(8)
ランチ時は人懐こく接してきたものの、仕事が始まれば適度な距離間で先輩らしくきちんと指導する。四海奇貨館を任されているだけあって、知識も豊富で説明も分かりやすく、充実した時間を過ごせたことは間違いない。
楚天華は実にスマートな青年だ。これがいわゆる、恋愛漫画で人気のスパダリなのだろうと、晩霞は感心した。
もっとも、あれは漫画で見るから良いのであって、実際に側にいれば、ただただ緊張するだけだ。
さすがに『スパダリ×凡人主人公』と自分に置き換えて浮かれるほど楽天的ではない。相手が前世で自分を裏切った相手にそっくりとなればなおさらで、前世の因縁がまだ続いているのではと嫌な方向に考えてしまう。
変な緊張の続く午後を過ごして疲労が溜まった晩霞は、ふかふかクッションから離れるのを名残惜しみながら身を起こした。ここで迂闊にひと眠りしたら、朝まで寝てしまいそうだ。
手早く化粧を落として、軽くシャワーを浴びて、ちょっと高めのフェイスパックをして、少しでも気分をさっぱりさせる。ご飯を作る気がしなかったので、ストックしていた亀ゼリーに練乳をかけて食べた。好きなわけではないが、「健康にいいから!」と引っ越し時に母が箱入りで置いていったから、少しずつ消費しなくては。
ベッドに移動してからも、タブレットで配信ドラマを見る気も起きず、ただ横になる。すぐに眠気がやってきて、頭の芯と身体がずしりと重く感じた。
マットレスに深く沈む感覚に、まずいな、と思う。
――こんな時は、決まって夢見が悪くなる。
そう分かっていても、眠気に抗うことができない。晩霞の意識は引きずり込まれるように、深く深く沈んでいった。
***
「――呪妃さま、おはようございます。お目覚めでしょうか? 水をお持ちしました」
朝が来ても薄暗い室内に、可憐な声が響いた。
微かに開いた扉の隙間から、わずかな陽光が室内へ差し込んでいる。黒い紗のかかった寝台で微睡んでいた呪妃は声を無視していたが、再度心配そうな声が掛かる。
「呪妃さま? 呪妃さま……大丈夫でしょうか? もしや、どこかお加減が悪いのでは……」
繰り返される問い掛けに眉を顰め、嘆息しながら「失せろ」と返す。しかし、声の主は「起きていらしたのですね」と扉を大きく押し開けて入ってきた。
水差しと盥を抱えて部屋に入ってきたのは、一人の童女だ。歳はまだ十歳頃で、侍女の中でも下位の者が着る、裾が擦り切れた粗末な襦裙を身に付けている。
服はみすぼらしいが、その中身は極上の玉に等しい。雪のような白い肌、涼やかで大きな目、薄紅の唇に白い歯、緩やかな癖のある豊かな長い髪。あと五年もすれば後宮の美姫をも凌ぐ美女に育つであろう、整った容貌を童女は持っていた。
しずしずと寝台へと歩み寄ってくる童女を、呪妃は横たわったまま半目で眺めた後、鼻で笑う。
「よくもそのような恰好ができるものだな。……男子のくせに」
呪妃の嘲りの言葉に、童女――もとい、女物の服を纏った少年は、蜜色の瞳をそっと伏せた。
呪妃の住む黒天宮は、後宮の外れにある。
絢爛豪華な後宮にありながら、黒天宮には華やかさが少しもない。黒塗りの屋根や壁で囲われた室内には、金銀細工や宝玉を使った装飾品はほとんどない。細工は一流ながらも調度品は必要最低限しか置かれていなかった。
普通であれば季節の花が色とりどりに咲き乱れるはずの麗しい庭園は、呪術に使う毒草や得体のしれない歪な草木が植えられているだけで、あとは雑草が伸び放題の荒れ放題だ。
また、周囲を鬱蒼とした林が覆っているせいもあってか、昼間でも宮全体が薄暗く陰鬱な気配が漂っている。人の気配もほとんどないため、まるで廃墟のようにも見えた。
人が少ないのは、皆がここを恐れて近づかないせいである。恐ろしい呪術を使う呪妃の下で、侍女や下男は次々に辞めていった。残っているのは、他の妃の宮から追い出されたり罰せられたりした者ばかりで、最低限の人数しかいない。もっとも、彼らも呪妃の側に近づくことはなく、屋敷の端の部屋で息を潜め、呪妃がいない間を見計らって日々の仕事を済ませていた。
そこに一人の下僕が加わったのは、十日前のことだった。




