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そんな日々が、十日も続いただろうか。既に自我が崩壊していきそうな感覚に、身体がすくむ。
他者の名で呼ばれ、他者として扱われるのは、自己の否定だ。
なのに、私はそこから抜けだせられずにいた。
「ルゥ。おはよう」
優しい声に、頬を撫でられる感触。胸の痛みとともに目を覚ます。格子越しに陛下の薄い色の目と出会って。その目が笑みの形に変わるのが幸せだった。
錯覚だ。
陛下がそんな風に格子越しとはいえすぐ側に立つから。触れて、くれるから。
私は、気付けば格子のすぐ側で眠るようになった。
錯覚。
夜、話しながら、陛下の柔らかな声に耳を澄ますように、格子に額を押し付ける。
すると、陛下が手を伸ばして、首筋に触れ、額と額を合わせてくる。
錯覚、だというのに。
愛していると、目の前の人が、私に全身で伝えてくる。
七日過ぎたあたりから、陛下は私が『ルゥ』ではないと、突きつけてこなくなった。
昼間の来訪者に、私は戸惑いを隠さず振り返った。見下ろすように立つ金髪の男に、合わせるようにして、思わず立ち上がる。
陛下は、いつだって傍らに座って、視線を合わせて話してくれた。
金髪の男は、じっと私を見下ろして、目を眇めてくる。気に入らない、というように。
「ずいぶん素直に、受け入れているように見えます」
「他に選択肢がありますか」
「あなたは、『ルゥ』様ではない」
わずかに苛立たしさの混じる声に、瞬いた。そうして、気付く。あぁ、『ルゥ』は、彼女は、いったい。
「あなたも、『ルゥ』が好きだったの」
男の気配がカッと逆立った気がした。迫った気にわずかに身を強ばらせる。けれど、その気配は次第に収束した。
「態度のいいあなたの、籠の外へ出る許可が下りました」
「……は」
今度は、私の顔色が変わる。いやだ。それは、
「よかったですね『ルゥ』。昼間も、陛下に会えますよ」
いやだ。
朝と、夜。
夢うつつ、現実感のない逢瀬。
幻のように囁かれる愛。
だから、ルゥでいられた。
けれど、それ、以上は、
かたむいて、しまう。
外出着を与えられ、籠から出され、客間の真ん中で立ち尽くしている私に、恐れていた足音がやってきた。
「ルゥ」
執務はいいの。王様なのに。
「籠の中は気が塞いだだろう。中庭に出よう。ここでしか見られない花もある」
俺は詳しくはないけれど、と困ったように笑いながら、陛下は私の手を引いた。
「教わったのは、覚えている。春呼草、水辺歌、霧香花」
陛下が口にした植物は、私にも馴染みあるものだった。全て薬草だ。観賞用の花ではない。それも、解毒や消毒に使われる、一般的なもの。
変わった人だったのか。それとも、私と同じように、薬学の知識があったのか。
つないだ手はそのままに、陛下は私に中庭を紹介してくれる。楽しそうに、幸せそうに。
空を見上げて、ぽっかりと広がる空と、伸びる尖塔に、本当にここがお城なのだと思い知った。
「ルゥ、こちらに」
池の中の東屋へと連れられ、座らされる。
その途端、どっと疲れが出たのか、そのまま立てなくなった。
「十日も籠の中にいたんだ。疲れただろう」
すっかり萎えてしまっている。外に出される事に抵抗は覚えたものの、あのままずっと籠の中だったらと思うとぞっとした。
「本当はもう少し早くだしてやりたかった。すまない」
労るように抱きしめられて、痛む心臓に、思わず陛下の身体を押しのけていた。
「……ルゥ?」
ルゥ。じゃ、ないよ。
「っ……」
こらえきれず、涙がこぼれた。
苦しい。ルゥである事が。この人の眼差しを受け止める事が。
ルゥで、ない事が。
こんなにも。
陛下は困った顔をして、私の頬を撫でる。指の背で涙を掬うようにして、ぽつりと呟いた。
「『ルゥ』も、時々そうやって泣いていた」
ピタ、と、涙が止まる。
「……泣いて、いた?」
どうして?
陛下はそれ以上語らない。切なそうに、私の涙を見つめて、そっと拭ってくれる。
「『ルゥ』、には……」
彼女には。
想い人が、いたのだ。
心臓に、冷たい亀裂が走った気がした。




