8 天球と天給
最初に感覚を取り戻したのは、聴覚だった。風の音が柔らかく聞こえ、それに乗って虫の声が届いてくる。そして、肌、そして全身の感覚が少しずつはっきりしていく。風が吹く度に手や顔を草が優しく撫でていくことから、柔らかい地面に寝転がっていることが分かった。空気や土はひんやりと心地よく、周りに危険な気配や物音も感じられない。このまま寝てしまうことも出来そうだ。
などということを考えながら、ゆっくりと目を開ける。開けた目に最初に飛び込んできたのは、暗闇だった。いや、暗闇だと思ったのは、まだ目や脳が正常に働いていないせいだ。寝起きの時の感覚に近い。それでも、今自分がいる所が屋内ではなく、屋外の開けた場所だということは分かった。
お城の大広間で何人もの召喚士に囲まれているとかじゃなくて少しホッとする。そういう場合って、たいてい勇者とか聖女とか呼ばれて使命とかを課されるパターンが多いからだ。困っている人を助けるのはやぶさかではないが、異世界に来ても職業選択の自由は尊重されるべきだろう。
カミ子さんと一緒にいた時には感じられなかった重力を背中で、全身で感じながら伸びをする。
「ん~……ううん?」
……なんだ今の可愛い声はと思いかけて、それが自分の声だったと思い出す。そうだ、自分は転生したのだ。外見だけでなく、声まで変わっている。前世では特に特徴もない声だったが、今は女性声優がリアルタイムでアフレコしてくれてるんじゃないかと思うほどの可愛い声だ。もちろんこの声も自分で選んだのだが、サンプルで聞いていた声が本当に自分の喉から出ているとはビックリだ。慣れるまで少し時間がかかるかもしれない。しかし可愛い声だなあ。
可愛い声でウェヒヒと笑っている内に、目が慣れてきた。寝ころんだままの自分に見えてきたものは、満天の星空だった。日本の住んでいた頃には絶対に見ることが出来ない、空全体に宝石を敷き詰めたような輝き。芸術家なら絵画や詩に表現するかもしれないが、自分は一般人なのでただ「きれいだなあ」と思ったり、「あれがデネブ、アルタイル、ベガ」と勝手に『俺の大三角形』を作ったりしていた。
しばらく星空を堪能した後で、ゆっくりと立ち上がる。周りを見渡すと、自分が緩い傾斜の草原にいることが分かった。周りには人も建物も、何も見えない。
……というか、周囲に何もなさ過ぎて、異世界に転生したという実感が湧かない。普通こういう時って、今までの世界では絶対にありえない風景とか、あるいはファンタジー感溢れる生き物を目にして「ここが……異世界」ってなるところじゃないの?今のところ目にしたのは見慣れない星空と、だだっ広い草原だけだ。これだけなら、実は異世界転生などしておらず、オーストラリアとかニュージーランドに来ただけでしたーというドッキリと言われても納得が出来る。
「カミ子さん、本当に異世界に転生させてくれたんだろうか……」
<失礼ですね!ちゃんとここは異世界ですよ!>
「うわあ!」
耳元で突然声がして、驚きのあまり転びそうになった。
「え……え?カミ子さん?」
そう、今のは間違いなくカミ子さんの声だった。ここ5年間で一番聞いていた声だし間違いない。しかし、辺りを見回してもカミ子さんの姿はない。
「何だ……幻聴か?」
<まあ、あなたにしか聞こえないという意味では周りの人からしたらただの幻聴と違いはありませんね>
また聞こえてきた。やはり自分のすぐ近く、耳元というより頭の中に直接聞こえてくる感じだ。
「ええと、カミ子さんですか?」
<はい、その通りです。久しぶり、でもありませんね。無事に転生できたようで何よりです>
「あ、はいおかげさまで。ところで、カミ子さんは今どこに?声だけで姿が見えないんですが」
<私の本体は、今も天界にいます。今あなたとこうして話しているのは私が切り離した意識の一部、とでも言いましょうか。それがあなたの体にちょっとお邪魔させてもらっているわけです。まあ性格などは天界で話していた私のままですのでご安心を>
なるほど、女神ともなると色々と便利なことが出来るようだ。
「ところで、この星、というか世界?の名前はなんていうんですか?あと、周りに何も見えないんですけどどっちに行けば村とかあるんですかね?」
<…………………………………………………………………………>
「カミ子さん?」
<そういった質問には答えられません>
「何でですか?禁則事項?」
<本来私たちのような存在は、無暗に世界や人に干渉してはいけないんですよ。わずかな干渉でも、いずれ世界のバランスを崩すようなことになりかねませんからね。だから、こうして会話は出来てもあなたにこの世界の情報について教えることは出来ません。ただの雑談程度なら応じてあげますが>
[それならカミ子さんは何の用で?おれと別れるのが寂しくて付いて来ちゃったんですか?まったくしょうがないっすねえ」
<そんなわけないでしょう。あなたに伝え忘れたことがあったので、伝えに来たんですよ>
伝え忘れたこと……はて何だろうと考えて思い出す。
「そうだカミ子さん!あの別れ際の『あ゛!』って何だったんですか!」
<はい、伝えに来たのはまさにその事です。まず理解してほしいのですが、あなたが転生したこの世界には、『天給』という概念が存在します>
「てんきゅう……」
<はい、先天的に、あるいは後天的に獲得できる個人の特性のようなものですね。常人には見えない遠くの景色が見えたり、普通の何倍もの速さで走ることが出来たり、人によって様々な効果があります>
「なるほど」
<あなたも転生する際に何かしらの天給を持っている……>
おお、おれにもそんな秘めた才能のようなものが。
<はずでした>
はずでした?
<うっかり、初期設定を間違えてあなたに付与し忘れてしまったんですよ。天給を>
「はああああ!?何してくれてんですか!異世界来て何の能力もなしに生きていけっていうんですか!」
<だってしょうがないじゃないですか!本当なら転生後の姿もパパッと決めて、初期設定とかも落ち着いて出来るはずだったんですから!あなたが姿を決めるのに五年も掛けるのが悪いんですよ!上司にも静かに圧力をかけられて、そんな状態なら少しくらいミスしても仕方ないじゃないですか!>
……めちゃめちゃにキレられた。
<ですがご安心ください。ちゃんと救済措置として、ギリギリあなたの転生直前に天給を付与することが出来ました>
「本当ですか?」
よかった、これでおれも異世界転生らしいことが出来そうだ。
<まあ咄嗟の事だったので、リストの中から私が選んだものを付与することになったんですが>
瞬間、転生直前の事を思い出す。まさか、どれにしようかな、とか言っていたあの時の……
「あー……カミ子さん?ちなみにおれに付与された天給が何なのか、聞いてもいいですか?」
<本来あまり余計な情報を与えるのは禁止されているのですが、今回はこちらの落ち度もありますからね、特別に教える事を許可されています。……何か不安そうな顔をしていませんか?大丈夫ですよ。5年間一緒にいたんですよ?あなたの事はそれなりに理解していますし、ちゃんとあなたに合う天給を選びましたから>
「ですよね。安心しました」
<はい、あなたの天給は……>
<『健康』です>
「………………………………はい?」