるのよ。私は映画監督として、新しいものに挑戦する」
ACIの駐車場で関係者と揉めていたこの女が、この映画の最高責任者だ。蜘蛛の糸が茨に変わる。だが、雄馬はそれを何としてでも伝っていかなくてはいけない。この地獄から抜け出したいのであれば。