ありがとうの練習
春樹は、余命を告げられた帰り道に花屋へ寄った。
店先には、やわらかな春の光がこぼれていた。
風に揺れる花たちは、どれも生き生きと咲いていて、それぞれが小さく「ここにいるよ」と命を光らせているように見えた。
春樹は、その中から一本の黄色いチューリップを選んだ。
まるく、あたたかな陽だまりみたいな色。
小春の笑顔に、よく似ていた。
会計を済ませて店を出ると、空は高く澄み、白い雲がゆっくり流れていく。
どこまでも穏やかな春の日だった。
けれど胸の内側には、医師から告げられた言葉が静かな波のように何度も押し寄せていた。
残された時間は、多くありません。
不思議と涙は出なかった。
怖くないわけじゃない。
心残りがないわけでもない。
ただ、ひとつだけ、強く思った。
——まだ、渡したいものがある。
玄関を開けると、ぱたぱたと小さな足音が近づいてくる。
「おじいちゃん、おかえり!」
春の陽だまりみたいな声。
次の瞬間、小さな体が勢いよく胸に飛び込んできた。
春樹は思わず笑って、その体を抱き上げる。
やわらかな髪。
ふわりと甘い、子どもの匂い。
首に回された短い腕のぬくもり。
小さな心臓が、確かにここで生きている鼓動。
胸いっぱいに、愛しさが広がる。
「ただいま。ああ、疲れがふっとんだ」
そう言うと、小春は嬉しそうにきゃっと笑った。
春樹は、チューリップを差し出す。
「これ、小春ちゃんに」
小春は花を見て、春樹を見て、にこっと笑う。
小さな口が、いっしょうけんめい開く。
「……ありがと」
そのたった四文字が、胸の奥へ、まっすぐ届いた。
春樹は目を細める。
——ああ。
この子に残したいものが、見つかった。
その夜、春樹は一冊のノートを机の引き出しから出した。
表紙のない、古びた大学ノート。
最初のページを開き、静かに書く。
小春へ
ありがとうは、幸せを見つける魔法の言葉だよ。
人は、大きな幸せばかり探してしまう。
でも、本当の幸せは、ちいさくて、静かで、いつもすぐそばにある。
朝、目が覚めること。
あたたかいご飯を食べられること。
誰かが「おかえり」と言ってくれること。
手をつないで歩けること。
今日も笑えること。
当たり前みたいな毎日の中に、ありがとうはたくさん隠れている。
「ありがとう」を言える人は、人の優しさに気づける人になる。
「ありがとう」を伝えられる人は、誰かの心をあたためられる人になる。
そして——
「ありがとう」を見つけられる人は、どんな日も幸せを見失わずに生きていける。
小春の人生に、たくさんの「ありがとう」がありますように。
春のように、あたたかく生きてほしい。
光の方へ、まっすぐ咲いてほしい。
おじいちゃんより
書き終えて、春樹はそっと目を閉じた。
窓の外では、夜風に揺れる木々の音がやさしく響いていた。
遠い空の向こうで、もう会えなくなった妻が、静かに微笑んでいる気がした。
「奈緒も、いい母親になったよ」
「小春も……ちゃんと、ありがとうが言える子になりそうだ」
空へ向かって、小さく笑う。
その横顔は、どこか満たされていた。
それから春樹は、毎日のように小春へ「ありがとう」を教えた。
けれど、それは押しつけるようなものではなかった。
春の風みたいに、やさしく、自然に。
公園で転んで、膝をすりむいた日。
涙をいっぱいためながら、小春は春樹に抱きついた。
春樹は小さな膝に絆創膏を貼りながら、にこっと笑う。
「頑張ったね。痛いのに泣きながら歩いてこられた。えらかった」
小春は、しゃくりあげながら鼻をすすった。
春樹は、その小さな頭を撫でる。
「頑張れた足さんに、なんて言う?」
小春はきょとんとして、自分の足を見る。
そして、まだ涙の跡が残る顔で、そっと言った。
「……あんよ、ありがと」
春樹は、目尻を下げて笑った。
「うん、上手だ」
洗濯物をたたんでいた奈緒のそばへ、小春がとことこと歩いていく。
小さな手で、ぐしゃぐしゃになりながらも一枚のタオルをたたんで差し出す。
「ママ、てつだったよ」
「ありがとう」
奈緒がそう言うと、小春はぱっと顔を輝かせた。
すぐに胸を張って返す。
「どういたちまちて!」
その言い方がおかしくて、奈緒も春樹も声を立てて笑った。
笑い声が、春の光みたいに部屋いっぱいに広がった。
その景色を見ながら、春樹はそっと目を細める。
ああ、幸せだと思った。
大きな奇跡じゃない。
こうして、大切な人たちが笑っている。
それだけで、胸がいっぱいになる。
ありがとう。
心の中で、何度も呟いた。
けれど春は、やさしいだけの季節ではなかった。
ある日、奈緒は台所の流しに、赤く滲んだ水を見つけた。
息が止まった。
振り向くと、春樹がいつものように笑っていた。
けれど、その顔色は、春の空みたいに白かった。
「大丈夫。ちょっとむせただけだ」
その「大丈夫」が、妙に痛かった。
奈緒は、幼い頃から何度も聞いてきた。
転んで泣いた日も。
熱を出して不安で眠れなかった夜も。
母を亡くして、ふたりで泣いた夜も。
父はいつも笑って言った。
「大丈夫」
その言葉に、何度救われたかわからない。
でもその日初めて、奈緒は思った。
本当は、大丈夫じゃないのかもしれない。
桜が、静かに咲き始めた頃だった。
窓から入る風はやわらかく、庭のチューリップも春の光を浴びて気持ちよさそうに揺れていた。
その黄色い花は、あの日、春樹が小春に買って帰った一本から増えたものだった。
球根を植えたのは、小春。
土だらけの手で何度も話しかける。
「おおきくなあれ」
春樹は笑って言う。
「花にもちゃんと聞こえてるよ」
すると小春は、土に向かってぺこりと頭を下げる。
「きれいにさいてくれて、ありがと」
春樹は空を見上げた。
涙が、こぼれそうだった。
ある春の夜。
春の雨が静かに窓を叩いていた。
奈緒が小春を寝かしつけて部屋へ戻ると、春樹は目を覚ましていた。
静かに、奈緒を見つめる。
昔と変わらない、やさしい目だった。
「奈緒」
ベッドのそばへ座ると、春樹は少しかすれた声で言った。
「いい母親になったな」
奈緒は首を振る。
「そんなことないよ。毎日いっぱいいっぱいで、怒ってばかりで……」
春樹は、かすかに笑った。
「それでも、小春はあんなにまっすぐ育ってる」
「奈緒が、愛して育ててる証拠だ」
震える手が、奈緒の頭をそっと撫でる。
幼い頃と同じ、大きくて、あたたかい手。
「ありがとうな」
「え……?」
「生まれてきてくれて、ありがとう」
奈緒は、子どものように泣いた。
翌朝。
春樹は、眠るように旅立った。
枕元には、あのノートが置かれていた。
表紙には、やさしい字。
——ありがとうの練習
最後のページには、奈緒への言葉。
奈緒へ
私は、おまえのお父さんになれて幸せだった。
だから、ありがとうを忘れないで。
明日言おうと思ったありがとうが、明日、言えなくなることもある。
だから今日、伝えてほしい。
今日のありがとうを、大切に。
奈緒、ありがとう。
生まれてきてくれてありがとう。
娘になってくれてありがとう。
幸せだったよ。
父より
その夜。
泣き疲れて座り込む奈緒のもとへ、小さな足音が近づく。
眠そうな顔の小春が、よいしょ、と毛布を持ってくる。
うまく掛けられず、半分ずり落ちる。
それでも何度も掛け直して、一生懸命奈緒を包もうとする。
そして、小さな手で頬を撫でた。
「ママ」
「いつも、おいしいごはん、ありがと」
「いっぱいだっこしてくれて、ありがと」
「ママ、だいすき」
奈緒の涙が、あふれた。
父が残した「ありがとう」が、ちゃんと小春の中で花を咲かせていた。
奈緒は小春を、ぎゅっと抱きしめる。
窓の外では、春の風がカーテンを揺らしていた。
胸に手を当てて、小さく呟く。
「お父さん……ありがとう」
春の夜風が、そっと頬を撫でた。
よく言えました。
そう言って褒めてもらえた気がした。




