prologue:01 ある少年の話
西暦2273年、某日。
ある国の療養施設に、一人の少年とその両親が現れた。
この施設は肉体や精神に重大な疾患を抱えた患者に対し、特殊なカウンセリングや治療を行う事で、世間の話題になっていた。
少年の両親はその話を聞き、藁にもすがる思いで息子を連れてきた。
重い精神疾患のせいで、少年は日常生活すらままならない状態だった。
施設の職員である精神科医は通院記録を確認しながら、準備作業を進めていく。
「お父様、お母さま、ご安心ください。世間からは理解がまだ得られませんが、我々の治療方法は確実に効果が有ります。……さあ、エミル君。これを」
エミルと呼ばれた少年は、リクライニングシートに座った状態のままヘッドギアを被った。 ヘッドギアからは無数のコードが伸びていて、様々な機材と繋がっていた。
「うん、いいね。……おい、準備できたか?」
「ああ。こっちはいつでも」
精神科医はモニターをチェックする他の職員に確認してから、自らもヘッドギアを被った。
手で合図すると、少年に睡眠薬が投与された。 少し手間取ったが、少年は眠りについた。
精神科医も少年と同じ造りのシートに座り、職員に再び合図を送る。 ヘッドギアのバイザーが下り、目の前が真っ暗になる。
気が付くと、公園のベンチに座っていた。 現実世界ではない。最新鋭のVR世界だ。
『“誰か”がそっちに行く。上手くやれよ』
ヘッドギアから聞こえる職員の声で、精神科医は気を引き締めた。
現れたのは、男性の老人だった。解離性同一性障害の少年――エミルの中にいる人格。
ここへの紹介状を書いた精神科病院から届いたメモから察するに、恐らく彼がハンスだろう。
比較的温厚な人格で、対話は難しくないとのこと。
「おや、初めて見る顔ですのう。隣、よろしいかな?」
「ええ。ここは公園ですし、お好きなように」
ハンスは精神科医と同じベンチに座り、一息ついた。この老人は、蒸発した妻を探しているという。
そんなものは最初からいないのだが、これが仕事だ。付き合うしかない。
「最近は、肌寒くなってきましたね」
「うむ。もう少し厚着をしてくるんじゃった……」
「ここには、よく来るんですか?」
「いや、初めてじゃな。いつもは……真っ暗な場所で過ごしておる」
まずは世間話から。話しやすいのは助かる。
精神科医は内心でほくそ笑みながら、ハンスとの距離を縮める。
会話が温まってきたところで、早速本題に入る。
「ところで、ハンスさん。……奥さんは、見つかりましたか?」
「……さっぱりじゃな。早く見付けてやらんと、あいつも寂しがっているじゃろう……」
「そうですか。……失礼ですが、最初からいないんじゃないですか? 奥さんなんて」
「……どういう、意味じゃ?」
「そのままの意味ですよ。というか、あなた自体が存在しない。いや、存在しちゃいけないんだ」
精神科医は立ち上がり、ベンチの近くに生えてある木に手を添えた。
「この手触り、匂い、ハンスさんは感じられますか? 私は感じます、確かに。だって、人間ですから」
いくら時代が進んだとはいえ、VRの世界に匂いは無い。
あるところにはあるが、それはそういう需要がある場合のみ用意される。
精神科医は嘘をついた。
ハンスはゆっくりと立ち上がり、木に触れながら匂いを嗅いだ。
その顔は驚愕で満ちていた。
「……感じない。何も……」
「ええ。だからもう、いいんです。奥さんを探さなくても、苦しまなくても」
ハンスはのろのろとした足取りで、公園を後にした。
老人の後ろ姿を見送る精神科医に、職員から報告が入った。
『成功。脳波が弱まったぞ。あのじいさん、そのうち出てこなくなる』
これが、投薬治療の代替として採用されている、この施設のやり方だった。
VRの世界から切断された精神科医は、ヘッドギアを外した。
「……残りの人格は、あと二人か。処刑人みたいな真似も、板に付いてきたか?」
彼は彼なりに、この仕事に責任とやり甲斐を感じていた。
危うい独り言を呟いてしまったが、幸い、少年は眠ったままだし、彼の両親は部屋の外だ。
とりあえず、コーヒーを飲もう。
精神科医はネクタイを緩めてから、少年を優しく揺らした。




