表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/2

海辺からの旅立ち

 母らの愛撫に似た冷たい波が足元で揺れる。まだ白み始めたばかりの水平線に、そっと海と同じ色の目を閉じた。

 薄明かりが瞼の裏に映したのは、いくつかの断続的な光景だった。この海よりも果て無く続くような青空に架かる虹の橋、頂点の見えない大樹からの木漏れ日を受けて輝く大きな泉、ひしめき合う英雄たちの甲冑の音。海神の屋敷しかないこの海辺から離れたことなどないのだからその光景はどれ一つとして身に覚えのないもののはずなのに、やけに現実味を帯びたそれは、一瞬現れては消えていった。

 ゆっくりと目を開けた。水平線を乗り越えて差し込んだその日最初の光が、癖のある金の髪をほとんど白金のようにきらめかせた。

「ヘイムダル」

 静かな波音によく似た声が、浜辺から寄せられる。振り向くと、九人の姉妹のうち一番上の母が屋敷の入り口で招くように手を振っていた。

「おはようございます、一の母上」

「おはよう。……よい天気ですね」

 目を細めて水平線を見つめる母のもとに向かって、波打ち際から上がった。そうですね、とうなずきながら母の視線を追って朝日を目に焼き付けて、いつの間にか隣に並ぶ母りも視線が高くなっていたことにふと気が付いた。視線を感じて横を見ると、母がヘイムダルと同じ色の瞳で見上げていた。どうやら同じことに気が付いたらしい。

「いつの間にか大きくなっていたのね。お父上もきっと驚くわ」

「覚えていてくだされば、ですけど。生まれたその日にしか俺を見ていないと聞きましたが」

「覚えてらっしゃるに決まっているでしょ。オーディン様より賢い方がいらっしゃって?」

 九人の母らや祖父が時折口にするその人物は、どうやらアースガルドの主神にして、原初の巨人からこの世界を形づくった者の一人だとか。そんな顔もわからない父は、ある日ふらりとこの海辺に現れて、麦酒をたかった挙句波の乙女たちと交わったらしい。生まれた子供が成長したのちは己のもとに遣わすように、とだけ告げて、八本足の馬で嵐のように去っていったのだと、母たちは憧憬のまなざしで、祖父は苦虫を噛み潰したような顔で語った。それ以来毎年冬になるとアースガルドの主だった神々が屋敷で酒宴をしているようだったが、その時期になるといつも祖父はヘイムダルとその母たちを、荒れ狂う海の底の祖母の館へと追いやってしまっていたのだった。

「そろそろ出立の準備をしなくては。屋敷に戻りましょう」

 一の母につれられて、海に背を向けた。今日で、この慣れ親しんだ潮の香、轟く波の音、深い海の青から離れるのだと思っても、あまりに身近で、あまりに当然のごとくそこにあったものだから、なかなか実感がわかなかった。

 今まで祖父の計らいによってオーディンから隠されてきたのだが、二、三日ほど前に九人の母全員が一度に同じ夢を見た。アースの神々が居並ぶ中でヘイムダルがオーディンに忠誠を誓っていたのだと言って、母たちはオーディンが残した言葉通り、ヘイムダルをオーディンのもとに行かせるべきだと主張したのだ。祖父母は渋っていたが、すべての知恵を持っているとまで言われるオーディンから隠し通すことは難しいともわかっていたのか、母たちの訴えがあまりに真剣だったからか、孫が旅だつことを認めたのだった。

 屋敷ではほかの八人の母がすでに支度をほとんど整えていた。あまり多くはない荷物を受け取って、母たちと連れ立って祖父の玉座の間へと向かった。

「もう行ってしまうのか、わが孫よ」

 珊瑚の玉座に坐し真珠の王冠を戴いたエーギルは、その厳つい顔をこれでもかと歪めた。

「あんな片目の鴉めの言うことなんざ、聞いてやる必要はない。いつでも戻ってこい」

 そう吐き捨てるように言いながら、麦酒の杯を差し出した。

「……それが役目だというなら、従うだけです」

 杯を受け取ってそう答える。出立が決まったのはほんの二、三日前だが、ヘイムダルはそう驚かなかった。それまでにも時折見えていた見覚えのないはずの光景を思い出し、ああ、そういうことかと妙に納得したのを覚えている。アースの神々よりも巨人に近い祖父の一族は未来を垣間見る力を持っているらしいというから、母らの夢見もそうだろうと思ったのだ。おそらくは、自身の瞼裏に映ったあの光景も。当然エーギルも未来を知ることができるはずなのに、やけに心配そうな顔をするのが不思議だった。

杯を掲げてから、麦酒を一度に飲み干した。口々に別れと激励の言葉を述べる母たちの抱擁を九人分受けて、一同は屋敷の入り口に立った。

「波間に生まれた光の子よ。お前の見るものが、これから先も光だけであらんことを」

 祖父の力強い抱擁が解け、ヘイムダルは顔を見せきった朝日のなかへ歩を進めた。

 その一瞬の、水平線の燃え盛るような赤は、瞼の裏の幻影だったのだろうか。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ