それは挑戦であり、遭遇である
渡米から一ヶ月が経った。サンタモニカの海岸を南下した位置にあるベニスビーチの風は想像よりもずっと涼しい。浅い浜辺には朝方から健康のために体操をしている老人や、サイクリングを楽しむカップルが沢山いる。春のカリフォルニアを覆う強烈な陽射しは苦痛にはならなかった。ビーチに点在している店はどれも辛い胡椒を潰したような、目に染みる香りを放っている。
「すいません!ほんとにすいません!!」
希望を背に抱えてアメリカ大陸の大地を踏みしめた筈の雄馬は、今、警官に思いきり頭を下げている。
「いいじゃんか、別に。誰も使ってなかったよ?」
後ろからごねているのは、同じ語学学校に通うミンヒ・リーだ。雄馬はミンヒの頭を強引に下げて、再び謝る。執拗に頭を下げるアジア人の二人組の不自然な振る舞いに怖気づきつつある警官の顔を盗み見て、雄馬は少し安心した。このまま押し切れば、お咎め無しで済むかもしれない。
「と、とにかく、このスペースは許可を申請しないと使えないので、機材を片付けて」
引き攣った笑顔で警官は撤収の指示を出した。「片付けます!すぐに帰ります!」と言うと、警官は後退り気味にパトロールに戻っていった。小走りだ。おそらく彼にはお辞儀の概念がないのだろう。雄馬とミンヒが何をしているのかわからず、あまり関わらないでおこうと思ったのかもしれない。後ろでブツンッ、と携帯用アンプにギターのコードを指した音が鳴った。
「よし。邪魔者は消えたから再会しよっか」
ミンヒは屈んで『フォローミー』と段ボールに書いた、SNSアカウントに誘導する為の自作看板を首に掛け直した。身長の低いミンヒの頭を左右から鷲掴みにする。
「お前、今の話ちゃんと聞いてたか!?」
「痛い、ちょっ、やめて、兄貴!!」
頭を揺らすたびに、ミンヒの派手なツートンカラーのボブヘアが揺れる。
「だから、アレでしょ!?なんでも許可が必要ってことでしょ!?」
「お前、本当は知ってて黙ってたな!?」
「知らない!アメリカは自由の国って聞いてますぅ!見てよ、この広いビーチ、行き交う人の行列!皆自由じゃん!あたし達はアレだよ、旅行者だと思ってナメめられてるんだよぉ!」
一週間前、ミンヒがネットの掲示板でいい情報を見つけたと雄馬に話してきた。母国に帰る留学生が車を格安で譲ってくれるというのだ。パスポートの代わりにカルフォルニアの運転免許証を取得したばかりだった雄馬は急いでその中古車を購入した。そして、情報を提供してくれたミンヒは、情報料としてこのベニスビーチで彼女の路上ライブを手伝う様に要求してきたのだ。
「帰ろう。アメリカに来たばっかりなのに警察沙汰になるのは御免だ」
「ヤダよ!まだ一曲も歌ってない!せめて一曲!!」
「お前なぁ……」
「じゃぁ、兄貴はこのままでいいの?許可が取れませんでした!アメリカに行って、何も出来なかったけど、いろんな思い出が出来ました。いいビーチだったなぁ、めでたしめでたし、つって日本に帰るの!?」
一見駄々に聞こえるミンヒの嘆きは、実のところ、雄馬がこの一ヵ月で抱えていた悩みでもあった。元々英語の読解力があった雄馬はすぐに外国人を起用する役者募集へと行き着いた。すぐに、採用審査はどれも俳優の労働組合を仲介していることに気が付く。しかし留学生は、それが比較的に自由に使える時間がある語学留学だとしても、労働をしてはいけないのだ。だから、組合の加入に、雄馬は条件を満たしていない。
ミンヒの言葉は心に刺さる。本当に何も出来ないまま月日が過ぎていく未来が、うっすらと視えている。
それは、嫌だった。
「……やってみるか」
頭を掻きながら周りを見渡す。「やった!流石、兄貴!!天才!!!」とはしゃぐミンヒ以外にこちらを見ている人影はない。さっきの警官もどうやら遠くに行ったようだ。
「ちゃんとあたしを撮ってよね!この弩級ビックスターの卵、ミンヒちゃんをさぁ!!」
無邪気に笑う彼女の膝から上が画角に収まる様にカメラを設定する。動画投稿サイトに今日の野外演奏を編集したものを載せるつもりらしい。陽射しが強いせいか、身体の凹凸に出来る影は色が濃く、雪国生まれのミンヒの白い肌にくっきりと存在感を残す。
「あたしらはさ、面白いことをやりにこの国に来た。思ったことをやろうよ。誰の許可もいらない。だって、この国はあたしの祖国じゃないんだから、周りの目なんて関係ないじゃん」
無責任なことを言う奴だ。カメラの設定を弄りながら、雄馬は考えている。背景はどうするのだろう?多種多様な芸術が交わるビーチで演奏をしているという情報を画面に入れるか、それとも歌を歌うミンヒにだけピントを合わせて背景は暈かすか。この動画の主役はなんなのだろうか、と思う。ベニスビーチなのか、ミンヒなのか、それともこれから彼女が奏でる曲なのか。少し悩んでレンズを絞る。
演奏は爆音と共に始まった。あまりの音量に雄馬は一瞬、身を引き締める。コソコソやる気は毛頭ない、とでもいう様にミンヒはギターを乱暴に弾き鳴らす。彼女の小さい身体からは決して想像が出来ない激情がスピーカーから大質量で放たれる。彼女の後ろから吹く突風に、カメラが吹き飛んでしまうイメージが浮かんで、雄馬は急いで三脚を押さえた。音楽に疎い雄馬にはミンヒの技量は分からない。恐らく彼女の演奏は完璧ではないということは理解できた。リズムが少しズレる箇所があり、難しいパートの前には溜めが入る。しかし、そのズレが逆に演奏を生物的に躍動させている。自然に体がリズムを刻みたくなるようなグルーヴがミンヒのギターには宿っていた。音楽が生きている。
演奏が終わる頃、ギターケースには十五ドルほどの投げ銭が貯まっていた。「SNSもフォローお願いします!」とミンヒはすれ違う人達に声を掛け続けた。ギラついた日光がスポットライト宜しく彼女を照らす。生きている。雄馬は彼女を見て、そう思った。この一ヵ月、有料のキャスティングサイトに登録しただけで、なにも進展していない自分と比べて、ルールを無視してでもやりたいことをしているミンヒは輝いていた。家族連れの観光客が拍手をしながらこちらを見ている。少年が母親の手を離してこちらに掛けてきた。
「おねぇちゃん、かっこいいね!」
ミンヒは笑顔でありがとう、といって少年の頭を撫でる。雄馬は少年を好ましく思った。アメリカに来て思ったことは、道行く人が日本より社交的だということだ。良いと思ったことは物怖じせずに評価するし、仲良くなろうと歩み寄ってくれる。ミンヒの演奏が正しく評価されるのは嬉しい。
「おにぃちゃんはなにをするの?」
少年は純粋無垢な表情で雄馬を見た。ギクリ、とする。そうか、ミンヒと一緒にいるから、自分も演者だと思われたのだ。
「お兄さんは役者なんだよ」
雄馬の答えに少年は目を輝かせた。「どの国の役者なの?テレビに出たことはあるの?」少年の質問は無限に湧き出る。笑いながら雄馬は少年に受け答えしていく。しまいには、演技を見せて!とせがんできた。可愛い観客ただひとりに見せる演技。雄馬はこの子を楽しませたいと思った。それが自分のこの国に来た理由だし、ずっと現場に入れなかった鬱憤も溜まっている。良い機会だ。どれにしようかと考えを巡らせる。子どもに喜んでもらえるインパクトの強い迫力のある演技。あれかな、と微笑して雄馬は四股を踏んだ。
「ポンポンポンポンポンッ!ィヨー!」
片手を突き出して、首を回し、目を寄らせれば、歌舞伎の見得の完成だ。
「知らざぁ言って聞かせやしょう!日出ずる国の大看板、朝比奈雄馬たぁ俺の事だ‼」
ジャギーンッ、とミンヒの演出が大音量で鳴り響く。少年は「うわぁ!」と言って、親から渡されたであろう五十セントのコインをケースに投げ込む。やりたいことをやるのは、言いたいことを言うのは、やはり気持ちがいい。雄馬はその想いを再確認する。少年の為に切った見得は、自分に向けた大見栄だ。今は分不相応だと思っていても手を伸ばさずにはいられない。
先ほどの警官が遠くから走ってくるのが見えて、雄馬とミンヒは大急ぎで機材を片付けた。ギターケースを担いだミンヒの横に並走していく。ミンヒは後ろを振り返りながら「うわぁぁぁぁあ!」と叫んでいる。警察に追いかけられている状況を楽しんでいるとしか思えない。事実、彼女は笑顔だった。
買ったばかりの朱色のトヨタ・カムリに荷物を突っ込むと急いで発進させる。バックミラーに引っ掛けている青色のお守りが運転の反動で揺れる。ミンヒは未だにククク、と喉を鳴らして笑っている。雄馬は急な運動で火照った体を冷ます為に冷房のスイッチを回した。
「十五ドルと五十セント!今日のガソリン代はこのミンヒちゃんが奢ってあげましょう!」
ミンヒは自慢げに手のひらを顎の輪郭に沿ってひらひらさせる。
「そうだな。それじゃ、遠慮なく受け取っておくよ」
ハンドルを片手で操縦しながら、ミンヒに手を差し出す。
「上手かったでしょ、あたしのギター」
「上手さに関しては聴いたことない曲だったから正直分からない」
雄馬の手に五ドルが置かれる。不満げに頬を膨らませるミンヒが視界の隅に映る。
「でも、楽しいとは思った。」
少しして、もう三ドル足される。褒めたら追加金が支払われる仕組みらしい。
「世界一かっこいい、があたしの最終目標だよ」
「世界一か。どうやってそれに向かっていくかが問題だな」
ミンヒの話を聞くふりをして、雄馬は自分の目標について考えていた。どうやったらミンヒみたいに「生きている」と感じられる瞬間を作れるか。その為には自分がしたいことに忠実でないといけない。しかし、ひとりでは無理だ。今日、ミンヒが雄馬を誘ってきた様に、行動はひとりでは起こせない。特に、役者である雄馬には共に作品を撮るチームが必要だった。雄馬はまだその土俵にも立てていない。
「大変だよ、やりたいことをやるっていうのは」
「えー?そんなの簡単だよ、兄貴。本当になるまで演じ続ける(Fake it until you make it)」
おにぃちゃんはなにをするの?少年の声が今も心に響いている。僕は何をするのだろう。あの時は即座に応えられた。許可が下りなくても、自分が役者であると胸を張って言えたのだ。それは雄馬にとってとても大きなことだった。
陽も落ちてきて、ミンヒがルームシェアしている家に着く。ふたりはカムリのドアを開けて、外に出て機材を運び入れる。その後、雄馬は運転席に戻り、彼女に手を振る。こちらに手を振り返してきたのを確認して、エンジンをかけた。すると、ミンヒが車に駆け寄って助手席のドアを開ける。五十セントをお守りの中に収めた。
「アメリカに来て初めて兄貴の演技で稼いだ給料。とはいえ、五十セントじゃピザの一切れも買えないけど。記念にとっときなよ!」
皮肉なのか鼓舞なのか分からないミンヒの提案に軽く頷いて、雄馬はミンヒの家を後にした。
世間の退社時間より少し前の高速道路は驚くほど空いている。夕暮れに紅く染まる空は眩しくて、雄馬はサングラスを掛けた。これから仕事の時間だ。雄馬は腕時計を確認して、カムリを加速させる。渡米早々に運よく見付けられたアルバイト先はハリウッドの街中にある日系の寿司バーだった。そこは日本人の老夫婦が切り盛りしていて、日本から来た留学生を、違法ではあるものの、働かせてくれている。母国が同じというだけで親切にしてくれているのだ。老夫婦には感謝しかない。「認可がなくても、なんとかなる」。アメリカに来たばかりの雄馬にはまだ抵抗があるものの、概ねミンヒの言う通りなのだと実感していた。恐らく、雄馬と同じ状況の留学生がカルフォルニアには多く存在するのだと思う。この州は貿易が盛んで、つまりアメリカの中でも特に異文化交流が盛んで、だからこそいろんな国の料理を扱ったレストランが多数存在する。つまり、料理店で働くのならば、どの国から来た学生も職には困らない。正直、英語が話せなくてもお金は稼げた。
寿司屋に着いた雄馬はリュックの中に入っている証明写真を取り出して、裏口から店に入る。この証明写真はあることに使うのだ。大きくはないキッチンにはメキシコ人の作業員がふたり、仕込みに追われていた。
「コモスタス(調子はどう)、ウェイ!?」
モヒカンの作業員にスペイン語で話しかけられた。雄馬は覚えたてのスペイン語で「ウェノ、ウェノ」と笑いかける。完全に意味が分かるわけではないが、どうやら「いいよ」と言う言葉らしい。モヒカンの名前はロドリゲス・ロペスといって、たまに板場に立つほど老夫婦に信頼されている。身長は低いが色黒の筋肉質で、仕事もテキパキと難なくこなす。モヒカンじゃないほうはこちらを見て、そっぽを向いた。彼の名前は知らないが、皆からムチャチョと呼ばれている、雄馬と同時期に入ってきた新人だ。ムチャチョはいつもスペイン語でロドリゲスとゲラゲラと談笑しているが、ホールスタッフとはほとんど話さない。
「雄馬、写真は?」
「ああ、持ってきたよ」
雄馬はロドリゲスに持っていた自分の証明写真を渡す。
「おぉ、なかなかハンサムじゃないか!」
ロドリゲスは写真をひったくって、それを凝視する。ハンサムと言われるのは嬉しい。とはいっても、この写真は誰かに見せるものでもない。
「名前は考えてきたか?」
「名前か……」
もちろん芸名の話ではない。オーディションに提出するためには、証明写真は小さすぎる。
「決まってないなら、こっちで考えてやるよ」
そう言うと、ロドリゲスは持ち場に戻っていった。
「グラシアス(ありがとう)、アミーゴ!」
彼の背中に、雄馬は声を掛けた。その声に呼応して、振り向かないまま手を振られる。
「バモノス(まかせろ)」
モヒカンは雄馬がまだ知らない言葉で返事を返す。異国の地でも努めて母国語を使うメキシコからの来訪者は、雄馬の目には気高く芯がある様に映る。
写真は偽IDを作る為に必要らしい。違法で働くにあたって、給料の支払いには二通りがある。ひとつは給料日に支払い主が政府機関を通さずに現金で違法労働者に渡すやり方で、『こっそり給料制度(Under the table)』と呼ばれている。もうひとつが今回、雄馬がやろうとしている偽の名義が書かれた小切手を換金所で現金に変える方法だ。前者の『こっそり』は楽なのだが、レストランのオーナーとしては後者の方が有難いらしい。なぜなら、自分は何も知らずに違法労働者に騙されていたという言い訳が出来るからだろう、と雄馬は想像する。とにかく、給料を受け取るには、換金所で使う偽のIDが必要だった。
「雄馬ちゃん、来てたの?」
白髪を後ろで纏めた人のよさそうな女性がホールとキッチンを分ける暖簾から顔を出した。名を吉田めい、という。雄馬はめいに挨拶をして、厳格な印象の口髭を蓄えた吉田和明に会釈をする。和明は板場で作業をしていた。
「おはようございます」
飲食業は昼夜問わず挨拶に「お早う」を使う。これは映像業界でも言えることだ。だから、この挨拶は英語の「グッドモーニング」とは違う意味なのだろう。そういう無理やり和訳をした言葉は案外多い。言語には必ず独自の文化に濾過されたバイアスがかかるのだ。逆説的に話し手の意図を理解しているのであれば、馴染みのない言葉を使われても意味は分かる。
「あぁ……」
和明はそっけなく雄馬を一瞥する。
「やぁねぇ!あの人いつもあんな風なんだから!」
めいは和明の弁明をするように雄馬の背中をさする。和明は本当にいつもああなのだ。それがわかっているから、別に悪い気はしない。
「私もなんであんな愛想がない人と結婚しちゃったのかしら。完全に失敗だったわ」
めいの小言にしてはやたらと大音量な愚痴が店内に響く。
「でも、料理だけはすんごく上手いのよねぇ」
カラカラと乾いた笑い声を残して、めいはキッチンに去っていく。もう何十年も連れ添っている筈なのに、未だに不満があるのかと雄馬は不条理を覚えずにはいられない。ホールには愚痴を言われた和明とそれを聞かされた雄馬だけが残る。何かをしていないと沈黙に耐えられそうにない。雄馬はいそいそと机に調味料を配置していった。
「……雄馬ちゃん」
突然和明に話しかけられたせいで背筋が伸びる。振り返ると、作業を黙々と進めていた彼が手を止めている。
「雄馬ちゃん、めいと結婚したい?」
あまりにも突然の問いに答えを躊躇する。
「いや、その、……、まぁ、したくないです」
「だよな……」
納得した様に溜め息を吐いた和明は、まだ開店前だというのに疲れて見えた。板場の準備をしている手が再び動き始める。
「俺の老化の原因、あいつのせいだと思うんだよなぁ……」
その言葉を最後に会話は終わった。直ぐにエプロンを着ためいがホールに戻って、店内に設置されているテレビの電源を入れに来たからだ。液晶画面には今朝の野球試合のハイライト映像が流れている。
開店してしばらくしても客は入ってこなかった。外はもう暗い。カルフォルニアの夜が涼しいのはこの州が元々砂漠地帯だからだ。太陽が出ている間にどんなに気温が上がっても、夜になると季節が変わったかのように肌寒く感じる。一日中外で活動するつもりなら、朝に着ている薄着の他に夜用の上着を用意した方がいいくらいだ。
扉から風が入ってくる。今日初めての客だ。まだこの寿司バーに勤めて日が浅い雄馬でも顔を覚えられるくらい頻繁に来客する常連客だった。いつもスーツ姿なので仕事終わりに一杯ひっかけに来ているのだろう。雄馬は彼が座った机に持っていくために、レジの横に立て掛けられているメニュー表に手を伸ばす。「いいよ、あの人は」と、めいに呼び止められる。彼女は手に「ギネス」という黒ビールを持ち、常連客の下に歩いていく。
「どうぞ、いつもの」
常連は驚いた顔で嬉しそうにそのジョッキを受け取る。そして、めいと常連の他愛ない会話が始まった。他に客が居ないので別にいいのだが、めいはいつもこうやって自分から客に捕まりに行く。それがこの国で上手くやっていく技能らしく、いつか予約の電話を取った時、「めいさんは今日も出勤していますか?」と謎の確認をされるくらいだ。めいは齢六十歳を越えた今でもこの店の名物看板娘の貫録を見せていた。ただ、忙しくなると年齢的に限界があるので、雄馬がサポートを任されている。
「これ、持って行って」
和明が板場から巻き寿司をカウンターに置く。スパイシーツナと、スパイダーロールと呼ばれる寿司だ。どちらも日本ではあまり見たことがない。
「めいさん、まだ注文取ってないですよ?」
「いいの。あのお客さんはこれだから」
「凄い。覚えているんですか」
めいも、和明も、なんの予備動作もないまま、当たり前の様に仕事をこなしていく。
「雄馬ちゃん、接客のコツは相手を自分のペースに持ち込むことだ。注文を覚えているなら、わざわざ相手を待つ必要もない」
「そうなんですか」
来店と同時に調理を開始するのは流石に早すぎだが、おそらくそうしても何の問題もないほどの常連なのだろう。雄馬は自分も早く客の注文を覚えられるようになろう、と思った。メニューを持って行ったときに、それが話のタネになるかもしれない。
「いつもと同じ(As always)、っていうのが楽でいいんだ。歳取ってくると人間、挑戦しなくなるからな」
そういうものなのだろうか、と適当に相槌を打って寿司を机に運ぶ。すると、やはり常連客は嬉しそうに「ありがとう。これの為に来たんだ」と言って喜ぶ。彼は和明に向かって合掌し、頭を下げる。和明は不愛想に頷いて、テレビの野球中継に意識を向けた。合掌は本来、人に対してするものではないのだが、日本とは違う何処かの文化が混同しているのだろうか?スパイシーツナもスパイダーロールも伝統的な日本料理とはいえない。おそらく、外国の映画でよく目にする「なんちゃってJAPAN」の中に自分はいるのだと、自覚する。
「雄馬ちゃん、デイビットさんは映画のプロデューサーなのよ」
レジに戻ると、めいが小声で話しかけてきた。
「え?凄いじゃないですか!?」
「そりゃ、あんた。ここはハリウッドだもの。ポスター貼ってあるでしょ。これ、デイビッドさんの作品なんだから」
日本でもかなり有名な映画のポスターを指差す。確かによく見たら何個かサインが加えられている。雄馬はまじまじとサインを睨む。デイビッド・ロレンゾというのが、あの常連の名前の様だ。
「ここのお客さんは映像関係の職種の人多いわよ」
めいがとんっ、と背中を押す。よろけそうになって歩を進めると、デイビッドの席が少しだけ近くなる。手が届くどころか何処にあるかもわからなかった夢への切掛けが雄馬の下にやってきたのだ。
「話していきなさいよ。それも接客」
めいの言葉に励まされて雄馬はデイビッドに近づいていく。こちらに気付いたデイビッドは、ビールを飲んで笑いかけてきた。
「君がめいさんが言っていた新人さん?」
まさかデイビッドの方から話しかけてくるとは思っていなかった雄馬は面食らって、「そうです、雄馬といいます」と言うのが精いっぱいだった。めいが自分の話を先んじて済ませてくれていたのだ。それも、変にがっつかず、いやらしい感じもさせず、当たり前の様に会話の中に自分のことを入れてくれた。雄馬は振り返る。そこに愛嬌と貫録を兼ねそろえた白髪の看板娘がウインクしている。
「君は映画製作がしたいけど、現在はなにも出来ていないんだよね?」
雄馬は短く肯定して、頷く。デイビッドの言葉には人に有無を言わせぬ圧がある。そう思うのは自分が緊張しているからだろうか。
「労働組合に入るには、一定期間は制作現場にいたという証拠が必要だからね。だから君は最初の一歩を踏み出すための足場を探している」
「はい、そうなんです。今も応募選考を探してはいるんですが、あまり上手くはいっていません」
「当たり前だが、私には君の手助けは出来ない。いくら馴染みの店の店員だとしても、理由もなく仕事を推薦するのは公平ではないからね。そういうズルをするには、私は影響力が有り過ぎる」
分かってはいたが、現実は厳しい。ついさっきまで満たされていた筈のデイビッドのジョッキがいつの間にか空になる。
「しかし、君には時間がないのも事実だ。入国した時から君には猶予が決められている。私としても、今ここで君の貴重な時間を奪うようなことはしたくない。だから、助言をしよう。これ、おかわり貰えるかな?」
そこで会話は中断になり、ジョッキを持って店の裏側に入る。ガラス張りの冷凍庫から新しいジョッキを出す。表面が氷で覆われる、冷たい感触。
「どう?」
後ろにめいが立っていた。「わかりません」と雄馬が言うと、めいは「ふーん」とキッチンに戻っていく。雄馬にはデイビッドとの出会いが今の状況を好転させるのか分からなかった。全ては次の助言次第だ。満たされた黒いギネスが零れない様に、彼の下に再び戻る。
「君はACIという学校を知っているか?」
ビールを一口流し込んだデイビッドは、雄馬に問いかける。
「アメリカン・シネマ・インスティチュート。ロサンゼルスにある由緒ある名門の映画学校ですよね」
雄馬の答えに、デイビッドは頷く。知っている。年間の学費が六百万円以上する、金持ちの為の育成学校だ。自分には縁がないところだ。実際そこは映画製作を学ぶ場であって、役者である雄馬にはあまり関係がない。
「あそこは高校を卒業したばかりの若者が通う様な学び舎ではない。現場である程度の経験を積んで、人生設計が出来ている大人達が、更なる技巧と評判を得る為に行くところだ。ACIは授業の一環で本当に短編映画を作る。撮影の準備(Pre-production)、撮影(Production)、撮影後の作業(Post-production)まで」
「凄いですね」
「確かに凄い。だが、ここに君の入り込む余地があるんだ。ACIの撮影はとても大所帯なのだが、それには雑用をこなせる人手(Production Assistant)が絶対に必要だ」
PAには雄馬にも心当たりがあった。撮影にいろんな人が参加するのは日本でも同じだ。二十分の短編でも最低十人は必要だろう。
「私の助言はひとつ。ACIでの撮影にボランティアで参加しなさい」
秘密を打ち明けるかのように笑うデイビッドの瞳は怪しく輝いていた。
「君が俳優なのは分かっている。だが、まずはコネクションを作るんだ。もちろん、他のオーディションにも参加するべきではあるが、ACIの生徒はほぼ全員が元業界人だ。中には君を助けてくれる人が見つかるだろう」
デイビッドに連絡先を尋ねられた雄馬は、自分の電話番号を伝えた。「近々ACIから連絡が来るだろう。応援しているよ」そう言ってデイビッドは肩を叩いた。その後、団体の客が店に入り、デイビッドとゆっくり話す機会を失ってしまった。だが、希望は胸に残る。とりあえず試しにACIに行ってみようと思う。どうせ、語学学校と寿司バーを行き来する毎日だ。現状を変える為に何かに挑戦するのは悪いことじゃない、と自分に言い聞かせる。ボランティアとは言うが、アメリカの最先端の授業を無料で体験できるのだ。
それから数日、ACIから雄馬に連絡が来た。それはデイビッドが言っていた通り「PAをボランティアでお願いしたい」という文面で始まっている。彼の話を話半分の社交辞令だと思っていた雄馬は驚き、息を漏らす。夢への扉は開かれている。その奥に手を伸ばす様に、何度も文面を読み直し、失礼のないように返事を送った。
撮影の前日、顔合わせのためにACIに良ければ来れるか、と聞かれた雄馬はふたつ返事で承諾した。実際は演者でも制作陣でもない自分が顔合わせをする意味はない。だが、少しでも顔を売る為には必要なプロセスだ、と雄馬は考えた。ボランティアの意味はそこにある。業界に入り込むためには、人を知る必要があるのだ。
雄馬の紅いカムリがACIの入口を進む。急な坂になっている道中、カムリは排気ガスを多量に吐き出して進む。側道は若々しい芝生が綺麗に切り揃えられていて、まるで宮殿に続く庭園の様だ。門を潜ると目前の左側に大型のトラックが停まっている。そのせいで少々狭く感じる車道を通り抜けて、坂をさらに上って敷地内に駐車した。暑い。昂揚で体が火照っているのか、それとも高地に聳え立つ校舎は普段自分が生活している所よりも太陽に近いのだろうか。
「PAに来てくれた人か?」
駐車場に駆け寄ってきた帽子の男が声を掛けてきた。
「今ちょうど、機材を運んでいる所なんだ。早速だけど手伝ってくれ」
皮手袋を渡された雄馬は男についていく。今日は顔合わせだけだと訊いていたが、雑用をさせるつもりだったのだ。少し騙された気もしたが、今は文句を言わずに付いていこうと思い直す。出来れば円満な関係になりたい。
駐車場を抜けると階段の前で男女が揉めているのが見えた。小太りな中年男性と長髪の女性だ。女性は腰まで届きそうな金髪を振って拒絶の意を示していた。刺す様に冷たい碧眼に一瞬睨まれたような気がして、雄馬は目を伏せる。洗練された彫刻の様な、熱を感じさせない容姿。黒いシャツとスキニージーンズを着ている。視線が外れたことを視界の隅で感じる。
「どうして、私をメンバーから外したの」
「シンシア、今回は業界人を呼んでいる撮影なんだ。円滑に済ませる必要がある」
「私が邪魔っていうわけ?」
女性は階段の手すりを強く叩いた。甲高い、金属音が鳴る。威圧的で傲慢な彼女の素振りは、目の前の話し相手との友好関係さえ阻害している。中年男性の懸念に同意するしかない。
「私は、あの名匠ウルフギャング・オズの孫娘よ」
「そうだが、問題を起こす生徒を在籍させるわけにはいかない。君に言えるのはそれだけだ」
「私は……‼」
興味深い会話の途中ではあったが雄馬は聞き耳を立てるのを止め、先を急いだ。揉め事に関わるのは御免だった。相手が誰であろうと、今の自分には関係ない。帽子の男に連れられて、玄関前のトラックに到着する。男は手を叩き、トラックの後ろドアを開く。
そこには照明器具類やそれを固定するための各種スタンド、そしてケーブル類が並んでいる。アメリカではアップルボックスと呼ばれる、日本の撮影現場でも見かけた箱馬という木箱もトラックの側面に括り付けてあった。この量を全部降ろすと思うとぞっとする。雄馬は周囲を見る。自分と帽子の男以外、誰もいない。他のPAは「顔合わせ」と言う名の罠に引っかからなかったのだ。これがACIの洗礼か、と自分を納得させる他なかった。