第二話 女優と公女の出会い
ベアタ公国の首都。アーモンドにルーヌが戻れたのは、約一ヶ月ぶりの事であった。
女優として忙しない日々を送る彼女が自宅に一月も戻れなかったのには理由がある。ベアタの各地方で行われるツアー公演に主演として参加した為だ。所属する劇団の『顔』として君臨していたルーヌは、この一月を汽車とホテル。公演会場とベテランの仲間達と過ごした。
そんな忙しい公演ツアーを終え、一ヶ月ぶりの我が家を前にしたルーヌは真っ先に眠る事を決意した。たとえ大家のオットー夫人が世間話を振って来ようと、絶対に逃げ出して見せる。
「あらルーヌさん! おかえりなさい! 待っていたのよあなたが帰るのを!」
しかし、ルーヌの希望はアパートのドアを開けた先で待ち構えていたオットー夫人によって打ち砕かれた。シワだらけの白髪頭のマダム。どこか品のある未亡人がグイグイと顔を近づけ。
「今回の公演はどうだったの! もうベアタ中の人々があなたの演技に一目惚れだったに違いないわね! もうあなたの演技ったら最高だもの! ほら、二カ月間前にやった白銀橋の女! あれなんてあなたにしか出せない色気がもう」
アパートのドアを開けた途端に放たれた夫人の猛火に、ルーヌは目を閉じた。
この夫人。家賃を安くしてくれる上に、生活に関して色々と面倒を見てくれる良き大家ではあるが、気に入った人物にはとことん絡んでくる女性なのである。
その為、ルーヌは夫人と話すと大変疲労を感じ、毎回嵐が去るのを待ち続けていた。
「ああそう。あなたが遠くに行っている間、手紙が届いていたのよ。はい、これがその手紙」
そんな夫人の機関銃トークが止んだのは、夫人が思い出したように一通の手紙を差し出してきた時であった。夫人の手にある手紙を見たルーヌは物珍しそうに受け取る。
「これはどうも。手紙なんて久々です」
「そうね、私もびっくりしたわ。でももっとびっくりしたのはあなたにお客さんが来ている事なのよ! もうあなたも隅に置けないわ! あんないい男、いったいどこで――」
オットー夫人の猛火から逃げ出す為、ルーヌはそそくさと部屋に入った。
着ていたコートと帽子を脱ぎ、壁にあるポールハンガーに掛け。一息付こうと台所に向かう。
「相変わらず、君の部屋はレコードでいっぱいだね。ルーヌ」
足を運んだ台所で待っていたのは、白い短髪の男だった。スラリと伸びた高い背筋。凜とした顔によく似合う黒い眼鏡。纏うのは黒のスーツに灰色のコートこそ来訪者の正体。
「あら。そういうあなたは相変わらず、人の物を勝手に使うのね。ヨーセフ」
ルーヌは腕を組み、マグカップを持つ悪友を睨んだ。黒い液体を楽しむ男は肩をすかして。
「はは、そう言わないでくれたまえ、友よ。私と君は長い付き合いだろ?」
「何が長い付き合いよ。そのコーヒー高いのよ。勝手に飲まないでくれる?」
「ふふ、いい豆だね。どこで売っている豆かな? ところで、君は手紙を読んだかい?」
ヨーセフの言葉に、ルーヌは肩を上下させた。懐から受け取ったばかりの手紙を取り出す。
「これのこと? さっき受け取ったばかりなんだけど」
「ふふん、それならば私が来た意味があったものだ」
来訪者はそう言うと、指を鳴らした。直後、ルーヌの部屋にヨーセフと同じ格好をした男達が現れ。彼らを見たヨーセフが鼻を鳴らす。
「では、ついて来てもらおうかルーヌ君。今日はね、君を迎えに来たんだよ」
ベアタ公国公室補佐主任官――。ベアタ公室の補佐官の主任の人間。
その補佐主任官が現れた理由を明かすと、ルーヌは彼らが用意した車に乗り込んだ。
「それで? 私をどこに連れていくわけ? 言っておくけど、私は暇じゃないのよ」
隣に腰掛ける古い友に、ルーヌは腕を組んだ姿を見せた。彼女を連れ出した男は笑みを見せ。
「お時間を取らせて申し訳ないね。実は、君に頼みたい事があるんだ」
頼みたい事? ――と、ルーヌは眉をひそめた。彼女は知っている。
この男がこう言う言い方をする時、何かがあると。
「そう。この国で君にしか出来ない事さ。この国で一番の女優と言われる君にね」
だが予想通り、この男は答えを告げる事はない。だからルーヌはため息を付いた。
「相変わらずね、その言い方。本当に――」
悪態を吐こうと顔を上げた時、ルーヌの瞳にある『建物』が映った。その『建物』を見たルーヌはまさかと思い、車の進行方向と停車位置を把握して驚きの顔を上げた。だから尋ねる。
「――待って。ヨーセフ、まさかここは」
「そう。オーガスタ宮殿。このベアタ公国で一番偉いお方が住まう宮殿さ」
友がそう返答すると、運転手がドアを開けた。ヨーセフに出るよう言われ、ルーヌは驚き眼のままオーガスタ宮殿内へと足を踏み入れる。ベアタ公国で一番偉いお方が住まう宮殿。
派手な装飾品で彩られた宮殿内を突き進み続けると、前を進むヨーセフがある扉の前で足を止め。ドアの前にいる衛兵に指示を投げる。銃を持った衛兵は扉をノック、一言告げると扉を開けてくれる。ヨーセフに続いてその先の部屋へ入ると、そこには広い部屋が待っていた。
それはまるで、高級世界の一室と言える場所であった。高い天井を飾るのは無数のシャンデリア。壁を彩るのは染められたベアタ公国の紋章が刻まれた銀色達。高級という色に染められた質の高い生地で作られた絨毯。長年経験を重ね続けた職人達が作り出した公室用家具。
その部屋の中央にて、椅子に腰掛ける女性がいた。金色の長い髪をした、凜とした女性。
その女性は瞳を閉じ、どこか落ち着いた物腰を感じさせる雰囲気があった。だけど、ルーヌはわかってしまう。彼女が瞳を閉じている理由を。目の前にいる女性が誰なのかを。
間違いない、そこにいるのは――この国で最上級の位に就く少女。名を、ミカエラ。
「――ミカエラ様、失礼致します。ヨーセフでございます」
公室補佐主任官がその場に膝を落とすと、続くように他の補佐官達も頭を垂れた。
「あら、ヨーセフ。こんばんは、今日は知らない足音の方がいらっしゃるようで」
公女の発言に、ルーヌは驚きの顔を浮かべた。公女は目を開けていない。彼女が周囲にいる人物について判断を下したのは『音』だ。彼女は『音』だけで世界を把握している。
「はい、ミカエラ様。お約束していた女性をお連れ致しました」
「あら、そうでしたか。それはご苦労様でした。――そこにいらっしゃるのですね?」
公女が確認を取るようにそう言うと、手を前に出した。即座にメイドが公女の前に立ち、公女の手を優しく握る。その手に支えられながら立ち上がった公女と、ルーヌは目が合った。
決して瞼が開かれない、綺麗な顔。穏やかで、優しさに満ちた顔をする公女が言う。
「お初にお目にかかります。私はミカエラ。ミカエラ・オーセ・ベアタ・トルンクヴェスト」
彼女は確かにそう名乗り、自身がこの国の次期女公である事を明かすと。こう微笑んだ。
「あなたにお願いしたい事があります。どうか、お話をお聞き頂けますか?」