第七話 『となりのみのべさん』前編
本当の悪夢というものは、起きている時に見るものだ
ベン・P・スティーブンスン(米)
理論物理学者(コペンハーゲン学派)
これが夢であることはわかっていた。
そんな夢を見る時が、時々ある。いわゆる明晰夢というやつだ。そんな時の僕は、極力夢の流れに逆らわないようにしている。
夢の中、いつもの汚い白衣姿の美濃辺准教授が、いつもの黒板に、いつもの白墨で板書をしている。
いつもの研究室。いつもの机。いつもの椅子。
変わりの無い日常である。
僕は椅子に腰掛け、机の上で頬杖をつきながら、その講義を聴いている。
シュレディンガーの猫。
黒板には、その文字と箱に入った猫の絵が描かれていた。
それは、この間受けたばかりの量子力学についての講義の時の光景であった。
「この猫は生きているか? 死んでいるか?」
黒板の猫を指差しながら、美濃辺准教授が問うてきた。
シュレディンガーの猫とは、量子力学の問題点を分かりやすく例えたものであった。
量子力学における物体の運動と位置の測定は、高等学校などで学ぶニュートンの唱えた古典力学によるものと異なっている。古典力学では解析学と幾何学を用いて、物体の運動と位置を測定することが出来るとしている。ちなみに、フランスの数学者ラプラスは神の如き無限の力を持つ「もの」ならば、全宇宙の物質の動きを測定し、さらに運動を予測することで未来を予知しうると考えた。その「もの」は「ラプラスの魔」と呼ばれる。
この世界のすべて、素粒子のような極小から、宇宙のような極大の世界がまんべんなく古典力学にのみ支配されているならば、未来予測は不可能でないのである。
だが、電子や陽子など、極微小の粒子を扱っている世界を支配していたのは古典力学でなく、量子力学であったのだ。古典力学と異なる点、量子力学では、運動と位置の二つ同時に測定できないのである。運動を測定しようとすれば位置が、位置を測定すれば運動が不確かな値になってしまう。
ドイツの物理学者シュレディンガーは、そんな量子力学を「なんか、おかしくない?」と考えた。そこで次の思考実験を提案した。
猫を箱に入れ、更に毒薬のビンも入れておく。毒薬のビンの蓋には、放射性物質を用いた開閉装置が付けられている。この放射性物質は五十パーセントの確立で崩壊し、その際に蓋が開くものとする。箱の中は、外からは見えないものとする。
その時、箱の外から観察した場合、猫の生死はどうなっているか?
夢の中、美濃辺准教授の僕への質問も猫の生死についてであった。
なにやら禅問答のような話である。
「――死んでも生きてもいない状態でしょう」
僕は、その問答の答えを知っていたのだ。
それは量子力学独特の考え方によるものあった。量子のミクロな世界では、物質の存在は確率的なものとなる。
その考えから導き出される答えこそ、生死どちらでもないという曖昧なものであった。
たとえば原子核の周りに存在する電子は、一個の粒子では無く雲海状のものとして考えられる。それは電子の位置が、確率的なものとしか捉えることが出来ない結果である。
つまり、原子は確率的な状態として存在しているのである。そこで、あらゆる物質が原子により構成されることをかんがみれば、この世界の物質の存在はあまねく確率的なものであると考えうるのである。
「――小林君。それは量子力学のコペンハーゲン学派の考えだろう。猫の生死は、観測者が箱の中身を見た瞬間に決定する。観測により確立の波が収束し、実体と化すのだ。コペンハーゲン解釈と呼ばれる考えだ」
しかし……。そう言いかけ、美濃辺准教授は脂で汚れた眼鏡をくいっと押し上げた。
「しかし、ってなんですか?」
「小林君。君は本当に箱の中の猫の生死が、訳の分からん曖昧なものだと思っているのかい?」
「いえ、それは……。現実の感覚からして、やはり死か生のどちらかの状態だとは思いますが……」
夢の中で現実感覚を持ち出すとは、我ながら面白い。しかし、講義の時もそう答えてしまったのだから、この場で台詞を変える訳にはいかないだろう。
「ふふん。それが普通の感覚だろうな。だから物理学者はコペンハーゲン解釈の他に、多世界解釈というのを考え出した」美濃辺准教授は、猫の絵の上に『多世界解釈』と板書する。そして話を続けた。「多世界解釈とはな、観測者と観測物とが共にある世界、それが無数に重なり合っているというものだ」
「はて?」
僕は首をかしげた。
一度この講義を受けた身としては、多世界解釈の考えを既に理解しているが、ここではこの前の仕草をなぞることとする。
「では、この箱の猫で考えてみる。コペンハーゲン解釈では、観測者が箱の中を見ないと猫の生死は決まらなかった。だが多世界解釈では、観測者と箱の中で生きている猫、そして観測者と箱の中で死んでいる猫のいる世界、というのがそれぞれ存在し、観測によりその中の一つを選択するのだ。この考えなら、猫の生死は曖昧でなかろう」
「へえ、それってなんかSF小説にでてくる平行世界みたいですね。あの同じような世界がいっぱいあるっていう」
「そうだな。それに近いかもしれん。ちなみにこの多世界解釈、最初に考え出した『ヒュー・エヴァレットしゃあんせ~い』にちなんでエヴァレット解釈とも言われている」
「ヒュー・エヴァレットしゃん世?」
「しゃあんせ~い」
「さんせい?」
「しゃああんしぇぇえい!」
「……」
どうやら、美濃辺准教授はその名前を言いたかっただけらしい。そのために量子力学の講義をやると言い出したのだろう。馬鹿だ……。
美濃辺准教授は言いたいことを言えた為、すっきりとした顔をしている。
「それでは、実験を始めよう」
「えっ……?」
僕は狼狽した。この前の講義の時は、ここで終了して第二食堂へ向かったからだ。夢の中とはいえ、想定外のことである。
「実験って、何の?」
「何のって、シュレディンガーの猫に決まっているだろうが」
そう言って、美濃辺准教授は机の上に一抱えもあるダンボール箱を置いた。「甘い愛媛みかん」とラベルが表示されている。
その中から、にゃあと猫の鳴き声が聞こえた。
「こ、これは……」
「うむ。すでに中には猫と毒薬の瓶が入っている」ダンボールの上部をポンと叩いた。「さて、それでは小林君、この中の猫は生きているかね? 死んでいるかね?」
「い、生きているでしょう。鳴き声が聞こえたから。それより、早く箱から出してあげないと、毒薬で死んでしまいますよ!」
ダンボールの蓋を開こうとした僕の手を、美濃辺准教授の手がやんわりと制止した。
「まあまあ。それじゃあ、次いってみよう!」にっかりと笑った美濃辺准教授は、先程のダンボールのすぐ横に、同じ大きさの段ボール箱を取り出して並べた。「この中の猫はどうだ?」
中からは音はしない。動いている様子も無い。
「し、死んでいるかも……?」
「はい、つぎぃっ」
また新しい段ボール箱を取り出す。
「せんせい。猫の箱はいくつあるのですか?」
これは全くもって、きりが無い。まるで盛岡名物わんこそばである。
そして、美濃辺准教授の口から出た答えに、夢の中の僕は驚くことになる。
「∞」
「えっ、無限大!」
僕の声が驚きに裏返った途端、美濃辺研究室の屋根が吹き飛び、四方の壁が外側に倒れた。
黒板が消え、美濃辺准教授の背後には、うず高く積まれたダンボール箱が姿を現した。左右、上、どちらの端も遥かに霞んで見えないくらいだ。
「実験というものは、正確を期さねばならぬもの。確立の実験ならば尚更だ。無限回の試行を繰り返すのは当たり前でないか」
僕の前にある机も左右に長く伸び、その上に無数の段ボール箱が並んでいる。やはり、その端は霞んで見えない。
そう、そこにも無限個のダンボールが並んでいるのだ。
しかし、何も無限回の試行を繰り返さなくてもいいように、統計学や確率論は発展してきたのである。わざわざ夢の中だからって、無限個の箱と無限匹の猫を用意することはないだろう。大体、無限ものダンボールと猫など現実世界には存在しない。
僕はダンボール群を絶望的な視線で見つめていた。
「さて、みんな開いて確かめてみよう」
美濃辺准教授がチェシャ猫のようなニヤニヤ笑いを浮かべながら、目の前にある箱の蓋に手を掛けた。僕が先程、死んでいると判定した箱だ。
僕は息を呑んで、箱が開けられるのを見る。
そして箱は開かれた。
僕はつい好奇心で中を覗き込んだ。
「うっ……」
僕は中の光景に思わず口を押さえてしまった。
猫は……、生きていた。
だが、問題があった。その猫の顔が、美濃辺准教授のそれであったのだ。
猫はニヤニヤとチェシャ猫のような笑みを浮かべながら、箱から這い出てきた。ご丁寧にも小さな銀縁の眼鏡をかけている。つるはどこに掛かっているのだろう?
チェシャ猫ならぬ、みのべ猫だ。
僕はその不気味さに、思わず後退ってしまった。
「おっ、こいつは生きているな。じゃ、他のはどうだ?」
美濃辺准教授が、背後に積まれた段ボール箱を見るために振り返った。
その瞬間、ダンボール箱のふたが開いた。机の上、山のように積載されたもの問わず全てが次々とだ。
そしてそれらの箱の中から猫が顔を覗かせた。どの猫も、いやらしい笑みを顔にへばりつかせたみのべ猫である。
同時に、半分くらいの数の箱の中から、白煙が噴出した。毒薬が気化したものだろう。
数学的に考えると、無限個の半分の数は無限個である。この場にある半分の数の箱から、無限の白煙が上がっているのだ。
ではその中の猫はどうなのか。毒の白煙の中から、みのべ猫は何も無かったかのように出てきた。美濃辺准教授の顔を持つ猫に、毒なぞ効かないらしい。
さすが面の皮の厚いみのべ顔である。一年に何度も車に轢かれてもぴんぴんしている美濃辺准教授の生命力は、ゴキブリを凌駕し、クマムシに匹敵するかもしれない。
「毒薬、意味無いじゃん……」
僕は呆れながらつぶやいた。
キキー キキー
みのべ猫の耳障りな鳴き声だ。ガラスを引っ掻く音に似ている。僕のつぶやきも鳴き声に掻き消される。
そして、なんと言うことか、無限匹のみのべ猫が僕に向かって歩み寄ってきた。
逃げよう、と思ったが体が動かない。金縛りにあったようだ。足はコンクリートで固められたかのように動かない。心臓が早鐘を打つ。
悪夢だった。
右を見ても左を見ても、僕の視界は全て美濃辺准教授の顔で埋め尽くされている。にじり寄ってくるみのべ猫。
こばやしく~ん こばやしく~ん
鳴き声はいつの間にか僕の名を呼ぶ声に変わっていた。
(わっわっ、やめろ、やめてくれ!)
声が詰まった。もどかしい。
やがて、足元からみのべ猫が僕の体をよじ登ってきた。僕の体はジャングルジムじゃないぞ。
(いててて……)
一匹のみのべ猫が僕の耳に足をかける。
汗臭い体臭が僕の鼻を捻じ曲げる。それは目にも沁みる。
そして頭の先から足まで、僕の体は、みのべ猫に覆われてしまった。
最後に見た光景は、僕に向かって手を振る美濃辺准教授のしたり顔であった。
生暖かい闇の中に、僕の名を呼ぶ鳴き声だけが響いている。
呼吸が出来ない……。苦しい……。
これは夢だ。早く目覚めなければ。
僕は心の中で、祖母から教えて貰った悪夢除けのまじないを必死に思い出そうとしていた。
そして猫は耳元で呟いたのだ。
こばやしくん。
誰かが僕の名を呼んでいる。
こばやしくん。こばやしくん。
それは聞き覚えのある声。
こばやしくん。こばやしくん。こばやしくん。
そうだ、この声の主は……。
こばやしくん! 起きるだなっす!
「美濃辺、せんせえ!」
僕は大きく目を開いた。
そこには、大きな大きな美濃辺准教授の顔があった。いつ見ても態度もでかけりゃ、顔もでかい。
それは見慣れた美濃辺准教授の顔。パンパンに膨れた風船にいやらしい目鼻口を書いて、銀縁メガネをかけさせたものだ。視界一面、大きな顔だった。
「うわっ!」
びっくりして声まで上げてしまった。
その声に美濃辺准教授は、僕の視界から顔を引っ込めた。
僕は、今の自分の状況を思い出していた。
確か昨夜は、駅前のなじみの居酒屋「大和」で飲んでいた。美濃辺准教授と近頃飲み仲間となった暴走神父共に、瓶ビールひとケースと焼酎五本を空けたはずだった。真夜中まで飲んで、その後准教授と神父を引き連れ、タクシーで大学まで戻ったのまでは覚えている。どうやら、家に帰らずに、そのまま研究室で寝てしまったらしい。
夏で良かった。冬だったらそのまま凍死していたかも知れぬ。マッチ売りの少女になるのはごめんだった。
僕は残ったアルコールに頭を振りつつ、上体を起こした。床の上に散乱した本とゴミの中で寝ていた。美濃辺ゼミに入って早四ヶ月、どこでも寝られるようになった。我ながら成長したものである。
横で寝ていたはずの暴走神父の姿は無かった。今日結婚式とミサがあると言っていたので、もう帰ったのだろう。
暴走神父は、メキシコ人のカトリック神父である。齢五十をとうに越してはいるが、筋骨隆々の鍛え抜かれた体躯を維持している。それもその筈、彼はかつてメキシコ、ルチャリブレ界にて勇名をはせた名ルチャドール(プロレスラー)であった。経営する孤児院の運営資金を稼ぐためにルチャドールとなったという変り種であった。
やがて孤児院から子どもたちが巣立ち、経営も順調となったのでルチャを引退した。そして次の人生、神の教えを広めるために来日したのである。美濃辺准教授とは、以前取り仕切っていた結婚式を妨害された際に拳を合わせて以来、飲み仲間となっていた。
夏の暑い日光が薄い窓ガラスから射し込む。室温は急激に上がりはじめていた。
僕はびっしょりと寝汗をかいていた。蒸し暑いせいか、先程見た悪夢のせいかは定かではない。だが、おかげで体内のアルコールの大半は抜けたようだ。
「小林くん、ようやく起きたなっすな。うなされていただなっすな」
美濃辺准教授は、僕のすぐ横に正座していた。准教授は僕よりも酒に強く、一晩寝れば翌日はほとんど残ってはいない。
「いえ、ちょっと悪夢を……」
そう言って、僕は顔面から溢れ垂れる汗を手のひらで拭う。胸の動悸は治まっていない。
「――だなっす?」そこでふと気付いた。「語尾が……」僕の心臓が更に鼓動を強くした。「変だ?!」
首をゆっくりと准教授の方へ向けると、まじまじと美濃辺准教授の姿を見る。
顔、体、服装、漂ってくる獣臭まで、なんらいつもと変わりの無い美濃辺准教授だった。薄汚れた白衣の染みは見慣れた形だし、壊れた眼鏡のつるをテープで補強してあるのもいつもの通りだ。
だが、どこか違っている。これは長年、といっても実は半年にも満たないのだが、下に付いている者の勘であった。
僕は訝しげな視線を美濃辺准教授に向けた。
「おーい、起きたみたいだなっす」
美濃辺准教授が、僕の視線を気にすることもなく、口に手を当てると地下秘密研究室に続く扉に向け声を発した。
「そうかー」
その地下から返事が返ってきた。
「はあ?」
僕は耳を疑った。その返事もまた、紛れも無い美濃辺准教授の声であったのだ。
床に設置してある扉が開いた。そしてその中から、美濃辺准教授の大きな頭がぬっと出現した。
「えっ、えっえーっ!」
僕は何度も首を振り、すぐ隣にいる美濃辺准教授と、穴から顔を覗かせている美濃辺准教授とを見比べる。
「おお、ようやく起きたか」
新しく現れた美濃辺准教授が、階段を昇り僕に近づいてきた。
同じ姿形をした人物が二人僕の前に立っている。呆気にとられている僕を尻目に、二人は並び立った。その光景、まるで合わせ鏡である。だが一卵性双生児だって、こうも似てはいないであろう。
「まさか分裂でもしたんですか? ゾウリムシみたく」
美濃辺准教授なら、大いにあり得ることだ。
「何トンチンカンなことを言っておるのだね、小林君」「だなっす」
二人同時に喋る。語尾の分だけ、ひとりの准教授の会話は長かった。
「で、でも、二人って……。どちらが本物?」
「おお、小林君の目が覚めたって!」
地下研究所に続く穴からまたも声がした。
「まさか……」
そのまさかであった。地下へと続く扉から三人目の美濃辺准教授が顔を出した。
僕は頭を抱えた。
しかし、それはこれから起こる悪夢の序章にしか過ぎなかった。
「おお」「おお」「おお」
重なった声と共に、ひょこひょこと数え切れない人数の美濃辺准教授が穴から顔を出したのだ。
先程うなされた悪夢を思い出した。無限の数のみのべ猫……。いやそれよりも数段性質が悪い。
そうこうしているうちに美濃辺准教授の群れは、地下室に通ずる穴から、まるでカマキリが卵から孵化するように、うじゃうじゃうじゃうじゃ這い出てきた。
ひとりでも面倒な人が、こんなにいっぱい。
本棚や機械類でただでさえ狭い研究室のスペースは、あまたの美濃辺准教授によって覆われていく。
「はは、はははは……」
僕は床に座ったままその光景を見ながら、自分の頬を力いっぱいつねっていた。
夢であって欲しいと願いながら。
願いは叶わなかった。
「みんな美濃辺せんせい……、なんですか?」
そうだ、と言って僕の前に正座した五人の美濃辺准教授が首を同時に縦に振った。
しかしながら、その話は僕には、素直に信じられるものではなかった。
彼らは全員がそれぞれ正真正銘、本物の美濃辺准教授だというのだ。つまりは、僕らの今いる世界と隣接した平行世界にそれぞれ存在する美濃辺准教授なのであるという。
「いやあ、以前から連絡を取り合っていてね。盛り上がちゃってな、俺が幹事となってこの世界で懇親会やろうって話になったんだよ。その日にちが実は今日だったんだが、すっかり忘れていたのだよ」
五人のうち真ん中の美濃辺准教授が、ぐふふと笑いながら僕に語った。どうやらこの人が、僕の世界の美濃辺准教授らしい。
平行世界からの扉は、地下研究所にある冷蔵庫の中にあった。外観は白い家庭用の大型のものである。
だが、その中身には回転する超小型ブラックホールが詰まっているはず。どうやって、光をも吸い込むブラックホールを維持しているのか、その理屈は分からない。ただその為のエネルギーはやはり、平行宇宙からもたらされていると聞いたことがあった。
ブラックホールの重力により空間は曲げられ、他の宇宙である平行宇宙へ続く道を作り出す。その道が冷蔵庫の中にあるのだ。
美濃辺准教授は、平行宇宙に関する技術を会得していた。それは、この時代の技術レベルを遥かに超えたものであることは言うまでも無い。
そうそう、以前に、美濃辺研究室の全エネルギーが制御不能になった場合のことを尋ねた事がある。その時美濃辺准教授は、夜空の一点をその丸っこい指で差して「ガンマ線バースト」について語り始めた。ガンマ線バーストとは、宇宙の一部から突如膨大な量のガンマ線が検出される現象である。その原因は未だ判明してはいない。が、その現象により放出されるエネルギーは、僕たちの銀河系一つを丸々壊滅するほどのものであるという。更にその破壊力はというと、恒星の最後である超新星爆発の比ではないというのだ。
そして一通り説明してから、美濃辺准教授は付け加えるようにぼそりと言った。「どこかの星で制御に失敗しちゃったんだろうなあ……」と。
そんな莫大なエネルギーを使った、並行宇宙へと通じる冷蔵庫の扉を、他の世界の美濃辺准教授が潜り抜けてきているらしい。
冷蔵庫の横にはICカードの発券機がある。来訪してきた美濃辺准教授一人一人が、そのカードを手に取っている。カードには、その美濃辺准教授の平行世界の座標が記され、その情報が帰還の時に用いられる。
美濃辺准教授たちは、冷蔵庫から出てくるなり満面の笑みで、握手をしたり、抱き合ったり、鼻と鼻をこすり合わせたりして、親交を深めている。みんな同じ美濃辺准教授なだけあって、仲良くなるのも早いらしい。
まるで生き別れになった兄弟の奇跡のご対面のようではあるが、同一人物同士でしかもそれが美濃辺准教授であるから、感動も何もあったものではない。
「それで僕は何をしたらいいんですか?」僕は、隣に立つ、この世界の美濃辺准教授に聞いた。「懇親会の幹事っていったら、出席者の名簿作って会場を押さえておくものでしょう」
「名簿というか、こちら側に来た時に、どの世界から来たかはカウントされるのでそれを名簿としよう。あとな、会場はもう適当なものを押さえてある。小林君は、みんなの接待と誘導をお願いする。それじゃ、オレは会場設置の用があるから先に行くわ。三時までに迎えに来るから、それまでよろしく。粗相はするなよ」
そう言い残して、この世界の美濃辺准教授は、さっさと立ち去っていってしまった。
「えっ……」
詳しい説明もそこそこ、残された僕は、すでに途方に暮れる。
一人でさえ扱いが厄介な美濃辺准教授が、こんなにいっぱい。右を見ても左を見ても美濃辺准教授である。
カードの発券機を見ると、発行枚数は二百枚を超えていた。この地下室も窮屈になっている。
(さて、時間までどうやってこの獣たちの相手をしたらよいであろうか)
顎に手を当て、僕は考えこむ。
「なんだってえっ!」
突如、階上から怒鳴り声が聞こえた。もちろん美濃辺准教授の声である。
急いで階段を駆け上がって、一階の室内をぐるりと見回す。
そこでは、美濃辺教授たちが研究室の至る所をうろつき回り、そこにある物をいじくり回していた。
その一角で美濃辺准教授同士が言い争っているのを見つけた。
「どうしたんですか、ええと……」僕は喧嘩する二人を何と呼んでいいのか、一瞬躊躇った。「五十六番と六十三番の先生」
結局、胸に付けたカードの番号で呼ぶことにした。区別するためにカードは、そのままバッジとなっている。そしてその表面に記載されたその番号は、この世界から見たそれぞれの准教授の世界の番号でなのある。
「おお、小林君か」
五十六番と六十三番の美濃辺准教授が同時に言葉を発した。
「聞いてくれ、小林君。この無作法なへちゃむくれた男が、オレの読んでいた写真集を無理矢理奪い取ろうとしたんだ」
五十六番はその左腕で、写真集を奪われまいとしっかり胸に抱き締めている。ローティーンの水着の少女が笑顔で表紙を飾っている写真集だった。
「小林君、騙されてはいかんぞ。この水ぶくれ野郎が、いつまで経ってもその写真集を独り占めにしているから注意したのだよ。早く寄越せと言っても、なかなか手放さないのだ」
六十三番は顔を真っ赤にして怒っている。まるで真っ赤なトマトだ。
しかし、本の取り合いで喧嘩とは、子どもの喧嘩である。
罵り合いは続く。
「誰が梅山豚だ」「人をマツブッシープレコだとは失敬な」
どうやらどちらも不細工な生物の名前らしい。
だが、どちらも同じ顔をしているのだから、相手の顔の悪口は、天につばを吐く行為と同じことであろう。
舌戦はヒートしていた。そしてついには、互いに腕をぐるぐる回すと、殴り合いを始めた。子どもの喧嘩も佳境に入ってきた。
「まあまあ」僕は乱れ飛ぶ拳をかいくぐって、慌てて二人の間に入っていった。二人の胸を手で押して、距離を離す。「二人とも喧嘩は止めて下さい。そんな写真集、平行世界なん
だから自分の世界にもあるでしょう」
僕の言葉に、二人の美濃辺准教授の動きがはたと止まった。そして同時に視線を僕に向けた。
「君は平行世界をどういう風に考えているのかね?」
「それは……、平行世界だし、同じ世界が平行に並んでいるんじゃないですか」
僕の答えに、周りの美濃辺教授たちも会話や行動を止めた。そして全員、僕を見た。
ふぅっ……
そして、全員が一斉に手のひらを上にし肩をすくめて、わざとらしいため息をついた。なんと憎たらしい、馬鹿にした仕草であろうか。
「小林君。それはとんだ勘違いだよ」周りにいた十五番の美濃辺准教授が一歩進み出た。「俺たちの住む並行世界は、重ならない程度にそれぞれ少しずつ異なっているのだよ。微小な違い位では、世界は重なっているものだ」
成る程、その話を聞いて思い出した。美濃辺准教授の助手依田氏が囚われている並行空間のことを。あれは、この世界と重なっている空間だった。
良くみると、この十五番の美濃辺准教授の眼鏡のフレームは、この世界の准教授のものより幾分丸み掛かっていた。細やかな違いであるが、こういったものが重なる世界との差別化を生んでいるのであろうか。
十五番の美濃辺准教授は、尚も話を続けた。説明好きな所は、この世界の美濃辺准教授と同じである。
「その写真集にしても、多分他の世界のものとは違っているだろう。どうだね?」
「うむ、このページのこの写真を見てくれ」五十六番が手にした写真集を広げ、皆に見せ付けた。「オレの世界では、ここの衣装はレオタードではなく体操服だったのだよ」
「なんだってっ!」六十三番が驚きの声を上げた。「して、下はスパッツか?」
「ブルマだ」
おおお……、と美濃辺准教授たちから感嘆の声が上がった。
「実はな、このページのこのレイアウトには、レオタードの方が合っているか脳内シミュレートしていたのだよ。それでつい独り占めしてしまった。申し訳ない……」
「そうか、それならば仕方あるまい」
そう言って、六十三番が五十六番の肩を優しく叩いた。そしてしっかりと握手を交わすのだった。
「なんということだ……」窓際では深刻そうに眉根に皺を寄せた百四番が、額に拳を当て、深い唸り声を立てた。「ジャージで無いなんて……」
百四番の世界では嗜好が少し違うらしい。
こうして、くだらない喧嘩は一件落着した。
ほっと胸を撫で下ろした束の間、とんとんと僕は肩を叩かれた。
振り返ると、幾分か頭の薄くなった美濃辺准教授がいた。バッジには七番と記されている。
「そういえば小林君から、小林君宛てに手紙を預かってきたんだ」
唐突に、七番の美濃辺准教授から封書が差し出された。表には「小林さま江」と書かれている。
中を開いてみるとカードが一枚入っていた。そこには
お気の毒さま。今日は頼むよ。
とだけ書かれてあった。簡潔だが意味深い言葉だ。
僕はそのカードをくしゃくしゃに握り締めた。
「おお、そういえばオレも預かってきたにだ」
他の美濃辺准教授たちも七番に続いて、わらわらと僕に手紙を手渡していった。その中には、日本語ではない知らない文字が表記されているものもあった。でもきっとそれは、小林という意味なのであろう。
僕の腕の中はあっという間に手紙で溢れてしまった。五百通は越えているだろう。中を見なくとも、内容はどれも同じであろうと推察される。感謝と憐憫。確かに、僕も他の世界の小林の立場であったならば、犠牲となる小林に同じ感情を持つであろう。
重さ以上に内容の重い手紙であった。が、実際にはありがた迷惑であった。
「小林君、腹減った」
突如、一人の美濃辺准教授が口に出した。
「おお、俺も減った」「俺もぉ」「どうにかしてくれ」
喧々囂々(けんけんごうごう)。次の瞬間には研究所中、空腹を訴える声だらけになった。
ちらりと時計を見ると、いつの間にか正午になっていた。
「わかりました!」僕は手紙を手近な机の上に置いた。そして、口のまわりに両手を当てメガホンを作ると、大声で言った。「ではこれから食堂に移動しましょう。お腹の減った先生は、僕についてきてください!」
それから旅行添乗員よろしく、目印の旗を持った僕を先頭に、大学敷地の端にある第二食堂へと移動を開始した。大学の中心部にある第一食堂は規模が小さいので、二百席はある第二食堂にしたのだ。
丸に「み」と書かれた旗の後を、美濃辺准教授の集団がふらふらと歩いていく。
学内を歩く学生たちが、その光景にぎょっとして目を剥いた。だが、次の瞬間には何事も無かったように無視をする。どんな奇妙な出来事でも、それが美濃辺准教授に関することならば、ごく日常の出来事なのである。
「美濃辺には関わるな」が、この学校に入学してまず始めに先輩たちから教え込まれることなのである。
美濃辺准教授の列は、決して揃ったものではなかった。気を抜くと、すぐに二、三人の美濃辺准教授が列から外れ、あらぬ方向へと歩き出す。
普段のこの世界の美濃辺准教授もそうだ。まっすぐ歩いていたなと思ったら、いきなり斜め前方に歩みを向ける。そのせいで何度車道に飛び出し、車にぶち当たったことか。正確な表現では、車に美濃辺准教授がぶつかっていく感じである。
列のすぐ横で随行する自律型軽トラックの「松平一号」が、そうしたはぐれ美濃辺を見つけるとクラクションを鳴らす。
今日の松平一号は、牧畜犬の役目をしてくれている。一人でこれだけの美濃辺准教授を捌くのは不可能に近いので、たいへん有り難い。
どうにかこうにか、第二食堂へと到着した。
第二食堂内の客は疎らだった。夏休みに入ったので、実験など無い文系の学部生がいないからだろう。
そんな数少ないお客も、僕の手にある旗の美濃辺印を見ると、そそくさとテーブルを後にしていった。
「違うメニューだと時間が掛かるので、みんなチキンフリッター定食でいいですね」
「異議なーし」
美濃辺准教授の群れから同意の声が上がった。その声の中には「チキンフリッターってなんだ?」っていうものも小さく混ざってはいたが、要は鳥のから揚げであるが、面倒臭いのでどうか隣の美濃辺准教授に詳細を聞いていただきたい。
僕は食券の券売機には並ばず、直接食堂の窓口でコック長に交渉した。
第二食堂をほとんど一人で切り盛りするコック長は、往年のチャールズ・ブロンソンにも似たナイスガイだ。どんなに忙しくてもいつも苦みばしった笑みを浮かべている。
コック長も得たもので、僕のお願いに苦みばしった笑顔を歪めながらも快諾してくれた。長年美濃辺准教授が利用しているので、かなり無理が利いた。コック長もまた美濃辺准教授の昔からの犠牲者であった。
美濃辺准教授の列は、研究室から窓口まで長く伸びている。
窓口でトレイの上に、皿に載った鳥のから揚げと野菜の付け合せ、米飯ともやしの薄い味噌汁を受け取り、順番に長テーブルに付く。そして、順次食していく。それがベルトコンベアを使った流れ作業のように進んでいく。そうでもしなければ、にっちもさっちもいかないのである。
僕は外に並んだ列を松平一号に任せて、食堂内の世話に徹した。自分の食事を取る暇なぞ無かった。
「小林くーん、お茶!」
食堂の至る所からそんな声が上がる。
テーブルにはずらり美濃辺准教授。目の前のテーブルには盆に載ったチキンフリッター定食。一面同じ顔のその光景は、養鶏場か養豚場か、並んで餌を頬張る家畜にも見える。
「はいはい、今行きますよおっ」
僕はエプロンを着用し、お茶の入ったやかんを持って走る。息つく暇もない。
「この肉は何の肉かね?」
などという質問もあった。
鶏の肉と答えると、意外そうな表情をした。
「鶏、それはガルスのことだな。なんとこの世界では、ガルスなどという絶滅種を食用としているのか……」
ちなみにガルスとは鶏の学名だ。僕はその美濃辺准教授に、ではあなたの世界では何を食用としているかを尋ねた。
「それは決まっている。ドードーだよ」
したり顔で答えたその美濃辺准教授は、二百十一番だった。
食べ方にも色々あると感心した。用いる食具は、箸、ナイフ、フォーク、スプーンはもちろんのこと、手づかみでバリバリ食べちゃっている野性味あふれた美濃辺准教授もいる。
まあ手づかみといっても、別に無作法というわけではない。西暦千五百三十三年までは、フランス王宮でもフォークを使わずに手づかみで食事をしていた。テーブル・ナプキンやフィンガーボウルはその頃の名残なのである。
それよりも驚くべきことに、一本の糸を使って肉を切り分け、更にその糸で器用にも米を掬い口に運んでいる美濃辺准教授や、手を一切使わず口だけで全ての食材を食している美濃辺准教授もいる。
さながら、びっくり食べ方博覧会だった。
各自の味覚についても目を見張った。
タバスコを一本米飯にかけた美濃辺准教授がいた。八十番の美濃辺准教授だ。しかもそれを一口くちにして、まだ辛味が足らないと言い張った。
その意見を真摯に受けとめたコック長は、タバスコの七千倍以上の辛さのデスソースと呼ばれる調味料を持ってきた。名前の通り、ひと舐めしただけであまりの辛さに死にそうになるソースだ。
辛味は、甘味、塩辛味、苦味、酸味、旨味などの味覚ではなく刺激である。デスソースは、舌の上にあり化学的に味を感じる味蕾ではなく、痛みを感じる痛覚神経を刺激する。そう考えると、過度の痛みはショック死を引き起こす可能性もあるわけである。デスソースという名前に、偽りはないのかも知れない。
しかし、そんな明らかに使い勝手の悪いソースを貯蔵していた第二食堂も、凄いといえる。
八十番はデスソースを、タバスコで真っ赤に染まった米飯の上に降り掛けた。デスソースの匂いは近くにいるだけで、目が痛くなり喉の奥がむせた。両隣の美濃辺准教授も、化学兵器と化した八十番の皿から離れるようにして、自分の定食を口に入れていた。
それから八十番は、ニヤニヤ楽しそうに笑いながら、その激辛ライスを口に運ぶ。そして満足げに頷くと、僕に対し親指を立てて見せた。見てるだけで汗だくであった。
チキンフリッター定食を食べ終わった美濃辺准教授には、さっさと食堂を後にしてもらった。回転率を上げなければ、後にはかなりつかえているのだ。
テーブルの間を飛び回っている僕の所に、食べ終わった美濃辺准教授の一人がやって来た。
「小林君。ちょっと尋ねたいのだが……」顔中長い髭に覆われた美濃辺准教授である。余りにあごひげが長すぎて、胸のバッジを隠してしまっていて番号は読み取れない。「この後、俺はどこにいたらいいんだ?」
「どこにって、移動する時間まで研究室の中で待っていてくれませんか。何いじっていても結構ですから。あなたも美濃辺准教授だし」
「――でもなあ、研究所の中は人が増え過ぎて、金曜日の最終電車やコミケの男子向けスペースもかくやという混雑振りなのだ」
「なんですって?」
まだ他の平行世界からの美濃辺准教授の来訪が続いているのか。
一度、研究室に戻って状況を確認するか。しかし美濃辺准教授でぎゅうぎゅう詰めの研究所に投げ込まれる自分。例えを想像しただけでも嫌な気分になった。
だけど、このままでは美濃辺研究室は、溢れ出る美濃辺准教授によってパンクしてしまう。どこか大きな教室か体育館にでも収容しなくては。
「それでは連絡があるまで、第二食堂前にある広場で待っていてくれませんか。」
髭もじゃの美濃辺准教授に向かって説明する。
それから身に着けていたエプロンを取り、やかんを置く。
「おーいお茶ぁ」
「ちょっと今から用事があるんで、セルフサービスでお願いします」
と言い残すと、美濃辺准教授たちのブーイングを背に受けつつ、大学の施設を総括する学務課へと向かった。
僕は、ぜえぜえと荒い息をしながら、学生課のカウンターに駆け込む。炎天下に全力疾走したせいで、Tシャツも汗でびっしょりだ。大学二年時以来、保健体育の講義も無くなったので、近頃は運動不足を自覚している。
時刻は午後一時過ぎ。丁度、学務課のお昼休みも終わった所であった。
「おやおや、そんなに急いでどうかしたんですか、小林さん」
学務課の玉木さんが顔を出した。いつも微笑みを絶やさない温和な女性だ。学務では、主にアルバイトとアパートの斡旋の係をしている。学生の中にもファンが多く、彼女に声を掛けたいがために、何度もバイトを替える奴がいるくらいだ。
僕は美濃辺准教授の要望、それは我が儘ともいうが、を叶えるために何度か学務課に通っていた。そのうちに玉木さんとも顔見知りになったのである。
「実は……」僕は玉木さんに手短に、これは美濃辺准教授関連のことであり、なるべく多人数を収容できる空き教室があるかを尋ねた。「急いでるんです!」
僕が促すと、玉木さんは何も言わずに、パソコンに向かって調べだしてくれた。その辺はもう、つうかあである。
美濃辺准教授が、この大学にもたらす利益と被害については、この場にいる職員はみな熟知している。今はまだ利益の方が大きいため、誰も文句を言えないのだ。
「そうねえ、大きい所といえば、工学部のA二〇教室、教育学部の一〇一教室。あっ、共通教育棟の一〇三号教室が空いている。そこなら使っていいわよ」
共通教育棟の一〇三号教室はこの大学の中でももっとも大きな教室だ。収容人数はのべ千人である。着席しなければ、もっと入るであろう。
「わかりました。ありがとうございます」
僕は再び第二食堂に向け駆け出した。
「がんばってね」
振り返ったとき一瞬だけ、玉木さんの笑顔の下にやはり憐れみの表情を見た。
「うわっ……」
第二食堂前の広場に到着すると、そこは美濃辺准教授たちによって芋を洗う状態になっていた。夏の湘南海岸もかくやといわんばかりの状態である。
ただ美濃辺准教授たちが僕の指示を聞いて、この場に留まっていてくれたのはちょっとだけ嬉しかった。
しかし、ただでさえ暑苦しい美濃辺准教授たちの熱気によって、その頭上にはゆらゆらと陽炎が立ち昇っている。
そして僕はその陽炎の向こうに見てしまった。
「ん……」
第二食堂の正面に並んでいた清涼飲料水の自動販売機が無くなっていた。その代わり奇妙な機械がその場に鎮座している。その前には自動販売機に入っていたと思われるジュースの缶が、積み上げられていた。
強い夏の日差しに銀色に輝く機械であった。大きさは丁度、自動販売機三つ分ある。正面右側には、コインとお札の投入口、そして受け入れ口と書かれた黒いゴム膜のひだの付いた穴が付いていた。穴はいったい何を投入するのか、直径五十センチほどもあった。機械の正面左側下部には、出口と書かれた開口部があった。
受け入れ口から入れられた物が、中で加工され、出口から出てくるのは、なんとなく察しがついた。しかし、そこに何を投入するかまでは分からない。この大きさならば、コインランドリーなのだろうか。ならば汚れ物?
「この機械はいったいなんですか?」
僕は群れを押しのけて機械の前に立つと、そこにいる美濃辺准教授たちに詰問した。
「なにがって……」
群れの中から三人の美濃辺准教授が歩み出る。三百三十四番、三百三十五番、三百三十六番の並び番号の美濃辺准教授だ。三人とも揃って丸いロイド眼鏡にドジョウ髭を生やしている。区別はロイド眼鏡のレンズの色で付いた。
「自動調理販売機だよ」
三百三十四番の黒い眼鏡が、僕の前で誇らしげに語った。
「どうだ、便利そうだろう。あんな缶ジュースを販売する代物より、何倍も実用的だぞ」
三百三十五番の青い眼鏡が、長く伸びたドジョウ髭をしごきつつ言った。
「そこの右上にある入り口から材料を入れれば、中で瞬時に加工され、左下の出口に製品として出てくるのだ。お札は二千円札しか使えないので注意してくれたまえ」
三百三十六番の緑の眼鏡が、奇妙な機械の説明をする。二千円札しか使えないのは不便この上ない。
「調理って、何を……?」
嫌な予感がした。僕の額を、暑さで吹き出た汗と違った種の汗が流れる。
「おーい、材料とってきたぞお」
と、そこに三百三十七番の美濃辺准教授が、手に麻袋を持って走ってきた。やはりドジョウ髭にロイド眼鏡。レンズの色は赤である。
袋の中では何かがもぞもぞと動いていた。
「こいつ馴れ馴れしく寄ってきたから、簡単に獲れたよ。ちょっと引っ掻かれたけどな」
袋から取り出されたもの、それは
「アルゴス!」
僕は蒼ざめ、その名を叫んだ。首を掴まれた猫だった。丸々と太った虎猫。第二食堂の周りに生息する野良猫のボスであり、珍しく美濃辺准教授に懐いている生物である。
ちなみに、アルゴスとはホメロスの叙事詩「オデュッセイア」に登場する犬の名前である。誰かが戯言で名付けてしまったのだろう。
な~ご
アルゴスがボス猫らしからぬ、情けない鳴き声をあげた。
「うむ、こいつはここのボス猫だな。腹には喧嘩で出来た沢山の傷痕が残っている。こういう猫の皮は厚くなって音を出すのだよ」
「さあ、早く調理しよう。滋養強壮にはこれに限る」
「天然ものなんて初めてだ。うちの世界は養殖ばっかりだからな」
「おお、うちもだ。養殖は灰汁が少ないが、肉がいまいちだからなあ」
「しかし、天然ものがこんなにうじゃうじゃいる世界とは素晴らしいなあ。帰ったら自慢できるぞ」
四人の美濃辺准教授が嬉しそうにほくそ笑み、ついにはアルゴスを機械の入り口に突っ込もうとした。
「ままま、待ってください」
僕はアルゴスの体を力ずくで奪い取った。
「何するんだね、小林君」
「君の分もちゃんと用意するから返したまえ」
「もしかして、一匹丸ごと食べたいのか? 欲張りだねえ」
「でもいかんよ、それはオレが捕まえた獲物だからね」
ドジョウ髭の美濃辺准教授たちは、口々に僕を非難する。
「まさか、このアルゴスを煮て食おうというわけでは?」
僕の腕の中のアルゴスは、Tシャツに爪を立ててぶら下がる。この目の前の美濃辺准教授がいつもの人ではないと悟ったらしい。
「煮て食うって、まさか。ぐふふふふ。それだけでなく、ちゃんと皮は三味線、腸はテニスラケットのガットに、そして頭と尻尾はお守りに加工される。隅々まで全部使うよ。捨てる所が無いって奴だ」
「キャットがガットになるわけだな」
しようの無い駄洒落だ。
「小林君。わかったら、返すんだ」
どうだ、まいったかと勝ち誇った態度だった。
どうやら四人の世界では、食用として養殖されたイエネコが流通しているらしい。先程のドードーを食用にしていた世界より、この世界の文化に近いだろう。だが、文化といえば文化だが、ちょっと僕には受け付けられないものだ。
「いいから聞いてください」僕はアルゴスをぎゅっと抱きしめて言った。「この世界では、というか、この地域では猫を食べる習慣はありません」
「えっそうなの?」四人が顔を見合わせて驚きの声を上げる。「美味しいのに?」
「たとえ美味しくてもです」僕はこぶしで調理機械をドンと叩いた。「だから、邪魔なこの機械を元にも・ど・し・て・ください」僕は怒りで自分のこめかみがひくひく痙攣するのが分かった。「わかりましたね」
最後の「ね」の部分を特に念を押していった。そしてもう一度荒々しく機械を叩く。
「は、はい……」
目の前の美濃辺准教授が、直立不動の姿勢をとった。
そして意気消沈の四人は僕の言葉に従って、いそいそと機械を解体し始めた。それぞれのドジョウ髭がしゅんとうなだれている。
僕は四人の作業を確認すると、第二食堂前のショウケースまで行き、そこでアルゴスを解放した。アルゴスはごろごろと喉を鳴らすと、一目散に食堂裏の雑草の茂みに駆け込んでいった。
ちなみにアルゴスは、この日から半年余り、遠くからでも美濃辺准教授の姿を見ると逃げ出すようになった。
それから僕は広場に戻り、溜まっている美濃辺准教授たちに、共通教育棟一〇三号教室に至急移動するように告げる。
炎天下の夏日の下、美濃辺准教授の白衣の列が共通教育棟に伸びていく。ほぼ同じ格好をした人物の行列は、なぜか幻を見ているようだった。
こうして人口密度問題をクリアし一安心した所で、僕は次に何をすべきか迷った。
一度、研究室に戻ってそこにたむろする美濃辺准教授に移動するように告げるか、はたまたこの第二食堂でブロンソン似のコック長を手伝うか。
これだけの人数の美濃辺准教授を相手にするのに、僕と松平一号だけというのは分が悪すぎた。
僕は他の世界の「小林」を妬んだ。そして、せめてどこかの世界の「小林」が慈悲心を起こし手伝いに来てくれないかと願った。
「こばやしくーん」
僕を呼ぶ声が聞こえた。その声は、美濃辺准教授のものではない。願いは天に通じたのか。
躍る心で、声の方向に顔を向けると、その主はなんのことはない学務課の玉木さんだった。よろよろとした足取りで走り寄ってきた。途中でアスファルトの盛り上がりにつまづいて転びそうにもなった。
玉木さんは腰を曲げ両膝に手を当て、息を荒くしていた。ここまでよほど急いできたのであろう。
「あ、先程はどうも。どうかしたんですか?」
僕は後頭部を掻きながら、軽く会釈をした。
「ご、ごめん……」
それが玉木さんの第一声であった。
「ごめんっ……て?」
「ほんとーに御免なさいっ!」両方の手のひらを、深々と下げた頭の上で合わせ、謝罪する。「教育棟のあの部屋、今利用中だった。企業向けの研究発表会でことで、大きいプロジェクターを使いたいっ要望で、急遽部屋を変更したのよ。急なことで見落としての」
「え、えーっ! それで使ってるのは誰なんですか?」
「農学部のエリカ・栗本先輩……、教授です」
「うわっ!」
最悪だ……。よりによって、美濃辺准教授と仲の悪い栗本教授の発表会とは。
僕は苦悩により皺の刻まれた額に、右のてのひらを押し当てた。冷や汗でじっとり冷たくなっている。
後から後から厄介事が起きる。いい加減参ってきた。
「んーと、どうしましょうか?」
玉木さんが口元に人差し指を押し当てて、のほほんと聞いてきた。困っているみたいだが、余り切羽詰って見えない。
そう言われても、やることは決まっている。
「玉木さん」
「はい」
「大変迷惑だと思うんですけど、手伝っていただけませんか?」
「あ、はい、少しでしたらいいですけど。私にも責任があるので」
微笑を浮かべたまま、玉木さんは承諾してくれた。
「では、すいませんが、美濃辺研究室に行って、そこらにいる美濃辺准教授たちに研究室の周辺で待機、絶対ふらふら出掛けるなと伝えてきてください。そして、実際に外に出て行かないか見張ってくださいませんか。道沿いに松平一号がいるから命令して下さってかまいません」
「小林君は?」
「僕は一〇三号教室に行って、美濃辺准教授たちを連れ出してきます。それじゃ、お願いします」
「わかりました。お任せください」
「それじゃ」
僕は再び駆け出した。今日一日でどのくらいの距離を走るのだろうか。
途中、議論をしながら歩いている美濃辺准教授の群れをいくつも追い越していく。声を掛ける暇はない。今は先頭を連れ戻すのが先決だ。
共通教育棟は、教養学部棟と理学部棟の間にあった。正門に比較的近い場所である。一〇三号室はその一階にあり、大学の一二年に学習する教養課程のための教室となっていた。学部を越えた学生が集まるために、共通教育棟のどの教室も学部のものに比べて大きいものが揃っている。
一〇三号室の出入り口の前には、美濃辺准教授たちがたむろっていた。ドアの横には、「栗本研究室研究発表会」と張り紙がある。
「せんせい!」僕はドアの前に立って、中に入ろうとした美濃辺准教授を体で止める。その美濃辺准教授の番号は、四百九十五番。「今すぐ、研究室に戻っていただけませんか」
「なんでだ、せっかくエリリンが発表してるんだ。手伝ってあげるのが仲間としてのすじだろうが」
「あいにく栗本先生は、せんせえのことを仲間とはこれっぽちも思っていませんよ。それどころか、度重なる牛肉泥棒に頭にきているはずですよ。だから、ここは観念して戻ってください」
「オレは牛は盗んだ覚えはない! 豚は良く盗むが……」
「盗むのは同じことです。まったく。それと戻る途中で逢ったせんせいたちにも、集合場所が元に戻ったことを伝えてください」
「ええ、なぜ俺がそんなことを……」
「ここにいたのが運の尽きです」
ブーイングしながらも僕の説得に応じた四百九十五番の美濃辺准教授が、この場を後にする。そして、その場にいる美濃辺准教授にざっと説明する。
「さてと……」
教室の中に何人かの美濃辺准教授が、入り込んでしまったのは明白だ。その准教授たちを至急連れ出さねば。
そのノブには、「静かに」と書かれた札が下げられていた。まだ居残る美濃辺准教授たちを追い散らし、ドアを開ける。そこに下がっている暗幕をくぐる。
中は暗い。正面黒板の前に垂らされた大きなスクリーンには、プロジェクターの映像が映し出されている。分子の構造モデルの下に構造式が書かれていた。そのスクリーンの横では、栗本先生がプロジェクターと繋がっているノートパソコンを用いて、その図を説明していた。
白衣に眼鏡、すらりと伸びた肢体。壇上に立つ栗本女史は、ドイツとのハーフであるその容貌と相まってスーパーモデルのように美しい。
僕は、階段状となった座席の一番上の後ろから、見下ろす形で壇上の栗本教授を見ていた。
教室内、人の気配は濃密だった。しかも尋常でない熱気だった。
僕は目を凝らし、暗い座席を凝視する。幽かに後頭部の影の連なりが見える。
参加している企業の研究員とて、この教室を満員にすることはないであろう。ということは。
しかし、静かだった。栗本教授とエアコンの音だけが教室内に響いている。そう美濃辺准教授がいるのに、やけに静かなのだった。
「――だから、この酵素を用いることによって、以前より二十パーセントのコストが削減できます。では、質問はありますか?」
栗本教授が手元のスイッチで明かりをつける。
ぱっぱっぱと座席頭上の電灯が点いていく。
「うぐ!」
明るくなった教室の光景に、栗本教授の顔が瞬時に曇る。
再び座席の明かりが消える。
壇上で栗本教授が、一生懸命目を指で擦っている。
「すいません。今何か凄く変な幻覚を、座席いっぱいにへんなのが並んだみの……。いえ、病気とか薬とか、そういうことではないんですけど。ちょっと寝不足気味で……」こめかみの辺りを押さえながら、頭を振り一息つく。「大丈夫です。気を取り直して、もう一度質問を受けつけます」
明かりが点く。
栗本教授の作り笑顔が凍った。
「はいはいはい」「しつもーん」「えりり~ん」
教室いっぱいに手が上がる。針山地獄の斜面のようになっている。
そしてそれら全てが美濃辺准教授のものであった。教室は美濃辺准教授で満たされていたのだ。
栗本教授の研究成果を見に来た企業の研究員は、二十人にも満たないだろう。スーツを着用した彼らは、白衣の波に飲み込まれて良く見えない。ある者は困惑し、ある者は恐怖に顔面を引きつらせている。
そうなると、教室には千人以上の美濃辺准教授がいる計算になる。美濃辺研究室から直接訪れた人数が多かったのであろう。
「な、ななな……、なんのようっ、これは!」
栗本教授が目の前にあったマイクを握り締め、叫ぶ。
ぶおおおん
耳障りなハウリング音が発生し、企業の研究員たちが耳をふさいだ。
美濃辺准教授は一斉ににやりと笑った。なにか良からぬことを考えている時の顔だ。
「質問があるんですけどぉ!」
美濃辺准教授たちは立ち上がり、壇上の方へ雪崩れ降りていった。
これは僕の予想していた最悪の展開であった。数に任せて、普段いじめられている栗本教授を困らせようという魂胆だろう。
凄まじい足音。その震動はまるで地震のようである。その光景は、まるで砂糖に群がる蟻のようであった。
僕は壇上に向け駆け出した。美濃辺准教授で構成された肉の壁を掻き分けていく。汗の感触と臭いが気持ち悪いが、それどころでない。
「触媒はどうして選択したのか、おしえて~」「なぜその組み換え酵素使ったのか教えてくれえ」「朝ごはんのメニューを教えてくれえ」「てけれっつのぱあ」
美濃辺准教授は壇上の下から、両手を栗本准教授の方に伸ばし、勝手な質問している。まるでゾンビ映画の一シーンにも見える。
「も、もう、邪魔よ!」
栗本教授は赤いハイヒールで、群がる美濃辺准教授の顔に容赦無い蹴りを見舞った。空手有段者の栗本教授の蹴りだが、文字通り面の皮の厚い美濃辺准教授にはあまり効果が無いようだ。
人海戦術かく恐るべしである。
僕はというと、それ以上進めなくなってしまったいた。後一歩で壇上であるが、美濃辺准教授の密度が濃すぎる。
「よし!」
僕は思い切って重なりあう美濃辺准教授の体を駆け上がった。無駄肉に足を掛け、頭上まで一気に登る。そして頭の上を、這うようにして渡っていった。頭が大きいので、思いのほか安定していた。
「とおっ」
壇上に飛び降りる。華麗に壇上に飛び移るとはいかず、したたかに尻を打ち付けてしまった。
「あっ、小林君!」
うろたえる栗本教授が僕の名を呼ぶ。
「まいど、ご迷惑おかげします。すぐに退散させますので」
僕は尻をさすりながら、栗本教授の手からマイクを受け取ると、自分の背後に下がらせた。
「テス、テス。本日は晴天なり。天気晴朗なれど浪高し」
「こらあ、小林君」「そこをどきたまえ」「從那裡下來!」「亀の卵野郎」「ピロロギのくちばしめ!」「ネギ味噌ラーメン白菜トッピング」
罵詈雑言が飛ぶ。日本語でないものや、なぜそれが悪口なのか理解できない言葉もある。
しかし、聞いているうちに腹が立ってきた。いらいらする。
ぐっと腹に力を溜める。
「静かにしろ!」
僕は怒鳴った。スピーカーからの怒鳴り声は割れてしまった。
だけれども、美濃辺准教授たちの動きがぴたりと止まった。僕の勢い気圧されたみたいだ。
「美濃辺准教授ども、今からここを出て、みんなで研究室に戻りますから。わかりましたね。それでは、気を付け!」僕の掛け声に、美濃辺准教授がその場で姿勢を正した。一糸乱れぬ動きだった。「回れ~右っ。行進、進め!」
ざっざっざっと、サンダルの靴音高らかに、美濃辺准教授の列がドアから出て行く。
何より、乗りと勢いが大切なのだ。その気にさせればいい。豚もおだてりゃなんとやらだ。
「一体、なんなのよお……」美濃辺准教授がいなくなって気が抜けたのか、栗本教授がその場にへなへなとへたり込む。「天才である私の、晴れの発表会があ……」
座席を見てみると、企業の研究員たちが揃って机にうっぷしている。美濃辺准教授の群れに押し潰されたようだ。
栗本教授には悪いが、発表会はぼろぼろだった。もうどうしようもない。
「こーばーやーしーくんっ、これは一体どういうことなのっ!」
一転して栗本教授の怒りの感情に火がついてしまった。そしてその怒りの矛先は当然、僕に向けられる。振り向くのが怖い。
「すいません。事情は後で説明します。今は急いでいるんで……」壇上から飛び降り、すたこらさっさと逃げ出した。「さいならーっ!」
「このー、小林っ、ちゃんと説明してけぇ!」
栗本教授の怒鳴り声を背に突き刺しながら、僕は一〇三号教室を後にした。
美濃辺研究室の前には、四台の大型バスが停まっていた。
時計を見ると、時間は午後三時。この世界の美濃辺准教授との約束の時間だった。会場の打ち合わせに行った美濃辺准教授が、研究室に戻ってきている筈である。会ってこの後の予定を確かめねばならない。
バスの停まっている奥、研究室の前には玉木さんがいた。約束通り、笛と旗でもって美濃辺准教授たちを誘導していてくれていた。
「玉木さん」
「あら、小林君」
笛を口から離し、僕に笑いかける。いつ何時も笑顔を忘れない姿勢は、ほとんど怒りっぱなしの栗本教授に見習って欲しいものである。
「ご苦労様です。ありがとうございました。何か困ったことはありましたか?」
「いえ、別に。ほとんどの美濃辺さんたちは、素直に私の指示に従ってくれて、並んでここまで着てくれましたよ」
「そうですか、それはよかった。でも中には困ったのもいたでしょう」
「んー、確かに」玉木さんは人差し指を頬に押し当てた。「ふらふらと列から離れる美濃辺さんには、思わず『めっ』て叱っちゃいました。悪いことをした時にはその場で叱らないと、何で怒られているか理解できないんですよ」
(ええと、それは犬の叱り方じゃないのかな、と……)
と思っていた僕の横を、ぐったりとして目を回している美濃辺准教授が、二人の美濃辺准教授に脇を抱えられ通り過ぎていった。その頬に赤く腫れた拳の跡が、くっきりと付けられているのが見えた。
「玉木さん、もしかしてあれ……」
「あらあら、少し跡が残ってしまったのね。お気の毒に……」玉木さんはしなを作った、そして今度は手のひらを頬に当てる。「今度は顔ではなく、お腹にしますね。たしか、『顔はヤバイよ、ボディやんな』って言葉もありましたよね」
「めって叱るって、それはもしかして鉄拳制裁ですか……?」
「えっ、なに?」
玉木さんの頬に添えられた右手、その手を良く見ると、かなりごついことに気付いた。手の甲には、分厚い拳ダコも見えた。
ギョッとしてしまう。見てはいけないものを見てしまったような気がして、僕の背筋に冷たいものが駆け上がった。
「いえ、別に……」僕はおおげさに頭を下げる。「今日はお疲れ様でした」
「いえいえ。またなんか困ったことがあったら、微力ながら手伝いますから~。それじゃあ」
そう言って、玉木さんは学務課に戻っていった。
ようやく僕は頭を上げることが出来た。うまく誤魔化せた様である。
「見てはいけない一面を見ちゃったなあ」
好奇心猫を殺すというが、あまり玉木さんに深入りしない方がいいだろう。まいったなあと、困り顔で後頭部を掻きながら、僕は美濃辺研究室のプレハブへと向かう。
開け放たれた引き戸からは、中で蠢く美濃辺准教授たちの姿が見えた。入るのがはばかられる状況だ。
しかし今は入らざるをえない。意を決して突入する。
「美濃辺せんせええ」僕の声に研究室内の美濃辺准教授全員が振り向く。「いえ、すいません。正確には、この世界の美濃辺せんせいはいますか?」
「おお小林君、待っていたよ」
美濃辺准教授の群れ、一人の美濃辺准教授がおしくらまんじゅう状態のでもみくちゃにされつつ、右手を軽く上げながら僕の前に歩み出てきた。
「あ、せんせい」
その人が、僕の世界の美濃辺准教授だということはすぐに分かった。
何のことはない。僕の世界の美濃辺准教授は、胸にバッジを付けていないので、すぐ見分けが付いたのだ。
「さあさあ、会場の準備は無事整った」この世界の准教授は、ぱんっと手を叩いた。「これよりそこに移動するのだ。とっとと皆をバスに乗せてくれ」
「いいですけど、これだけの人数では、バス四台にとても乗り切れるとは思いませんよ」
バス一台に約五十人搭乗できる。だから四台で二百人運ぶことが出来る。
「何回か往復して、ピストン輸送するつもりなのだ」
「それでも、ねえ」そこで一旦ため息をつく。「あのですね、どれだけの人数の美濃辺准教授が、僕たちの世界に集まってきている予定ですか?」
「うーん、五百八十二人から九百十五人の間なはず」
「間って、随分あいまいですねえ」
「十一次元のニュートン数の値が確定していないのだよ」
「ニュートン数?」
「n次元における、一つの単位円に同時に接することの出来る最大の単位円の数だ。もちろん万有引力で有名なニュートンから名づけられたものだ」
「うーん、いまいち分かんないんですけど」
「駄目だなあ、小林君は」丸っこい人差し指を立てて、ちっちっちと顔の前で左右に振った。「具体例を出すとね、そうだ二次元で考えてみよう。十円玉はあるかね?」
「ありますよ」
偶然にも財布の中には多くの十円玉が入っていた。
「では、その一枚の十円玉の周りに、何枚の十円玉を接触させることが出来ると思うか?」
頭で考えるより、やってみた方が早い。机の上に一枚置き、その周りを取り囲んでみる。
「えーと、六枚……、ですか?」
「そうだ、その数がニュートン数だ。つまり二次元におけるニュートン数は六。三次元における単位円は球となるが、その場合は最大十二個の球が接触することが出来る。つまり三次元のニュートン数は十二となる」
「つまり、ニュートン数とは特定次元における、円や球などの単位円に接することのできる、同じ単位円の数ってことですか?」
「まあ、そういうこと。ところが、このニュートン数、ニュートンだけにトンとにっちもさっちもいかないのだよ」
「えっ、なにがです!?」
「――三次元までのニュートン数は確定しているのだが、それ以上で分かっているのは八次元の二百四十と二十四次元の十九万六千五百六十くらいだ。四次元のニュートン数でさえ、二十四か二十五か分からないのだよ」
「へえ。ところで、さっき先生が持ちだした数は、何次元のニュートン数なんですか?」
十円玉のくだりを見るに、どんな次元でも単純に算定できるものだと思ったから、予想外である。
「十一次元だよ。このわれわれの空間は実は三次元空間ではなく、より要素の多い十一次元空間だと考えられている。そこで俺たちの空間を単位円だと考えてみる。なぜかというと、単位円の形こそが、その次元における最もエネルギーの安定した形だからだ。実際もその形に近いであろう。その単位円たる空間に同時に接触する、同じくらいのエネルギーを持つ空間すなわち単位円たる空間の数は、そうそれこそ十一次元のニュートン数であるのだろう」
「その数が五百八十二から九百十五の間なんですね」
「そういうこった」
つまり、この世界と直接接することの出来る世界の数は、十一次元のニュートン数五百八十二から九百十五の間の数であるわけだ。なるほどね。
「最大で、この世界に訪れる美濃辺准教授は九百十五人なんですね……」
「そういうこった」
「って、そこ歩いている緑の肌をした美濃辺准教授の番号、千二百九十七番なんですけど……」
それどころか、ちょっと辺りを見回しただけでも、二千番台、三千番台のバッジを付けている者もうろついている。
「なんだってぇっ、それはほんとかね?」
ほんとも何も、周りに実例がうろうろしている。
美濃辺准教授は、すぐさま一番近くの美濃辺准教授を捉まえた。服装と体格、輪郭は僕の世界の准教授と同じだが、眼鏡の下の目鼻立ちが少女漫画並みに眉目秀麗な美濃辺准教授であった。口元からこぼれた、白い歯の輝きが眩しい六千四百八十八番だ。
僕の世界の美濃辺准教授が、六千四百八十八番に顔を近づけて状況を問いただす。
「うんうん。ええ、なんだってぇ、そっちから……」
頷いて、驚いているのが分かった。周りの美濃辺准教授たちが、うるさくてよく聞き取れない。僕は耳をそばだてる。
「ありがとう」
最後に礼を言ったのが、かろうじて聞こえた。
ただその幽かに聞こえたその声が、僕を心配させる。どうせろくな事が起こってないに違いない。
「ぐっふっふっふ」
顔に笑みを貼り付けたまま美濃辺准教授が、僕の元へ戻ってきた。
「どうでしたか?」
「ちょっと一緒に地下室まで来てくれないか」
「はい……」
訝しげながらも、僕は美濃辺准教授に付いて地下室へと降りていく。
地下室からは、既に宴会場への移動時間だというのに、美濃辺准教授がまだ湧いていた。すれ違う美濃辺准教授の番号は、いつの間にか一万番の大台に上っている。ここまでくると姿形もどこか違う。どの美濃辺准教授も白衣を身に付けているが、背が二メートルを越えている者や、顔中金色の毛で覆われている者、どう見ても豚にしか見えない者までいる。これは「世界びっくり人間大集合」もかくやという品揃えである。
冷蔵庫の形をした異世界への扉からは、相も変わらず美濃辺准教授が出現していた。
「あっ……」
そこには二つの扉が開いていたのだ。同じ形をした冷蔵庫が二つ。その両方から美濃辺准教授が吐き出されていた。
「誰かが地下室の機械をいじくり、もう一つの扉を開いてしまったようなんだ。二つあるし、前のと揃って機構を改良したみたいで効率が上がっているようだが」美濃辺准教授は珍しく渋い顔をして、鼻の頭をぽりぽり掻いた。「どうやら連絡ミスみたいで、このオレたちの世界に接する世界のオレだけじゃなく、それらの世界と接している世界のオレも招待してしまったらしい」
こうなると、ほとんど別空間からの来訪といってもいいであろう。
「そ、それって……」
「うむ、何人来るか分からんなあ」
ああ、更に状況は悪化しているようだ。
そう言っているうちにも、ICカードのカウンターは、もうすぐ二万番を数えようとしていた。
「でも、よかった。こんなこともあろうかと会場のキャパシティを多めにとっておいたんだ。ふっふっふ」
腹をさすりながら、偉そうに笑う。
「はあ……」
こんなこともあろうかと、って言われてもねえ。それよりも、そうならない様に予防して欲しかったなあ。
「さて、そろそろ出発しよう」
「まだ他の世界の美濃辺せんせえが、冷蔵庫から現れていますけれど?」
「ああ。後から来たオレはバスに乗せてピストン輸送。で、今いるオレたちは電車で移動するってので、どうだ?」
「あのお、移動はいいんですけど、その宴会場ってどこなんですか?」
「さきたまハイパーアリーナだ」
「さきたまハイパーアリーナって、あの大晦日に行われる総合格闘イベントやコンサート会場で有名な?」
思いもしなかった会場名に、僕は絶句してしまう。
「そうだよ」
さきたまハイパーアリーナは、収容人数およそ三万人の県が誇る多目的ホールである。大規模な客席可動システムにより、最大一万五千平米のスペースを作り出し、コンサートや格闘技、アメリカンフットボールなど多種多様な屋内イベントに対応できる出来る特色が売り物である。
そこならば、ここに溢れている美濃辺准教授を全て収容できるかもしれない。
最寄の駅までここから徒歩十五分、そこからさきたまハイパーアリーナに併設する駅まで五分余り。一般市民の目にあまり触れることなく移動できるかもしれない。いや、しなければならない。
「あのう、この人数を移動させるのは、僕と松平一号だけではちょっときついかも……」
弱音ではない。二万人以上の美濃辺准教授をここから一キロ先の駅まで平穏に連れて行くのは、僕と松平一号だけでは絶対に無理であった。それは今までに頻発した騒動で分かってもらえるだろう。
「大丈夫。今、県警に連絡入れるから。交通整理してもらえるはずさ」
「まさか、警察が警備してくれるんですか? いくらなんでも……」
いくら美濃辺准教授とはいえ、高々一般市民の移動に警察が出向くとは思えない。それこそ税金の無駄であろう。
後編に続く
「休憩」