(4)
「着いた……」
自宅マンションの最寄り駅から二駅。駅から徒歩十分の場所にその建物はあった。オフィス街に造られた緑地公園の林の中、プラタナスの道を辿った先にひっそりと佇む煉瓦造りの三階建ての建物。民国期に建てられたようで、欧米風のレトロモダンな雰囲気がある。
広い前庭を含む敷地は高い鉄柵で囲まれており、門は閉じられていた。晩霞が近づくと、門に付けられた監視カメラが動き、小さな電子音が鳴って開錠される。
恐る恐る敷地に入り、アプローチを辿って入口の扉の前に立った。扉の横には『四海奇貨館』と書かれた小さな銅板が掛けられている。
ここが、晩霞の職場である。
四海奇貨館は、あの『四海グループ』の私設博物館だ。
四海グループは名の知れた巨大企業であり、鉄鋼業、建設業、不動産事業、ホテル経営等々、幅広く事業展開をしている。最近ではIT関連にも手を伸ばし、『四海八荒』(全世界の意味、略して四八)などの検索エンジンが有名になっていた。
とはいえ、実のところ、晩霞が希望した職種とは全く関連のない会社であった。
晩霞が大学で専攻していたのは歴史学だ。
前世のことを考えないようにとしていても、かつての自分がいた時代は気になった。ドラマや映画で古代中国の古装劇をついつい見たり、人気の歴史SF小説を読んだりと、気づけば勉強するようになっていた。
一時期は、歴史を避けて経済学や工学の方を勉強しては見たが、興味が無いとこれほど頭に入ってこないとは。
だいたい、前世の時代を調べたところで、今の晩霞に何か起こるわけではない。ただの過去だと開き直ってしまえば楽になり、大学では歴史学科に入った。
そこで分かったのが、前世の自分がいたのは、おそらく王朝が唐から宋に移り変わる間の、五代十国時代だろうということだ。当時の生活や習俗、服装、建物や調度品の造りを見る限り間違いないだろう。
だが、その時代の資料をいくら調べても、『呪妃』のことは書かれていなかった。
それどころか、呪妃が仕えていた王の名も、支配していた国の名も見当たらない。
幾つもの王朝や地方政権が乱立し、国が作られては誰かが王位について、そして滅ぶ。何もかもが乱れていた時代で、当時生きていた呪妃すらも把握はできていなかった。けれども、そこだけすっぽりと、まるで誰かが切り抜いてしまったように存在しないのが不思議に思えた。
気になって、晩霞はあの時クーデターを起こした者達についても大学で調べてはみたが、こちらも探すことはできなかった。
もしかして、前世の記憶はただの妄想なのか。それとも、SFのように別の世界線に転生したのか。
……まあ、歴史は後世の者が作っていくものだ。当時呼ばれていた名が変わることもある。
思えば、呪妃は悪名こそ高かったが、十年程度しか王宮に居なかった。
妲己のように寵愛されて王に悪行をさせたわけでも、楊貴妃のような美貌で国を傾けたわけでもない。
高貴な血も引いていない、後ろ盾もいない、ただの小娘。王の命を受けて、呪術を使うだけ……と、また物思いに耽りそうになって、晩霞は首を振った。
前世のことばかり考えてしまうのは、間違いなく今朝の夢のせいだ。
初出勤日なのに、縁起が悪いことこの上ない。
晩霞は軽く頬を摘まんで、嫌な気分と緊張をほぐす。
大学でせっかく学芸員の資格を取ったのだ。博物館や美術館など、歴史に関係のある仕事に就ければと願っていた。
せっかく決まった就職先で、昔のことに引きずられている場合ではない。ここでしっかり働いて自立し、望み通りの平穏な生活を手に入れるのだから。
買ったばかりの光沢のある白いブラウスに汚れが無いか確認し、黒のスリムパンツについていた埃をささっと払う。セミロングの黒髪は後ろで一つにまとめ、駅のトイレでメイクがおかしくないかも確認してきた。
よし、と一人頷いた後、インターホンを押す。
「おはようございます。朱晩霞です。本日から貴所に配属に……」
言いかけたところでロックの解除の音が聞こえ、中から老年の男性が出てきた。胸元に下がったスタッフカードには『四海奇貨館 館長 周徳』と書いてある。
白髪交じりの灰色の髪に、眼鏡を掛けた優しげな雰囲気はどこか懐かしく、晩霞のいた研究室の先生とよく似ていた。
「お久しぶりですね、朱晩霞さん」
「周さん、ご無沙汰しております」
周さんこと、周徳とは以前会ったことがある。なぜなら彼こそ面接官で、わざわざ大学まで来て晩霞の面接をしてくれた人だったのだ。
周館長に穏やかな笑顔で手招かれて、中に入る。
「王教授はお元気ですか?」
「はい、先日、研究室に挨拶に行きました。手土産の月餅を五個も食べていました」
「あはは、相変わらず甘党だ。先輩らしいですね」
周館長は朗らかに笑う。彼と、晩霞のいた研究室の教授である王思文は、中学時代からの先輩後輩の間柄だそうだ。