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私が嫁ぐ先は、エマルクス領。かつて私の一族が治めていた土地、血の故郷。
結ばれる相手は、ガートリウス伯爵。会ったことも喋ったこともない相手。
間違いない。確かにそう聞いた。では、目の前のこの人はいったい何を言ったのだろう。地位を退いたあとの自分を、『ガートリウス伯爵』にした、と。そう、聞こえた。
「……む、……む……」
喘ぐ私に、陛下は自分に押し付けるようにして、腕の力を強めた。あぁ逃げられないと薄々感じつつも、もがくようにして手のひらを眼前の身体に押し付ける。
「むりです」
力一杯言うつもりだったのに、声は徐々に萎んで行った。言い切る前に、頭のすぐ上で陛下が「なぜ」と囁いたからだ。
「なぜも、なにも。私、あなたといっしょになることだけは、むり、なんです」
放して、というのに、声は震えた。がっちりとまわされている腕は、緩められる気配さえもなかった。
「それこそ、もう無理だ、ファナリア」
名前を呼ばれるたびに泣きたくなる。再会してから二年、ずっと、ずっと、呼ばれるたびに嬉しかった。
「神殿庁に書類は通した。……あなたは、既に、書類の上で俺と婚姻を結んでいる」
「なっ」
「乱暴な手段をとった、と言っただろう」
そんな、と私は絶句する。なんてことを、したんだ、この人は。中身はあの頃のまま、我を通したとでも言うの。
「私、あなたとだけは、どうしても」
同じことを繰り返す。私は、陛下と結ばれることだけはあってはならない。だって、だって、私が好きなのは。
私が好きになってしまったのは、ルゥを想う、無様で、可哀想な、白い陛下、なのだから。
ひどい、歪みきった恋心をもつ、こんな私が。
国の頂点に立って民を導いた、アレクシス様に求められる、謂れがない。
「見つけてから、ずっと見ていた。二度と見失いたくなかったから。もう一度、俺は、あなたを好きになったんだ。ファナリア。そばにいて、ずっとずっと、隣で笑っていて」
あなたが好きだ。
陛下が、私を好きだと言う。なぜ、と私は瞬いた。なぜ、この人は、こんな風に私を想うの。どうして。
「そんなの、刷り込みみたいなものじゃ、ないですか」
外界から隔離されて育った、少年時代。そこに現れた私に、恋に似た錯覚を抱いたに過ぎない。
否定はしない、と陛下は頷く。
「一度目は、そうだった。多分、きっと、刷り込みたいにして、あなたを求めた」
でも、違う。俺はもう一度、あなたに恋をしたんだよ。
「王位を継いだばかりのとき、もう一度出会って、閉じ込めて、かつての続きみたいにした。そうして失って、気付いたんだ。ファナリア自身をちゃんと見ないと、いけないんだって。あなたの言葉を何一つ聞かないまま、閉じ込めた」
きっと、それは許されないことだったのだ。
だから、二度目も失った。
だから、三度目は、間違えないと決めていた。
「過去に引きずられないようにして、慎重に、あなたがどんな風に生きているのか、見ていた」
理解ができない。だって、私は私を見ていないから、陛下が何を見たのかなんて知らない。私は、ただ、魔術の研究に従事していただけだ。特別なことは何もしていないはずだった。
「過去のことを抜きにして。ねぇ、ファナリア。あなたは、俺が嫌い?」
不意の問いかけに、私はぼうっと思考をまわず。過去のことを、抜きにして。白い陛下のことを、抜きにして。
私は、アレクシス陛下のことを、どう思っている?
答えは、なかった。だって、分からない。そんな風に考えたことなどなかった。そんな私の様子を察して、陛下はくつりと笑う。
「あなたは今、二十二で、俺は、三十で。八つも歳上の男は嫌い? そうだね、立派なおじさんだ。若い君の隣では、見劣りするだろうか」
なにを、と瞬く。貴族の間ではままあることだし、もっと若い娘が年上の貴族に嫁ぐことだってある。そう思いかけて、はっとする。それは多分、いつだったか、アレクに私が告げた言葉と酷似していた。
「かつてあったことがこれから先のことを阻むと言うなら、全部なかったことにしよう。王は、二年前、若い王宮魔術師に恋をした。それじゃ、だめだろうか。俺には、俺よりずっと、あなたこそが過去にこだわっているように思える」
ここだけの話、エマルクス領を魔の一角に返すという事実は覆らない。いろんな事情があっても、領主自ら手放した王からの土地を、王が再び与えるというのは具合が悪い。だから、その地の領主の元にあなたが嫁ぐという形にはなるけれど。
「そう、あなたが、誰かと共に、エマルクス領を守る、というのは、変わらないんだ」
見ず知らずの人間と結ばれるくらいなら、どうか俺を選んでほしいと、陛下は言う。私はどうして良いか分からないまま、ただ、ぼんやりとその顔を見上げた。
無意識に、身体が動く。囲われた腕の中、そっとその温かな胸に頬を寄せた。
「……ファナリア?」
陛下の身体が、強ばった気がした。
「私、歪んでます。ずっと、ずっと、」
同情で、哀れみで、錯覚で、恋心を、抱き続けた。そんな歪んだ感情を、大事に胸に抱いて、生きていくのだと固く信じた。
どうして、私なのだ。
「陛下は、もっと、ずっと、その温かな腕で、素晴らしいものを救えるのに」
白い陛下のこと、全部なかったことにして、忘れて、この人を愛せたなら、きっと幸せだ。でも。
かたくなだった想いは、簡単にほどけそうになかった。
「へい、か」
声が、歪む。滲む視界に、何も考えられなくなる。
「では、待とう。今までも、王と王に使える魔術師の距離でいた。その距離のまま、エマルクスを治めるため、力を貸してほしい」
その一言で、心が楽になるのを感じる。これから、私はエマルクスへ行く。そこでも研究は続けられる。陛下もいる。なにも、変わらない。
あぁ、でも、やはり。
「ここで、素直に、目の前のアレクシス陛下を愛せたなら良かったのに」
それならきっと、一番良い結末だっただろうに。未練がましく詮無い小さなつぶやきは、それでも至近距離であるために聞こえていたようで。彼はくつくつと笑いながら、私の頭を優しく撫でた。
「そうなるよう、俺も努力しよう」
心配することはないよ、と彼は言う。
「運命的な出会いや再会が、いつだって劇的な結末を生むとは限らないんだよ、ファナリア」
ただ俺は、あなたに何度も恋をした。それだけの、話だ。
あぁ、きっと、私、誤魔化しているだけで、見て見ぬ振りをしているだけで。錯覚、などと、うそぶいて。
ただ、怖がっている、だけなのだ。




