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見慣れた教室から、チェスボードの床と真っ黒な世界に変わる事に、然程の違和感は無かった。俺にとっては、黒い場所だって見慣れているが、モモとセンにとっては違うだろう。
だが、直ぐに順応した素振りが見えた。
つまりどういう事かといえば、黒い何かが絡み付く事を止めた世界で、二人は《敵》を睨めつけていたのだ。
真っ黒な世界で、真っ黒な服と真っ黒な髪、真っ黒な靄を纏わせた少女の方を。
「いらっしゃいませ、です。ようこそ、です」
喪服のような服に、ぞろりと長い髪の彼女は、俺達と同じ十五、六程に見える。
「わたくしに、ばしょをゆずって、ほしい、です。けいやく、するなら、ぜひわたくしと、です」
白黒の床に、カツンとヒールの音を響かせ、歪んだ笑みを浮かべながらこちらに迫ってくる。尤も、歪んだ笑みも俺達にとっては偽物なのだが。
「わたくし、ばしょがほしい、です。だめなら、けいやくがほしい、です」
ニタァ、と笑う様は、モモとセンにとっては不気味だったようだ。モモと繋いだ手から、僅かながら震えが伝わる。
「あわよくば、うばいたい、です」
前回の黒いヤツよりは自在に言葉を操っている。メインキャラクターに比較的近い場所にいた侵蝕者《カキソンジ》なのだろう。
とっとと片づけた方が良いかな。
前回と同じように、「《武器》」を「《具現化》」させると、俺の手には目玉焼きが乗っていた。
「熱っ! あちちちちち!」
凄く熱くて慌てながら、俺はとりあえず目玉焼きを口に運んだ。あつあつ半熟の目玉焼きを、手皿で食す。なんだよこの状況!
「モモ、お願いだから別の何かを考えて」
「ん。わかった」
普通さぁ、こんな事になる?
俺は目玉焼きが消えた両手に息を吹きかけてから、もう一度《武器》を《具現化》した。
「……お願い、戦えるものにして。この前と同じ包丁でいいから、武器イコール物理的に強い物にして。お願い。本当にお願いします」
俺は手にしたフライパンを眺めながら、モモに本気で言った。どうしてこうなったの。目玉焼き、フライパンとか、完全に朝食じゃん。
「わかった」
本当に? 本当に分かってくれたの?
俺はフライパンを《床》に置いてから、もう一度同じように《具現化》した。ようやっと、三得包丁に巡り合う事が出来て、俺は嬉しい。
前回よりも強い相手だから、近距離戦はちょっと怖いんだけど……目玉焼きやフライパンよりは遥かに良い。
俺は包丁の切っ先と共に、真っ黒な少女に向き直る。
彼女は自分の手首を切ると、真っ黒な血を流し――剣のように硬化させて、自らの靄を纏わせた。やべ……大丈夫なのか、これ。
俺はチラっとモモを見る。彼女は絶対に守ってみせる。
ついでにセンを見る。いざとなったら見捨てよう。
「じゃあ、モモは出来るだけ離れてて」
俺はモモと繋いでいた手を離すと、包丁を両手で構えた。
「ちょうだい……。みぃんな、ちょうだい!」
先に動いたのは、少女型の侵蝕者《カキソンジ》だった。便宜上の《床》を思いきり蹴ると、彼女は一直線に俺に向かってくる。
いくらモモと契約しているとはいえ、今の俺の獲物は包丁。俺も彼女と同じように退色血《スミゾメ》を剣のように扱う事は可能だが、間合いを詰められている今の状態では得策ではない。
俺が答えを出したのと、反射的に包丁で彼女の刀身を受け止めたのは、ほぼ同時だった。ほらね、得策じゃないでしょ。
ちなみに、最初のザコに襲われたときに剣を使わなかったのは、モモに契約を迫るためだ。ていうか、もしかして今この技使ったら、あとでモモに叱って貰える?
いやいや、駄目だって。そんな場合じゃないぞ、俺。
余裕ぶっているように思えるだろうが、これでも結構精一杯。さて……どうやってこの場を切り抜けるべきか。
「ちょうだい……ちょうだいよぉ!」
目の前の黒い少女は、たどたどしい言葉を紡ぐ。
「わたくしも、ほしい、です。たいせつで、たべちゃいたいほど、すきなひと!」
「ちょっと待った。それじゃあ俺が羨ましいみたいじゃん。俺は君と同じ侵蝕者《カキソンジ》だよ」
包丁と退色血《スミゾメ》の刀の刃が交わる。これで俺の得物が、せめて鮪包丁位のリーチがあれば鍔迫り合いと言っても過言ではないビジュアルだったのだろう。鮪包丁、かなりしなるけど。
しかし俺が持つのは、野菜と魚と肉をバッチリ切れちゃう三得包丁だ。頑丈な出刃包丁ですらない、っていうね。三得包丁、そりゃあ使いやすいだろうけどさ。ただし、料理では。
「おなじ、しんしょくしゃ《かきそんじ》なのに、ずるい、です。わたくしも、わ、のなかに、はいりたいです」
俺は長い刃から極力身を離し、伸ばした両腕で握った包丁で押してくる相手を留めている状況。まずい。このまま押し切られると、俺は真っ二つだ。
一応、一度ざっくりやられたくらいで死にはしないが、長くは持つまい。なにより、弱ったところを吸収されることが怖い。
相手の力はどんどん強まる。体制とリーチ的に、俺の方が押されているのだ。
「蓮夜、刀!」
「ありがたいけど、今はちょっと、無茶……」
こいつを見ていて、刀という戦う道具を思い出したらしいモモ。焦った声で言ってくれたが、自由にならない今の状況では、無駄だ。
でも、焦ってくれた事とか、名前を呼んでくれた事とか、すごくうれしかった。
「きめた、です。わたくし、あなたさまになるの、です」
目の前の侵蝕者《カキソンジ》は、刀(仮)により力を込める。
このままだと――力負けする!
何しろ、俺達侵蝕者《カキソンジ》は外見と力が比例するわけではない。元が何であるか、元の立ち位置はどうだったかによって変わるのだ。
例えば目の前の少女が、この頃流行りのお尻の小さな女の子だけど素手で熊を倒せる設定のついたメインキャラだった場合、元メインキャラでもごく普通の男子高校生だった俺よりも力は強いだろう。純粋な力比べである、という前提があれば。
だが、相手は俺よりも上手く言葉を話せていない事から、メインキャラというよりはサブメインキャラだったと推測される。ついでに俺はモモと契約している。この二つから、決して俺が便宜上彼女よりも劣っている訳ではないと言えるのだが……体制的にも、状況的にも今は俺の方が不利だ。
「わたくし、そこのおんなのこさまと、なかよしさんに、なってみせる、です」
駄目だ――押し負ける!
背中に変な汗が伝うようだ。俺、汗かくかわかんないけど。
「蓮夜!」
モモが俺の名前を呼んでくれる。反応しようにも、必死感のある答えしか出せなそうで、俺は言葉を飲み込んだ。
が、不思議な事に俺にかかる強い力は引いていた。
「蓮夜に、変な事をするのは許さない」
「百合! 止めて百合!」
「わぁ……だきつかれちゃったぁ!」
音、言葉、声。反応。状況を確認するまでがもどかしく感じたが、きっと一瞬だったのだろう。
目の前の侵蝕者《カキソンジ》に、モモが後ろから抱き着いて止めていた。それを見たセンが悲鳴のような声を上げて、必死に止めようと走ってきた所だった。
「セン、止まれ!」
俺はセンに静止の声を投げつけてから、慌ててモモを黒い少女からはぎ取った。
今の状況を客観視するのなら、ちょっと遠くにセンが、侵蝕者《カキソンジ》は一生懸命後ろに首を向けて、モモを引っぺがしに向かった俺と、俺と少女の間にいるモモを見ている。
「なりかわりたいの、です? かわっちゃう、です? かわっちゃおう、です」
何その三段活用。全然嬉しくない。