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第四話 『美濃辺准教授のあぶはちとらず』

「おお! 小林君。ちょうど良かった」

 僕が美濃辺准の研究室のドアを開けた途端、この言葉とともに腕をがっしりと掴まれた。勿論この研究室の主、准教授にである。

「いやあ、ほんといい所にきた。ちょうど実験動物に逃げられてしまってねえ。代わりになるものを探していたんだよ」

「代わりなるって、えっえぇぇ……」

 僕はそのまま研究所の地下へと、強引に引きずられていく。

 そういえば、ここに来る途中、中庭の芝生の中で、何故か白ウサギが一羽、草を食んでたっけ……。こんな所にウサギとは変だなぁとは思ったけど。まさか、僕って白ウサギの代わり?

 そう思っている内に、僕は美濃辺准教授によってパイプ椅子に座らされた。

 ご丁寧に、口には豆絞りで猿ぐつわを咬まされ、上半身を椅子ごと荒縄で縛られてしまった。手馴れた作業である。

 椅子の上には、漏斗状の機械が広口の方を下にしてぶら下がっていた。その機械の口から、蚊帳みたいなネットが床まで吊られ、僕の周りを覆っている。

 その機械からは、ブーンと低い振動音が漏れていた。

「こ、これは、何の装置なんですか……?」

 僕は何とか口から豆絞りをずらし、美濃辺准教授に聞いた。

「何って、見れば分かるではないか、物質転送装置だよ」

 美濃辺准教授は、アナクロなメ-ターのいっぱい付いた機械を触りながら、さらりと答えた。

「物質転送装置? ですか……」

 普通、分からないと思うが……。美濃辺准教授の辞書には「常式」と「情識」の間にあるはずの「常識」という言葉が欠落しているのだ。

「そうだ。物質をある空間から、他の空間まで一瞬にして移動させる機械。オレはこの装置をチンジャーロ-ス・システムと名づけた」

「チンジャーロース? 大方、食堂で青椒肉絲ちんじゃおろうす定食でも食べていた時に思いついたからでしょ」

「お、当たりだ。よくわかったな」

 ここ数ヶ月付き合っていれば、いやでもその思考パターンが読めてしまう。特に美濃辺准教授のネーミングは最低だった。

 以前「松平号一号」と名付けた軽トラックの名前が、「不公平号」へと変わり、今では「公平号」へと落ち着いている。だが、この名がいつ「ハム号」だか「こんペー号」になってしまうかと考えると、予断を許さない。

「これが物質転送装置。じゃ、このネットの中のものが転送されるんですね。この網は外界からの電磁波か何かを遮断するものなのですか?」

「そのネットに電磁波など防ぐ効果など無い。この装置から発せられる高周波が引き寄せるのか、何故か蚊や蝿がぶんぶん近寄って来るんだよ。だからそれは単なる虫除けの蚊帳だ。蚊帳の中の転送空間ならともかく、装置に虫が入り込んで壊れると厄介だからな」

 やっぱりこのネットは単なる蚊帳だったのか。

 ん、蚊帳の中の転送空間と言った。と言うことは、今僕がいる空間は頭上のチンジャオロースシステムにより他の空間に転送されるんじゃないのか……。それはまずい。

 僕は、はっとして顔を上げた。その目に映ったものはというと……。

「わっ、せんせい、蚊帳の中に蚊柱が立っていますよ!」

「大丈夫。蚊柱の蚊は、オスだから血を吸いはしないよ。わははは……」

「わっ、せんせい、蚊帳の中に蜂がいますよ!」

「ケンチャナヨ。それは蜂に見えて蜂ではない。ハエ目アブ科のアブだ。蜂に似ているのは擬態で刺しはしない。ただ鋭い口で噛み付いて血を吸うけどな。わははは……」

「わっ、先生。僕の顔にハエがたかって、五月蝿いんですよ!」

「マンペンライ。そのくらいは我慢することだ。ツエツエバエだったら、眠り病の媒介者だがな。わはははは……」

 美濃辺准教授が機械をいじりながら、僕の方を見ずに答えた。どうやら、その機械がチンジャオロースシステムの制御装置らしい。

 どうやらこの蚊帳は万全でなく、どこか破れているらしい。しかも最悪なことにハエ、カが侵入することを遮るどころか、外に出ないように閉じ込めているのだ。

 物質転送装置の内部にハエ。

 ここで僕の頭に浮かんだのは、当然のごとく有名なあのSF映画の一シーンであった。「ハエ男の恐怖」の物質転送機に一匹のハエが迷い込むシーンだ。確か、物質転送機で送られた男は、ハエと融合してしまうのだ。それがリメイクされた「ザ・フライ」では融合後のクリーチャーが、SFX技術を用いてかなりえぐく描かれていたっけ。

 蚊帳の中には、ハエ目の羽虫が一通り揃っている様であった。

 これだけの虫たちと融合してしまったら……。

 僕の額から、冷たい一筋の汗が流れた。

「ぜんぜん大丈夫じゃありません」

 気にせずにはいられない。

 僕は、この場から逃れようと、身を捩る。しかし、椅子にがんじがらめに縛られた体は自由にならない。

「無駄無駄、俺の『後ろ手縛り』はアベ子女王様の直伝なり。そうそう抜けられるものではないのだ」

 一体どこのどんな女王様なんだか。どこかの王国の王位継承者でないことだけは確かであろう。

 美濃辺准教授は、チンジャオロースシステムの操作装置に取り付けられた銃のトリガーのようなものに、右手の指をかけた。それが、始動スイッチなのであろう。

「対ショック対閃光防御!」

 美濃辺准教授が自らの眼鏡のつるに指を当てた。すると、眼鏡のレンズが一瞬にして曇る。それはレンズに格子状に配列された液晶によるものである。一見汚い眼鏡であるが、最新技術が導入されているのである。

 転送装置から出る音が、高く大きくなってきた。耳障りな音だ。だが、縛られていては耳をふさぐことも出来ない。

 地下室の隅に設置してあるテスラコイルから、紫色の電光がほとばしる。テスラコイルは二つのコイルを共振させる事により、高周波高電圧を発生させるのだ。それにより激しい放電現象が起こるが、その放電の電流は電圧に比べ極小であるため、人が感電しずらいのである。

 実はそのテスラコイルの放電は単にデコレーションであって、秘密研究所的な雰囲気を出すためのものであった。

 それより早く蚊帳の中から逃げなければ……。

「チンジャオロースシステム起動まで、カウントダウン十秒前、九、八……」

 体を激しく揺すっても、縄は緩まない。がたがたと椅子が揺れるだけだ。

「七、六、五……」

 椅子が揺れる? 椅子は固定されていない。僕は腰を曲げて、重心を前方にかけ両足で踏ん張った。

「四、三……」

 頭上の機械の口が、蒼く発光し始めた。

 縛られたままではあるが、椅子ごと立てる。そして、立った。

「二……」

 僕は蚊帳の下部に向け、頭から跳んだ。

「一」

 ヘッドスライディングで蚊帳の下をすり抜ける。

 テスラコイルの放電も最高潮に達した。過剰な演出である。

 次の瞬間、美濃辺准教授の芋虫のような指がトリガーを引いた。

バリバリバリ

 床に顔を擦りながら滑り込んだ。その僕の背後から一瞬遅れて、空も割れんばかりの轟音と閃光。背中に縛り付けられたパイプ椅子がびりびり震える。息が詰まった。

 どうにか、物質転送装置の実験台から逃れられたようだ。

「ふう……」

 危機一髪。安堵のため息を吐くと、がっくりと体から力が抜けた。

 そこにどたどたと足音がした。床のうえのゴミに溜まった埃が舞う。一体、どのくらい掃除していないのであろう。

「おお、小林君。ここに転送していたのか」眼鏡を元の素透視に戻した美濃辺准教授が飄々と近づいてきた。「しかし、変だな。転送先は、向こうにある装置なのに、なんでこんな所にいるんだ?」

 美濃辺准教授の視線の先には、僕の上にあった機械と同じものが吊り下げられていた。やはり蚊帳も吊ってある。

「先生、僕は転送寸前に装置の下から逃げて、ここに転がったんですよ」

「そうなのかあ」美濃辺准教授はそういいながら、至極残念そうな表情をした。「じゃ、向こうに転送したのは何だったのだ。チンジャオロースシステムには何か転送した記録があったぞ」

「虫、なんじゃないんですか? 沢山いたから……」僕は体を起こす。逃げ出すときに擦った額が痛い。「それより、この縄を解いてくださいよ」

「うむ。でもなあ、うまく縛れたんで解くのは勿体無いなあ」

「勿体無いも、何もありません、早くしてください」

「はいはい……」

 どすを効かせた僕の言葉に、美濃辺准教授はしぶしぶと縄を解いた。

 僕の二の腕にはくっきりと縄目が残ってしまった。これでは傍目には、変な趣味を持っている、挙句の果てに美濃辺准教授の同類と思われてしまう。

 それから美濃辺准教授と一緒に、転送先の装置に近づいてみる。

「ん……」

 転送先の蚊帳の中を覗き込むが、中には動くものの姿は何も見えない。

「おかしいな。虫一匹もいないみたいだぞ」

 そう言って美濃辺准教授は、無造作に蚊帳の中に頭を突っ込んだ。

「でも僕のいた転送装置の蚊帳の中には、確かに虫が沢山いましたよ」

「お、これは!」美濃辺准教授はもぞもぞと蚊帳の中に体を入れてしまった。「小林君!」

「どうしたんですか?」

「中に入ってみたまえ」

「?」

 急いで僕も蚊帳をくぐる。そして狭い中、美濃辺准教授の横に立ち、周りを見回した。

 だがその中には、美濃辺准教授の暑苦しい顔があるだけだ。他に何も見当たらない。

「中って、やっぱり何にも無いじゃないです……。ん……?」

 僕の耳に微かな音が聞こえた。夏に聞きなれた不快な高音。

「これって、蚊の羽音?」

 羽音が、耳の辺りを何度も通り過ぎる。その数は多い。

 しかし、いくら目を凝らしてみても、肝心の本体の姿が見えなかった。

 蚊だけではない。低い羽音も聞こえる。それは蚊よりも大きな体躯の羽虫。ハエやアブのものだ。

「ほら、不思議だろう。羽虫がいなくて、羽音だけが聞こえるんだ……」

「先生。僕の前の実験の時はどうだったんですか?」

 いきなり動物実験ということは、普通考えられない。それ以前に植物や無生物で実験しているはずである。

「前って、ウサギには逃げられてしまったし、小林君の実験が初めてだったに決まってるじゃないか」

「えっ、動物実験が、僕が初めてだったんですか!」

 うわっ、信じられない。あのまま僕が逃げなかったら、どんなことになっていたのか……。

「んー。どうやら、虫の本質だけが転送されて、実体してしまったようだな」

 美濃辺准教授が二重顎に手を当てながら言った。ちなみにデブの語源は、「ダブルチン」すなわち二重顎から来ているという説がある。それならば、美濃辺准教授は立派なデブである。

「本質? なんですかそれ」

「言ってみれば、幽霊みたいなもんだな。このチンジャーロースシステムは、君の頭上にあった送信機で一度、転送すべき物体を原子レベルまで走査して解析するのだ」

「えっでも先生。『ハイゼンベルグの不確定原理』によると、素粒子レベルでは、運動量と位置を同時に測定できないんでしょ。だったら、脳や血流などを持つ生物のような、繊細な構造のものを解析することは、不可能じゃあないんですか? 血液は随時流れてるし、脳内ではしきりにシナプス発火が起こり、ホルモンが化学的に働いてます。それらの複合的な働き、状態を測定することは不可能でしょう」

「ふっふっふ、不確定性原理なぞ、糞食らえ。上品に言い直すと、大便お召し上がれだあ!」

「うわっ、なんか無駄に凄い自信だなあ……」

「俺の発見した『ミノベスキー粒子』を用いれば、そんなちんけな問題即解決なのだよ、小林君。ノープロブレム!」

「ミノベスキー……、粒子? はて、何処かで聞いたような……?」

 それはそれは、インチキ臭いネーミングである。

「はっはっは。気のせい、気のせい」

 そう言いながら、美濃辺准教授は白衣の胸ポケットから小さなビンを取り出した。表面にはラベルが張ってある。よく見ると、「ごま塩ふりかけ」のラベルにバッテンが描かれてあり、その上から汚い字で「ミノベスキー粒子」と汚い文字で書かれてある。

「この粒子は、物質に質量を与えるといわれるヒッグス粒子の研究をしていて、偶然見つけたものだ。いわゆる、宇宙の構成物質の二割を占める暗黒物質の一種でもあるのだよ」

 ビンの中には、きらきらと光る粒状のものが詰まっている。

 しかし肉眼で見える素粒子なんて、存在自体が怪しすぎる。まあ、美濃辺准教授自体、怪しいのだけれど……。

「ミノベスキー粒子はな服用すれば、下痢、消化不良による下痢、食あたり、はき下し、水あたり、くだり腹、軟便、むし歯痛などに優れた効能があるんだよ」

「征露丸みたいな効能ですね」

「あと、身に付けただけでもその効果は絶大なのだ。ほら通信販売の購入者からの体験報告の手紙もあるぞ」

 美濃辺准教授はポケットから皺だらけの便箋を取り出した。しかし、いつの間に通信販売なんぞしていたんだろうか。

「ビーチを歩くだけで『ほら貧弱な坊やよ』とギャルたちに指差され馬鹿にされた私。だけれども一念発起、『ミノベスキー粒子』を購入して身に付けただけで効果はみるみる現れた。そして今では、誰もが私をたくましい男性と認めてくれるようになったんだ。どうだい、この効果!」

 そう誇らしげに語ると、醜く弛んだ腹をぽんと叩いた。まったく、少年誌に載っていたブ○ワーカーの広告じゃないんだから。

「他にもな、なんかご飯のおかずに一品足りない、物足りないなあと思った時に、白飯の上に、こうぱらぱらっとふりかけると、それだけで満足できるのだ」

 ふりかけのビンに入ってたのは、伊達ではなかったわけである。でも食べ過ぎると、その前に聞いた効能から、便秘になりそうな気がする。

「美味いのは、別にいいですから。それより、なぜにこっちの受信側に羽音だけで蚊がいないんですか?」

「それはだなあ、足んなかったのだ」

 美濃辺准教授が銀縁眼鏡のブリッジを中指で持ち上げた。指紋でべたべたに汚れたレンズがきらりと光った。

 そのレンズには、テスラコイルの小さくなった火花が映っていた。

 僕は必死になって、美濃辺准教授の説明に耳を傾けていた。

「チンジャオロースシステムの転送装置送信側において、物体はミノベスキー粒子により走査される。その時点で走査された物体は、データに変換され、且つ同時にその物体を構成していた物質は原子レベルより小さい、クォークレベルまでに分解されてしまうのだ。そしてデータは有線で転送装置受信側に送られる。そこでデータに従った物質で再び元の物体を構成し、実体化させるのだ」

「それが?」

「で、ここ問題なのはデータは受信側に届いたが、転送装置受信側で実体化できなかったということだ。正確に言うと、受信機側にデーター通りの物体を再構成するための物質が不足していた。というか、用意してなかったというか……」

「つまり受信側では、カやハエの肉体を形成する物質が足らなかった、ということなんですね」

「うーん、今風に言うと、ぶっちゃけそう言うこったな。はたはっは」

「その笑い方、あんたは『ひょうたんじま』の大統領ですか!。ああ……」

 僕は額に手を当てた。頭痛がしてきそうだった。逃げなかったら、僕が幽霊のようになっていたのだ。

 いや、小さなカやハエでああだったのであるから、人間の体であったら……。

 この蚊帳の中の羽音は、他人事ではなかった。

「おおっ、どうした? 頭が痛いのか。そんな時にも『ミノベスキー粒子』。頭痛、歯痛、生理通にも良く効きます。ぴんぽーん!」

 美濃辺准教授は、罪悪感一欠けらも無しのニタニタ笑いを浮かべる。

 この転送実験の結果は、映画のように他の生物と体が融合するのでは無かった。それどころか反対に失うものであったのだ。

 洒落にならなかった。

「あたたたた……」本当に頭が痛くなってきた。僕は額に手を当てる。「先生、僕、帰ります……」

「そうかそうか、お大事になあ。ほんとに粒子は使わんかあ?」

 僕は、手をひらひらさせミノベスキー粒子は不要の意思表示をしながら、ぶんぶんと羽虫の音が五月蝿い蚊帳から脱出した。

 ミノベスキー粒子の効能も眉唾物だ。服用してどんな副作用があるか分からない。多分、考え付かないくらい禄でも無い物であろう。

 僕はふらつきながらも地下研究室からの階段を上り、後にした。

 外はまだ明るかった。美濃辺准教授によって研究室に連れ込まれてから、一時間も経っていなかった。しかし、一日分のエネルギーを優に消費したような気がする。

 いつもこうだ。美濃辺准教授のゼミに入ってから、幾度命の危機に晒されたことか。指で数えるのも恐ろしい。

 でも何故か、僕がゼミを辞める事も美濃辺准教授を嫌いになることも無い。自分でもその理由が分からなかった。

 僕は空に向け、大きなため息をついた。頭痛はいつの間にか治っていた。

 もしかすると、僕もおかしいのかもしれない。

 朱に交わればなんとやら。半分美濃辺化してしまったのかも……。

「うっ……」

 いやな想像をしてしまった。僕があのニタニタ笑いをしているのである。

 背中を寒気が走り、陽光の下、僕は震えたのだった。


 次の日の朝である。

 僕はちょっとした胸騒ぎがして、朝早々に美濃辺研究室に足を向けた。

 いわゆる「虫の知らせ」というものであった。

 僕の姿を見つけた美濃辺准教授所有のスーパー軽トラック「松平号一号」がヘッドライトを点滅させる。近頃ますます僕になついている。たまに給油に行ってやるからであろう。まったくもって愛い奴である。

「先生、美濃辺先生。起きてますか?」

 僕はこぶしでプレハブの薄っぺらい引き戸を叩いた。

 反応は無い。しかしそれも了解済みである。こんな朝早い時間に美濃辺准教授が起きていることは少ない。

 僕は引き戸を思いっきり引いた。

 戸は一回引っかかったが、開いた。立て付けが悪いのだ。もしかするとプレハブ全体が歪んでいるのかもしれない。

「うっ!」

 僕は驚きの声を上げ、そして絶句した。

 開けた引き戸の向こう、目の前に美濃辺准教授が立っていたからである。

 手には虫取り網と殺虫剤。汚れた白衣はだらしなく、眼鏡の奥の目の下には濃いクマが浮かんでいた。

 目の焦点は合わず、ぼうっとした表情で僕の顔を見ている。

 徹夜明けなのが見て取れる。

「せ、先生、どうしたんですか?」

「――こんな真夜中に誰かと思ったら、小林君か」

 美濃辺准教授は、眠そうに目をしばたたかせている。

「もう朝ですよ。ほら日も昇っています。外も明るいでしょう」

「――ん、ああ……」まだ半分寝ぼけている様子だ。「オレぁな、一晩中戦っていたんだよ」

「戦ってって? 何とですか……?」

 聞き返したその瞬間、僕の耳元を羽音が通過して行った。それも大量にだ。

「うわっ!」

 実体の無い羽音だけの羽虫。昨日の実験結果のものだ。それが研究室を飛び出し、朝の穏やかな日差しの中へと消えていったのである。

「せんせえ、今のは昨日転送した羽虫ですよね?」

「……」

 美濃辺准教授は僕の問いに答えずに、無言で安堵の笑みを浮かべると、そのまま前のめりに倒れていった。男ならば前のめりに死にたいものである。

 が、まあ、美濃辺准教授は死んでいるわけではなく、単に大いびきをかいて寝ているだけであったが。

 がああ、と研究室の薄いガラス窓を震わせ、いびきが響き渡る。

 たぶん、一晩中、姿無き羽虫達の羽音に苛立ち、網や殺虫剤を持って追い掛け回していたに違いない。

 ただその抵抗も、実体の無い虫に対しては、「蟷螂の斧」であったろう。

 確かに羽虫の羽音、特に蚊のものは耳障りだ。就寝中に耳元に飛ぶ蚊の鳴き声で起きてしまうこともある。蚊は二酸化炭素と体温に惹かれるというから、口鼻を持ち、衣服から露出した顔面は、格好の吸血目標なのであろう。耳元を飛ぶのは必然である。

 しかし、なぜに蚊の羽音に異常なまでに敏感なのか。

 メス蚊の羽音の周波数はおよそ五百ヘルツである。思いのほか、低い周波数の音である。

 以前美濃辺准教授に、人の聴覚の周波数特性、すなわち音の周波数と強さ並びに人間の耳の感度との関係をグラフ化した「フレッチャー・マンソンの等感度曲線」というものがあると教えてもらったことがある。

 それによると、人間が一番気にする音の周波数は、二千から四千ヘルツの間であるそうだ。この周波数の音は、その特性から電化製品などのアラーム音に用いられている。また、赤ん坊の泣き声の周波数もほぼその範囲であるのだ。

 この二千から四千ヘルツの周波数と比較してみると、蚊の五百ヘルツという羽音は、さほど人間の感度には低いと思われる。

 では他に理由があるのか。

 やはり、蚊の吸血性と、その行為により媒介される病気のせいであろう。

 蚊は古来より、日本脳炎やマラリア、比較的最近では西ナイルウィルスなどの伝染病を蔓延させてきた。

 それと、痒み。吸血時に注入される蚊の唾液によるアレルギーの結果だ。その不快感は誰もが経験したであろう。血を吸われた挙句、不快な思いをさせられるとは、よくよく考えてみても、とんでもない奴である。

 それだけのことを長年に渡って人類にすれば、嫌われて、そして厭われても当然のことである。

 長い年月、世代を重ね、人類は学習してきたに違いない。蚊は危険な生物であることを。ちょうど、蛇が本能的に厭われているのと同じようなものであろう。

 そう、人が蚊の羽音で目を覚ますのは、自己防衛本能の一端なのではなかろうか。刺される前に、蚊の存在に気付くことこそが、防衛なのである。

 美濃辺准教授が、一晩中羽虫の羽音を追い掛け回していたのは、行き過ぎた防衛本能故であると考えれば、全て納得がいく……。のかな?

 いびきが近所迷惑であると判断した僕は、美濃辺准教授の足首を持ち研究所の中に引き摺っていった。

 弛緩した准教授の体は重く、引き摺る僕は息を切らせた。

 准教授を床に無造作に転がし、その上にすえた臭いのする上掛けを掛ける。

 ようやく僕は息を衝く。目を閉じ、耳を澄ませる。羽音は聞こえない。もう室内には姿無き羽虫は残っていないようだ。

 そして、飛び出していった羽虫に考えを巡らせた。

 実験の犠牲である羽虫達の、今後の去就についてだ。

 多分、彼らは何処かの家庭に入り込み、実体無き羽音でそこの家人を不思議がらせるであろう。ある意味、恐怖ではある。

「むにゃむにゃ、左舷弾幕が薄いぞ、何やってんのおっ……。むにゃむにゃ……」

 唐突にいびきが止み、意味不明な寝言を口走った。もしかすると夢の中ではまだ、姿無き羽虫達を追っかけているのかもしれない。

 僕は寝顔を覗き込んだ。

 いつ見ても大きな顔だ。

 その美濃辺准教授の顔には、なぜか勝ち誇った表情が浮かんでいた。

 あまりに癪に障る寝顔だったので、僕は机の上にあった油性ペンを手に取った。

「へっへっへ……」

 無防備な美濃辺准教授の顔を前に、僕は不敵に笑った。

 油性ペンの蓋を僕は取った。


「いやあ、今日は学部会議があったんだけどもね。いつもと違って、何故か教授連も准教授たちもみんな優しくしてくれたんだよ。どうしてかな?」

 夕方、学生食堂に行くと美濃辺准教授が定番のチキンフリッター定食を食べていた。

 夕食時という事もあり、食堂内は学生たちでごった返し、混んでいる。ざわざわと騒がしくもあった。だが、美濃辺准教授は一人で丸々一つのテーブルを占領していた。その周りだけ静かである。口を開いているのもいない。

 いや占領していたと言うより、美濃辺准教授の周りには他人が寄っていなかったのである。

 美濃辺准教授に見つけられた僕は、強引にテーブルに呼び寄せられたのだ。

 僕には、今日の美濃辺准教授がなぜ優しくされるのが分かっていた。いや、この学食にいる者ほとんどが分かっているであろう。知らぬは本人のみである。

(せんせい、鏡見ていないでしょう……)

 と、その一言が言えなかった。

 鼻の頭は赤く塗られ、頬には三本づつヒゲ、そして額には定番の「肉」の漢字ではなく、あえて「にく」と平仮名の文字が書かれている。

 目を閉じると、瞼に瞳も描かれていた。中で星が輝いている、少女漫画仕様である。

 美濃辺准教授の顔は、僕が朝落書きしたままであった。

 僕は、鳥のから揚げを食べながら気分良さそうに喋りまくる美濃辺准教授の前で、ただただ頷くしかなかった。

 これは絶対、周りからは仲間と思われているだろうなあ。周囲の学生も、笑うに笑えない見たいだしなあ。

 視線が痛い。これだけは慣れないし、慣れたくもない。美濃辺准教授の手前、今は逃げ出すわけにも行かない。ちょっとした拷問であった。

 ああ、巡り巡って、結局僕が一番の貧乏くじを引いてしまった。

 これも美濃辺准教授にかかわった者の宿命であろう。

 とほほほほ……。

                   終劇


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[良い点] 最近この作品を見つけ、4話目まで読んだところです。 個性的かつ天才的な美濃辺准教授と終始淡々とした小林くんの掛け合いが非常に面白い。迷惑ばかりかけられ、トラブルに巻き込まれているというのに…
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