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第二話『くだんのした』

「小林君、君は『くだん』を知っているかな?」

 ゼミの後、大学構内の食堂での昼食の最中。美濃辺准教授が、皿上の鳥のから揚げを箸で転がしながら、僕に問いかけてきた。

 美濃辺准教授の質問はいつも唐突で、その大半が別段どうでもいい内容である。

 はじめはいつものように、くだらない質問だと思っていた。

 だが、この質問はいつもと違っていたのだ。

 僕は、ハンバーグに伸ばしかけていたフォークを止め、答えた。

「くだんですか。確か……、靖国神社がある所、って素直に言うと思ったでしょう。ふふん、違いますね、くだんとは有名な箏の楽曲のこと!」

 あえて、頓智をきかせてみた。

「ちが~う。『くだん』はくだんでも、人に牛の『件』だ」

「件?」

「よって件のごとし、っていう言葉があるだろが。『件』とはな、人面牛身の妖怪。世界大戦や疫病が発生する直前に牛より生まれ、その出来事を予言した後、すぐに死ぬ。そしてその予言が決して外れないことから、よって件のごとしとは、『件』の予言のように絶対であるという意味なのだ」

「それで、その『件』が一体どうしたんですか? まさか、生まれて第三次世界大戦でも予言したのですか?」

「そうであれば、楽しいのだがなあ……。ぐふふふふ」

 けっこう物騒なことを言って、美濃辺准教授がニタニタと不思議の国のアリスのチェシャ猫のように笑う。

 そして、大きな顔を僕に不意に近づけると、声のトーンを抑えながら言った。

「実はな、まだ生まれてはいないのだが、いるのだよ……」

「えっ……」

 その言葉もだが、准教授の口の横に付いた米粒も気になる。

「――見たければ、食い終わった後、研究室へ来るとよろし……」

 美濃辺准教授はそういい残すと、もとから具の無い味噌汁とから揚げを残さず一気に平らげ、食堂から出て行った。

「――はあ。予言ね……」僕はため息とともにつぶやく。「だとしたら、一九九九年のノストラダムスの時には生まれなかったのだろうか?」

 件の存在への不信感をご飯とともに、腹の中へとかき入れると、僕も立ち上がった。


「ようこそ、俺の秘密の研究室へ」

 美濃辺准教授は汚れた白衣をひるがえし、大見得を切る。

 珍しく白衣の前はボタンで閉じられている。足は相変わらずのサンダル履きだ。

「先生、ようこそって、午前中もここでゼミやってたじゃないですか?。第一、ここはいつもの研究室ですよ。秘密でもなんでもないでしょう」

「むむ、小林君、漢は細かいことを気にしないものだ。さあ、こっちへ」

 美濃辺准教授の小芝居に呆れながらも、その後を僕はついて行く。

「おお、ここだここだ」

 室内の一番奥、山と積もれたごみ(にしか見えない)の前で、美濃辺准教授は立ち止まる。

「おい、小林君、手伝ってくれ。ここを掘るんだ」

 水道管の切れ端、何のものだかわからないリモコン、ブラウン管の割れたビデオ付テレビ、黒く固まったパン。埃に咳き込みながら、いろいろ除けていくと、ようやく床が見えた。そこには、矩形に切れ目が入っていた。

「レッドスナーク、カモン!」

 美濃辺准教授が、矩形をつま先で叩くと、切れ目の部分が跳ねるように開いた。

 地下へ続く階段の蓋だったわけだ。

 床に開いた穴からは、蒸した空気が漂い出てきた。獣臭い。

 穴の奥、地下は闇に包まれていた。慎重に足先で階段の感覚を確かめながら降りていく。

 美濃辺准教授はすいすいと僕の前を行く。この人は夜目が利くのだろうか。それとも、野生の感か。闇の中にその姿は消えていった。

 僕もついに真っ暗な地下室に到着した。慎重に足先で、階段の終わりを確認する。

「せんせい!」

 暗闇の中、呼びかけるが、返事はない。

 低く唸る機械音、ごぼごぼというポンプ音。どちらも僕の不安感を煽った。

 僕は、緊張から、つばをごくりと飲み込む。

「こっちだ、小林君」

 ライトが点いた。

 照らしだされたのは水槽。その中には、一頭の子牛が浮かんでいた。

 四肢は長く伸び切り、目は開いていない。子宮内の胎児の姿だ。白い体に黒い斑紋、乳牛のホルスタイン種であろうか。

 子牛の腹部からはカテーテルが伸びていて、モニタの付いた機器に繋がっている。

 時折、四肢を動かし、口から泡を吐き出している。

 だが、何よりも不思議なのは、その顔面だ。

 牛特有の長い物ではなく、のっぺりとして、どこと無く人間のそれの様に見える。

 顔にまたがる斑紋のせいか、それとも形自体がそうなのか。見た限りでは判別できないが、確かに人の顔をしているのだ。

「あの、これ……」

 僕は水槽を指差しながら、美濃辺准教授に視線を向けた。

「ふっふっふ……、どうだい小林君。これが、くだんの件だ!」

「くだんのくだんってややこしい。それより、ま、まさか、ほんとうに本物? 

生きているのですか?」

「生きているとも、しかも、生まれる寸前だ」

 美濃辺准教授は、水槽の横の機器に向かって、つかつかと歩いていく。

 そして無造作に横にあるキーボードを打ち、大きな顔をモニターに近づけた。

 古ぼけた眼鏡のレンズに、モニターの影が映る。

「はじめて、『くだん』の話を聞いた時、俺は考えた。牛の人面化遺伝子が、件の予言能力に影響を及ぼしているのではないかと推測した訳だ。出産直後に肺呼吸を開始、脳への酸素供給が大幅に増加した瞬間に、脳内に性ホルモンが多量に分泌。その作用で脳の機能の大部分が一時的に停止する。まだ機能している部分、そこが未来を予知する部分だと推測したのだよ」

「先生、未来予知と言いいましたが、未来というものは不確定要素が多くて予知するのは困難だと思うのですが?」

「いい質問だ、小林君に十点!」

「十点って、ハリポタですかっ」

 子供の頃、夢中になって読んだ魔法小説だ。懐かしい。

「いやあ、少女の時のハーマイオニーたんは可愛いかった。特にあの制服姿には度肝を抜かれたものだ」

 美濃辺准教授は、しみじみと語る。

「なあ、と同意を求められても……」

「ん、あの可愛らしさがわからんとは、十点減点!」

「って、プラスマイナス・ゼロじゃないすか」

 どうも先程から、突っ込みぱなしである。非常に疲れる。

「かつてのハーマイオニーたんの可愛さは置いといて、大まかな未来予知は可能だと俺は確信してるのよ」

 美濃辺准教授は視線を、僕からくだんに移す。

「『くだん』が予言するのは、その時代の世界大戦終戦や大地震などの、出産時点で大局が定まった出来事だ。未来における不可避の出来事を語ることもまた、予言、未来予知だろう」

「と言うことは、『くだん』は予定調和を語っているだけということですか」

「そうだな、しかもその未来が大抵凶兆ときてる。そう考えると、嫌な存在だな」

 そこで、ふと気になったことがあった。

「先生、『くだん』って、なんで言葉を喋れるんですか? 生まれてすぐだから、学習する間など無いですよねえ」

「ぐっ……」

 その質問に美濃辺准教授の言葉は詰まった。

「こばやしくん!。クロエたんの可愛さを語ったかな! そう映画『キック・アス』のヒットガールで一世を風靡した美少女クロエ・モレッツだ。あの当時の可愛さは、遺伝子レベルから解析しなければ解明できん。クロエたんが可愛いのは遺伝子のせい。猫がにゃ~と鳴くのも、『くだん』が日本語喋るのも、空があんなに青いのも、みんなみんな遺伝子が悪いんだっ!」

「最後のは違うと思いますけど……」

 ちなみに空が青い理由とは、太陽光七色のうち青い色が、空気中の埃や塵にぶつかってもっとも散乱しやすいからだ。

「先生、どこで、『くだん』を見つけてきたんですか? 妖怪とか言うくらいだから、そうそう見つかるものではないと思うんですけど。まさか雨の日に道端に捨てられていたとかじゃなかろうし。もしかして、人間っぽい顔した牛を何代にもかけて掛け合わせたとか?」

「いやいや、そんな面倒臭い事はしないよ。手っ取り早く、作っちゃえばいいかなあ、と思って」

「要は遺伝子をいじくっちゃったんですね」

「もう、ばっちし。農学部から冷凍受精卵もらってきて、ちょいちょいといじくりました」

「はあ……」

 この人の辞書には、倫理とか禁忌という言葉は無いのかもしれない。多分、全ページにわたって「好奇心」とでっかく書いてあるのだろう。

「まったく、農学部からもらってきた、じゃなくて忍び込んで盗んできたんでしょう? そんなんだから、あそこに嫌われるんですよ。だけれど、よく盗み出せましたね。確か、農学部は先生対策のため、研究棟の周りに盗難対策の赤外線センサーや、高圧電流網、催涙ガスにチーズ付きネズミ捕りまで設置したといいますよ」

 ちなみに農学部棟の表札の横には、「不許可生物と美濃辺 入るべからず」と但し書きのされた看板がある。

「まあそんな防止装置、俺にかかれば赤子の肘をつねるようなものだ。赤外線探知ゴーグルをつけて、潜入奪取してきたのだよ。小林君にも見せたかったよ、華麗なる体捌きのテクニックを」

 と言って、美濃辺准教授は調子に乗り、上体を反らした映画マトリックスで有名となったポーズを試みようとした。もちろん目論見はもろくも崩れ、無様に尻餅をついてしまう。

 しかし、かの学内でも最高度の厳重警戒でならす農学部研究棟に忍び込むとは、ゴキブリなみだ。そういえば、美濃辺准教授は、年に二三回、車に撥ねられる。自転車で蛇行運転しているのが原因であるが、それでもピンピンしている所を見ると、生命力もゴキブリ並なのだろう。

 僕は手を差し伸べて、美濃辺准教授を助け起こした。握った手は、べとべとに脂ぎっていた。やっぱり、油虫みたい。

 立ち上がった准教授は、偉そうに説明をしはじめる。

「ヒト遺伝子のうち、人面を形成する遺伝子を受精卵に注入してみたのだ」

「えっ、ウシ自体の遺伝子をいじったんじゃないんですか?」

「それはぁ、面倒臭いじゃないか」

 おいおい、えらくいい加減だ。失敗しても不思議ではない。

「大丈夫、大丈夫。筑波にいたときには、犬にヒトの人面化遺伝子注入してたよ。いやあ、俳優の大地康雄に似た犬だった。遺伝子の影響が声帯と舌に出たみたいで、『ほっとけ、ほっとけ』って鳴くんだよ。俺としては、自動車レースの相棒となって『シシシシ……』って笑ってくれた方が良かったんだがなあ」

「え、そ、それって、もしかして一世を風靡した、じんめんけ……」

「目を離した隙に逃げられちゃって……、あいつ今頃何してるかなあ。元気だといいなあ」

 美濃辺准教授は、遠い目をする。

 ああ、僕にはわかる。多分、その犬は世間一般を騒がして、都市伝説界に一時代を築いたに違いない。

「さて、この『くだん』は、受精卵を人工胎盤に着床させ、六ヵ月後にこの人工子宮に移し、大事に、我が子の様に育ててきたのだ。そりゃ我が子だったら、光源氏やチャップリンの如く、幼女の頃から育てていって、ゆくゆくは結婚ってのが理想だ。しかし、今の俺ではまだ、そんな器量は無い。だが、いつかはやってみたいと思っております!」

「うわーっ、先生、駄目です。拉致とか誘拐とか、犯罪に走んないでください!」

「はっはっは、何言ってるんだい、小林君。冗談だよ」

 いや、笑っているけど、あの眼は本気だった。

 その時である。機器から突如、電子音が流れた。

「ふむ、ついに『くだん』の視床下部から副腎皮質ホルモンが放出されはじめた。本来ならば、このホルモンにより触発された母体より、性ホルモンの一種であるオキシトシンが分泌され、陣痛がはじまる。だが、『くだん』が包まれているのは、本来の雌牛の暖かい子宮ではなく冷たいアクリル水槽。これから代わりに擬似的な分娩をしなければならない」

「擬似的な分娩?」

「ストレスを与えるんだよ、ス・ト・レ・ス。おおっと、ここで森高千里ネタなぞやめてくれたまえ。まあ一曲位歌ってもいいのだが、あのミニスカ衣装が無いと魅力半減じゃろ。足あっての森高、森高あっての足だものな。まあ、足といえば声優の井上麻里奈も捨てがたい」

「はあ……」

 もしかして美濃辺准教授は、アイドルの衣装を持っているのだろうか? ふと、ミニスカートをはいた姿を想像してしまいそうになった。

「まあそれはそれとして小林君!」美濃辺准教授の口調は打って変わって力強いものとなった。「とりあえず、エプロンを身に着け、干し藁を均等に床に敷くのだ!」

 僕はその指示に従って、干草を並べる。

 その間に、美濃辺准教授は、すごい勢いでキーボードを打つ。水槽内に注ぎ込まれる薬剤の濃度を細かく調整しているのだ。

「よし、いくぞ。出産だ」

 そう宣言すると、美濃辺准教授はリターンキーをわざとらしく叩いた。

 水槽から、人工羊水が抜かれ、徐々にくだんの体が外気に触れる。

 ここで必要なのは、産道の圧迫に代わるストレスだ。このストレスにより、脳内にアドレナリンが放出される。ちなみに人間の出産時に出るアドレナリンの量は、生涯最高だという。成人ならばそれだけでショック死する量なのだ。

 アドレナリンの主な作用は体を興奮させることである。脳と心臓に血液を集中させるためだ。だから、赤ん坊は出産時の酸欠状態にも耐えられる。これは、マッコウクジラなどが、深海に潜る時にも起こる現象だという。

 しかし、どうやってストレスを与えればよいのであろうか。まさか、直接首を絞めるわけにもいかないだろう。

「先生、ストレスはどのように与えるのでしょうか?」

「首を絞めて、酸欠状態にするのだ」

 そのままかっ!?

「駄目です。死んじゃうかもしれないでしょう」

「そうか、だめかぁ……」

「ダメです」

 美濃辺准教授はいまいち納得してない様子だ。

 と、言っている内にも、水槽内の羊水は抜ききられた。

 次に美濃辺准教授が手際よくカテーテルを外し、心臓付近を剃毛したあと無線式の心電計センサーを貼り付けた。

 そして、くだんを水槽から藁の上に移す。

 体の下にシーツを敷き、二人で四隅を持ってくだんごと持ち上げた。

 弛緩した体は思ったより重い。体重はおよそ40キログラム、大きさは大型犬くらいだろうか。

 藁の上に、揺らさないように慎重に降ろすと、シーツを抜き取る。

 いよいよ、これから、あの感動的なシーンが始まるのだ。

「ん、どうしたんだろう?」

 藁の上のくだんは、ぐったりとして動かなかった。

 心電計のモニターを確かめる。

「せんせい、息をしてません、心臓も止まっているみたいですが……」

「なんだとおっ、で……、どうしよう」

 美濃辺准教授がうろたえる。

「今は、どうしよう、なんて言ってる場合じゃない。心臓マッサージと、あと口内に羊水が残ってるのかも。吸引機はあります?」

「吸引機は、奥の棚にあるはず」

「じゃ、先生はマッサージお願いします。僕は吸引機を取ってきますから」

 ごちゃごちゃとした棚には、様々な機器が置かれている。幸いなことにそれぞれに名札が付いている。

「えーと、遠心分離機にレーザー照準器。この容器の『哲学の卵』って何だ。こっちの地球破壊爆弾って本物か? 吸引器がどこにあるか、さっぱりわからない」

「右だ、右下の方」

 マッサージ中の美濃辺助教授から、息の上がった声で指示が来た。

 よくよく探すと、端っこの方で吸引機が見つかった。五百ミリリットルのペットボトル位の大きさ。美濃辺准教授が改良して大幅に小型化したものであろう。

 僕は急いでくだんの口内に、吸引機についたチューブを差し込んでスイッチを入れた。

 モーター音とともに、羊水が吸い取られていく。

「よし、小林君、これでいいだろう」

 心電計が波を描き始めていた。

 美濃辺じゅん教授はようやく手を止め、額に滲んだ汗を白衣の袖で拭う。

 危機は脱したみたいだ。

 くだんは、横たえた体から伸びた四肢を、小刻みに動かし始めた。

「あっ、先生。肝心のストレスを与えるの忘れてました」

「いいんじゃない、心臓止まって生きてたのは、アドレナリンの分泌があったからで、脳にたくさん血が流れたからじゃないのかなあ。それで目的は達成と言うことで」

「あいかわらず、いい加減ですねえ」

「小林君、科学とはそんなものなのだよ。理論なんてものは、後から付いてくるものだ!」

 のほほんと言い放つ。

 僕は、人間の顔を歪めるくだんを見下ろす。

 アドレナリンの作用によって、くだんは、臨死状態の中、未来を視たのだろうか。

 僕たちは、くだんから一定距離、離れて遠巻きに見守ることにした。

 くだんはまず、横たわったままで首を持ち上げる。

 そして、潰れた人間の鼻の形をした自らのそれで、周囲の臭いをかぐ。

「う、うっう……」

 それからくだんは、口から息を漏らすと、おもむろに体を揺り動かし始めた。

 立ち上がるつもりなのだろう。

 まだ羊水に濡れた体を、敷かれた藁束に擦り付けながら、必死に立とうとする。

 僕も美濃辺准教授も手を貸そうとはしない。

 幾多の動物番組で牛馬の出産シーンを見てきたからだろう。

 立ち上がれぬ者は、野生で生きてはゆけぬ。

 僕たちはそう信じていた。

「がんばれ、がんばれ!」

 美濃辺准教授が拳を握り締め声援を送っている。

 弱々しい前足で上半身を押し上げる。

 何度かの挑戦が続いた。

「よし、そこだ、いけっ!」

 とうとう、くだんは四肢で立ちあがった。

 ハの字に開いた足は小刻みに震えている。

「やった!」

「でかした!」

 思わず、美濃辺准教授と手を握り合って喜びを分かち合ってしまった。

 准教授の眼鏡の奥、目元が涙で濡れているのを、僕は見逃さなかった。

 そんな僕たちの方に、くだんが歩み寄ってきた。

 一歩目二歩目はぎこちなかったが、三歩目からはしっかりとした足取りであった。

 そして六歩目で立ち止まる。

 僕と視線が合った。

 くだんは、澄み切ったその目で、正面から僕たちを見詰める。

 瞳は理知的に輝いている。

 すべてを見透かされているようだ。

 そうだ、未来を見通す目をくだんは持っているのだ。

 その顔から感情を読み取ることは出来ない。

 どこかで見た事のある表情。京都、太秦広隆寺の半跏思惟像、弥勒菩薩の像だ。アルカイックスマイルを浮かべた、あの顔の雰囲気に似ている。

 正面に並んだ丸い二つの眼、横に広がった鼻と鼻梁、唇は厚く小さい。

 哺乳類の中で人間の唇だけが、めくれて粘膜が見えているという。チンパンジーにもない。

 唇は人間の顔の特徴であるのだ。

 僕は何かを言おうとしたが、声が出ない。体も動かなかった。

 射竦められていた。

「ク……、ダンハ、ウソヲ、イワヌ」

 唇が動いた。

「喋った?」

 僕の声も裏返る。

 思ったよりも高い声である。牛らしくもっと低いものかと思った。これも、まだ声帯が短いせいであろう。

「し、しずかに、予言をしてはじめて成功だ」

 興奮する僕を美濃辺准教授が制止する。

 視覚、聴覚、すべての感覚がくだんに向けられた。

 くだんは沈黙の後、言葉を選ぶように口を開く。

「オ……」

「お……」

 つい僕たちは、くだんの言葉を鸚鵡返しに真似てしまう。

「オウ……」

「おう……」

 何が語られるのだろうか。世界大戦のはじまり、疫病の蔓延、それとも世界的な恐慌が起こるのだろうか。いや、『オウ』ときたからには、おうが付くものが起こるはず。嘔吐、横暴、横領、黄熱病。そうか、黄熱病の流行。いや、まだ何かあるはず、おう、おう、応仁の乱! まさか、また京都が焼け野原になるのかって、そんなことはないって。

 と、脳内で一人つっこみしている間に、くだんは恐るべき内容を語りはじめた。

「オウシザの今日の運勢は、波乱の予感。親しい人との間に争いが起こるかも。喧嘩するほど仲がいいのも大概にしよう。あと食べ過ぎには注意しましょう」

「……」

「恋愛運は、最悪。あんまりストーキングしちゃ駄目だよ。もう何やっても無駄。この恋はあきらめたほうがいいね。金銭面は思わぬ散財があるかも。二千円札は使っちゃおう。ラッキーアイテムは、イエローのハンカチ。ベリーバッドなアイテムはレッドの下着。ラッキーナンバーは六六六。獣の数字だ。今の君にぴったりだね」

 僕たちは、口をあんぐりと開けたまま予言が終わるのを待っていた。

 明らかに失敗だ。

 そう、これは、予言でなく占いだ。しかも星座占い、おまけに牡牛座限定!。

「――クダンハ、ウソヲ、イワ……、ヌ」

 くだんは、最後の言葉を言い終えると、静かに目をつむった。

 そして、ゆっくりと藁の中に倒れていった。

 四肢を硬直させ、くだんは逝った。

 その死に顔は満足そうだった。

「さ、最悪だ……」

 美濃辺准教授は膝から崩れ落ちた。

「先生、がっかりしないで下さい。一度や二度の失敗なんていいじゃないですか。いつもの傲岸不遜、厚顔無恥、支離滅裂の先生らしくありませんよ」

 と、励ましつつ、僕は手を美濃辺准教授の肩に置いた。

 打ちひしがれ准教授、こんなに落胆した姿を見たのは、はじめてかもしれない。

 やはり腐っても研究者。失敗は堪えるらしい。

 と、思ったのもつかの間、その僕の考えは覆された。

「ん、これは……」

 美濃辺教授の汗ばんだ白衣。べたついて肌が透けて見えている。

「せんせい、牡牛座なんですね……」

「……うん」

 顔を上げずにうなづく美濃辺准教授の背中には、うっすらと赤いブラジャーの紐が浮かんでいた。



 その夜、美濃辺研究室は、煙が充満していた。

 鮮やかな色した肉が、金網の上で焼かれているのだ。

 金網の下は七輪。炭は勿論備長炭。

 網上のロース肉からは、濃厚な肉汁が滴り落ち、乾いた音を立てて焼けた。

 頃合を見てひっくり返すと、赤かった肉は黒と褐色の網目模様に焼けていた。

 焼き過ぎて、硬くならないうちに火からおろし、さっと特製タレにひたす。

 小さく、じゅっと音がする。朝鮮では焼肉の温度を下げるために野菜に包むが、日本ではタレにつけて冷ますのだ。

 あまり温度が下がらないうちに、口の中に放り込む。

 焼けたタンパク質と醸造されたタレの香ばしい匂いが、口内そして鼻腔に満ちる。

 歯を立て喰いちぎる。筋張ってなく柔らかい。

 肉汁とモミダレ、ツケダレの混じった芳醇な味が広がっていく。

 歯でなく、舌で咀嚼出来るかのような柔らかさだ。

 噛みしめる度に、甘みと塩味、そしてアミノ酸によりもたらされる旨味が広がる。

 味、歯ごたえ、香り、温度。全てが絡み合って、焼肉と言う至高の芸術を作り上げている。

 ああ、至福、幸せだ。

 肉を噛み締め、幸せも噛み締める。

「ほんとは、肉を寝かせたほうが美味しいんだけどね。でも秘伝のモミダレのおかげで美味しいだろう。お、焼けてきたよ。この肉は大腸の先っぽの部分。『てっぽう』と呼ばれてて美味しいんだよ」

 美濃辺准教授も幸福そうだった。

 牛肉にはアナンダマイトと言われる、人間に幸福を感じさせる物質を多量に含んでいる。

 僕たちが幸福なのはこの物質の御蔭でもあろう。

 レバ刺し。

 ハラミ。

 センマイ。

 ミノ。

 骨付きカルビ。

 食と会話が進んでいった。会話内容は次のようだ。

 イタリアの犯罪心理学者ロンブローゾは、人の頭蓋の骨相を見れば、その人の性質を当てることが出来ると述べていた。その著書の中で、牛に似た顔の者は牛に似て性質愚鈍である、というかなり無理矢理な説がある。

 ならば、人に似ている顔を持つくだんは、人に似て賢かったのだろうか?

 もしも、賢かったならば、鯨と同じく保護動物となるのだろうか?

 そして、牛肉を主食とし、捕鯨に反対する者達は、くだんを食せるのだろうか?

 そんな会話を、缶ビールを飲み、箸で肉をつまむ合間に交わした。

 二人とも、頬を桜色に染め、ご機嫌であった。

 肉から立ち昇る煙は、研究室備え付けの強力換気扇で排気されている。研究室であるプレハブの周りには、さぞ香ばしい匂いが漂っていることだろう。

 僕は、金網の真ん中で焼かれている、ひときわ美味そうな肉に箸を伸ばした。

 その箸先に、美濃辺助教授の箸先が触れる。

「小林君、それは俺が焼いていた肉だ、素直に渡したまえ」

「先生だって、大切に焼いていた僕のカルビ取ったでしょ」

 二人とも一歩も引かない構えだ。

「あっ、空飛ぶモンティパイソン!」

 突如、美濃辺准教授が窓の方を指差して叫ぶ。

「えっ、なんですか?」

 つい、肉から目を逸らしてしまった。

「もらいっ!」

 その隙を美濃辺准教授は逃さない。あっという間に肉を口に運んだ。

 そのスピードたるやカメレオンやカエルにも劣ることは無いだろう。

「先生、汚いですよ」

「ふっふっふ。世の中、弱肉強食なのだよ。ちなみにこれは焼肉定食だがね」

 最後の駄洒落には、さすがにムッときたが、そこはそれ、僕も子供ではない。

「しょうがないっすねえ……」

 と、ここはお茶を濁してあげた。

 やがて、待ちに待っていたタンの出番となった。

 子牛のものだけあって、通常のものよりかなり小振りだ。

 だが、人語をしゃべるだけの力のある舌。筋肉が発達していると思われる。

 オウムにしても人語を話せるのは、通常の鳥類より厚く器用な舌を持っているからだと言う。

「小林くん。古代ローマにはフラミンゴの舌、夜鳴き鶯の舌っていう高級料理食材がある。鳥の舌って、美味しいのかな? ハチドリの舌は、くちばしの倍以上の長さがある。熊の手って中華料理あるだろ、あれって熊がはちみつを食べるのに右手を使うから、珍重されるのは右手なんだよね。たぶん、味が染みているからだろうね。ということは、だ、ハチドリの舌も蜜が染みてて美味いんじゃないか。つるつるっと、そば感覚で食べられそう」

 そう言いながら、美濃辺准教授は、皿の上からタン塩を一枚取り、新しく取り替えた金網上に載せる。

 皮が剥かれ、塩が振られている。塩は伊豆大島産の自然塩だ。

 薄めに切られているので、すぐに火が通る。

 この薄さなら、両面をさっと焙る位が良い。

 レモン汁はつけない。肉が新鮮だから、臭い消しの必要が無い為である。

 肉と塩の素朴な味を堪能することが出来る。

 美濃辺准教授が、調度良い具合に焼けたタン塩をひょいと口に入れた。

「うっ……」

 准教授の動きが、箸を口に入れたまま、急速冷凍されたかのように止まる。

 目は見開かれ、鼻の穴も大きくなった。驚きの表情だ。

「うまいっぞおっ!」

 雄叫びとともに固まっていた表情が、今度は急速解凍されたかのように溶けていった。眉目が垂れ、口元からだらしなく涎がたれる。

 僕も美濃辺助教授に習って、タン塩を焼き、食してみる。

「うまいっっ!」

 つい、美濃辺准教授と同じリアクションをとってしまった。

 たぶん顔も同じくだらしなくなっているだろう。

 その位、このタン塩は旨かった。

 歯ごたえもある。

 香りも良い。

 だがなにより、その味が絶品。

 甘み、塩味、酸味、渋味、うま味、そして辛味とも異なる第六の味が含まれていた。

 その第六の味が何であるかは、定かではない。だが、強く感じるのだ。

 第六の味は、僕の舌上の味蕾を刺激し、脳の最も原始的な部分に働きかけた。感情をつかさどる部分だ。

 タン塩を一枚食す度に、抽象的ではあるが、心の中にある眼が開いていく感じがする。

 この世界の全てが見通せるようだった。

 感覚が広がっていく。

 二人共、箸が進む。いや、止まらない。

 皿の上のタン塩が見る見る無くなっていく。

 発する言葉はともに無い。しゃべる時間も惜しかった。

「ふう、食った食った」

 美濃辺准教授が膨れた腹をパンパンと叩く。

 もう用意していた焼肉用の肉は残っていない。

 残ったヒレ肉は仏料理に、脳みそは研究に、骨はスープの出汁に、テールは『偽ウミガメのスープ』に使うそうだ。

 偽ウミガメのスープは、高価な海亀の肉の代わりに牛肉を用いるスープだ。有名なところで、不思議の国のアリスに出てくる『ニセウミガメ』は、このことからイメージされた生き物である。

 僕たちは、椅子の背もたれに体を預け、ぼんやりと天井を見上げた。

 プレハブであるから、天井板は無く、むき出しの屋根板が見える。

 蛍光灯が吊る下がっている。

 味の余韻を味わっていた。余韻まで味わえるとは、幸せだ。

 幸せのため息が出そうだ。

「『げっぷをする』」

 しかし、漏れたものはため息ではなく、僕の口から思ってもいない言葉。

 その途端、

おええっっうっぷ

 美濃辺准教授の口から、汚らしいげっぷ。

「――ん、小林君、今何か言っ……『椅子から転げ落ちる』」

 僕は、続く准教授の言葉に気を取られた。

「えっ、おっととっと……」

 結果、僕はバランスを崩し、椅子ごと後ろに倒れてしまった。

 本の一杯詰まった本棚にぶつかる。頭の上から、埃だらけの本が落ちてきた。

 室内に埃が舞い上がった。

 痛みに顔をしかめ、埃に咳き込み、後頭部を擦りながら立ち上がる。

「ごほっごほっ、痛たた……。なんすか、いきなりそんなことを言うから、倒れ……。『たらいが落ちてくる』」

 はっとして、自分の口を押さえる。

「大丈夫かね、小林君」

 心配した美濃辺准教授が口と鼻を手で押さえ、近寄ってきた。

ごいんっ!

「がっ!」

 美濃辺准教授の頭を、大きなかなだらいが直撃した。

 頭を抑えて、その場にうずくまる准教授。

 どうやら、本棚の上には、なぜだか、かなだらいが置かれていたらしい。それが僕のぶつかった衝撃で落ちてきたのだ。

 おかしい、さっきから、お互いの身に数秒先に起こる出来事を予言しあっているみたいだ。

 まさか、食した肉の影響か?

「小林君、このかなだらいは、先程肉を取った事への報復かね? 『顔面、汁だらけ』へ、へ、へ……」

ぶわっくしょん!

 埃のせいでくしゃみだ。美濃辺准教授の鼻と口から、唾液と鼻水が飛び散る。

 僕の顔へと。

「わっ、汚ない。僕に向いてましたね。先生、いくらなんでもこれはワザとでしょう。ああ、もう怒った、肉の一枚や二枚で僕がかなだらいをぶつける様な人間だと……、『また、たらいが落ちてくる』」

 怒りのあまり、僕は真横の本棚に拳を叩き込んだ。

 その途端、

ごいんっっ!

 またも、かなだらいが美濃辺准教授の頭を直撃した。

 本棚の上にはいくつたらいが載っているのやら。

「小林君!、君こそ、今のはワザとだろ。『さらに汁まみれ!』」

 へぇっっくしょんん

 わざわざ顔を近づけてくしゃみをする。

 両手を交差させて防いだけれど、より大量の唾液と鼻水が飛んできて頭からかかる。最低だ。

 怒りに、睨み合う美濃辺准教授と僕。

 そして、

「『左頬に右拳がめり込むっ!』」

「『右頬に左拳がめり込むっ!』」

 今度は、同時に言葉が漏れた。

 そして、絡み合う右腕と左腕。

 クロスカウンターだ。

 言葉道理にお互いの頬には、拳がめり込む。

 汗と血が舞い、散った。

 一瞬の静寂。固まった、二人の肉体。

 そして、二人の体は床に崩れ落ちていったのだ。

 床に倒れた僕の目の前に、同じくうつぶせ状態の、美濃辺准教授の顔が見える。

 僕は、薄れゆく意識の中で次の言葉を、気を失っている美濃辺准教授の口から聞き、そして同時に自らの口で喋っていた。

「クダンハ、ウソヲイワヌ……」

               終劇


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