(4)
呪妃が淡々と言うと、高官はざっと血の気を引かせる。
狼狽えた高官が部下達を見やるが、彼らは火の粉が飛ぶのを恐れ、呪妃が所望する哀れな子供から距離を取った。
部下達は逃げ腰なものの、高官は「いや、しかし、凌宇殿下が何と仰るか……」と諦めが悪い。その様子に、呪妃は袖を一振りする。
直後、呪妃の両隣に大柄の武人が現れた。古めかしい甲冑に身を包んだ彼らの顔には、赤黒い文様の書かれた白い布が垂らされている。無言で佇む武人は呪術で作った式神で、『紙人』と呼ばれるものだった。
呪妃の呪術と恐ろし気な紙人を目の当たりにして、とうとう高官はふくよかな頬を引き攣らせ、愛想笑いを浮かべて答える。
「ど……どうぞ、この子供をお納めください、呪妃様。我らが陛下のためでございますので……」
そうして、小太りの高官は男達を引き連れてそそくさとその場を去っていった。
残された子供は呆然とした様子で、逃げる男達の後ろ姿を見ている。だが、はっと我に返り、座り込んだままじりじりと後ずさった。
傷付いて両手を封じられながらもなお逃走の意思を見せる子供に、呪妃は冷たく告げる。
「逃げても構わんが、どうせあやつらに捕まるぞ。嬲りものにされたいのなら行け」
「……」
呪妃の言葉に子供は顔を強張らせ、後ずさるのを止めた。大人しくなった子供をよそに、呪妃は袖を振って紙人を元の紙へと戻し、懐に入れる。
子供は戸惑ったままその様子を見ていたが、やがて小さく口を開いた。
「……私を殺すのですか?」
「なぜ私がそのようなことをせねばならぬ」
「で、ですが、先ほど呪詛に使うと仰って……」
「あれは戯言。人間を使うのは面倒だから滅多にせぬ」
淡々と返す呪妃に子供は大きな目を瞬かせた。うろうろと視線をさ迷わせた後、意を決したように尋ねてくる。
「では……あなたは、私を助けて下さったのですか?」
「……」
思わぬ問いかけに、呪妃は仮面の下で思わず目を瞠る。
蜜色の目は、まっすぐに呪妃を見つめていた。自分に対して恐れを抱かぬ目に、呪妃はわずかに動揺してしまう。誰かと視線を合わすのが久しいせいもあったのだろう。あるいは、穢れの無い無垢な瞳が映す己の姿に怯んだのか。
呪妃はすぐに気を取り直して、動揺を掻き消すように鼻で笑う。
「……能天気な子供だ。お前がどうなろうと知ったことか」
呪妃はただ、凌宇に嫌がらせをしたかっただけだ。
そのために、この子供を使った。それだけだ。
地面に座り込んだ怪我だらけの子供に見向きもせずに、呪妃は自分の宮へ戻るために歩き出す。
「まっ、待って……待って下さい……!」
子供の声を無視して歩き続ける呪妃の耳に、後ろからついて来る小さな足音が届いてきたのは間もないことだった。
そうして、呪妃の住む宮に一人の下僕が居座るようになった――。
***
あの時、気まぐれを起こさなければよかった。
そうしたら、きっと――。
「――ちゃん、晩霞ちゃん? どうしたの?」
「!」
肩を叩かれて、意識が引き戻された。
頭の中を駆け巡った過去の映像は一瞬のものだったが、とても長く感じられた。しかも、こんなにはっきりと思い出したのは久しぶりだ。
我に返って瞬きすれば、テレビのチャンネルが切り替わるように、明るく白いロビーの光景が飛び込んでくる。眩しさに目がくらみ、晩霞はよろけてしまった。
いつの間に引き返していたのか、傍らにいた陶が慌てて晩霞の肩を支える。
「ちょっと、大丈夫? もしかして、オーナーがイケメン過ぎて驚いちゃったとか?」
冗談交じりに言うものの、陶は晩霞の様子を心配そうに窺っていた。大丈夫だと答えようとした晩霞の視界に影が差す。
甘くスパイシーで爽やかな香りが鼻を掠めた。香水か整髪剤かは分からないが、不思議と落ち着く香りだった。白檀に丁子、茉莉花……かつて、晩霞が呪妃だった頃に薬として集めたそれらを混ぜて、自分の好みの香りを作っていたものだ。
奇妙な懐かしさを覚える晩霞の前で、高級スーツを着た青年がすっと屈みこむ。傅くような動作にぎょっとしたが、青年は晩霞の足元にある白いビニール袋――ケバブサンドの入った袋をいつの間にか落としていたらしい――を拾ってくれただけだ。袋を取る手は大きく、長い指の爪の先まで完璧に整っていた。




