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「……ルゥ、という名前がわかっているのに、権力のある人たちが見つけられない人物を、私が見つけられるとは思わないわ」
逃げ出すかと思った。
いつだっただろう。思いも寄らないことを言われ、逃げ出したことがある。
それを、繰り返しても不思議は無かった。
なのに、これもいつかと同じだ。やっぱり心が凪いでいる。
あぁ、きっと。
私も、あの半年を、乗り越えた。
そうして学院最後の数ヶ月を、緩やかに過ごして行く。呼んでもいないのに、黒髪の青年がお茶をのみにくるようになったくらいで。
兄も、だましだまし、王都の屋敷を守っていて。地方の父も、古い伝手を使って兄が少しでも動きやすいよう働きかけをしているらしい。
それらは全て、いつか私が家を継ぐ、その日のための布石だと知っている。だから私は、早く上に行かなければならない。
できるだけ、はやく。
王宮魔術師として推薦を受け、城に入る以上、まず陛下に忠誠を誓わなければならない。
アレクシス=エミリオ陛下。
彼からの文言を受けることで、私は王宮魔術師として立つことができる。
この期に及んで、こんな言い方は卑怯だけれど。もしも二度にわたって出会ったのが、本当に彼だったのであれば。
どうか気付かないで。気付いたとしても見て見ぬ振りをして。
私は、初めて陛下に出会う者なのだと。信じて。
あなたは黙って、文言を私に与え、魔術師として認めてくれさえすればいい。
礼拝堂でその儀式は執り行われる。いつか倒れ伏したことのある、綺麗な床。無意識にそっとその床面を撫でた。もう、アレから丸四年経つのだ。遠い日の、幻のような出来事だった。
こつりと、儀式に居合わせる魔術師の一人が、私の傍らに膝をついた。
「見習い王宮魔術師ファナリア。じきに陛下がきます。許しがあるまで、御前で顔を上げてはなりませんよ」
「はい。魔術次官様」
床に膝をついて、祈るように手を組んで、私は頭をたれる。もうじき、この場にアレクシス=エミリオ陛下がやってくる。リオで、アレクだった彼が。
心はやはり、凪いでいた。
足音が響く。
儀式用の豪奢な衣装。それに連なる飾りが、きゃらきゃらと音をたて、笑う。それはやがて私のはるか前方、祭壇の下で、やんだ。
「これより、就任の儀を執り行う」
それは、白い陛下の声だった。
歌うように文言が紡がれて行く。時折進行のために別の人間の声が入る。それは、金髪の男の声だった。たくさんいるベアトの一人、陛下のためだけの、ベアトの声だった。
私はようやく、事実を胸の下に落として行ける。あの時出会った人々が、本来会うはずのない人々であったということ。
ありえない、出来事であったということ。
陛下が歌う。時折手が動いて、飾りがきゃらりと笑う。
ただの歌ではない。私の魔力に枷と解放の不可がかかる。王宮魔術師として、繋がれて行くのを肌で感じる。
そしてそれはきっと、私だったら逆らえる程度のもの。
魔術学院を経て学んだのは、私は一歩間違えればこの世界の害悪にしかならないということだった。空間を越え、時間を超える、と言う、尋常でないことを実現する強大な魔力は、人の身に余るもの。
その、私の魔力にまつわる事実は、兄と、我が家のベアト、魔術学院長、王宮魔術長官、魔術次官。知っているのは、それだけのはずだった。
だから、城に繋がれることで、私はきっと安堵を得る。
陛下は、知らないのだとしても。きっと、それがなおさら、そうさせる。
歌も終わりに近づき、ベアトが続きを引き取って言う。
「汝、王に忠誠を誓うか」
息を吸う。手順通り、決められた言葉を私はただ返す。
「誓います」
儀式に、空白が落ちた。誰も身じろぎしない。陛下の言葉を、魔術次長様が固唾をのんで静観している。
本来であれば、陛下によって、私の面を上げる許しが出る。その瞬間を、その場の皆が待っている。
「……」
空白は、続く。やがてきゃらきゃらと小さな笑い声に似た音が聞こえてきた。震えているのだ。陛下が。もう、王位を継いで結界を十年守り続けてきたという、若き賢王が震えている。
魔術次官が一歩足を踏み出した。かつんと響くその音に、笑い声がやむ。
陛下が、口を開いた。
「面を上げよ」
そして私は、顔を上げた。
アレクシス=エミリオ陛下の顔を、正面から見上げる。
黒い髪、琥珀の瞳。あぁ、アレクだった。
白い顔、優れない顔つき。あぁ、リオだ。
どちらも彼だった。たった一人の、国王陛下だった。
会いたかった。
思いも寄らない言葉が溢れて、こぼれそうになる笑みを噛み締める。元気で、強く、生きていてくれた。それだけだ。これ以上近づこうとは思っていない。
「…………そなたに、王宮魔術師見習いの階位を授ける」
「慎んで、お受けします」
深く、深く、頭をたれる。ここにいる間、あなたのために、あなただけに、仕えます。傀儡にならず、励んだあなたのために。
きゃらきゃらと、音が笑う。ベアトに付き添われて、去って行く陛下に、そうやって、ただ祈った。
似ている娘だと、思えばいい。
いつかのようにそっくりな娘が、たまたまやってきただけなのだと。
今度は、籠に入れられることなく。




