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第七話 『となりのみのべさん』後編

 だが、そのまさかであった。

 大学正門前から駅前まで続くケヤキ並木。その沿道には十メートルごとに制服警官が立ち、車道に美濃辺准教授たちがはみ出ないように見張っていた。

 そういえば以前、県警の上層部に知り合いがいると言っていたっけ。確か学生時代の同窓生とか言っていたな。変人の割に人脈があり、その伝手つてであろう。まあ三万人もの人間が一斉に移動するのだから、交通整理しないと危険なのは分かる。

 僕は監視のため、学校の前の車道を松平一号に乗って駅から何回も往復していた。やはり美濃辺相手に警察だけでは頼りない。

 ケヤキの根が張り過ぎてアスファルトが割られて歩きにくい歩道を、二列縦隊となった美濃辺准教授が行進していく。

 頭上に青々と生い茂るケヤキの葉が、夏の苛烈な日光からの遮蔽物となっている。

 美濃辺准教授たちはぞろぞろと、それぞれが口々に意味不明な言葉を発しながら歩いている。互いにコミュニケーションをとろうとしている訳ではないと思う。誰かの話は耳にしているとは思うが、その話に対してキャッチボールとなる言葉を口にしてはいないようだ。たぶん条件反射であろう。会話が成り立ってはいないが、コミュニケーションが成り立っているという表現が近いのかもしれない。

 不思議な団体だった。全員が一個人の美濃辺准教授あるから一つにまとまっていそうだが、そうでもない。注意深く観察してみると、服装、嗜好、思考などが細かいながら異なっている。では、この全員の美濃辺准教授の共通項はなんなのであろうか? 名前や役職は同じみたいであるが……。

 と考えを巡らせていた時である。

 僕のすぐ脇を、夏の白いセーラー服を着た女子中学生が自転車で通り過ぎていった。僕たちが進む方向とは逆向きにである。

 黒く日に焼けた健康そうな女の子だった。かごには大きなバッグを入れて、一生懸命に立ち漕ぎをしている。

 美濃辺准教授の集団という日常からかけ離れた異様な光景に目もくれない所を見ると、地元住民だというのは間違いない。

 美濃辺准教授たちの会話が、突如途切れた。そして前方から近づいてくる少女に視線を移すとその場に立ち止まり、そのまま首を回して少女の姿を追ったのだ。流れるように、列の前から後ろに向けて同じ動作が繰り返されていく。それも全員が全員、まるで某国のマスゲームのように、揃った美しい動作であった。

 そこで僕は、ある伝説を思い出さずに入られなかった。

 ペンギンについてある伝説がある。ペンギンのコロニーの上空を航空機が飛行したときのことだ。ペンギンは頭上を飛び去る航空機に惑溺され、その姿を目で追った挙句、そのまま後ろにひっくり返ってしまうという。それがコロニー全体で起こるものだから、その光景はドミノ倒しさながらだというのだ。

 フォークランドでイギリス軍が何度も見たという話であるが、結局はガセであったらしい。実際イギリス軍がヘリを飛ばして実験した所、そのような現象は全く起こらなかったとのこと。まあ、そんな実験を行うイギリス軍も粋であると思う。

 美濃辺准教授をペンギン、女子中学生を航空機と考えれば、僕の眼前で起こった出来事は伝説そのままの現象だった。

 美濃辺准教授が振り返るたびに、眼鏡に日光が反射しキラキラと輝き光る。まるで水面に映りこむカリフォルニアの青い空みたいだった。イメージだけど。

 そして悟った。これこそが美濃辺准教授たちの共通項なのだと。そう、姿形が異なろうとも、全ての美濃辺准教授は美少女が好きなのだと。

「は、は、はははは……」

 なぜか笑いがこみ上げてきた。窓からだらりと垂らしたてで、松平一号の車体をばんばんと叩いた。

 それからしばらく進んだ時である。

キキーッ!

 車の急ブレーキ音がした。

どんっ!

 続いて何かが衝突した鈍い音。

 僕の視線の先で、黒い物体が宙を舞った。そしてアスファルトに叩きつけられ転がった。

 そこは、この道に入り込む側道であった。アスファルトには横断歩道の縞が描かれており、一時停止の道路標識、そして近くに警察官も立っている。

 すぐさま僕は、松平一号でその場に駆けつける。

 真っ青な顔をして運転席から降りるドライバー。セダンのフロントグリルの右側が醜く凹んでいる。

 もちろん宙を舞った黒い物体とは、美濃辺准教授たちの内のひとり(一匹?)である。

「だ、だだだだ大丈夫ですか?」

 スーツを着た四十代くらいのサラリーマンである。唇は小刻みに震え、目もどこかしら泳いでいる。自分のしでかしてしまった行為に恐怖し、そして混乱しているのだろう。

 多分、普通に一時停止し、目の前を横切っていく美濃辺准教授の列が切れたのを確認し、発進しようとした所、なぜか美濃辺准教授を轢いてしまったに違いない。

 美濃辺准教授はうつ伏せに倒れていた。顔面の辺りから、道路に赤い血の溜りが広がっていく。

 一番近くにいた警察官が倒れた准教授に走り寄ってきた。彼もまた青ざめていた。自分が交通整理していたその場で交通事故が起こったのである。それは責任問題でもあった。

 警察官は胸の無線機に手を伸ばそうとした。応援要請と消防署に連絡しようしたのだ。

「――待ってください。大丈夫ですから」

 僕は警察官を制止した。

「大丈夫って、君、どう見ても大怪我を……」

「あ、痛てて……」

 警察官の言葉を遮る様にして、美濃辺准教授がむくりと起き上がった。左右に首を振ると、白衣の袖でごしごしと鼻を拭う。鼻血は既に止まっていた。

「なんだあ、どうしたんだっけ。そうだ飲み会があるんだった……」

 思い出したように言った。八七六九八番の美濃辺准教授は、何事も無かったかのように、美濃辺准教授の列に戻っていった。まるで道端で石につまづき転んだだけのような行動であった。

 余りの出来事に加害者のドライバーと警察官は、口をあんぐりと開けたままである。

「あのう、ご迷惑かけまして、すいませんでした」僕はドライバーに頭を下げる。そして美濃辺研究室の電話番号の書かれた名刺を差し出す。「車の修理費用はあとで請求してください」それから警察官に向き直り、「ごくろうさま。お仕事を続けてください」また頭を下げる。

 いつものことである。

 どうせ、一時停止から発進しようとしていた自動車に自分から思いっきりぶつかっていったのだろう。

 そう美濃辺准教授は車にぶつかっていく。美濃辺准教授の悪癖の一つだ。しかもどんなに跳ねられても、自分自身大きな怪我はしないのだ。反対に自動車のダメージの方がでかい。交通弱者はどちらかというと車の方なのである。

 出来る事なら、この近辺の道路には「美濃辺飛び出し注意」の道路標識を設置してもらいたいものだ。でもそれで美濃辺准教授の交通事故が無くなるのかというと、無くならない気もするが。


 そんな事故が他にも五件ほどありながらも、何とか僕たちは美濃辺准教授たちを駅まで連れてきた。

 幸いラッシュの時間とずれているので、駅構内は学生や生徒の姿をちらほら見かけるくらいだった。だがそのホームはというと、美濃辺准教授で溢れかえった。

 それらの群れが、ホームに滑り込んできた十両編成の電車に詰め込まれる。

 余りにぎゅうぎゅう詰めのため、押し付けられた美濃辺准教授の顔が、ドアのガラスに醜く広がっているのが見えた。

 一番気の毒だったのが、その車両に乗り合わせた乗客であろう。なんと言うか、もう運が悪かったというしかない。


 そして、とうとう三万人の美濃辺准教授がさきたまハイパーアリーナに集まってしまったのだ。


 さきたまハイパーアリーナの正面入り口は、ごった返していた。もちろん美濃辺准教授でである。我が強い美濃辺准教授が電車から降りた途端、我先にとハイパーアリーナに殺到したのである。

 一応、番号順に席は指定されているのだが、それでも人より早く入場したいらしい。

 正面入り口前の広場には、数々の食べ物の屋台が並んでいた。普通のお祭りで見かける焼きそばやたこ焼きは勿論、フランス料理や京料理などもある。その中でも一番、お客の美濃辺准教授が並んでいる屋台があった。その店を覗くと、そこで料理していたのは、第二食堂のブロンソン似のコック長だった。彼は僕の姿を見つけると、親指を立てて白い歯を見せた。目の脇に皺が寄っている。

 僕もそれに応えて、軽く手を振った。

 もちろんメニューは、チキンフリッター。定番である。

 美濃辺准教授たちの入場の際には、スタッフからパンフレットを受け取り、その代わりにフロッピーディスクのような記録媒体を手渡している。その中に何が記憶されているか知らされていないが、どうせまともな情報ではないと思う。

 スタッフは、皆そろいのサンバイザーとTシャツを着用している。Tシャツは黄色地にでかでかと丸にひらがなの「み」の字が書かれている。

 僕にとっては、スタッフがいるということに安心感を覚えた。これで少しは楽になる。

 さきたまハイパーアリーナ正面の電光掲示板には「第一回全並行世界みのべ大会・漢祭り」と表示されている。何だか良く分からないネーミングだ。

 僕は、地下駐車場に松平一号を停め、そこにある関係者専用口から場内に入った。

 会場の周囲にある廊下では、売店が開かれており、飲み物や軽食が販売されている。美濃辺准教授たちも、その周りで紙コップ片手に歓談している。顔が赤らんでみる所を見ると、コップの中身は酒。どうやら開会前から出来上がっている様子である。

 長方形のアリーナの中心には、プロレスで使われるリングが設置されている。その上方には巨大スピーカーとライトが設置されていた。

 アリーナ両側の壁にある巨大LEDモニターには、先程から笑顔の美濃辺准教授の静止映像が映し出されている。

 僕はそのリングのすぐ下、いわゆるリングサイドにパイプ椅子を持ち出してきて座り、休む。これから何が行われるかを、僕はまだ知らない。パンフレットを貰ったのだが、そこの進行予定表を読むと、開会式と閉会式以外の項目には「秘密」とだけしか記されていないのだ。

 僕が辟易しながらパンフレットに目を通していると、パイプ椅子を持ってきて隣に座ってきた者がいた。

「ここがさきたまハイパーアリーナか……」暴走神父であった。「一度、満員の観衆を前に、ここで闘って見たかったな」

 暴走神父は両肘を太ももの上に乗せ、組んだ両手の上に顎を置いた。嬉しそうに、そして懐かしげにリングを見る表情は好々爺のようであった。

「神父様も呼びつけられたのですか?」

「ああ、ちょっと用事があるから来い、とね。それで、どうにも間に合いそうにも無いから結婚式を途中で抜け出してきた」

「抜け出してきたって、神父ってのは結婚式の立会人でしょう」

「まあな。でも、どうにかなるわい。わっはっは」

 笑いながら暴走神父は腕を組み、椅子にふんぞり返った。

「……」

 剛毅といえば剛毅。だがいい加減といえばいい加減。どうして僕の周りにはこういう人が多いんだろう。

 ふう、とため息をつき顔を上げる。

 リングとその周りのアリーナ席、そして四方からアリーナを囲む二階席から五階席の席が美濃辺准教授たちに解放されていた。

 三回から上の席は、壁にへばりつくように急勾配に設置されている。まるで樹木に生えるサルノコシカケである。

 ざわめき声の中、時折奇声が飛び交っていた。

 席の間を、背中に生ビールのタンクを背負った売り子のスタッフが巡回している。他にも焼酎専門や日本酒専門、おつまみ専門のスタッフもいる。またそれらのスタッフに焼き鳥やほっけなどの食べ物を頼むと、無線で外の屋台に連絡してくれ、その席までデリバリーしてくれるのだ。いたせりつくせりである。

 会場内は、食べ物の匂いと美濃辺准教授たち三万人分の体臭が漂っていた。

 僕は携帯電話の時計を見る。

 午後六時二分だった。

 そしてそのマナーモードのボタンを押した時であった。

 会場の明かりが一斉に消えた。会場から驚きの声が上がる。

 そしてスピーカーから、それらを打ち消す声がした。

「みのべたちぃぃっ!」

 美濃辺准教授の声だった。多分、この世界の。

 そしてスポットライト。その中心にはマイクを持った美濃辺准教授が立っている。小指はぴんと立っている。

 会場全ての視線が、リングの中央に立つ美濃辺准教授に注がれる。

「少女の瞳は好きかああぁ!」

「好きだあ!」

 一斉に言葉が返ってくる。

 リング上の美濃辺准教授は、満足そうな笑みを浮かべると、左腕をすうっと上げて観客たちの声を一瞬にして静めた。

「こんばんは。この世界の美濃辺です。今日は故あって、幹事とこうして司会をやらせてもらっております」そこで言葉を区切り、コホンと小さな咳払いした。そして大きく息を吸うと。「それじゃあ、みのべのみのべによるみのべのための大会、始めるぞおおおおおっ!」

 そして手にしたマイクをマットに思いっきり叩きつけた。耳障りな音が会場に響き渡る。

 僕は耳に手を当てそれを塞いだ。

 途端に、美濃辺准教授たちが声を揃えて、足を踏み鳴らし始めた。

 リング上の美濃辺准教授も両手を上下に振って会場中を煽る。

「みのべ!」

 だだんだだん

「みのべ」

 だだんだだん!

 歓声が怒号のように上がった。踏み鳴らす足音が、会場を揺らす。

 会場を包み込む興奮が、絶好調になった時である。

 ぱんぱんぱぱんっ!

 リングの周りに配置された花火が打ち上がり、銀色のテープの束と紙吹雪が舞った。

 予想だにしない打ち上げと、その余りの迫力に、またも一気に会場中が静まり返った。

 美濃辺准教授がマイクを拾い上げる。その先端部は凹んでしまっていた。

「さあて心・技・体を重んじるは我々美濃辺だ。第一ステージはその中の『体』を具現化した『みのべアームレスリング大会』だ」

おおおおおお!

 美濃辺准教授の発表に、再び歓声が上がった。

「みんな出場したいだろうが、そこは時間が許さない。出られるのは、抽選で選ばれた十六人だ。さあ、今から番号を読み上げるぞ。強者よ、いざリングに上るのだ!」

 次々に番号が読み上げられる。呼ばれた美濃辺准教授はまず立ち上がり、腕を高々と上げ自分をアピールした。そして鼻息荒く、リングに向かって階段を駆け下りていった。

「よし出番だ」

 僕の横の暴走神父が、腕を組んだまま立ち上がる。その顔には、いつのまにか金銀の糸で刺繍された派手なマスクを装着していた。

 そしておもむろに法服を脱ぎ始める。その下にはリングタイツとリングシューズ。マントを羽織ると、そこにはメキシコマット界伝説のルチャドール「暴走神父テメラリオ・イジェキュート」が立っていた。

「神父、まさかあなたも出場されるんですか?」

「いやいや、私はジャッジを頼まれたのだよ。でもジャッジとはいえ、さきたまハイパーアリーナのリングに上がれるとは、心躍るわい」

 語りながらも暴走神父は、その場で膝を曲げ、ヒンズースクワットをする。その筋肉は老年の体とは思えぬほど引き締まっている。やる気満々だった。

 リング上には十七人の美濃辺准教授が集まっていた。十六人のアームレスラーと一人の司会である。彼ら十七人の体躯はみな同じような大きさであった。

 アームレスラーたちは皆闘志をみなぎらせ、個々にロープに手を掛け屈伸したり、拳を胸に叩きつけ自分を鼓舞したりしていた。

「とうっ!」

 黒い影がリングに駆け上ると、端にあるコーナーポストの上に飛び乗った。

 そこでマントをはためかせているその人物、勿論我らが暴走神父である。

 人差し指を天高く指すと、空中で華麗に一回転しつつ、マットの上に飛び降りた。

 リングの上には、既にスタッフたちにより、肘置きの付いた専用のアームレスリング競技台が設置されていた。

 十六人、八組であるから、トーナメントで四回勝ち上がれば優勝だ。

「優勝者には『みのべ・ザ・アームキング』の称号と優勝旗、そして賞品として牛一頭が贈られる」

 アリーナ端の暗くなっていた部分にライトが当たる。照らし出されたその場所には、青地に華麗な刺繍が施された優勝旗と、荒れ狂い前足で床を蹴っている黒い雄牛がいた。暴れ牛の首には数本の荒縄が掛けられ、その先を屈強な八人の男が握って押さえ込んでいる。

ぶもおおおお!

 暴れ牛は口元から泡を吹き、怒り狂った瞳で首をぶんぶん振っている。その度に男たちの体は引きずられそうになる。

 うわあ、僕ならば頼まれても貰いたくない称号だし、まして生きた暴れ牛を貰っても迷惑だ。

 視線を再びリング上に移すと、そこには既に八台の競技台が設置されていた。

「さあ指定された位置についてくれ。最後までこのリングに立って残っていた者が優勝だ」

 アームレスラーの美濃辺准教授たちは、それぞれ一番近くの相手と競技台に向かった。

 そこで自分の頬を勢い良く叩いたり、マットに唾を吐き捨てる者、ジンクスなのかキャップのつばを後ろに向ける者もいる。

 それから各自右肘をつき、互いの右手を組んだ。

 左手で、競技中に体を支えるためのグリップ・バーを握り締める。

 各競技台を暴走神父が回り、肘の位置と手の握り具合を直して行く。そして司会からマイクを受け取った。

「OK? OK? それじゃあいくぞ! レディ、ゴオ!」

 暴走神父の右手が振り下ろされた。

カンッ!

 同時にゴングが鳴った。

「ふんぬうう……」

 十六の口から気合が発せられた。

 リング上、闘う十六人の背中の筋肉が盛り上がる。

 観客の美濃辺准教授たちの応援は、うるさかった。

 だが、レスラーたちの腕は動かなかった。まるで時間が止められているかのように、八組全てのアームレスラーたちの手は中心点より動いていない。

 そのまま時間が過ぎていく。時計を確認すると五分は過ぎていた。

 美濃辺准教授たちが本気なのは分かる。歯は食いしばられ、顔は紅潮し、噴き出した汗が真ん丸い顎から滴り落ちる。白衣の袖から覗く贅肉のついた腕が、ぷるぷると震えている。

 それから更に三分が経った。

 相変わらず、全ての組が膠着状態であった。

「GO GO!」

 暴走神父も苛らついていて、派手なアクションで、しきりにアームレスラーを鼓舞している。

 だけれども無理も無いことであろう。美濃辺准教授たちはそれぞれ平行世界の住人なのである。リング上の美濃辺准教授を見ている限り、筋肉の付き方も体重も全てが同じである。更に生来の負けず嫌いであるから、互いにこの勝負を投げようとしない。勝負が定まるのは、全員が同時に倒れる時であろう。

「こらあ、お前らはまじめにやっておるのかっ!」

 とうとう暴走神父がぶちきれた。いきなり競技中向き合っている二人の美濃辺准教授の頭を掴んだ。そして勢い良く二つの頭を打ち付けた。

 ごすっ、と腐ったスイカの潰れたような音がした。競技台の上に二人の美濃辺准教授がうつ伏せに失神し倒れこむ。いくら石頭でも、相手も同じくらいの石頭ではどうしようもない。丁度ダイヤモンドを削るのにダイヤモンドを用いるようなものだ。

 暴走神父は続いて、次の獲物に躍りかかっていった。

 二つの頭を腋に抱えてのDDT。競技台に駆け上がってからのフライングボディプレス。立て続けに技を決めていく。二対一でも関係無しだ。

 みるみるうちにリングの上には、失神した十六人の美濃辺准教授によって山が作られていった。

 アームレスリングで、十分間近くも全力を出し疲れ切っていた美濃辺准教授たちに、正面きって暴走神父と戦う力が残されていたとも考えられなかった。

「Yo soy el acmpeón!(俺が王者だ!)」

 その山に片足を乗せ人差し指を天に向けると、暴走神父は勝ち鬨の雄叫びを上げた。

 その途端観客から激しいブーイングが浴びせられた。

 だがそのブーイングも、今の暴走神父には自分に対する賞賛の声にしか聞こえなかった。

「はっはっはっ、上等上等」

 神の忠実なる僕、正義のルチャ・ドール暴走神父は、常に(自分の中では)正義なのだ。

「ぐっふっふ、それはどうかな?」暴走神父の前に立ちはだかったのは、司会の美濃辺准教授、すなわちこの世界の美濃辺准教授であった。「最後まで立って残っていた者が優勝者だと言っていただろうが。そして貴様を倒せば、優勝はオレのもの。さあ、勝負してもらおう」

 マイクを置くと競技台に右腕を乗せた。この世界の美濃辺准教授は、アームレスリングで疲労していない。有利だった。

 漁夫の利を得ようというのだろうか。実に汚い。

「そうか、これも神の与えたもうた試練だな。私は神の忠実なる僕だ。よって負けるわけにはいかんのだ」

 暴走神父も競技台に右腕を乗せ、美濃辺准教授の手を握った。マスクの上からでも、このアリーナで闘えることの歓喜に満ちているのが見て取れた。

「……」

「……」

 二人、手を握り合ったまま何かの合図を待っていた。

「いかん肝心の審判がいない。おおい小林君、審判やってくれよ」

「えっ、僕が……? しょうがないですねえ」

 そろそろ頃合かと思った。僕は立ち上がると、座っていたパイプ椅子を畳んで手に持ち、リングを上がった。

「小林君、それでは審判を頼むぞ」

 美濃辺准教授が僕に向ける視線からは、自分に有利なジャッジをしろとの命令が込められているのが分かった。

「小僧、早くしないか」

 暴走神父もいきり立っている。闘争心が燃え上がっている。

「それじゃ、用意はいいですね。レディ、ゴオ」

 同時に、僕は手にしたパイプ椅子を高く振り上げると、暴走神父と美濃辺准教授の頭に思いっきり叩き付けた。打たれ強い二人であるから、容赦無く力いっぱいにである。

「いったああ」「アイッ」

 二人頭を抱えてマットに倒れ、のたうち回る。

「もう、いい加減にしてください。司会と審判が優勝を争うような試合は、試合じゃありませんよ」

 僕はリング下にパイプ椅子を放り投げ、埃を払うように手をパンパンと叩いた。

 その途端、口笛と歓声が上がった。観衆は総立ちだった。

「こ・ば・や・し・く・ん」「こ・ば・や・し・く・ん」

 僕の名前が連呼される。

 壁の巨大モニターには、ぼおっと立っている僕の姿が映し出されている。

 もしかして、今リング上で立っているのは僕一人?

 ということは、優勝?

「しまった……」

 額を押さえ、ため息をつく。

「おめでとう」

 頭を押さえつつ立ち上がったこの世界の美濃辺准教授が、僕の肩に手を置いて祝福した。

「いい一撃だった。並みのヒール(悪役)でもああは出来ないぜ」

 暴走神父が、僕に向け片目をつぶってみせた。

「完敗だ」「さすが、小林君」「うちの小林君とツッコミ勝負をさせたい」

 十六人のアームレスラー美濃辺准教授も立ち上がり、笑顔で、次々僕と握手を交わしていく。

 司会の美濃辺准教授がマイクを持つ。

「――ということで、優勝は小林君だ。いいなっ!」

 その宣言に、観客の美濃辺教授たちは大きな拍手をした。その大きさに反比例して僕の心は落ち込んでいく。

 スタッフの女性が優勝旗をリングまで持ってくる。それを美濃辺准教授が受け取り、僕に差し出した。

「さあ受け取ってくれたまえ『みのべ・ザ・アームキング』よ」

 それは、とってもいやな称号だ。

「いや、それはあ、つつしんで辞退し……」

「いいから!」

 僕の言葉を遮り、美濃辺准教授は無理矢理、優勝旗のポールを僕に押し付ける。それでつい、手にしてしまった。

「これであの雷電号も君のものだ。闘牛、いやいやそれじゃスペインの牛対人の印象が強いな、日本じゃあ牛同士を戦わせるから、牛突きと呼んだほうがいいだろう。その牛突きで幾多の牛と闘い、十年間での戦績六十九勝一分けの牛こそ、牛の王と称されたこの雷電号だ」

 ちらりと件の雷電号の方を見ると、首に掛かった綱を持っている八人のうちの二人が、その鋭い角によって跳ね飛ばされている所だった。

「そんな凄い牛がなぜこんな所に……」

「あまりに強すぎて闘う相手もいなくなり、気性が荒すぎて種牛にもなれない所を、面白そうだから俺が買い取ったのだ。後は煮るなり、焼くなり、食べるなり、なんでもしてもいいぞ」

「えええ……、その、できれば、いらないんですけど……」

 困惑する。いやそれを通り越して愕然とした。優勝旗ならまだしも、そんな暴れ牛貰っても、どうしろっていうのか?

「それでは我らが、みのべ・ザ・アームキングに再び拍手をお願いする」

 暖かい拍手が僕に送られる。

 やっぱり、美濃辺准教授に話しをしても無駄だった。

 雷電号は、その体を押さえる者が十人増え、十八人の屈強な男によりなんとか奥へと連れて行かれた。

ぶもおおおおおっ!

 閉じられた扉の向こうからは、尚も猛牛の荒々しい鳴き声が聞こえる。


 再び美濃辺准教授にスポットライトが当たる。

「それでは思わぬ展開に面食らってしまったが、気を取り直して次、第二ステージ。続いては、心・技・体の技だ。『技』、それは技術だ。お前ら美濃辺には、技術を競ってもらう。それでは新たな出場者を発表する」

 番号が読み上げられ、モニターに映し出される。今度は五人。

 新たな五人の挑戦者たちが、リングに向かってやってくる。

 その代わりに、闘い終えた十六人の美濃辺准教授がリングから去っていく。

 ついでに僕もリングから降りようと、ロープを潜ろうとした。

「あっ、小林君は残っていてくれたまえ。暴走神父はもういいぞ」

 司会の美濃辺准教授は手を振って、野良犬でも追い払うように暴走神父をリングから追い出した。

「さて、今リング上のファイターに挑戦してもらうのは、繊細さと技術を競う競技、そう『一粒のお米にどれだけの文字を書けるかなあ?』だ」

 その言葉が終わると共にリングにスタッフが上がりこみ、八台のアームレスリング競技台が撤去され、代わりに折りたたみ式の会議テーブル二卓とパイプ椅子六脚が設置された。

 テーブルの上には、米粒が六粒、面相筆と墨そしてルーペが六つづつ置かれていた。

「それぞれに与えられた表面積の同じ米粒、上質のあきたこまちに、どれだけ多くの文字を書き付けられるかの勝負だ。速さ、文字の量ともに審査の対象となる」

 司会の美濃辺准教授の説明に観客が沸く。みんなもうへべれけに酔っ払っているらしく、先程からどんなことにでも歓声が沸いた。

 司会の話は続く。

「優勝者には『みのべ・ザ・テクニシャン』の称号と優勝旗、そして賞品として豚一頭が贈られる」

 雷電号がいた場所と反対側、アリーナ端の暗くなっていた部分にライトが当たる。照らし出されたその場所には、今度は赤地に華麗な刺繍が施された優勝旗と、荒れ狂い牙を剥き出して周りを威嚇している茶色の巨豚がいた。豚というよりも猪に近いように見える。背中には長いたてがみが生え、全体に筋肉が目に付くからだ。

ぶひひひい ぶひひひい

 暴れ豚の首には数本の荒縄が掛けられ、その先を屈強な八人の男が握って押さえ込んでいる。暴れ豚の口元からは泡を吹き出し、怒り狂った瞳で首をぶんぶん振っている。その度に男たちの体は引きずられそうになる。

 うわあ、これまた頼まれても貰いたくない称号だし、まして生きた暴れ豚を貰っても迷惑だ。まあ既に一匹暴れ牛を貰ってしまったが。

「それでは小林君は審判をしてくれ」

「えっ、また僕がですか?」

「何言ってる。君意外に誰がやるんだね? 今度はしっかりジャッジしてくれよ」

 そう言うと、僕にマイクとストップウォッチを手渡す。そして当の美濃辺准教授も会議テーブルの席に付いた。

「あれ、せんせいも出るんですか?」

「当たり前だ。サッカーのワールドカップだって、開催国は予選無しで出られるだろうが。今回は出る。」

 先程の雪辱を晴らそうというのか、やる気満々である。

 こうして、六人の挑戦者がテーブルに着いた。

「それじゃ早く終わりたいので、さっさとはじめようと思います。それでは……」

 そのとき挑戦者席の一番右側に座っていた美濃辺准教授が、すっと手を上げた。

「小林君!」

「なんですか? もう競技始めるんですけど」

 僕はその美濃辺准教授に近寄った。一万八千五百六十一番の美濃辺准教授である。一見、他の五人の美濃辺准教授と姿形の変わりないように見える。

「実はな、オレの世界ではな、文字というものを持っていないぞなもし。いや、かつては持っていたぞなもし。だけんど科学技術の発達により、人の頭からイメージをそのまま取り出し、他人に伝達できるようになったのだぞなもし。だから文字が必要無くなってしまったぞなもし。文字を記す文化が無いぞなもし」

 ほお、文字を持たない世界があるとは。

 だが、文明、文化があるならば、須らく文字がある訳ではない。後で調べたのだが、南米に栄えたアンデス文明や、北米のナバホ族、そして日本のアイヌ民族も文字を持たなかった。それでもアンデス文明などでは、巨大建築物や、金銀鋳造術、脳外科手術など高度な技術が発達していた。

 文字が無いから非文明的だというのは、間違いなのであろう。

「どうにかしてくれないぞなもし、小林君ぞなもし」

 腕を組み、ふんぞり返って僕に頼みごとをする。

「文字が無いんですか。それじゃあ米粒に書けないですね。それなら……、失格ぞなもし」即、決断を下した。迷いは無い。美濃辺准教授以外の人が同ケースで困っているなら、救いの手を差し伸べただろう。が、相手が美濃辺准教授では、どんなに困ろうがどうでもいいことだ。「米粒に何にも書けないんだったら、その時点で負けですよ」

「そ、そんなぞな……」一万八千五百六十一番の美濃辺准教授が、ショックを受けた顔で立ち上がり後退る。尻に押されて椅子が後ろに倒れる。「馬鹿野郎ぞなもし!」胸のバッジを引きちぎり、マットに叩き付けた。そして悔しそうに泣きながら、リングの外へ向かって走っていた。「小林君の輪郭性湿疹様白癬、つまりいんきんたむしー、ぞなもし」との捨て台詞を残して。

 そして一万八千五百六十一番の美濃辺准教授は、アリーナ席の真ん中を通って、出入り口のドアへと消えていった。ぞなもし。

「あーあ、泣かしちゃった」

 司会の美濃辺准教授が他人事のように言うと、落ちていたバッジを拾い上げ白衣のポケットにしまった。

「だれが、陰金ですか。そんな変な噂流さないでください」

 マイクに向かって僕はしゃべった。

 でも、一万八千五百六十一番の世界の小林は、本当に陰金なのかもしれないな。でも僕はそうではない。絶対に違う。違うんだったら。

「嘘ですからねえ」

 振り返って観客席を仰ぐと、観客の美濃辺准教授たちにも否定する。

 見える限り全ての美濃辺准教授が、赤ら顔でニヤニヤ笑っている。その光景は、今朝見た無限個の箱から顔出すみのべ猫を思い出させた。

 リング上の、残った五人の美濃辺准教授も揃ってニヤニヤ笑っている。ライバルが一人減ったことへの喜びか、はたまた僕への嘲笑か。

「嘘ですからねっ」

 もう一度、きつめの否定。ちょっとここまで言うと、疑わしいかな。

「小林君、君が陰金のは分かったから、早く始めてくれ」

 五人が拳でテーブルをドンドンと叩いて、開始を急かす。

「だから違いますって」

 しかし、五人が揃って皆凄い自信であった。ライバルが全て自分自身というのにこの自信はなんであろうか。奇策でも弄そうというのであろうか。

「……分かりましたよ。それじゃ競技を始めましょう。用意はいいですね?」

「了解!」

 五人の美濃辺准教授は、揃って左手の親指と人差し指で米粒を摘まんで持った。ニヤニヤ笑いは消え、真剣なまなざしだった。

 ただ不思議なことに右手は空のままであった。普通、筆を持って準備するだろうに。

 場内も緊張に包まれ、少し静かになった。

「用意、はじめ!」

 僕の掛け声と共に、美濃辺准教授が何をしたかといえば、

「!」

 白衣の中から手のひら大の機械を取り出した。五人それぞれ、形は微妙に異なっている。そして、その機械の上方に開いている穴に米粒を放り入れたのだ。

「出来た!」

 五人同時に言って、顔を見合わせた。

 僕はストップウォッチの表示を見る。その時間、五人同時に十秒だ。

「だーっ、みんな同じ考えかっ」

 司会の美濃辺准教授が立ち上がり、頭を抱えた。

「ぐっふっふ、こんなこともあろうかと『米粒に文字を印刷する機械』を持ってきておいて正解だったわい」

 他の四人の美濃辺准教授が自分の予測の確かさに、満足げに頷いた。

 これが美濃辺准教授の奇策であった。自分の手で米粒に文字を書かず、それ専用の機械を作り、用いる。確かに競技前の説明では、筆で以って米粒に文字を書かなければいけないとは言わなかった。それにしても卑怯だ。

 しかし、その奇策も全員がやってしまったら、それは奇策でもなんでもなかった。

 あとは、それぞれの機械の性能差により勝敗が決まるであろう。

 スタッフによって、電子顕微鏡が運ばれてくる。美濃辺准教授が改良したもので、走査型電子顕微鏡の一種だ。電力並びに大きさなどが従来のもの比べて各段に小さくなっている。本来ならば、走査のための電子を生む電子銃や真空ポンプのために、設備には専用の部屋が必要なのだ。しかし、この電子顕微鏡はポータブル、普通の顕微鏡くらいの大きさで、電源も単三電池二本で動くのだ。

 早速、五人の米粒を電子顕微鏡に設置する。

 電子により作り出された映像はコンピュータで解析処理され、アリーナにある巨大モニターにも表示される。

 米粒が映し出された。でこぼこで所々ひび割れている。

 特筆すべきは、その全体が真っ黒だったことだ。

 その映像が拡大されていく。真っ黒く見えたのは点の集合であった。いや、点でない。それは全て文字だった。

 一文字の大きさ、およそ〇・〇〇八ミリメートル。ギネスブックに認定されている世界最小の豆本、〇・九五ミリ四方の大きさにおける一文字の大きさが〇・一五ミリである。血液中で酸素を全身に運ぶ赤血球の大きさが〇・〇〇八ミリメートルである。いかにその一文字が小さいかが分かるであろう。

 アルファベットのみならば、もっと小さく出来たかもしれない。しかし漢字などの表記の複雑な文字がそれを許さなかった。

 この一文字の大きさは、漢字の使用と機械の性能の妥協点であるといえよう。

 しかし米粒には、何が書かれているのだろうか。

「聖書だよ。ユダヤ教、キリスト教における最も重要な教典だ。知っているか?」

 僕が不思議そうな顔をしていると、この世界の美濃辺准教授が教えてくれた。

 知っているも何も、聖書こそ、グーテンベルグにより世界で初めて印刷された出版物であり、かつ世界で最も読まれている書物だ。知らぬはずが無かろう。

 米一粒の表面積を百四十平方ミリメートルとすると、文字同士の隙間も考え、理論的にはおよそ二百五十万個の文字記すことが出来る。聖書の日本口語訳版に記された文字数は約二百八万二千文字。その全てが記されていることになろう。

 電子銃により打ち出された電子により、米粒は走査されていく。そして平行世界の美濃辺准教授たちの米粒に記された文字数を読み取っていく。

「あのお、ちなみに他の先生たちは、お米に何を印刷したんでしょうか?」

 それぞれ自分の世界でもっとも著名な、神話や物語であると語った。どの物語の名前を聞いても、僕には知らないものばかりである。書かれている文字も、どうやら日本語と同じ表意文字と表音文字の組み合わせのように思えるが、見たことの無い文字であった。

 そして、ようやくコンピューターが計測し終わった。

「それでは文字数の発表に移ります。ちゃっちゃと進行して終わりましょう」

 まあ僕としては、誰が優勝しようがどうでもいいわけだ。

 会場中の大部分の視線が、大型モニターに向けられる。

 ドラムロールが鳴り始め、それに合わせて、画面に並んだ五人分の数字列もランダムに変化する。

 僕は息を飲みこみつつ、数字の行方を凝視する。書き込み時間は一緒だった。あとは書き込んだ文字の多さによって勝敗が決まる。

 今度は自分に変な称号を付けられることもなさそうなので、僕にはお気楽だった。

 そして桁の大きい方から順に数字が定まっていった。百万桁からである。

「2」「0」「8」「2」「0」「4」

 なんとここまでの数字は五人一緒であった。予想の数字とほぼ同じである。

 そして最後の一桁目が決まろうとしていた。

 ドラムの音が更に高くなる。

……ドドドドドド、ドン!

「5」

 僕は目を見張った。そして五人の美濃辺准教授も同様だった。

 五人全員の数字が同じだったのだ。

「なんだ、こいつぁ!」

 挑戦者の美濃辺准教授たちから、驚きの声が飛んだ。

 でもしょうがない。それは事実であった。しかし、いくらなんでもこの結果は奇跡に近かった。

 同じ大きさの文字を、同じ面積いっぱいに書くのだ。どうしても書き付けられた文字数は同じ位になってしまうだろう。だが、米粒にも固有差がある。極微小の部分では、表面積やひび割れ方が異なっているだろう。この文字の大きさもまた極微小レベル、固有差の影響は十分に受ける。

「うわあ、こんなことがありえるなんて。しょうがない、第二ラウンド、次の勝負」

 司会の美濃辺准教授が立ち上がり、僕を指差して急かした。

「次の勝負って、いいですけど、なにするんですか?」

「えっ、次は……、どうしよう。なにか技術が必要ななものってあるか?」

 すがり付くような目で僕を見る。

 やはり考えていなかったか。まあ、あの競技で勝負が付かないこと自体、想定できないことであろうが。

「はああ……」

 毎度のことながら、僕はため息をつく。今日何度ついただろう。そして腕を組んで考え始めた。技術が必要でこの場でさっと出来ることとは、なんであろうか……。

「小林くうん」

 美濃辺准教授の猫なで声は気持ち悪い。またしても夢の中のみのべ猫を思い出してしまったではないか。うげっ。

「よし」はたとひらめいて、膝を叩く。「それじゃあ、こんなのどうですか。サクランボに付いている茎があるでしょう。よくメロンソーダやあんみつの中に入っているヤツですよ。あれをですねえ、口の中で舌で結ぶって言うのはどうでしょうか」

「サクランボかい……」

 馬鹿にしたような口ぶりであった。

「それが結構難しいんですよ」

「よし、それで行こう。ちょっとサクランボ持ってきてくれないか。ああ、茎付きのヤツだ。高級なヤツでなくてもいい。大至急!」

 司会の美濃辺准教授が雇われスタッフに命令する。

 すぐにガラスの皿に載った山盛りのサクランボがもたらされた。

 司会の美濃辺准教授がマイクを持っった。

「さて残念ながら、第一ラウンドでは勝負が付かなかった。そこで第二ラウンドだ。勝負は口中でのサクランボの茎結びだ。俺たち美濃辺にとっては至極容易いことだと思う。だから早くできた者勝ちとする。では、また小林君またも審判を頼むぞ」

 そう言って、再びマイクを僕に手渡した。

「はいはい分かりましたよ。でも、もういい加減やめたいですよ。ふう……」

 サクランボをいくつか取って、それぞれの茎の長さを比べている美濃辺准教授がいた。茎を指ではじいて弾力と細さを確かめている者もいる。それぞれが独自の基準でサクランボを選んでいた。

 こうなると先程と違い、今度は自らの舌先の器用さの勝負である。少しでも有利と思える茎を選択したいのだ。

「それじゃあ始めますから、適当にサクランボを持ってください」

「小林君!」

 真ん中に座っている美濃辺准教授が手を上げた。

「はい、なんすか」

 もう僕の答えも面倒臭くなって、ぶっきらぼうだ。

「サクランボの実は付けたままなのかい。取ってもいいのかい」

「そんなの、どっちでもいいです。それじゃあ、始め!」

 僕の唐突の掛け声と共に、手にしたストップウォッチが動き始める。

 一呼吸遅れて、美濃辺准教授樹たちはサクランボを口中に放り込む。

 最初は全員が余裕を見せていた。つぐんだ口をもごもごと動かしている。

 だが、一分経ようが、五分経とうが、一向に美濃辺准教授たちから成功の報告は無い。それどころか、徐々に顔色は赤く、眉間に刻まれた皺も深くなっていっていった。

 そして十分が過ぎた。

 美濃辺准教授たちの頭からは湯気が立ち昇りはじめ、鼻息がうるさく鳴りはじめた。

 苦し紛れに、舌の上でレロレロとサクランボの実を転がしている美濃辺准教授もいる。

「あー、もう出来ないっ!」

 五人の美濃辺准教授が揃って、テーブルをこぶしで叩いた。

「小林君、舌で茎を結ぶなんて、絶対に出来ないものものだろう。君は俺たちを謀ったのではなかろうな」

 出来ない責任を僕になすりつけようというのか。少しむっときた。

「まさか、出来ますよ」

 僕はテーブルの上のお皿から、適当にサクランボを取った。実を取って、そして口に入れる。

 美濃辺准教授たちが、僕ごときでは出来ないものと腹を括っているのが分かる。

 そして暫くして……。

「出来た!」

 茎を手で口から取り出した。

「お、おおおお、まさか……」

 美濃辺准教授の口から、つい感嘆の声が漏れてしまったようだ。

 茎は見事に結ばれていた。

 実は、口に入れる前に茎を少し折っておいたのだ。そこを中心に舌と前歯でどうにか結ぶ。それがこつであった。

 小学校の時、行儀が悪いと親にたしなめられながらも練習した成果であった。

「な、なんと、小林君が……」

 そう言って、美濃辺准教授は五人ともテーブルに、がくっと顔を伏せた。肩は悔しさのためか小刻みに震えている。その震えでテーブルもカタカタ鳴っている。

 その途端、口笛と歓声が上がった。観衆は総立ちだった。

「こ・ば・や・し・く・ん」「こ・ば・や・し・く・ん」

 僕の名前が連呼される。

「ま、まさか……」

 壁の巨大モニターには、茎を摘まんで持ったまま、ぼおっと立っている僕の姿が映し出されていた。

 もしかして、またやってしまったのか。

 また優勝?

「しまった……」

 額に右掌を押し当て、ため息をつく。

「おめでとう。またしても君にやられたよ。でも君になら諦めが付く。あんな超人的な技を見せつけられたらね」

 テーブルから立ち上がった司会の美濃辺准教授が、僕の肩に手を置いて祝福した。

「完敗だよ。さすが、小林君」「うちの小林君とサクランボ勝負をさせたい」「インキンにいい薬あるよ」

 四人の美濃辺准教授も立ち上がり、次々僕と握手を交わしていく。そしてリングを降りていった。

 司会の美濃辺准教授がマイクを僕から取りあげる。

「――ということで、優勝は小林君だ」

 その宣言に、観客の美濃辺教授たちは大きな拍手をした。その大きさに反比例して僕の心は落ち込んでいく。

 スタッフの女性が真紅の優勝旗をリングまで持ってくる。それを美濃辺准教授が受け取り、僕に差し出した。

「さあ受け取ってくれたまえ、栄光の『みのべ・ザ・テクニシャン』よ」

 みのべ・ザ・アームキングもいやだが、これも輪をかけていやな称号だ。おまけにサクランボの茎が口で結べる者は、キスが上手、とも言われている。テクニシャンという称号は小っ恥ずかしい。

「いや、先程もいただいたし、これはつつしんで辞退し……」

 僕の言葉を遮り、美濃辺准教授は無理矢理、優勝旗のポールを僕に押し付ける。それでつい、手にしてしまった。

 アームキングの優勝旗は、コーナーポストに立てかけてある。

「これであのホグジラも君のものだ」

「帆鯨?」

「そうではない、ホグジラだ。二〇〇四年にアメリカ合衆国ジョージア州南部に現れたUMA(未確認生物)だ。森の中でこの巨大なUMAと遭遇したハンターが、なんとか一発で仕留め、その写真をインターネットで公開した。そこでは体重四百五十キロ、体長三メートル六十センチと公表されていた。だが後にその死体を埋葬した場所を掘り起こした研究者によると、実際の体重は三百六十三キロ、体長は二メートル四十五センチ、しかもその正体は野生化した豚だったらしい」

「でもその話では、無事に退治されたんでしょう」

「ホグジラが一匹と限らないだろう。ゴジラと一緒だよ、君。そこにいるホグジラは、鳴き声と一緒で、ジョージア州の森で群れをつくりブイブイ言わせていたのを、秘密裏に捕獲したものだ。多分、その群れのボスだったのだろう。体重は五百キロ、体長は四メートル。牙の長さは三十センチを超えている。捕獲するのに、州軍の手まで借りたらしいぞ」

 ちらりと件のホグジラの方を見ると、首に掛かった綱を持っている八人のうちの二人が、その鋭い牙によって跳ね飛ばされている所だった。

「そんな凄いUMAがなぜこんな所に……」

「豚は野生化しやすい動物だ。養豚場から脱走すると、すぐに牙が伸び気性も荒くなる。このホグジラもそうやって逃げ出して野生化した豚の何代目かの子孫であろう。まあその間に食っていったものも問題だろうがな」

「食べ物が問題ですか?」

「うむ。ホグジラは生息地近くの養殖池に忍び込み、養殖魚用の合成飼料を食っていたらしい。その飼料にな、成長を促進させる、ちょっと入れちゃいけないものが入っていたらしくって、飼料会社が証拠を隠滅するために、大金かけて山狩りしたわけだよ」

「はあ」

「それでその際に研究用に一匹捕獲した奴を、面白そうだから俺が買い取ったのだ。まあそれも、もう君のものだから、後は煮るなり、焼くなり、食べるなり、なんでもしてもいいぞ」

「えええ……、それもいらないんですけど。とほほほ……」

 またも愕然とする。いやそれを通り越して今度は喟然きぜんとした。雷電号だけならまだしも、そんな元UMAの大豚を貰って、どうしろっていうのか?

「それでは我らが、みのべ・ザ・テクニシャンに再び拍手をお願いする」

 暖かい拍手が僕に送られる。

 僕はもう自棄になって、手を上げて力いっぱい振った。

 ホグジラは、その体を押さえる者が十人増え、十八人の屈強な男によりなんとか奥へと連れて行かれた。

ぶひい! ぶひい!

 閉じられた扉の向こうからは、尚も大豚の荒々しい鳴き声が聞こえてきた。

 それから二枚の優勝旗を抱え、僕はどうにかリング下に降りた。そして少々フレームの歪んだパイプ椅子にどっかりと座ると、うなだれる。

「ご苦労様だったなあ」

 隣に座る暴走神父が声を掛けてきたが、応じる気力はない。

「はあ……」

 なんか騙されたような気がして、一気に疲れが襲っていた。

 

「さて次はいよいよ第三ステージ、待ちに待っていたラストの催し。心・技・体、残るは『心』だ」

 リング上の美濃辺准教授の司会にも力が入る。

「もお変な競技は嫌ですよ」

 顎に肘をついた僕は、ぼそっと呟いた。

 これ以上優勝してしまうのは避けたかった。この流れだと、次の賞品は暴れ馬。規格外の家畜三頭の所有者にはなりたくはない。

「何を言ってるんだい、小林君」

「あ、聞こえましたか」

 こういうときは地獄耳である。

「次の催しは競技ではない。オレたちの心・美少女を愛する心の具現化、『第一回全宇宙美濃辺が選ぶ最強美少女コンテスト』である」

 その言葉に、観客席が色めき立った。今までで一番である。

「入場の際、みなに提出してもらった記憶媒体。そこには各世界でそれぞれが一番の美少女と思われる少女の情報をインプットしてきたはず。その情報を元に、今宵この場で一番の美少女を決めようというのだ。審査方法は簡単、提出された情報を分析、比較し、その美少女がいわゆる同一人物ならばポイントを加算していくというものだ。ポイントが高ければ勝ちだ。わかったかあ、ものども!」

 その答えの歓声は、もはや声でなかった。破壊音である。

 会場の熱気が更に高まってきた。これまでの競技中の熱気の比ではない。確実に会場内の温度も上がっている。

「さて、それでは十位の発表からはじめるぞ」

 それからの会場内は、ほとんど音が聞こえない状態となった。美濃辺准教授たちの興奮した声で、スピーカーなどから発する全ての音が押しつぶされていた。

 僕と暴走神父は、両手で耳を押さえながら、ただ壁に取り付けられた巨大モニターに映る美少女たちを眺めているしかなかった。

 順位の発表の度に、その少女の名を呼ぶ叫号は熾烈を極め、塞いだ耳の奥に無理矢理入り込んで震える。

 拷問とも思える時間。

 レーザー光線が宙を走り、フラッシュライトが明滅する。派手な演出であった。

 だが観客席は荒れていた。宙を飛ぶ紙コップやビニール袋、弾ける爆竹の音と白煙、発炎筒も赤い火を放っている。室内なのに言語道断である。

 美濃辺准教授たちはヒートアップしていた。

 至る所で喧嘩も始まっている。自分の推薦した美少女のことが発端らしい。止める者もいない。大抵、相打ちになって気絶するからだ。

 客席で売り歩いていた売り子のスタッフも、余りの美濃辺准教授たちの狂乱ぶりに裏の通路まで下がり、そこで食べ物を受け付けている。

 次々に巨大モニターにて発表されていく美少女たち。

 さきたまハイパーアリーナは、興奮と混沌の坩堝と化していた。

 ランクインした美少女の内、半分くらいはテレビや雑誌で見たことがあった。二位の少女も、つい最近に美濃辺准教授が、嬉々として読んでいたローティーンアイドル雑誌に巻頭グラビアで載っていた娘だ。小学生ながらGカップというアンバランスさで僕も覚えていた。

 知らない少女の中には、正直、美少女というには微妙という輩も居たが、それは平行世界における趣向の差異によるものだろう。

 こうして順位の発表は、比較的順調に二位まで終わる。

 ちなみに二位のポイント数は、六千二百ポイント。それを加えた今まで合計は二万ポイントばかりだった。

「――それではいよいよ一位の発表だ!」

 その言葉で、ようやく会場内が静まった。会場内にいる全ての美濃辺准教授の視線が、二つの巨大モニターのどちらかに向いていた。この集中力をもっと研究に活かしてくれればいいのだが。

 美濃辺たちの歓声に耳の奥がじんじんと痛む。難聴にならなければいいが。

 モニター上では、女の子の顔写真が凄い勢いで入れ替わっている。

どどどど……

 ドラムロールの音。

 いやが上にも気分が盛り上がる。

どどどど……

 まだ続く。引っ張りすぎだ。

 そして、不意にドラムロールが止む。

「ポイント数は八千四百六十一。『第一回全宇宙美濃辺が選ぶ最強美少女コンテスト』、栄光の第一位は……」

 モニターの映像が止まった。

 長い黒髪に大きな瞳の印象的なローティーンの少女。青い浴衣を着ている。近頃、テレビドラマでよく見る顔だ。あんがいと美濃辺准教授たちはミーハーなのかもしれない。

後藤寺恋華ごとうじれんかちゃんです!」

 司会の美濃辺准教授が、右手を振り上げてモニターに向けた。

「うわっ!」

 その途端に、リングの四方から、ぼっと赤い炎の塊が吹き上がった。熱気が一瞬顔を焼いたように感じた。パイプ椅子から落ちそうになった。

どおおおおお

 さきたまハイパーアリーナ内の空気が、美濃辺准教授たちの歓声により爆発した。

 興奮と酩酊の余り、前後不覚の美濃辺准教授たちがリングに殺到する。

 何人かの美濃辺准教授などは、裏の廊下から回って行く事を潔しとしなかった。四階席や五階席からアリーナに張り出した手すりにぶら下がると、ぼとりぼとりと下の階にいる美濃辺准教授の上に落ちていき、リングを目指した。

「――後藤寺恋華、通称ゴッジ。一四歳。福岡県出身。イプシロン-デルタプロダクション所属。『第三回メメニック社ティーンズヒロインコンテスト』準優勝。現在はモデルや女優業、歌手として活動している。今秋公開の映画『風を切る構造アソシエイションブルース』にも出演している注目度ナンバーワンの美少女だ!!」

 振り絞るように解説する司会の美濃辺准教授。しかしその言葉は興奮の声にかき消される。

 酔っ払いは無敵だった。

 紙コップが飛び、その中身のビールが飛び、座布団が飛び、壊された椅子が飛び、猫も飛ぶ。

 あっという間にリングの周囲の美濃辺密度が上がる。リングの中では、美濃辺准教授たちのおしくらまんじゅうがはじまった。

 昼の共通教育棟一〇三号教室での時よりも酷い。

 司会の美濃辺准教授と僕は、もみくちゃにされながら、リングの上へと押し上げられる。

ゴッジっ! ゴッジっ!

 一位になった少女のニックネームを掛け声に、僕と美濃辺准教授の体が胴上げされ、宙を舞った。

 どんっ

 リングがあまりの重みに耐え切れず、潰れた。リング上にいた者全てが倒れこんだ。

 それでも美濃辺准教授たちがつくった波は、止まらない。

 僕は美濃辺准教授に囲まれていく。酒と汗の臭いが混じってひどく臭い。

 ああ、今朝の夢はやっぱり予知夢だったんだなあ。

 美濃辺准教授の肉に押しつぶされながら、僕は夢を思い出していた。

み・の・べ み・の・べ

 いつの間にか掛け声は変わっていた。

み・の・べ み・の・べ

 さきたまハイパーアリーナは、果てしないみのべコールに包まれた。


 こうして、もみくちゃにされたまま、なし崩し的に「第一回全並行世界みのべ大会・漢祭り」は終了したのだった。


 後に美濃辺准教授に聞いた話によると。飲食代、会場代、運賃、スタッフの賃金その他諸経費を含めた総費用は、三億円を超えたという。

 一晩の、しかも美濃辺准教授個人? の乱痴気騒ぎで三億円とは無駄に日本経済を活性化させている。まあ特許料等でいっぱい稼いでるからね。

 でもそれ以上の価値のある、この世界に無い平行世界の技術が手に入ったらしい。

 ただその技術が、本当に三億円以上の価値があるかは僕には分からない。


 閉会後、ぐでんぐでんに酔っ払った美濃辺准教授たちを電車に乗せ、大学まで連れ帰るのに一苦労した。しょうがないので大型ダンプを十台チャーターして、酔い潰れて動けない美濃辺准教授を荷台に積み上げ、大学まで搬送した。

 美濃辺研究室では、少々酔いの醒めた美濃辺准教授たちの尽力により、転送器を更に二台増やし、四台でもって新たに平行世界への道を開いた。これら転送器には、バッジのICカードを読み取るセンサーが付けられており、出入り口を潜り抜けるだけで、その美濃辺准教授の帰るべき世界を選択する。

 僕は、機械的に冷蔵庫の中に、そこら辺にいる美濃辺准教授を放り込んだ。酔って寝込んでしまっている美濃辺准教授も持ち上げて、冷蔵庫に放り込んでいくのだ。それは蒸気機関車の罐に石炭をくべる作業に似ていた。

 これによって、この世界に来訪した全ての美濃辺准教授たち延べ三万人を、三時間余りで帰すことが出来た。

 それでも、その作業が終わる頃には夜が明け、東の空が白みはじめていた。心身ともに疲れ果て、まともに目も開けていられない状態だ。

 ようやく僕は、地下にいた美濃辺准教授の最後の一人を帰し終えた。設置されたカウンターによると、これで他の世界から来訪した全ての美濃辺准教授が帰還したわけだ。勿論、間違えてこの世界の美濃辺准教授まで、他の世界に送ってしまうような失態は犯していない。そもそもバッジを持っていないから、転送装置は作動しないのである。多分、一階で寝ているであろう。

 僕は、四機の転送装置のドアが閉まったのを確認すると、あくびをかみ殺しながら一階に上がり、そのまま崩れ落ちるようにゴミだらけの床に寝転がった。

 床の冷たさも、鳥の囀りも、僕が眠りに落ちる事を邪魔することは出来なかった。

 夢を見た気もするが、覚えていない。夢は、昼間に起きながらにして悪夢を体験したからだ。


 誰かが僕の名を呼んでいる。

 こばやしくん。こばやしくん。

 聞き覚えのある声だ。

 こばやしくん。こばやしくん。こばやしくん。

 そうだ、この声の主は……。

 こばやしくん! 起きるぞなもし!

「美濃辺せんせえ!」

 僕は目を開いた。

 目の前には、大きな大きな美濃辺准教授の顔があった。いつ見ても態度もでかけりゃ、顔もでかい。

 それは見慣れた美濃辺准教授の顔。パンパンに膨れた風船にいやらしい目鼻口を書いて、銀縁メガネをかけさせたものだ。視界一面、大きな顔だった。

「うわっ!」

 びっくりして声まで上げてしまった。

 その声に美濃辺准教授は、僕の視界から大きな顔を引っ込めた。

 僕は今の自分の状況を思い出した。

 確か昨日、たくさんの美濃辺准教授の世話をさせられて、そのままぐったり寝てしまったんだった。

 僕は頭を振りつつ上体を起こした。またも床の上に散乱した本とゴミの中で寝ていた。 鳴き声がした。牛と豚の鳴き声だ。

 窓の外、美濃辺研究室の隣にある放牧場に目をやる。そこでは遠めにも他の牛や豚に比べてふたまわり以上大きい牛と豚が、我が物顔で他の家畜を追い駆け回していた。

 松平一号がクラクションを鳴らしながら、その後を追いかけていくのも見える。このごろ、たまに牧畜犬らぬ牧畜車として働いたりしているのだ。昨日もご苦労だった。

 夏の暑い日光は薄い窓ガラスから射し込み、室温を急激に上げ始めていた。

 僕はびっしょりと寝汗をかいていた。蒸し暑いせいか、朝方まで味わった重労働のせいかは定かではない。

「こばやしくん、ようやく起きたぞなもし。しかし随分と、よく眠っていたぞなもし」

 美濃辺准教授は、僕のすぐ横に正座していた。

「いえ、さすがに昨日は疲れまして……」

 そう言って、僕は顔面から溢れ垂れる汗を手のひらで拭う。胸の動悸は治まっていない。

「え、ぞなもし……?」そこでふと気付いた。「語尾が……。これって既視感?」

 僕の心臓が更に鼓動を強くした。

 首をゆっくりと准教授の方へ向けると、まじまじと美濃辺准教授の姿を見る。

 顔、体、服装、漂ってくる獣臭まで、なんらいつもと変わりの無い美濃辺准教授だった。薄汚れた白衣の染みは見慣れた形だし、壊れた眼鏡のつるをテープで補強してあるのもいつもの通りだ。

 だが、どこか違っている。これは長年、といっても実は半年にも満たないのだが、下に付いている者の勘であった。

 僕は訝しげな視線を准教授に向けた。

「ま、まさかね……。ちなみにせんせえ。今何時でしょうか?」

 掛け時計を指差しながら聞いた。

 美濃辺准教授が時計を見る。

「小林君」僕に視線を戻して、にっかりと笑う。「俺に文字が読めるわけ無いぞなもし」

「へ……」

 僕は床に座ったまま、自分の頬を力いっぱいつねっていた。

 そういえば、米に文字がかけない世界の美濃辺准教授のバッジを、この世界の准教授が拾っていたっけ……。


 結局、それから僕の世界の美濃辺准教授を見つけ出し、文字のない世界の美濃辺准教授と交換して連れ戻すのに丸一日近かった。

 悪夢は睡眠中に見るに限る、とつくづく思いました。

                       とりあえず第一部 おわり


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[良い点] 最終話まで読了いたしました! あまりの展開に、これは夢オチになるかな…?と思いきや現実だった! 破天荒な天才科学者と奇行に振り回される助手のお話、とても楽しく読ませていただきました。とり…
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