表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

何度でも

作者: 我路あさこ

異性を意識し始めたとき年の差を気にしないと言う人が多いが時間が流れていくたびに「年の差」が原因となる山や谷を目の当たりにすることになる。先のことは考えずに、といえるのはほんのひと時でいずれはその先のことを考えなければならない時期が訪れる。そのときに下す答えとは。

12月半ば、土曜日の街はたくさんの人で賑わっていた。子供へのクリスマスプレゼントの買い物を終えたであろう男性が、両手にたくさんの紙袋を抱え足早に幸せそうに歩き、また恋人同士のように見える男女がお互いに微笑み合い楽しそうにお店のドアへと入って行く。この時期はどこへ行っても幸せそうな人々が街を行きかい、まるで世の中には悲しいニュースなど一切ないかのように錯覚してしまう程だ。まさにクリスマスマジックとでも言うのだろう。私はそんな幸せそうな人々を横目に土曜日だと言うのに残りの仕事を済ませるため大学へ向かっていた。風が冷たく思わず首をすくめ鼻をマフラーへと押しやったがそれでも顔に容赦なく突き刺さってくる冷風に涙目になってしまっていた。楽しそうに街を行きかいクリスマスや年末年始の予定に浮足立って軽快にあるく人々とは対照的な世界へ向かうかのように足早に歩いていた。


1年前、39歳だった私は週に3日、大学で学生達に世界の言語と文化、考古学の講義を行い残りの2日は大学内でその研究をしていた。最初は何からしたら良いのか全くわからず、自分の知り得た知識をきちんと学生に正しく伝えられるのかと心配ではあったが、いざ始めてみるととてもやりがいのある仕事だと気付いた。小学校や中学校、また高校の様に教壇に立つ私が○○さん、ちゃんと聞いてますか?だの、○○さん、ノート取らないとここはテストに出ますよ、などと注意をする必要がない。大学では私はあらかじめ決めておいた講義内容を淡々と彼らに話し、教え、絶対に覚えておいて欲しい内容はボードに記す。やる気のある学生やこれ以上単位の落とせない学生らは講義を一生懸命聞きノートを取るがそうでない学生も多々いる。ずっと携帯を眺めている学生、学友と談話に忙しい学生、居眠りをする学生など様々だ。義務教育や高校の授業ではこういった事は許されないのだろうけど大学は少し違う。勉強するしない、卒業するしないはあなた次第、という感じだ。私は一般的には若い部類には既に入れない年齢だが、この大学の講師としては若い部類に入っていた。実際、独身で出産などの経験も無いせいか年齢よりは7,8歳ほど若く見られることも多かった。大学で講師として働く際にも服装などの規約がありいつも身ぎれいにしなければならなかったのも実年齢より若くみられた要因だった。

だから「ちょっと若めの女講師」と学生からは恐れられる存在ではなかったのだろう。秋野の講義なら昼寝出来る、遊べる、談笑できると思われていたのかも知れない。

だがそんな私の講義に興味なんか最初から無いと言った様子の学生達でも、授業の妨げになるような大声で会話をしたり笑ったりする者はなく、出した課題などはきちんとこなしていた。

あまりに出来の良いレポートを見ると感心さえする。学友にノートを借りたのか、それとも私の講義に休憩に来ている様に見えて実はポイントは押さえてノートを取っていたのか。どちらにしても良くも悪くも賢い学生達だ。私は自分の講義では1つルールを作っている。それは講義中は質問は受付無い、ということで私なりにきちんと意味のあるルールだった。講義時間は限られているので、途中で質問が入るとペースが狂ってしまう。なので私は講義終了5分前に質問タイムを設けてそこで一気に質問をしてもらうようにしていた。そしてもう1つ、講義時間内に質問できなかった場合は教壇に置いた小さい箱の中にメモに書いて入れてもらうようにしていた。また講義の内容に関する質問とは別に今後の講義で取り上げてほしい文化や言語のリクエストがあればそれもメモにして箱に入れるように学生達に指示をしていた。

毎回講義が終わると私はその箱を自分のオフィスに持ち帰り中のメモを確認するのだが、講義に関する質問は1,2通で残りの1,2はとてもくだらない内容の事が多かった。助教授の電話番号教えてください、やいつか車で送って欲しいです、など。若い男の子がやりがちな悪戯みたいなもので私はそいういうメモを読むたびに逆に学生って可愛いなと思ってしまっていた。私の講義に来ている学生達は皆だいたい19歳から21歳くらい、私が高校卒業後に妊娠でもしてしまっていたら彼らは私の子供と同い年だ。そう思うとなぜか彼らのくだらない悪戯が可愛く思えて思わず笑ってしまう。ただその日は見慣れない綺麗に折りたたまれたメモ用紙がその箱には入っていた。私はデスクの椅子に深く座りため息交じりにそのメモを読んだ。

それは柴田正志という学生からのメモだった。「秋野助教授の考古学について今では興味が湧いて講義を毎回楽しみにしています。今度時間のある時におすすめの本などがあったら教えてください。」と記されていた。あまり綺麗な字ではなかったが、文章の最期に彼の名前が書かれていたので冗談や冷やかしではなく、この分野に本当に興味を抱いてくれたのではないか?と思い、教える立場にいた私は純粋に嬉しく思ったのだが、私にはこの柴田という男子学生を思い出す事は出来なかった。翌日、私は講義が無かったので自分のオフィスで次回の講義に使う資料をまとめていた。講義の無い日のオフィスでの作業はリラクゼーション音楽を控えめな音量で聴きながら好きな資料や異国文化の本を読んではいつかこの国へ行きたいと思いを馳せる、そんな時間が私は大好きだった。

私が世界の文化と言語に興味を持ったのは高校2年生の夏だった。通っていた高校の英語教師から夏休みを利用してアメリカでホームステイの出来る制度があることを聞いた。それまでは日本、日本語以外には全く興味も無かったし英語の成績がずば抜けてよかったわけでも無いので何故その英語教師が私にそんな話を持ち掛けて来たのかさっぱり理解が出来ずにいたし今でもその理由はわからない。が、その英語教師の助言で私は今の自分の人生を切り開くことが出来たと心から感謝している。

英語教師からホームステイの話を聞いた当日、両親と姉と夕食をとっている時にその事を伝えた。他意はなく、教師からこんな事を言われたんだと1日の出来事を報告する程度のつもりで話したのだが、思いのほか私の母が娘をホームステイに送り出すという事に深い興味を持った。これからの時代は母国語以外の言葉も話せたほうが将来に役立つ、3か国語とは言わないからせめて英語だけでも…という考えだった。父は若干の不安があったようだが1カ月ある夏休みのうち2週間だけという事もあり人生経験だと思って楽しんで来いと言ってくれた。私は一言も「行きたい」とは発してなかったし行く気もあまりなかったのだが両親、姉共に「自分の目で他の国を見て、感じて来るのは今後の人生でも必ず良い経験として活かせるはずだ」と背中を押してもらった。そして私はそれから数か月後の高校2年生の夏休みにアメリカ東海岸のコネチカット州にあるお宅で2週間のホームステイに出発した。出発前にホームステイ語学留学についての情報を収集した際には「とても意地の悪いホストファミリーに当たってしまった、毎晩胃がもたれるような食事ばかりで日本食を食べたいとお願いしたが聞き入れてもらえなかった、通りを挟んだすぐ向こう側が治安の悪い街で怖かった」などあまり嬉しくない情報も仕入れてしまっていたので現地に到着してホストファミリーに会うまでは何とも言えない緊張と不安に押しつぶされそうになっていたが、実際に出迎えてくれたホストファミリーは私にとても良くしてくれ別れ際には「本当の娘のように思う、来年もまた戻って来てくれ」と涙を流して抱きしめてくれたのを今でも鮮明に覚えている。私のホストファミリーは父親が不動産会社の役員、母親は以前は会計事務所で働いていたが、一人娘の長女が高校1年生になったと同時に専業主婦になったと言っていた。彼らはとても親切で、2週間一緒に生活していた時も私の国の文化や食生活を尊重しつつアメリカの文化や食生活を私に教えてくれた。多少不格好ではあったが巻き寿司を作ってくれたり、時には「これがアメリカンファミリーの金曜日の夜の過ごし方だと笑いながら大きなピザを注文して食べたり、また週末にはせっかくだからアメリカ東海岸の美しい場所に連れて行きたいと車を数時間走らせてボストンやニューイングランドに連れて行ってくれた。私はこのボストンに行った時の事は一生忘れない。重厚なレンガ造りの家々や日本の国会議事堂かと思うほどの立派な大学、陽が沈む頃のヨットハーバーの綺麗な景色にひたすら感動していた。私はそんなホストファミリーや特にボストンの街並みが大好きになり翌年、高校3年生の夏休みにも同じホストファミリーにお世話になり大好きになったボストンへも再度連れて行ってもらっている。そしてこの経験が私が他国の文化や言語、そのルーツをもっと知りたい、学びたいと思うきっかけになり今に至っている。若かりし頃の心に「いつかボストンに住めたらどんなに素敵だろうか」と強く思いを馳せた事は今でも鮮明に覚えている。高校卒業後にはアメリカボストンの大学へ留学したいとまで考えていたが、準備期間もほぼ無く、自分の英語力で授業について行けるのかの不安など考えれば考えるほどマイナスな点ばかりがクローズアップされてしまい結局は高校入学当時から考えていた都内の大学へ進学をし、夏休みにはそこで世界の文化と言語の研究をされていた教授の手伝いをしながら自分の知識も増やしていった。大学卒業後は教授の紹介で現在の大学へ就職をして助教授補佐という肩書でこの分野での知識をさらに勉強し研究もして学生達への享受の仕方も学ばせてもらった。そして現在私はここで助教授という肩書をもらい充実した生活を送っている。

今考えればとてももったいない事をしたとも思う。若さとその勢いがあれば海外へ飛び出てしまっても何とかなっていたんじゃないか…と考える事が多々ある。しかし私は割と慎重な性格がかえって災いしたのだろう、日本でも学べるという選択肢をとって今日の自分に至っている。しかし私はこの人生に何一つ後悔はしていない。高校2年生という多感ではあるがまだまだ子供だと言われる時期に得たインスピレーションを胸に大切に秘めてこうして現在はそれを仕事に生計を立てているのだから。好きな事を人々に享受し更に自身でその分野の研究を進めて行く、好きな事を仕事として生計を立てられる人はこの世の中にどのくらいいるのだろうか?ほんの一握りとは言わないが仕事の愚痴とは無縁な生活を社会人として送れていることには本当に幸運の一言だと思う。だがそんな私にも一つだけ思い通りにならなかった人生設計もある。

私は大学を卒業した当時は30歳前後で結婚してすぐに子供を授かりたいと考えていた。当時は付き合っている大学時代からの恋人もいた。お互いの両親も公認で一緒に食事へ行ったり親戚の結婚式には私も呼ばれて彼と一緒に行くようなまさに完璧な関係だった。しかし大学を1年早く卒業した彼は大手メーカーに就職し見る見るうちに学生っぽさが抜けて素敵な男性、社会人へと変身していった。私はそんな彼が誇らしかったしそんな尊敬の眼差しを向ける私を彼はとても大事にしてくれて私達の関係はより一層落ち着き結婚という文字が現実味を増していった。それから更に1年が経ち、私は大学へ就職をしとても充実していた。働き者で頼りがいのある彼氏、そして大好きな仕事。自分がいちばん幸せだと勘違いしてしまう程に順調な毎日だった。だがそんな矢先、彼が2年間のインド駐在の辞令を受けた。一緒に行こうと言ってくれた彼に対し私は「夏休みは私がインドへ会いに行く、そして年末年始は貴方が日本に来て一緒に日本のお正月を過ごさない?」と提案をした。彼は「それは…無理かな。恋人と会いたい時に会えない距離で暮らすのは僕は無理だ。美沙を裏切らないって言える自信は100%はない。近くで支えて欲しいと思う、今まで経験のない国で生活をするのも1人だと不安だらけだ、でも好きな人と2人ならとても楽しい冒険になると思う。」

しかし私の返事は変わらなかった。1年に2回、長期休暇を使って行き来すれば2年なんてあっと言う間だと何度も説得したが彼には伝わらなかった。そして彼の言い分は正しい。4年近くも完璧な恋人同士だった2人が就職をして大人になった、男が転勤とあらばポロポーズを受けて一緒に行くのが一般的には正解と言われる選択なのだろう。しかし私は大学での仕事を始めたばかりでもっと没頭したい、知識を広げその学び得た知識を学生達にも伝え興味を持ってほしいという自分なりの夢もあった。

彼とは1週間ほど同じことの繰り返しを何度も話し合ったがお互いの気持ちが一致することは無く別々の道へ進むという結論に至った。その後私は思いを吹っ切るように仕事をして一切の思いを仕事と研究にぶつけた。そうしている自分が好きだったし、そのほうが意外と自分に合っているとも感じていた。友人の飲み会や論文の発表会などで知り合った男性は何人かいて、食事に行ったりお酒を飲みに行ったりしたことも何度かあったのだがやはり仕事と研究を優先という姿勢が変わらなかった為、恋人と呼べる存在はおらずそんな生活を続けていたら気付けば39歳、独身で子供はいないという人生になっていた。

それでも私はこの人生がとても好きだった。世の中には全てを手に入れられる人間も多々いるが私はそんなに器用な人間ではないのを知っている。仕事をしている充実か女としての幸せか、どちらかひとつでも自分の手にこじんまりと握れているのであればそれで十分だ。


翌日、私はいつも通りに自分の講義を終え構内のオフィスに戻り小さい箱に入っている小さいメモ用紙を確認した。今日はどんな悪戯じみた内容が書かれているのだろうかとため息をつきつつも日課になっているこの作業に少し笑顔がこぼれた。1枚のメモを開けるとそこには「先日、世界の文化と言語の本について質問した柴田です。今日の後に秋野教授のオフィスに行ってもいいですか?」と書かれていた。

私は「行ってもいいですか?って…良いも駄目も言えないじゃない、こんなメモで聞かれたって…」と呆れたように独り言をもらした。数日後の時間を指定するならともかく今日の今日、しかも講義の直後なんてどうやって私が返事をすると考えてたのか?大学生とは言え所詮は学生、まだ子供なんだと自分に言い聞かせながら柴田という学生に貸し出す本を選ぶことにした。メモの内容からは割と最近になり私の講義に興味が出てきたように受け取れたので、写真の掲載が多く読むのにあまり時間のかからない本を2冊ほど選びデスクの上に用意した。それから5分も経たずしてオフィスのドアをノックする音が聞こえた。私はドアを開け「柴田君?」とだけ聞いた。ドアに立っていたその男子学生はあのメモから想像していた私の思い描いていた男子生徒は風貌が全く違った。身長は180センチあるかないかの筋肉質でがっしりした学生だった。

「はい、柴田です。柴田正志です。この間メモで秋野教授におすすめの本を教えてほしいとお願いしました」と私の目を見据えてはきはきと答えてくれた。「こういう類の本は決して安くもないから、まずは私が柴田君に2冊ほどお貸しします。たくさん写真の掲載されている本だけど、文章も比較的読みやすくて専門用語を多用してる本じゃないから。写真だけを見てページをペラペラ捲らないでしっかり文章も読んで勉強してね。返却はいつでもいいので。」と言いながらデスクに置いた本を取り彼に渡した。彼は私にお礼を言い、来週の講義の後に返却しに来ると約束しその場を後にした。


翌日、私は講義が無かったので11時とゆっくり目にオフィスに入り来週の講義に使う資料と午後に予定している論文作成の資料の2つの準備をしていた。オフィスには相変わらずお気に入りのリラクゼーション音楽を流し「これを聞くと心は落ち着くしなぜか集中力も上がるのよね」と独り言を言いながら狭いオフィスを行ったり来たりしていたがドアをノックする音に私の動きは止められてしまった。

ドアを開けるとそこに立っていたのは学生の柴田正志だった。彼は私の顔を見るなり「こんにちは、この前お借りした本返しに来ました。」と視線をこちらに向け礼儀正しく挨拶をした。「もう読んだの?1,2週間後に返しにくるかと思ってたのよ!もっと言うなら学生だから面倒臭がって返しに来ないかもって予想してたの。だから他の本よりも少し値段の安い本を2冊貸したの、あ、でも読みやすいからっていう理由は本当よ!」と言って私はクスクスと笑ってしまった。それを聞いていた学生の柴田も「えっ!僕たち学生って助教授や教授からそんな風に見られてるんですか?学生とは言え中高校生じゃないんですから借りたものはちゃんと返しますよー!勘弁してください秋野助教授!」と彼も大笑いをしていた。

「それで?この2冊を読んだ感想はどうだった?本を読んでもっと興味が湧いた?それとも読んでいくうちに退屈になって興味が薄らいだ?」私は真顔で彼に聞いた。「そうですね、退屈なページもありましたけど文章と写真が掲載されているページは真剣に読めました。文章で何百年前の○○の国の文化はこんなだったと羅列されるよりも昔はこうだったって説明と実際の写真が掲載されているほうがさらに読み取り易く興味を持ちます。ただ僕は世界中の文化よりも中東の文化に絞られた本を読みたいと思っているので、もし助教授がそういった本を持ってたらまた貸してもらえませんか?」

意外とストレートな返事が返ってきたことに驚いた。大抵の学生はこう言った質問をすると「あ、そんなことはなかったです、勉強になりましたー」という具合に一言さらっと流して終わてしまうが彼は退屈だった点、良かった点、更には地域を指定してまた本を借りたいと言っている。これには私はとても嬉しく思った。何がきっかけかは正直わからないが、世界の文化について初心者向けの大雑把な本を読み、そこからある特定の地域や国への興味が出て更に詳しくしりたいと思う、これは彼らに講義をしている私としては理想の展開だった。私は彼に「柴田君はこの2冊の本のどの部分を読んで中東各国の文化に興味を示したのかよかったら聞かせてくれる?」と言いながら彼に椅子に座るよう手で促した。彼は「失礼します」と言いながら腰をかけ中東各国になぜ興味があるのかを私に話始めた。

「僕の曾祖父母はセルビアからの移民なんです。その曾祖父母の長男が僕の祖父、祖父は日本で日本人と結婚していてその間に生まれた一人娘が僕の母です。そして僕の母はアルバニアと日本のハーフの男性、つまり僕のお父さんと結婚して僕が生まれたんですよ。だから僕のDNAにはセルビアとアルバニアと日本の血が通っているんです。僕は日本で生まれ育っていて学校もずっとこっちだから日本の文化は知っています、でれどセルビアやアルバニアには行ったことも無くて。ネットで調べると紛争国や内戦など悲惨な事ばかりで…なぜそんな事になってしまっているのか、宗教観の違いが招いているというのはわかっているけど、でももっと色々と知りたいんです。自分がそれを食い止めようとかそれが出来るなんて思ってもいないですけど、でも昔から続いている嘆かわしいことも良いこともすべて知りたいと思っているんです。僕は日本で生まれて日本で育ってるからいいや関係ない、って気持ちにはならないですね。祖父にもたくさん可愛がってもらったので…それにこういう事をたくさん知って何か自分にもできる事を探すことが出来たら卒業後の仕事も絞りやすくなると思うんですよね。」私は驚いた。最近の学生と言えばゆとり教育だの何だのと熱意を持った学生が事少ないと勝手に思い込んでいたし、実際にゆるい学生というのはたくさんいる。「とりあえず大学に入った」「とりあえず卒業した」という大学で学んだ事を社会人生活に活かそうという志を持つ学生よりも「とりあえず大卒って言えればそこそこの仕事には就けるでしょ?」程度の気持ちの学生も少なくない。そんな中でこの柴田という学生は自分のルーツを知りたい、昔から続いている変えられない悲しい事態を把握してその中で何か彼に出来ることを模索し将来のヒントを得たいと考えているのだ。

私は彼の話を聞きながら、中東各国の宗教と文化に関する本を差し出した。「この本は写真はほんの少ししか掲載がないけど、あなたが学びたいと思っている中東各国のことだけを綴っている資料本だから必ず助けになるはずよ、返却は本当にいつでもいいから読んでみたらいいと思う。」と言って彼の手元へ本を置いた。「助教授、本の内容で質問したい事があったら助教授のオフィスに来ても大丈夫ですか?あと電話番号も、きっと家で本を読むことのほうが多いと思うんで」私は「もちろん、講義以外の時間は私は夕方4時過ぎまではここにいるからいつでもどうぞ。電話番号も、はいこれね。」と彼に連絡先のメモを渡した。私の講義を受けている学生が一つの分野に深い興味を持ちそれについて真剣に学ぼうとしている、それを手助けしてあげたいし応援もしたい、そう言った「助教授の立場から」純粋に嬉しく思った。

しかし、この事が後に私を苦しめるだけでなく彼をも苦しめてしまう事になるとは想像さえしてなかった。


クリスマスが終わり年末年始に向かい街はより一層慌ただしくなっていた。

大きな荷物を抱えて駅へ急ぐ人や車の交通量も多かった。年末年始を実家ですごく家族などだろう。

私の実家は私が住んでいるところから電車で1時間の距離だった。毎年帰るようにはしていたのだが今年は論文の作成でクリスマスやお正月をのんびり過ごそうという気分ではなかった私は実家の母に電話をし、今年は帰れないけど1月中にはいちど顔を見せに行くと伝えた。実家の両親も私が健康で忙しくしている事を嬉しく思っていてくれてるし、年末年始は姉夫婦が子供を連れて帰省しているので寂しさもないだろうと私の都合を考慮してくれる両親と姉にとても感謝していた。

新年を5日後に控えたある日、私は息抜きのため近所のカフェへパソコンを持ち込み論文を書いていた。

いつもなら若いカップルで賑わうこのカフェも今日はとても空いていた。私は飲み物をもってきてくれた店員さんに「すいません、ちょっと仕事をしたいので長居になりそうですが混雑してきたらすぐに出ますので…」と控えめに言うと店員さんは「大丈夫ですよ!今日は混雑しそうにもありませんし、今日の店内は比較的静かなのでゆっくり集中なさってくださいね」と親切に対応してくれた。私はその言葉を受け止めパソコンに向かって論文を3行書いては少し消して言葉を変えたりと悪戦苦闘していた。が、これは今まで書いていた論文とはちょっと違っていた。この論文は国内ではなくアメリカ東海岸、私が高校生のころから憧れていたボストンのある大学へ送るものだった。賞などがもらえる論文ではないが、自分の今までの研究から考えられるすべての事を論文にしたためその分野では割と有名な名前の通った教授のもとへ送り、私の研究内容と考察について彼女の意見をもらいたい、というのが目的だった。もし彼女から何かしらのアドバイスがもらえたのなら今後の私の仕事にも大きく変化が出て更に研究が楽しく有意義な物になると確信しているからだ。そんな期待と、もし読まれることさえなかったらという不安も大いにあったがとにかく今自分にできる目の前のことに最大の努力を、という気持ちで論文作成を進めていた。

カフェで1時間ほど作業をしていた頃、私の携帯電話が鳴り1通のテキストメッセージが受信されていた。

差出人のところには見慣れない携帯番号が表示されていた。私は携帯を手に取りテキストを読むと、それは柴田君からのテキストだった。「秋野助教授、柴田です。お忙しいですか?先日お借りした本のことでお話がしたいと思ったのでテキストしました。どこかで会えませんか?もし忙しかったら大学が始まってから助教授のオフィスにまた伺います!」とのことだった。私は一瞬迷った。特定の学生と懇意にしたことは一度もなかったし今は大学は休みだ。だが私は何かやましいことがあるわけでもない、と気持ちを改めて彼に返信をした。「今○○通りのカフェで論文を書いてたところです。ここで良ければどうぞ、少しお待ちしますよ。」するとほんの数秒で彼から返信が来た。「15分で着きます、待っててください!」


それから20分ちょっと経過しただろうか、柴田君がカフェにやってきた。大学構内で見るよりもなぜか大人っぽく見えたのを覚えている。彼は私の向かいに座るなり「すいませんお休みなのに。でもそのほうが少し長く時間を取ってもらえるかと思って…」と軽く会釈をしながら言った。

「大丈夫よ、こうやって学生から本を貸してほしいとか、その本について話がしたいと言われるのは講義をしている者としては大変嬉しいことだから遠慮はしなくていいのよ」と笑顔で返した。

彼は本を一通り読み、その後に気になった部分をもう一度読み直してみたりネットで調べたことをノートに書き綴っていた。その事に私は深く関心した。「本を読んで疑問に思った事をネットや他の本で調べたりするのはとても素晴らしい事なのよ、自分でそれがわかってる?」と私は笑いながら彼を褒めた。

彼は「え?あ、そうなんですか?特にそう言われたくてやったわけでもなくて本の内容だけだと理解し難いとかちょっとした疑問もあったので…」と照れ臭そうに言う彼に私は「本当よ、どんな学者でも自分の書いた本と他の学者が書いた本、を読み比べて矛盾点から何かを探し出すきっかけを得たりするものなの。私も自分の知っている知識や持っている資料を基に論文を書くけど時間のある時はインターネットで一般の方が投稿している情報とかもたくさん読むのよ。時にはオカルトっぽい都市伝説みたいなのも読むし」と言ってクスっと笑いそれに釣られて彼も笑っていた。そして私はこう続けた。「実際に大昔の文化や歴史的建造物など現代人が実際に自分の目で確かめられない事、そしてそれを見たであろう人々が既にこの世に存在しない場合、私たちは残された資料や本など自分で得た知識で結論を出そうとする。でもそれだけでは絶対にたくさんの事実が欠けてしまものなの。だから他人の知識や資料、そしてその道のプロじゃない人が想像で書き込んだインターネットの情報でさえも何かの手掛かりになることがあるのよ。ドラマじゃないけど本当に点と点があって線で繋がる、みたいなことが起きたりするものなの。私はネットの都市伝説のようなところに書き込みをする人たちって見せかけは面白半分で書いているように見えるけど、実は私なんかよりも知識が豊富なんじゃないかって思うことが多々ある。」と真剣に彼に話した。

「秋野助教授って…」と話し出した彼を私は遮った。「ここで助教授ってやめて、お願い!」と恥ずがる私を彼は面白そうに笑った。「じゃ秋野さん?でいいですか?それも何か変かな?助教授の下の名前って何ですか?」と聞かれたので私は「美沙、美沙です」と小声で返事をすると「じゃぁ美沙さんて呼びますね!」とまるで私をからかうように下の名前で呼び始めた。現在では家族や友達以外で私を「美沙」と呼ぶ人はおらず、学生とはいえ男性から「美沙さん」と呼ばれることが恥ずかしいようなくすぐったいような感じがした。だけども「柴田君」「美沙さん」とお互いを呼び合うことで会話も弾みとても有意義な時間を過ごせたと思う。彼は私にいろいろな質問をし続けた。最終的にしてみたい研究や調べてみたい建造物や種族の文化は?など。私は彼に「現代でも解明されていない世界の建造物のことはいずれ時間をかけて調べたりするのは面白そうだと思う。ジョージアガイドストーンって聞いたことある?5メートル、約20トンの石版に象形文字、ヒンディー語など8言語で世界滅亡後の文明を再建しようとする生存者へのメッセージがきざまれているのよ。誰が作ったのかは謎。これって神秘的ですごく興奮するわ。あとはミシガン湖のストーンヘンジとか…あ、でもやっぱりジョージアガイドストーンが私の中では最強ね」と興奮気味に話してしまった自分に気づきはっと彼の顔を見ると彼は私を見ながらニコニコしていた。「美沙さん、大学ではクールな助教授で怒ると怖そうとか冷たそうって言われてるけど子供みたいな一面があるんですね」と彼は言った。「え?ちょっと待って、私は女だし若くはないけど他の教授や助教授に比べたら若いってことで学生達からは完全になめられてると思ってたけど、違うの!?」「いやいや、みんな秋野助教授は怒らせたらぜったいに怖いって予想してますよ」と言って彼は大笑いした。私は驚いたが少し嬉しかった。その大学では助教授としては最年少でしかも女、私は学生達からは完全に空気扱いをされていると思っていた、もしかしたらそれもあるかもしれないが、それでも怒らせたら怖いという言葉が私にとっては「少しは威厳があったのか」と思えて嬉しかった。それから柴田君と私は世界の文化や建造物などの内容お織り交ぜながら他愛もない話をし気付けば更に2時間近くが経ち空がすっかり薄暗くなっていた。柴田君は「長く引き止めちゃってすいません、論文もまったく進まなかったですよね。僕、車で来てるから送ります!」と言った。「私、ここから歩いて10分の距離に住んでいるのよ、だから大丈夫一人で帰れるわ。また何か質問とか話したい事があったらいつでも連絡してちょうだいね。」と言って席を立ち彼の飲んだコーヒーの伝票を掴み会計をした。

「女の人におごってもらうのって何だか嫌ですね…僕が2人分払おうと思ってたんですけど」と少しばつの悪い顔をした。「大丈夫大丈夫、どうみたってお母さんと息子、もしくは叔母さんと甥っ子だからこうやって私が払うのはよくある風景よ」と言って笑った。すると彼は「あ、それも学生達の間で話題になっているんです、秋野助教授、あ、美沙さんって何歳なんだろうって。若いけど、でも助教授だし。でもどう見ても30歳にしか見えない!って。実際は何歳なんですか?」まったく最近の若者は大声で公衆の面前で女性の年齢を聞くのか、と少々呆れもあったが私は自分の年齢を隠したり偽ったりするほど恥じてはいないので「39歳」とだけ返事をした。しばらくの沈黙のあと彼は「え、もうすぐ40歳ってことですか?」

「だったら何?そうよもうすぐ40歳」すると彼は「ありえない、ありえない、美沙さんは30歳にしか見えない」と言い始めた。「あのね、年齢って私にはどうでもいい事なのよ、だから私の年齢を聞いて若く見えるとか年相応に見えるとか老けて見えるとか本当にどうでもいいの。だからもう年齢の話はしない、これでいい?」すると彼は「あ、すいません。でもやっぱり39歳には見えないから…」「30歳も39歳も同じ30代!何にも変わりはしないのよ、はい年齢の話はこれでおしまい。それじゃまた年明けに大学でね」と言って私は彼よりも先にカフェを出たのだが、外はみぞれ交じりの雨が降っていた。「傘もないし、こりゃ仕方ないな」と心の中で独り言をいいタクシーを拾おうと歩道へ出ようとした時、柴田君に腕を捕まれた。

思ったよりも力強く、私はびっくりして彼の顔を見た。「だから送りますって言ってるんです。コーヒー代のお礼ってことでいいじゃないですか。だいいちこんな寒い雨に打たれたら風邪を引きますよ。ならたタクシーって言うんだろうけどタクシーもこの状態じゃ直ぐには拾えないでしょう」まさにその通りだった。

道行く人が歩道から身を乗り出して次々にタクシーを拾い「空車」のタクシーはもう走っていなかった。

風邪で寝込んで論文を書く時間が無くなるのも惜しい、ここからなら車なら5分とかからないだろうからそこまで手間はかけないはずだろう。私は「じゃぁお願いできる?助かるわ有難う」と素直に彼の車に乗り込むことにした。車の中はとても綺麗に掃除されて芳香剤の良い香りがした。車内に流れている音楽は今どきの若者が好むような騒がしいものではなく音量も微かに聞こえる程度だった。「柴田君、これは何の音楽を聴いているの?」と彼に尋ねた。「僕、騒がしい音楽はそんなに好きじゃないんです。もちろん邦楽、洋楽、その時の流行だって聴きますよ。でも僕がいちばん好きなのはこういうクラッシック調のドラマのサウンドトラックなんです。今流れてるのもドラマの中で使われたサウンドトラックのクラッシック版なんです。ヒーリングミュージックが好きなんです」「柴田君て本当に21歳?興味の対象が私と被ることが多くて驚いてばかりよ私」と笑いながら運転中の彼をふと見て彼も「正真正銘の21歳です。でも年齢の話はしないってさっき約束したばかりなんでこれ以上は何も言いません」と私をからかうように言いこちらを見て笑った。そんな他愛もない会話をして5分足らずでマンション前に到着した。「今日は本当にどうもありがとう、自分の講義を受けている学生さんからもたくさん学べてとても有意義な日だった。よい新年をお迎えしてね。また大学で会いましょう」と言って車を降りた。彼は助手席側の窓を開け「美沙さんは年末年始は実家に帰ったりしないんですか?」と少し大き目な声で私に聞いた。「論文を書きたいから今年は自分の家に籠るのよ」と歩きながら彼の方向へ軽く自分の顔を向けて答えると直ぐに正面を向いてマンションのエントランスへ入った。


12月31日、私は朝から論文を書いていた。しばらく書いては読み直し訂正する、この作業の繰り返しで決して捗っているという状態ではなかった。気分転換に外へパソコンを持ち出して書くことも考えたがカフェが閉まっている可能性もあるので時間を無駄にはしたくなかった。私は一度デスクから離れノンカフェインのコーヒーにたっぷりのミルクを入れて飲み、休憩をした。明日になれば新年、今年は私は何をしたかな、これは毎年考えることであり出る答えも毎年一緒だった。「研究と講義、少しの論文に明け暮れた1年、最高じゃないですか!」と自分を褒めるという40歳目前の独身女性がいかにもやりそうな事を私もやっている。ベランダから見える外の景色を眺めながら窓際に立ってコーヒーをすすっていると、昨夜からキッチンカウンターに放置されていた携帯電話が光っているのに気付いた。論文を書くときに着信音や受信音が鳴ると気が途切れるので音が鳴らないようにしておいたのだ。私が携帯を手に取ると登録こそされてないものの何となく見覚えのある電話番号からのテキストメッセージだった。

「美沙さん、論文は順調ですか?きっと何日もパソコンに向かって疲れてる頃かなと思って…今夜、初日の出見に行きませんか?一緒に行きたいです。」と書かれていた。正直困った。決して特別な感情は持っていないし彼もそれは同じだろう。だが自分の講義をとっている学生と初日の出を見に行くという行為じたいがどうも良くない、そんな思いだった。私は携帯を手に取りどうやって断ろうかと文章を考えていたがなかなか思い浮かばない。行きません、こんな簡単な一言だがそれを相手の気分を害さないようにやんわり断るにはどう書いたらよいものか。こういう対人メールというのは時として論文を数行書くことよりも難しい。ブツブツ言いながら文章を考えている間に私の手にある携帯がまた光った。柴田君からだ。「どうやって断ろうか考えてるでしょ?当たり?当たりだったらショック!」こうやってショックや落ち込むといわれるのが私はいちばん苦手だ。私は「行きたくないのではなくて行くべきではない、と判断しました。嫌とかそういう問題じゃないです。」と返信した。すると直ぐに彼から返信が来た。「今大学お休みなんだから初日の出くらいいいじゃないですか。学生ですけど僕21歳、成人です。初日の出見たって犯罪になりません。だから一緒に行こう!」こんな風に割かし強引に誘われたの最後はいつだろう?自分と一緒にどこかへ行きたいと思ってくれている人がいるだけで有り難いと思わないといけない年齢になったのだろうか私は?などと考えながらデスクにあるパソコンに目を向けた。100%乗り気ではないけど、外出して初日の出を見れば気持ちも切り替わって論文にもまた集中できるかもしれない。そう思い私は「じゃあ初日の出ね、どこに行けばいい?」と彼に返事をした。「今夜11時に迎えに行くから、除夜の鐘を聞いて甘酒飲んでから初日の出を見に行きましょう!では後程お迎えにいきます!」

柴田君との慌ただしいメールを終えコーヒーを飲み干してから私は論文作業に戻った。自分の講義を受けている学生、大学生とはいえ言わば教え子と初日の出を見に行く約束をするなんて、と私は自分を恥じた。しかしその反面ほんの少し、ほんの少しは楽しみでもあった。会話もある程度は合う、音楽の趣味も合う、そんな相手は男女を通しても社会人になってからはそんな友人は出来なかった気がする。私は広く浅い人間関係は得意じゃない。なので親友と呼べる女友達が2人とたまに食事に行ったりお酒を飲みに行く友人カップルが1組、程度の交友関係だ。親友との時間はもちろん楽しく毎回時間が足りない程会話が弾むが、友人の1人は投資会社勤務でもう1人は元薬剤師で現在は専業主婦、そして私。みんな違う畑でそれぞれ頑張っている3人なので仕事の話などもちろんしない。専業主婦をしている友人が夫の愚痴を冗談めかしく言うのを聞いて笑ったり、大学の頃はああだった、こうだったと昔話をしては涙が出るほど笑う、というのが私達のパターンだった。私は論文を書きながらそんな事を頭に思い浮かべていたが思った以上に作業が捗っていることが嬉しく、「このページが終わったらシャワーを浴びて出かける準備をしよう…」と独り言を言えるほど気持ちにも余裕があった。


11時を少し回ったところで携帯が鳴った。「もうマンションの前に着きました、待ってます!」柴田君だった。私は「今から下に降りるね」とだけ言い電話を切った。今夜は決してデートではない。だが一緒に行動をする柴田君は21歳、私もそれなりにラフで堅くない服装をしようとジーンズにロングブーツ、黒いダウンジャケットを身にまとって外へ出た。マンションのエントランスを出ると柴田君は運転席から小さく手を振っていた。彼もまたジーンズに黒いダウンジャケットだった。「私たち服装の打ち合わせしたっけ?」と私が冗談を言うと彼も「だよね」と言って2人で大笑いをした。

11時30分近いというのに外は人や車でに賑わっていた。「僕たちのように除夜の鐘を聞いてから初日の出を見に行こうって思ってる人が多いのかもね」と車を走らせている彼が言う。「うん、年末年始は考えることはみんな一緒よね。」「美沙さん、甘酒好き?」「うーん、嫌いでもないけど進んで自ら飲んだりはしないかな…って今更ですいません」と私が笑うと彼も「僕もそんなに甘酒ファンじゃない」と、私たちはまたも大笑いをした。「じゃあなんで甘酒飲んでってそんなプランを入れたのー?」と彼にいうと「いや、なんか31日はとりあえず甘酒と除夜の鐘かなと思って。美沙さんもそんなに甘酒ファンじゃないっていうならどうする?道が混雑しちゃう前に初日の出見れるところまで行ってそこで缶ビールとか飲む?」「私はどちらかというとそっちのがいいかも…」と彼を視線を合わせてほほ笑んだ。

私たちは車を数時間走らせ茨城県の海岸へと到着した。初日の出は6時45分頃でまだ2時間ちょっとある

というのに辺りにはご来光を拝もうとたくさんの人が集まっていた。その先にあるコンビニへ行って飲み物を買うつもりだったがあまりの人の多さにまずは駐車スペースを確保してから、そこから歩いてコンビニへ行くことにした。私たちは運よく初日の出を見る海岸の隣接駐車場に車を停めることができたのでそこから歩いてコンビニへ行くことにした。きっと普段なら誰も歩いていないであろうこの時間帯の海岸線だが今夜は初日の出を見る人で歩道にはたくさんの人が歩いていた。みんな私たちと同じ方向に歩いている。「考えることはみんな、ここでも同じね」「うん、初日の出まで時間あるから飲み物とか買ってゆっくりしよう、みたいなね」そんな会話をしながら私たちもコンビニへと向かって歩いて行った。ほんの数分だろうか、歩いたところで向かい側から歩いてきた50代の夫婦であろうか、その男性と私の肩がぶつかってしまった。「すいません」と小声で謝るとその男性も「すいませんでした」と言って通り過ぎていった。

「こういう時に謝る人とちっとか言う人で人間力の差がでるよね」と柴田君はさっと私の右手を彼の手に取った。私は驚いた。一体何をしているのだろうこの人は、と思い「ねぇ…」と言うと「危ないから。ぶつかる人全員が良い人とは限らないし、転んだりしたら危ないから。」と彼は正面を向いて歩いたまま言った。

私はどきどきした。男の人と手を繋いだのは何年振りだろう?いや同窓会で2次会や3次会へ行くときに酔っぱらって同級生と手を繋いだりしたことは何度もある。現に数か月前の同窓会の時もそうだった。だから緊張する必要はない、それと同じだと自分に言い聞かせた。18歳も年下の男性にリードされてる自分が何だか恥ずかしくもあったがそれよりも私は周囲の人々が見たらどう思うだろうか?という不安のほうが大きかった。いい年した女が若い男と手を繋いでみっともない、浮かれていると思われているのではないかと思い私はそっと手を振りほどき「大丈夫、有難うね」と彼を見た。

それから私たちはコンビニへ行き、温かいコーヒーと紅茶を買って初日の出を見るため海岸の砂浜に座って話をした。来年はどんな1年にしたいか、今年はこんな事があったと他愛もない話をしていたが、彼の話は私の耳を右から左に流れるだけでほとんど集中できていなかったと思う。唐突に手を握られたこと、そしてその彼の手がとても大きく「大人の男の手」だったこと、私はそのことを考えるだけで鼓動が早くなった。来年の12月には40歳になる、そんないい歳をした女なんだもの手を繋がれるくらい別にどうってことはないと自分に言い聞かせて平静を装うのに必死だった。彼はコーヒーを私は紅茶をゆっくりと飲み、カップを持った手に伝わる温かさが心地よかった。そして2時間があっという間に過ぎ私たちは初日の出を見た。

水平線からゆっくりと上る太陽のなんとも言えない色合いに私は感動した。オレンジ、赤、紫…なんとも言えないその色合いは今まで何度か見てきた初日の出のどの色よりも美しく感じた。「こんなに綺麗な初日の出見たことないかも。すごく縁起が良くて素敵な1年になりそう。誘ってくれて本当に有難う」と私は見たこと感じたことを素直に彼に伝えた。すると彼は「一緒に来てくれて有難う。」と言い、ふと私の手を握った。私は一瞬またどきっとした。だが初日の出の美しさに感動し、私の手を握る彼の大きな手や伝わってくるその温度が心地よく、今度は振り払おうとは思えなかった。それから私たちは言葉を交わすこともなく、お互いの手を離すこともなく昇りゆく日の出をただただ見つめていた。

太陽が昇り少しずつ周囲の人々が海岸を後にして行き、彼もまた「そろそろ行こうか」と立ち上がった。「そうね」と私も立ち上がろうとした瞬間、彼がまた私の手を握った。「手を繋ぐの、だめ?」と恥じらうこともなく私の顔を見て聞く彼に私は動揺した。「だめって言うか…ちょっと、その…」と言葉を濁している私の両肩に彼は手を置き彼は私の目を見て「好きになったらだめなんですかね、こういうのだめなんでしょうか。だめと言われてもたぶんもっともっと好きになってしまうと思いますが…」と言った。私の鼓動は更に早くなり気絶してしまうんじゃないかと思うほどの緊張感が全身を走っていた。「だめとかそういう問題じゃなくてね…」と言うのが精いっぱいだった。しかし彼は更に続けた。「だめじゃないなら何が問題なんですか?僕は未成年じゃありません。21歳の成人でもう大人です。なんの問題もありません、美沙さんが僕を好きになれないというのなら話は別ですけど…」と。視線を逸らさずに自分の思いをぶつけてくる彼に私は動揺した。「もちろん柴田君のことは好きよ、嫌いな人なら一緒に初日の出なんて見ないでしょ。ただ私の柴田君に対する好きはあなたが期待している好きとはちょっと違うかも知れないし…そもそも18歳も年上の女性をからかうにはちょっとやり過ぎよ。もう40近い女を動揺させて倒れでもしたらどうするのよ」と私は笑いながら誤魔化した。私のその言葉に彼はほんの少し視線を落とししばらく黙っていた。18歳の年の差を実際に告げられて我に返ったのだと私は思った。私は軽くため息をつき「じゃあ帰ろうか」と言って歩き出そうとしたとき彼が私の左腕を掴み彼の胸へ私を引き寄せた。「僕じゃ物足りないですか?僕はあなたにとって子供ですか?」そう言って私を強く抱きしめた。私が小柄だったのもあるが、彼は私が考えていた以上に大人の身体つきだった。胸板が厚く腕も肩もがっちりとしていて完全に彼の腕と胸に私はすっぽりと覆われていた。こんな風に抱きしめられたのは何年ぶりだろう、私はそう思いながら自分の体を彼の胸に委ねていた。すると彼はもう一度「あなたが好きです、きっともっと好きになります僕は」と言い彼の唇を私の唇に重ねた。私は戸惑った、躊躇った。だがその一瞬いろんなことを一気に考えた。彼と一緒に話をしているととても楽しい、私の仕事の話などほとんどの男性には退屈な内容だろうが彼はそれに興味を持ってくれる。年は離れているが聞いている音楽の趣味もよく似ている。そして何より彼に手を握られたとき、強く抱きしめられたとき、そして今彼の唇が私の唇に重ねられているとき、どの瞬間も私は「嫌」だと思わなかった。むしろ心地よいと感じた。先のことなんか深く考えなくていい、今はただ自分の心に従ってみよう。私は彼に意思表示をするかのように自分のの唇を彼の唇へ軽く押し返した。

帰りの道中、私たちはまるで何事もなかったかのようにいつも通り話をし彼は私を家まで送ってくれた。

「今日は?昨日は?とても楽しかった、有難う」と笑いながらお礼を言うと彼は「思い切って誘って良かった。」と私の首に手を回し再度唇を重ねてきた。「急かさないから、美沙さんのペースに合わせるからゆっくりやっていこう」そう言った彼の笑顔はとても優しく、私には男らしく思えた。「そうね、ゆっくりね」と言い私は車を降りて自宅へ戻った。

私が帰宅したのは昼の12時前だったがお風呂に入りベッドで少し眠ろうと横になったが相当疲れていたのか目が覚めた時には既に時計の針は夕方6時を回っていた。ベッドサイドに置いた携帯に目をやるとランプが点滅していた。私は携帯を手に取り送られてきたテキストメッセージを読んだ。「大学が始まる前にデートしない?ちゃんとしたデート。」送り主は柴田君だった。私は一体何をしているんだろうか、そう思ったがそのテキストを読んで素直に嬉しいと思う自分もいた。そうだ私は自分の心の声に従おうと決めたのだ。私は「明日は論文と家の掃除をしたいから、それ以降にね。ちゃんとしたデートならプランは柴田君が考えてね、楽しみにしてる」と彼に返信した。


2日後、彼は約束通り私を迎えに来て彼の考えたデートコースに私を連れて行ってくれた。美術館に行き公園を散歩し私たちはゆっくりとした時間を2人で楽しんだ。初日の出を見に行ったときはあんなに躊躇していた私だが、今日はとてもリラックスして彼との時間を心から楽しんでいた。この人といる時間がこんなに心地の良いものなのかと自分でも驚くほどだった。私の論文の話や以前に話したジョージアガイドストーンの謎について、きっと彼はネットでいろいろと読んだのだろうと思わざるを得ないほど詳しく話していた。

私は「こういう話、退屈しない?」と彼に聞いた。「全然退屈しないよ、そもそもこういう話を退屈だと思うなら美沙さんの講義はとらないよ。美沙さんの分野って考古学でしょ、僕そいういうの好き」と言ってほほ笑んだ。「ねえ、美沙さんと柴田君じゃちょっと変な感じがしない?僕は美沙さん、でいいけど美沙さんは僕の呼び名を変えてよ」と彼は突然笑いながら言った。「そう?それじゃ…柴田君の下の名前で呼べばいい?正志君、いやもう21歳の成人だから正志さん、って呼ばせてもらおうかな」と私が返事をすると彼は嬉しそうに「正志さんか、いいね。一段と大人の男になった気がする」と言った。きっと彼も心のどこかで私たちの年の差や立場を気にしているんだと感じた。だからせめてお互いの呼び名だけでも対等にしようと思ったのだろう。そして私はそんな彼の気持ちを嬉しく感じ尊重してあげたいとも思った。だが私は「構内では柴田君に戻すからそこは理解してね、正志さん」と彼の気持ちをくすぐるように話しかけた。

ほどなくして大学が始まり私たちは多忙な生活の現実へと引き戻された。彼は大学が終わると週4回のアルバイトへ行き、私は相変わらず講義の準備や論文に追われていた。彼との付き合いが始まってから新年初めての講義。私はいつも通り淡々と講義を行い彼も真剣に聞いていたが、たまに合う視線がとてもくすぐったくもあり、またかぜか悪いことをしているかのような感情に襲われることもあった。大学の助教授とその学生、私たちは構内ではこの立場を貫き通す必要がある。講義が終わると彼は私のオフィスへ来ることが多くなった。その年明け最初の講義の後も彼は私のオフィスへ来た。ほんの数分、他愛もない話をしたところで彼が私にキスをしようとしたのを私は止めた。「大学構内では絶対にだめ。たとえ私のオフィスで誰も見てないという100%の保証があったとしてこういうことは構内では一切しない」と私は少し強めの口調で彼に伝えた。もっと優しい言い方もできたのではと一瞬思ったが、私は大学構内では助教授としての立場を彼に対しても明確にしたかった。それは自分が優位に立ちたいとかではなく、構内では彼にはここの学生として学ぶことを第一にしてもらいたく、そして私は構内では学生に享受することを第一にしたいとお互いのことを思ってのことだった。そのことを彼に伝えると「厳しいなと思ったけど、2人のことをちゃんと考えてくれてるんだって今初めて知った」と彼は少し満足気だった。「そうよ、私はこう見えてちゃんと私たちのことを考えているんですからね、お忘れなく。」その言葉に彼はにこっと笑いオフィスを出ようとした。

私は「柴田君!」と彼を呼び止めた。足を止めた彼がドアを再び閉めたのを確認すると「今日はバイト?もしこの後何もなければ…うちに来る?一緒に何か食べながら映画でも観ない?」と誘った。彼はとても嬉しそうな笑顔を私に向け「うん、行く。19時頃行っていい?」と私に尋ねた。「19時ね、今日はピザの出前と映画。時間ないから手料理はなしよ。それから今日はうっかりここでこんな話しちゃったけど次回からはお誘いはテキストを送ります」と冗談交じりに言うと「はいはい」と言いながら彼はオフィスを出た。


私は次回の講義の資料を準備して夕方5時に大学を出た。急いで家に帰りシャワーを浴びて着替えた。掃除機をかけ、トイレ掃除をし終わったところで彼から携帯に着信があった。マンションのエントランスにいるが部屋番号がわからないと言われ、私は自分の部屋番号をメールし忘れていることに気付いた。ごめんごめんと言いながら彼に部屋番号を伝え電話を切ったと同時にインターホンが鳴った。私は受話器を取り画面に映る彼を見ながら「どうぞ」と言って解錠した。


私たちはピザを食べながら映画を観て、ああでもないこうでもないとその映画の話で盛り上がっていた。

「冷蔵庫にビールあるけど、飲む?」と聞くと「俺が取りに行くよ、飲むでしょ?」と言って彼はカウチから立ち上がった。確か私はこのときの彼の後ろ姿を見て「この人のことが好きになったな、私」と初めて実感した。私たちはビールを1缶ずつあけ、映画を見終わった頃には22時になっていた。食べ終わったピザの箱やビールの空き缶を片付けようとそれらのごみをキッチンに持って行った時だった、彼が私を後ろから強く抱きしめ「今日は帰ったほうがいい?」と私の耳元で囁いた。「今夜は一緒にいる?」と彼に聞き返すと彼は「一緒にいたい」と言い私の体を彼の体に向き直しキスをした。私たちが一夜を共にする最初の夜だった。


翌朝、私は目が覚めたが目を開くことができなかった。とても恐怖を感じていた。私は目が覚めたとき一体この状況をどう感じるのだろうかと。とんでもないことをしたと後悔で目が覚めるのか、とても幸せな気持ちで目覚めるのか、そしてそれ以上に怖かったのが彼の気持ちだ。彼は朝起きたときまず最初にどんな感情を抱くのだろうか?見かけは若くても体はやっぱり40歳だった?年上と寝ることだけに興味があったがそれも達成したので足早に去って行くのだろうか?私はそんな考えを頭に張り巡らせながら目をそっと開けた。そして隣で眠っていたはずの彼の姿がなくなっていることに気付いた。リビングへ行きダイニングテーブルやリビングテーブルに置手紙などはないか確認したが見当たらなかった。私はベッドへ戻り頭ごとすっぽりと布団を被った。21歳の男なんて所詮はこんなものだ、あんな年下に少し遊ばれたって傷つくような年でもなければ減るものでもない。泣いたらいけない、泣いたらだめだ!と自分に言い聞かせ何度も深呼吸をして涙がこぼれないように自分を落ち着かせることに集中した。そしてこのとき、私は既に彼のことを大好きになっていてるから涙が出そうになるのだと実感した。もっと好きになります、と彼から告白され自分は追われる立場で少し心に余裕があったのかもしれない。だがとても穏やかでゆっくりとした時間を彼を共有することで私の彼への気持ちは自分が思う以上に肥大していったのだ。「やだな、39歳で失恋。しかも一夜を共にした後に居なくなるって。ドラマかよ…」と私は鼻をすすった。するとエントランスからのインターホンが鳴った。画面を確認するとそこには彼がいた。私は何が起こっているのか理解できず解錠ボタンを押してエントランスのドアを開けた。それから1分と経たないうちに彼が部屋のドアを開けて入ってきた。「ごめんごめん、俺のほうが早く起きたからコーヒー入れてあげようと思ったんだけど紅茶しか探せなくてさ、だから近くのコンビニで買ってきた」と言ってテーブルに数本の缶コーヒーを出した。私はゆっくりと目を閉じ小さくため息をついた。そしてさっきまで我慢していた涙が勝手溢れ出てしまった。驚いた彼は何が起こっているのかわからないといった様子で「なに、どうしたの?何かした?俺何か変なこと言った?」と矢継ぎ早に言葉を投げかけてきた。「目が覚めたら居なかったから、何も言わずに帰ったんだと思ってた」と言った私を彼は力強く抱きしめた。「俺はそいういう人間じゃないから。前に言ったよね?もっともっと好きになると思うって。俺は好きな人にそんなことはしないし、好きな人とじゃないと一晩過ごしたりしないから。俺はそういう人間じゃない、それだけは絶対に覚えておいて欲しい。」と更に強く私を抱きしめた。私は彼が帰ったのではなかったという安心感と彼のその言葉に今までにないほどの幸せを感じた。私はもっとこの人を好きになる、そう思わずにはいられなかった。彼は私を強く抱きしめたまま「他には?何か不安に思ったりしてることはない?言いたいことはない?好きな人には自分のことで不安になってほしくないから、俺は」と言った。「じゃあ言ってもいい?私ノンカフェインコーヒーしか飲まないの。それか紅茶。普通のコーヒーは飲まない。覚えておいてね」と言うと彼は「了解しました」と笑いながら私の髪の毛を撫でた。

それから私たちは週末は私の家で一緒に過ごすようになった。家の中で常にべったり一緒にということでもなく一緒に映画をみたり食事を作ったり、また私が論文作業に取り掛かっている時は彼も大学の勉強をしたり卒論の準備をしたりと同じ空間にてもお互いに心地よくある程度の距離を保って過ごすことができていた。この年になり18歳も年下の恋人とこんなにも心地が良く完璧な関係を築けていることに少し驚いてはいたが私はとても幸運なのだと思っていた。

彼は来年3月で大学を卒業するが4月からは大学院への進学が決まっていた。都内の大学院で考古学を専攻しいずれは海外の大学で中東考古学を専門にさらに学びたいを語っていた。この話を聞くたび私は彼を誇らしく思ったがその反面、自分のようになりたいと言ってくれる彼をこの時だけは18歳年下の教え子という気持ちにさせられるので彼の将来の夢についてはあまり深く話したいとは思っていなかった。


季節は春から夏へと変わったが私たちの関係は安定しているものだった。彼は大学が夏休みの間はバイトと図書館での勉強に明け暮れ私も論文とその資料集めに忙しくしていたが金曜日の夜から日曜日の夜までは論文も勉強のことも忘れ2人の時間を大切に過ごしていた。彼とこのような関係になり7か月、彼の口からは少しずつ彼の家族の話も出るようになった。彼の父親は国家公務員で世間一般ではキャリア官僚と呼ばれる立場の人だった。そして母親は彼の父親の大学の同級生で大学を卒業後は大手の旅行会社で働いていたが彼を妊娠した時に退職し、以後は専業主婦だという。彼は一人息子で兄弟はいない。そのため双方の祖父母から大変可愛がられて今でも家に来るときはその時間を一緒に過ごすと言っていた。その話を聞いたとき、私の鼓動が少し早くなり居心地の悪さを感じた。祖父母や両親に大切に大事に育てられた自慢の息子が、通っている大学の39歳の助教授と恋人関係になっていると知ったらどのように思うだろうか。成績もよく将来のある男がなぜ18歳も年上の女と付き合っているのか、もっと他に若い釣り合いの取れる女性がいるだろうと言われるに違いない、と私は思っていた。なので彼の家族の話を聞くのはあまり好きではなかった。が、8月もそろそろ中旬に差し掛かろうというとき彼からとんでもない提案をされた。毎年8月の終わりに彼の祖父のお誕生日会を彼の実家でお祝いすることになっていうのだが、今年はそれに私も一緒に参加してほしいというのだ。私は目を見開いて驚いた。「正志さん、ご両親に私の話をしてるの?」「うん、具体的には言ってないよ。美沙さんが助教授だとかそいういう話はまだしてない。でも新年から付き合ってる大好きな彼女がいるってことは少し前から話してる。親父もお袋も俺が自分から彼女の話なんて今までしたことなかったから喜んでるよ。ぜひ会いたいって。俺も美沙さんに会って欲しいよ」とあっけらかんと言う彼に一瞬私は腹が立ったが冷静になり彼に話をした。「とても有難いお話しだけど、正志さんのご両親やその他ご家族に会うのは私は気が引けるわ。だって考えてみてよ、将来のある一人息子が通っている大学の助教授が彼女なんて、しかも18歳も年上の。がっかりさせちゃうの嫌でしょ?いずれ会う機会はあるかもしれない、でもそれは今じゃないと思う」すると彼は「なんで年齢の話とかするの?前にカフェで年齢聞いた時に美沙さんは自分の年齢なんてどうでもいい、気にもしてないって言ってたのに。実際にいちばん気にしてるの自分だろ」という彼のその言葉に私はすぐには反論できなかった。しかし私は彼に「私だけの立場であれば年齢なんて気にしないって言えるけど周りを巻き込むことになればそれは話は別でしょう。年齢なんて関係ないとか聞こえはいいけど。でもそれに少なからず傷ついたりショックを受ける人もいる、そういう人の前では年齢や年の差なんて関係ないと言い張るのは身勝手だわ」と続けた。そして私が更に言葉を重ねようとすると「もういいよ、わかったから。今年は諦める。」と言って彼は会話を止めてしまった。それから彼が帰る前の数時間を一緒に過ごしたがどこかぎこちなかった。相変わらず優しく極めて普段通りに接しようとしてくれていたが彼の表情からはまだ納得の行かない気分なのが手に取るようにわかった。これが私たちの最初の喧嘩だった。

それから1週間後、彼からメールが来た。彼の祖父のお誕生日会のことは今年は諦めるけどプレゼントを買うのは付き合ってくれる?という内容だった。私がもちろんと返信をするとその2時間後に彼が迎えに来てくれた。先週はお互いにごたごたしてしまったが、数日会わなかった間にお互い落ち着きを取り戻しいつもの私たちにすっかり戻っていた。私たちは都内のデパートに行き彼の祖父のプレゼントを見て回った。彼の祖父は65歳のときに定年退職をしており、今は都内のマンションで夫婦2人で暮らし趣味の旅行やゴルフ、囲碁を楽しんでいると彼が話してくれた。「今年70歳になるけど年に2,3回は海外旅行に行くんだよ、じいちゃん。働いてたときに出張で使っていたスーツケースがもう傷だらけだから今年はスーツケースをプレゼントしたいんだけどどう思う?」と私に話しながら綺麗に並べられたスーツケースを物色していた。そこの売場に20分ほどいただろうか、彼と私は軽量だが内容量の多いシルバーのシンプルなスーツケースを選んだ。「じいちゃん喜ぶな。若者が持つようなスーツケースだ!って」と彼が優しく微笑んだ。

そんな彼を見ながら私はこの18歳の年の差を初めて恨むような気持になった。私がもっと若ければなんの躊躇もなく彼の家族に会えるのに、どうして私は彼よりもこんなに早く生まれてしまったのだろう…そんな事を考えながらお会計をしている彼の後ろ姿を眺めていた。そして私は「ねえ、私も半分払う。今年はお祝いには行けないけどこれを私たち2人からのプレゼントってことでカードにも一緒に名前書かない?」と彼に提案をした。私の言葉を受けたかれは今まで見た中でいちばんと言っても過言ではないほどの笑顔で「いいね、そうしよう!」と嬉しそうに答えた。そしてお会計を2人で済ませデパートを後にした。車を運転している彼が「飛行機みたくない?空港で早めの夕飯食べてから美沙さんの家に帰ろうよ」と提案した。「いいね、空港なんてもう随分行ってないな私。3年前のハワイ旅行の時以来」そして彼は「よし、そうしよう。」と言って車を空港へ走らせた。土曜日とあって空港は多くの人で賑わっていたがたくさんのお土産やレストランがあり食べたい物があり過ぎてなかなか決まらないと2人で言いながら空港のインフォメーションにある冊子を彼が手に取りどんな食べ物があるのかを調べていた。私は彼の少し後ろで空港を見渡しお店の看板を見ながら「これから海外に行く人とかきっとすごく心が弾んでるよね」と彼に聞こえるか聞こえないかの声で独り言を言いながら空港の雰囲気を楽しんでいた。スーツケースをゴロゴロ引きながら行きかう人を見渡し、あの人はスーツ着てるから出張かな?あの人はラフな格好してるけど海外旅行?でも荷物が小さいから国内かな?などと想像しながら尚も空港を見渡していると、前方からスーツに身を固めた一人の男性がスーツケースを引いて歩いてきた。あの人はいかにも出張って感じね、と心の中で思っていたのだが、その男性は私に向かってどんどん歩いてきていた。そしてその男性が私の手前5メートルほどまでやって来たとき私は一瞬、心臓が止まる思いだった。質の良い濃紺のスーツに身を包み自信に満ち溢れているように見えるその男性を目の前に私は言葉が出なかった。ただただ立ちすくみ微動だにしなかった私にその男性は「久しぶりだね、美沙」と声をかけた。「お久しぶり…秀、さん」「さんて何だよ秀さんて、調子狂うなまったく」とその男性は私を見ては優しく笑った。原田秀、彼は私が大学時代から卒業後1年までを一緒に過ごしインド駐在の辞令と共にプロポーズをしてくれた人だった。「もうすぐ40歳だっていうのに全然変わらないな、美沙は。」と言い私のことをずっと見つめている。秀さんも変わらないねと返事をするのが精いっぱいだったが実際の彼は良い意味でとても変わっていた。社会人になってすぐにスーツの似合う大人の男性になった彼だったが、今ではそれに貫禄もついている。仕事や彼自身の人生に対する自信も溢れ出ていた。「やっぱりというか、本当素敵になったね秀さんは」と私が言うと彼は「だからその秀さんて何だよもう、秀でいいじゃないか」と言い私たちは15年ぶりに笑い合った。するとそこへ何やら私たちの様子に気付いた正志さんがやってきて「知り合い?」と私に尋ねた。「そう、大学時代の先輩で友人の原田秀さん」と彼に紹介をした。すると秀は「そっか、そうだな15年も経てば友人と言われるわけだな」と冗談っぽくため息をついたが私はそのとき、正志さんの顔が一瞬だけ曇ったのを見逃さなかった。私は彼を不安にさせたくなかったので秀に「もうお子さんとかいるの?ご結婚は?」と尋ねた。彼のこの風貌であれば独身なんて絶対にありえないと思った。だからそこで彼の奥様やお子さんの話がでれば正志さんも「遠い昔の出来事」として変な勘繰りをしないで済むと気を利かせたつもりだったのだが秀の口から出た回答は私の望んでいるものではなかった。「子供?いないよ。結婚もしてない。バツイチとかでもないからね。生涯独身だよ俺は。」と言い私を見た。私はなぜかこれ以上正志さんの表情の変化を確認することができなかった。彼に視線を送らない私と秀の言動からすべてを悟ったように正志さんは秀に会話を投げかけた。「ああ、昔付き合ってたのね2人は。大学時代のほろ苦い思い出ってやつですね。」すると秀は「そう、ほろ苦いなんてもんじゃないよ。俺はそれで今でも独身。もちろん恋人もちゃんといたよ。何年も付き合った恋人だっていた。でもその恋人にそろそろ結婚を考えたいと言われて返事を濁してたら、結婚に戸惑いがあるなら半年か1年の間、同棲をしてみてそれから結論をだしてもいいじゃないかって提案されて。でもダメだったなあ。結婚も同棲も結局は踏み切れなかった。結婚したい相手も一つ屋根の下で暮らしたい相手も俺には生涯1人しかいなかったからさ。遠距離なんて無理だ、裏切らないって約束なんかできないなんて子供染みたこと言わなきゃよかったよ。インドへ行ってる間の2年だけを我慢してたら俺は今頃すごく幸せな結婚生活を送れていたんじゃないかと今でも考えるときがあるよ。」と正志さんと私の顔を交互に見ると「なんちゃってね」と誤魔化すように笑いだした。「それよりそちらは…美沙の彼?」と秀に聞かれたが、私は秀の言葉に動揺してしまい「え?あ、うん、まあ」と曖昧な返事をすることしか出来なかった。「おっ、もうすぐ搭乗時間だから俺行くわ。会えて良かったよ。」と私の肩をポンと叩き秀は足早にその場を去って行った。その場に残された正志さんと私は何とも言えない空気の中に取り残されている気がしたが、私は彼に今のはすべて大昔のできごとで今の私にとってはただの思い出でしかないということを彼にわかってほしかった。しかし彼の表情は曇ったままで食事の時も飛行機を見ているときもその表情に変化はなかった。帰りの車の中でも喋ろうとせず私の家に帰り一緒にテレビを観ている時も無言のまま。私はいたたまれなくなり「いつまでそんな表情してるの?このまま喋らずに週末を一緒に過ごすなら一緒にいる意味はないんじゃない?」と切り出した。すると彼は「さっきあの人に俺のことを恋人かと聞かれてどうして、そうだって言えなかったの?それとも言わなかったの?」と詰め寄ってきた。「恋人かと聞かれて、うんと返事したじゃない、聞いてなかったの!?」と私が言うと彼は「あれは返事じゃない、ただ狼狽えていただけだろう?なあ、なんで俺と一緒にいるの?なんで付き合ってるの?俺の家族にも会おうとしない癖になんでこうやって一緒にいるの?俺たちこの先に何かあるの?」と少し声を荒げた。私は「家族に会わない理由は前にも説明したでしょ?今年は無理だけどいずれはってことで納得してくれてたはずじゃなかった?付き合い始めるときに、ゆっくり進めていこうって2人で決めたじゃない、それなのにどうして家族に会わないとかこの先に何があるなんて言い出すの?」と静かに言うと彼は「もういいよ。家族に会ってくれないんじゃ先もないってことだよな。」と吐き捨てるように言った。「ねえ、あなたのお母さんて45歳って前に言ってたわよね?私は今年の12月で40歳になるの。自慢の一人息子が自分と5歳しか違わない女を彼女ですって紹介したらあなたのお母さんはどう思う?きっと気が動転してショックを受けて、どうしてこんな18歳も年上の女じゃないとダメなの、もっと若い子は五万といるでしょう、何もお母さんと大して年の変わらない女と!って私の前で言ったら?私の年齢を知ってあなたのお母さんを傷つけて、ショックを受けたお母さんの言葉で私が傷ついて…こればっかりはそう簡単にいかないことくらいあなただって子供じゃないんだからわかるでしょ?こんなこと何度も私に説明させないでよ!」と私は思わず声を荒げてしまった。しばらくの沈黙の後、彼は私にこう切り出した。「さっきの人、秀さん?あの人とならなんの柵も問題もなく一緒になれるのにね。15年前にあの人と結婚してたらこんな面倒臭いことにはなってなかった、15年前にプロポーズを断ったのは最大の失敗だったって思ってる?」私は心底がっかりした。ほんの8か月とは言え私たちは一緒に過ごし充実した毎日を送っていたものだとばかり思っていた。しかし彼の祖父のお祝いは今年は行けないと私が言ったその日から彼の不満は募っていたのだろう。しかしその不満も今日の買い物で少し解消されつつあったが15年前の恋人に偶然会ってしまったことで彼の中で何かが変わってしまったのかも知れない。私は彼に私に今必要なのは彼で一緒にいたいのも彼だということをもういちど知ってほしかった。来年には彼の家族に会うという確約もしてあげられない、その時には私は更に1年、年をとっているのだから、もしかしたら今以上に彼の家族と会うことに躊躇する可能性もある。それでも私は彼の気持ちが変わらない限り、彼の傍にいるつもりだしそうしたいという気持ちを彼に伝えようとした。「15年も前のことを今さら蒸し返してどうするの?私はこの15年、過去を振り返って生きた事は一度もない。あのときこうしてれば、あのときこう言ってれば、それは私がいちばん嫌いなこと。過去を振り返ったときに後悔が全くない人間なんていないかもしれない、けれど私はこの15年間の人生についてだけは後悔は全くないと言い切れる自信がある。私はあなたの気持ちが変わらない限りあなたの傍にいるから」その言葉を聞くと彼は私の方へ近寄ってきた。私は彼がいつもの通り強く抱きしめてくれるとばかり思っていた。しかし彼は私の前までくると足を止め「俺の気持ちが変わらない限り、ね。いいね、それ。俺のことを想ってくれてるって感じが年上の恋人っぽいよ。他人から見たら物分かりのよい出来た年上の恋人だろうな。年上と遊びたい男からしたら最高の条件だよ。でも俺はそういうタイプの男じゃないから。この関係が俺次第なんて嬉しくもないよ。美沙、そんなのは実際は逃げ道作ってるだけだよ。俺のためじゃない、美沙自身のためだろ?」そう言って彼は部屋の玄関へと歩いて行った。私は振り返って彼を止めたかった、行かないでと言いたかった。けど私の頭の片隅にほんの少しだけ残っていた冷静な脳は私の動きを完全に静止したし、行かないで、一緒にいてほしいの簡単な言葉が言えなかった。いや、言うべきではないと思った。私は振り返ることもできずただ玄関のドアが静かに閉まる音だけを確認した。その音を聞いた途端、私の目からは大粒の涙がぼろぼろとこぼれ落ちた。この部屋にいるのは私一人だというのに私はなぜか声を押し殺して泣いた。


10月、街の木々が紅葉を始めているこの時期は私が1年でも最もすきな季節だ。肌寒く人恋しくなるという人ももいるが私はこの肌寒い時期に吹く新鮮な風を全身で受けて街を歩くのが大好きだ。彼との別れからもうすぐ2か月が経とうとしている。彼は今でも私の講義を受けているがあれ以来視線が絡むことは一度もない。私は意識的にに彼に目線を向けないように努めているが一方の彼は正直言うと私の関係などはまったく無かったかのようにしているのが悲しいほどに伝わってくる。私にとっての彼はほんの8か月ではあったが素晴らしい時間を共にし今でも忘れられない人となっているが彼にとっての私は大学で世界の文化と言語、考古学についてひたすら喋っているただの助教授なのだろう。過去を振り返ることは好きではない。だが彼とのことだけは毎日のように考えてしまっている。私があのとき彼の気持ちが変わらない限りなどという言葉を使わなければ彼を繋ぎ止めることができたのだろうか?私があのとき彼の祖父のお祝いに行くと言っていれば今でも一緒にいれたのだろうか?何度自問を繰り返しても答えは見つからない。きっと何度あの状況に巻き戻しても私は同じ行動を取り、同じ言葉を使って彼に気持ちを伝えるのだろう。だから結果は同じでありなるべくしてなった現在なのだと諦めはついていた。彼と構外で会うことがなくなってからは私は論文の仕上げに全力で取り掛かった。学会などに提出する期限のある論文ではなくアメリカのボストンの大学の私が尊敬している教授へ送って読んでもらい意見やアドバイスがほしいといったまったくもって私的な論文だったためだらだらと時間がかかってしまっていたが、彼と別れた後に私はとにかく何かに集中し没頭したいと思い講義の無いときはオフィスと自宅に籠り論文を仕上げた。仮にこの論文をボストンの大学へ送付したところで教授の手元まで届くかは定かではない。名誉ある教授のもとへ自分の論文を送りアドバイスや意見をもらおうと思っている人間など世界中に星の数ほどいるのだから私の論文も大学へ届けられても事務職員が開封して未読書類を詰める段ボールなどに入れられそのまま一生眠ってしまう可能性も大いにあった。だが私はそれでもいいと論文に没頭し忘れもしない10月1日に郵便局へ行きEMSでボストンの大学の教授宛てに送付した。私的とはいえ一つ大きな仕事を片付けた充実感はとても大きく構内の自分のオフィスから外を眺める余裕も出来た。構内の木々も綺麗に紅葉し、道端の落ち葉も赤や黄色の色鮮やかな絨毯のようだった。「やっぱりこの季節がいちばんね…」と独り言を言いながら、外を歩く学生達を眺めていた。数人の女子学生が足取り軽く楽しそうに歩き、ある学生は本を読みながら一人であるいている。そして男子学生の3人組に目が留まった。右側を歩いているその男子学生の後ろ姿は彼だった。彼はいつも人と歩くときに右側を歩く。だからいつも私と歩くときは彼の左手で私の右手を包み込むように繋いでくれていた。そんな少し前の思い出と彼の後ろ姿に私の胸は締め付けられるような思いだった。しかし友人たちと談笑しながら構内を楽しそうに歩く彼、そして仕事を終え構内のオフィスから外を眺めている私、これが私たちお互いの本来の在るべき姿なのだと自分に言い聞かせた。


時が流れるのはとてつもなく早く気付けば更に寒さの厳しい12月半ばになっていた。昨日金曜日、大学の事務員から珍しく私に電話がかかってきた。何やら大事そうな書類なのでスペアキーを使い私のオフィスのデスクに置いておくので確認してほしいとのことだった。私は今年最後の講義の準備も終えなければならなかったので事務員に明日の土曜日に仕事があるのでその際に確認をし書類を受け取ったら構内の事務連絡用メールで受け取った旨を送信すると話し電話を切った。そして土曜日私はお昼前に自宅を出たのだが、クリスマス前ということもあり土曜日の街はたくさんの人で賑わっていた。買い物袋をたくさん抱えて歩く人、恋人同士であろう男女が寒さを凌ぐよう寄り添いながら歩いていた。。私はそんな人々を横目に土曜日の街を急いで歩き大学へと向かっていた。土曜日の大学はとても静かだ。図書館など警備員のいる施設は一部開放されていたがさすがにクリスマス前の土曜日など学生は図書館になど寄り付かないのだろう、構内は恐ろしいほど静かだった。私は自分のオフィスのドアを開けデスクに置いてある封筒が置かれていることを確認すると事務用メールに荷物を受け取った旨を記載し事務員宛に送信した。そしてすぐに今年最後の講義の準備に取り掛かりばたばたを資料を集め作業を始めた。オフィスに入ったのは12時45分頃だったろうか、気付けば時計は既に4時を指していた。土曜日の構内がとても静かなため作業はとても捗り「これで今年1年も無事に終わりそうね!」と自分を景気づけるように両手を叩きオフィスを出る準備をした。デスク周りを片付けていると先ほど受け取ったA4サイズの茶黄色の封筒が目に留まった。「ああ、すっかり忘れてた。確か重要そうだとは言ってたけど…」とまたも独り言を言いながら封筒を手に取り差出人を確認した。そこには MA州 Boston University と印鑑で表記されておりその下には私の尊敬している考古学教授の名前が記されていた。私の論文を読んでくれたのか?それとも読んではいないけど受け取った以上は「論文を送ってくれて有難う、時間のあるときに必ず読みます」や「論文を読みました、よく書けています。これからも頑張って!」などの社交辞令のお手紙か、などと想像しながら封筒を開けた。実は私は論文を彼女に送ったのは初めてではなかった。この大学へ就職がきまり正式に助教授になってから今回の論文を含めると2回ほど送っていた。そして先に記した社交辞令の決まり文句の1つが当時の返事の内容だった。私は論文に指摘やアドバイスがほしくて送っているのだがいつもまと外れな返信手紙が来て毎回がっかりしていた。きっと教授本人の手元へは届かず、それこそ私のような助教授、もっと言えば事務方が「はいはい、また論文来たよ」という具合に処理をしているのだと思わざるを得なかった。そして今回も封筒にはたった1枚の手紙が同封されていた。私は椅子に深く腰を落としその手紙を読み体が固まった。何度も何度も読み直し内容に間違いが無いか穴があくほど読み直した。その手紙が英文であったがこう記されていた。

「あなたがこれまで送ってくれた論文はすべて読んでいます。最初の論文はあなたの知識の豊かさが想像できるほどよくまとまっていました。ですがその論文は世界中の、知識を持った平凡な教授や助教授が書く論文という枠から飛び出るものではなかっかたわね。でも今回送られて来た論文は素晴らしくとても興味深かったです。更なる知識を身につけた上にたくさんの資料からの情報を使い、そこへあなたの個人の仮設を繋ぎ合わせ誰もが肯定も否定もできないという非常に素晴らしく興味深い内容にとても引き付けられました。どうでしょうか、もしあなたの周囲の方々が納得の元、ぜひこの大学で私と一緒に考古学の研究をしてみませんか?よろしければまずはメールでやり取りをしましょう。」と書かれ文章の最後には自筆とみられる彼女のサインが記されていた。私は発狂しそうだった。いや、発狂していたと思う。尊敬してやまない教授と一緒に働き研究をしたいという夢が今私の人生の現実になろうとしている。私はこのとき初めて「報われた」と感じた。私はこのことを家族や親友に連絡をした。みんな自分のことのように喜んでくれた。

その後私は投資会社に勤務する友人と現在では薬剤師に復帰した友人、親友3人組でお祝いをした。2人ともとても喜んでくれて、よくやったー!とまるで犬や猫の頭を撫でるように私の髪の毛を撫でた。そしてボストン行きの話もほどほどに、それぞれのプライベートな近況報告が始まった。薬剤師の公子は実は2か月前に極秘離婚をしていたと言い私も哲子もええええええ!と大絶叫。公認会計士と薬剤師の理想のカップルだたた公子が…しかし彼女は言う。「家庭に入って一日でも早く妊娠して会計事務所を継いでいける男の子を生んでほしいと夫からも姑からも言われ続けて疲れちゃったのよ。おまえに問題があるんじゃないのか?って何度も言われ不妊治療外来なんか行かされて。でも私にはまったく問題なし。十分に自然妊娠できる状態ですって太鼓判もらったの。ドクターが言うには夫の精子活動が原因だって。でも夫はそんなことあるわけないの一点張り、姑も体に悪いものなど幼少期から食べさせたことがない!精子活動が悪いのは嫁との相性が悪いからだ!って。なんかもうどうでも良くなってさ。薬剤師に復帰すれば自分で生活できるし、子供いないから離婚も揉めないだろうと思って即決離婚しちゃった。最初は家に1人ってことに慣れなかったけど今じゃ独身謳歌してるよ私。ふふ、薬剤師のパーティーで知り合った製薬会社の人と3か月ほど付き合っちゃったりなんかしてる、ふふふ。」と冗談ぽくも顔を赤らめて話す公子。そして投資会社に勤務するバリキャリの哲子は「私も半年くらいになる彼氏がいるんだけどさあ、同棲したいって言われて保留にしてる。家の大きさから考えて当然、彼がうちに引っ越してくるだろうけど…一人の空間まで踏み込まれるのはすごく考えちゃうな、しかも7歳も年下。将来どうすんだ私!」と笑いながらビールを一気に飲みほした。

私はそんな彼女たちが羨ましいと思った。今でも正志さんと一緒にいれたなら私は親友達に彼の話をしただろう。18歳も年下だけど将来の夢も音楽の趣味も合う、私にとっては勿体ないほどの貴重な男性だと言えたと思う。だが彼の姿はない。私の横にいた彼はもうどこか遠くに行ってしまった。大学に行けば彼を一目見ることはできる、だが彼が私に視線を送ることはもう、ない。私はこの1年間に起こった私の走馬燈のような出来事を彼女達に話そうと思っていたが結局はしなかった。「ねぇ美沙は何にもなかったの?最近とか?」「だーかーらー、そのボストン大学への招待が私のビッグニュースだって!」「そりゃビッグニュースだ、うん、間違いない」すると哲子が「恋愛は?なにもなかった?久しぶりに会った美沙、ちょっと疲れてそうな気もするけど、でも儚くていい女になってるよ」そんな言葉に驚いたが私たちは「ないない!」大笑いした。そして私たちはお店を出る時に来年の抱負をひとりずつ発表しようとなった。

哲子「仕事第一の姿勢は変えずとも、彼氏との関係について真剣に考える。お互いが心地よい間柄になるように時間がかかってもいいから模索は続ける!」公子「私も仕事第一、でも今の彼との関係は長く続けていけるように努力したい。なんでも2人で話し合い解決策を導き出せるようなパートナーになれるように努力する!」そして公子が私の名前を叫んだ。私は「ボストンでの仕事はもちろん第一に頑張るつもり。でも仕事もプライべートもまずは自分の心の声に従うようにしていきたい。しろんな柵とか面倒臭いものもあるけど、それでも私は自分の心に素直に従いその先で幸せを掴みたい」私たちはお店を出て3人で強くハグをした。ボストンに遊びに行く、日本に里帰りもするからと一通りの会話をして私たちはそれぞれの家路についた。


12月31日大晦日。私は横浜市の実家に帰り両親、姉夫婦と姪っ子とゆっくりと過ごしていた。後半にあった私のお誕生日会も一緒にしてくれるというので私は大晦日と新年を実家で過ごすことにした。

「出発は3月でしょ?」と台所から母の声が聞こえる。「そう3月、大学の卒業式が終わって1週間後に出発する。向こうの大学は新学期が9月初旬からだけど、その前の準備もあるから7月までには出勤できる状態にして欲しいってお願いされてるの。家探しもあるし、車の免許も取らないといけないし。とにかく仕事が始まる前に家を見つけて生活基盤は作っておいたいの、お母さん。ある程度の地理も把握して街を回ったりして。そうすれば心に余裕ができた状態で初日を迎えられるでしょ?」そんな会話を母としているうちに夕飯の時間になった。大晦日らしく食卓にはお寿司、カニ好き、すき焼きが並べられている。「やっぱり実家のごはんが世界いちー!と言いながら食べる私も姪っ子が笑いながら見ていた。「美沙お姉ちゃん元気だね」という姪っ子の一言で家族中が笑いに包まれた。食事のあと私は家の縁側に座り肌寒い空気に体を晒して酔いを醒ましていた。澄んだ空に浮かぶ星がとても綺麗で私はその場から動きたくなかった。すると姉が私の横に座って話を始めた。「小さいころはみーちゃん、みーちゃんってお転婆さんだった美沙がボストンで助教授なんて信じられないね。昔の変顔の写真でもデスクに飾っておけばいいよ、初心忘れからずって」と言い私たちは爆笑をした。しかし姉はすぐに姿勢を正し私の目を見て言った。「何があっても後悔はしたらだめよ。後悔するかも、と思ったときは少し後ろを振り返ってやり直したり取り戻せばいいの。過去を振り返ってまだ間に合うとわかっているのにそのまま立ち去り後になって後悔することほど愚かなことはないわよ。人間は常にスタート地点に戻ることができる、それはすべての人に平等に与えられているチャンスでもある。でも何度かやり直してもその先の結果は常に同じ、変わらないのであればそうなる運命だったんだ、自分には変えられなかったって諦めればいいのよ!」と私の頭を撫で姉は台所へ戻っていった。

姉のこの言葉を聞き私は正志を思い出し胸にこみ上げる何かを感じながら携帯を手に取った。振り返ってほんの少し後戻りをしてやり直す。40歳目前の女が21歳の学生に自分の気持ちを今更伝えてどうなる?これだから年上の独身女は厄介だと思われるだろうか。いや私が彼にコンタクトを取るその行為じたいが迷惑だと思われるだろうか…私はそっと携帯をテーブルの上に置き戻した。彼と連絡を取り合わなくなり既に3か月以上が過ぎていた。その間彼からの連絡など一切ない。ここで私が彼に連絡をとり会って話がしたいと言えば優しい彼のことだ、必ず会って話を聞いてくれるだろう。しかし私もこの辛く苦しい3か月、彼に連絡をしたい衝動に何度も駆られたがいつもその感情を抑えここまでいた。私の講義の時間、大学構内で偶然すれ違うとき彼はまるで私がいたことさえも知らなかったようだった。きっと本当に気付いていなかったのだろう。恋人同士はときに「空気のような存在でありたい」というが今の私にはその「空気のような存在」の価値がまったくわからない。今の彼にとって私はまさに空気だ。それは無くてはならない存在という意味の空気ではなく、実際に存在はするが目には見えることはなく敢えて確認する必要のない空気なのだ。今年も残りわずか数時間、この数時間で彼のすべてを私の全身から取り出そう。そして新たな年を迎えようと心に小さな誓いを立てた。


騒がしくも楽しい新年を実家で過ごしたがその後の大学が始まるまでの4日間は私は自宅で過ごした。3月の渡米の準備に追われていたのだ。ボストンで働くにあたりビザが必要なのだが大学側がすべてサポートをしてくれているので非常にスムーズに準備は進んでいたが、それでも結構な量の書類の記入や指定病院での健康診断、実家のある県の県庁と現在私の住んでいる東京の都庁で犯罪は犯していないという証明を発行してもらうために指紋を採ったりとやるべきことはたくさんあった。そのこともあり1月2月は私は大学での講義を終えオフィスで次回講義の準備を終わらせると足早に大学を後にしていた。自宅へメールのチェックをするとボストン大学の職員からメールが届いていた。私の住む家の住所や内覧写真が添付されていた。

2ベッドルーム、キッチンダイニング、リビングルーム、全て濃い目のベージュが基調とされていてリビングには暖炉もあった。個室トイレも1つあり私はそれがいちばんう嬉しかったのは今でも忘れない。

冬のボストンの雪がとても心配だったが私は何より新しい土地での生活と新しい職場にとても興奮していた。どんなに辛く厳しいことがあっても私は絶対に負けないと心に誓っていた。この機会を得るために犠牲にしたものなどは一切ない、しかし今までの40年の人生での辛い思いや厳しい経験はこの好機を得るための代償だったのだと思いながら荷造りを始めていた。今までの一つ一つの大事な人生を大切に箱に詰めていた。3月の大学の卒業期も無事に終わり卒業生していく学生を見届けて私は大学構内のオフィスへ戻った。

ボストンへ持参する大事な私物と私の後任となる者へ残す資料や本を選別する作業をしていた時、誰かがドアをノックした。「どうぞ入って」と作業を続けながら声をかけるとドアが開いた。「行くんだって?ボストン。最近聞いて驚いた。なんで言わなかったの?あ、俺22歳になったんだ、念のため」しばらく見なかった彼はより一層たくましい男性になったように感じられた。相変わらずの低い声、落ち着いた物言いで質問された私は一瞬戸惑った。「提出した論文、ちゃんと読んでもらってたみたいでね。あちらの教授から一緒に仕事しようって誘われたの。でもその手紙をもらったのはあなたと会わなくなった後だから話す必要もなかったでしょ。学生一人一人に私は辞めます、ボストンへ行きますなんて報告しないわよ普通。」と作業する手は止めず目線だけを彼に送った。「もしまだ一緒だったら…断ってた?この話」彼はドアに背をもたれさせながら私を見ていた。「それはないわね。誰と一緒にいようがこの話は絶対に断らない。断るはずがない。そんな中途半端な気持ちでこの道を選んだわけじゃないから」「じゃあ俺がボストンに一緒に行ってボストンの大学に通うって言ったらどうする?俺やっぱり忘れられないよ、美沙さん。この3か月忘れようと努力した。女の子とデートしたいしてすべてを忘れようと努力したんだよ。でもだめ。若いとか年上とか年齢の問題じゃないんだよ。美沙さんの雰囲気とか温もりとか、傍にいてくれるだけで俺まで穏やかにしてくれる人なんて他にいないんだよ。この人だけは手放したらだめだってそう思えるの美沙さんしかいない。強く抱きしめたいと思える女性はあなたしかいない。だから一緒にいたいよ俺は」彼は私から目線を外そうとしなかった。彼の表情や声、彼のすべてに思わず身を投げ出してしまいと思った。とても愛しく私だって彼を手放したくないと思った。でも私はここですべてを終わらそう、と思った。私自身のためではなく彼のために。

「前にあたな言ったじゃない?俺たちの先にはなにがあるんだって。私あのときはちゃんと答えてあげられなかったけど今ならちゃんと答えてあげられる。私たちの先にあるのは「何もない」よりも更に辛いなにかがある。私あなたのことすごく好きよ。今でも大好き。自分でも驚いてるくらい。18歳も年下の男性にこんなにも惹かれてることが恥ずかしい。私たち今はきっと同じ気持ちよね、だからまた一緒になりましょうって言うのはものすごく簡単。仮にあなたや私の家族に大反対をされたとしても一緒にボストンへ行ってしまえばすごく幸せな生活が送れると思うわ。それでまず一つは解決ね。でもそれから先のことって考えたことある?2年や3年先のことじゃないわよ?10年20年先のことよ?いつかあなたが結婚をしたいと言ったらきっと私はあなたと結婚をすると思う。しばらくは更に幸せな人生よね私たち。でも2人きりの生活が続いていつかあなたが子供がほしいと考えるようになったらどう?私はその望みだけは叶えてあげられない。私今現在で既に40歳よ。10年後にあなたが32歳になるころ私は50歳。何をどうしたって子供なんか授かれない。じゃあ今から3年後ならどう?今は医療の進化も目覚ましいから不妊治療とか専門家の助けでもしかして妊娠できるかもしれない。でも私はそこまでして子供がほしいとは思っていない。どんなに好きな人のお願いでも私は首を縦には振らない。その考えは今もこの先もか変わることはないの。結婚をして子供授かりたいっていう普通の女性なら誰もが望むその将来は私はもう望んでないの。ね?わかったでしょ?あなたにはあなたの年相応の人がいる。まだ出会ってないだけ、だってまだ22歳なんだから。過去は振り返らないで目の前にある素晴らしい将来に向かってほしい。」そして私は私物を抱え「卒業おめでとう」と彼に伝えオフィスを出た。



この日私と教授はニューヨークシティのとあるホテルにて3日に渡り開催されたアメリカ東海岸のニューイングランドと呼ばれるメイン州、ニューハンプシャー州、バーモント州、マサチューセッツ州、ロードアイランド州、そそてコネチカット州の6州からなる考古学者などを集め新作のソフトウェアや産業用CTスキャナーの展示会フォーラムへ参加していた。最終日のフォーラムが終了し夜21時からはパーティーに参加するため教授と私は21時にパーティー会場で会う約束をしてそれぞれの部屋へ戻った。私はシャワーを浴び大きくため息をつきながらキングサイズのベッドに大の字に寝転んだ。携帯のアラームを19時にセットしそのまま深く眠った。19時ちょうどのピーという大きなアラームで起きた私は昼寝時間が長かったせいか頭が重くまだまだ寝ていたいという気分だった。私は後ろ髪をひかれるようにしてベッドから起き上がり再度シャワーを浴びて目を覚ました。髪の毛を整え化粧をしてドレスに着替えた。ロイヤルブルーのドレス大学の同僚と一緒に買い物へ行ったときに彼女が私に似合うと選んでくれたものだった。背中が大きめに開いているが胸元は控えめなラインで私もとても気に入っていた。黒いヒールを履き予定よりも10分ほど早く2階のバンケットへ到着した。とても広いバンケットにはドレスやタキシードに身を包んだ学者やその関係者で溢れかえっていた。私はこの人並みへいったん入ってしまったら教授を探すのは大変だろうと思い

バンケット入口付近で教授を待つことにした。私はこのドレスを購入したとき、少し派手なのではと心配したが会場を行きかう女性達はみんな赤や黄色や緑、スパンコールを纏った光沢のある黒いドレスなど華やかなドレスが会場を覆いつくしまるで蝶が舞っているようだった。私はそんな色とりどりの美しいドレスを観察し「次の機会ではあんな感じの色に挑戦してみようか」などと考えながら行きかう人々を眺めていた。そしてその鮮やかな喋々の間を颯爽とスマートに歩く男性が私の目に飛び込んで来た。がしいりとした肩、胸、タキシードに身を纏ったその男性は多くの西洋人の中にいてもまったく引けをとらない風貌だった。

私から視線を逸らすこともなく大人らしい控えめな笑顔でまっすぐ歩き続け私の目の前まで来て止まった。

彼に聞くまでもなかった。彼はこのニューイングランドのいずれかの州で中東考古学を専門に学んでいるのだろう。彼と私はお互いに視線を合わ笑顔を交わした。「教授を待ってるの」とだけ私が言うと彼は「そう」と、私の体を強く包み込み私も自分の身を懐かしく恋しい彼の胸へと委ねた。懐かしくも愛おしいこの感覚、二度と離れたくはない、もしまた失いそうになっとしても何度も何度も後戻りをして取り戻していこうと自分の心に誓った。


美沙は彼とその将来を考え最後まで2人の年の差は一生縮まることはない、ということを彼に伝え大好きな彼を振り切り自分の未来へと旅立っていった。しかし彼はそれでも諦めなかった。自分の夢でもあり美沙の分野でもある考古学の世界にいつかは身を置き、彼女との偶然の再開の機会を常に伺っていた。その恋は彼にとっては単なる遊びや憧れではなく本気であり、また美沙にとっても彼は「たった1人」の存在になっていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ