虚像の遺言
【序章】
訃報の知らせが届いたとき、僕は原稿の山に押しつぶされかけていた。
神林隆臣──日本ミステリー界の旗手にして、僕が十年間担当してきた作家だ。
死因は自殺、と報じられた。
画面越しに流れるニュースに、僕はただ呆然とした。
神林が自殺? あり得ない。
少なくとも、僕の知る彼は、絶望して死を選ぶような男ではなかった。
通夜のあと、遺族から「あなたに渡してほしい」と言われ、神林の書斎の鍵を預かった。
シンプルな木製机。使い込まれた万年筆。下書き用のノート。
そのどれもが、彼が“生きるために書いていた”ことを示す痕跡だった。
机の奥の引き出しに、ひとつだけ異質なものがあった。
黒いUSBメモリ。
貼られたラベルには短い文字列が記されている。
──《K-Last》
嫌な汗が背中を伝う。
神林は遺書を書かずに死んだ。家族も出版社にも何も残さなかった。
だが、このUSB……これは、その代わりなのではないか?
確かめるのは怖かった。
けれど、担当編集として読まなければ、彼に対して不誠実だ。
僕は深呼吸し、USBをノートパソコンに挿した。
自動的に一つのファイルが開く。
タイトルは──
『虚像の遺言』
その瞬間、背筋に冷たいものが走った。
彼は死ぬ直前まで“物語”を書いていた。
しかし、読み進めるうちに、僕は気づくことになる。
これは物語ではない。
神林はフィクションの皮をかぶせて、現実の“真相”を記していたのだ。
【第一章 神林隆臣という男】
神林と初めて会ったのは、十年前の冬だった。
新人賞の最終候補に残った彼は、編集部の会議室で緊張していた。
しかし、その語り口は冷静で、論理的で、どこか他人事のようだった。
「僕は、人間の“矛盾”を見るのが好きなんです」
それが、彼の最初の言葉だった。
その瞬間から、僕はこの作家がただ者ではないと確信した。
人気が出るにつれ、彼は徹底して“人間”を観察するようになった。
犯罪者、遺族、告発者、目撃者、そして編集者である僕。
誰の言葉も鵜呑みにせず、常に自分の目で確かめる。
彼の小説は、人物の行動原理が恐ろしいほど精密に組み立てられていた。
だからこそ——彼の“死”が、僕にはどうしても受け入れられなかった。
USB内の『虚像の遺言』を読み進めていると、最初の章で神林はこう書いていた。
《僕は、死を決めたわけではない。
ただ、“死んだことにする必要”があっただけだ》
背中に衝撃が走った。
まるで僕へ向けた挑発のようだった。
《もし君がこれを読んでいるなら、計画はおそらく成功している。
だから、僕の死因が自殺と発表されたことを、まずは祝ってほしい》
こめかみが痛む。
これは事実なのか? それとも神林特有の虚実混交の語りなのか?
さらに読み進めると、神林はこう続けていた。
《僕を殺そうとしている人物がいる。
しかし、そいつを追い詰めるには、僕が“死んだ方が早い”》
僕は息を呑んだ。
神林は誰に狙われていたのか?
そもそもこの文は本当に彼の遺書なのか?
文末には奇妙な一文がある。
《真実は、僕ではなく“編集者の君”が一番よく知っている》
僕が真実を知っている?
何をだ?
僕は神林の死について、何も知らない。
しかしこの一文のせいで、
“知らない”という確信すら揺らぎ始めていた。
第二章 虚構の中の編集者
画面に並ぶ文字を、僕は食い入るように追った。
そこには、薄くベールのかかった「現実」が描かれていた。
作中の語り手は、人気ミステリー作家の「K」と、彼の担当編集者である「M」だ。
Kはこんなふうに書き出していた。
「僕には、たった一人だけ信用している人間がいる。
担当編集のMだ。
彼は僕の作品を最初に読み、最後の読者にもなる」
そこまでは、ほとんど実名告白に等しかった。
しかし、行間には微妙な違和感があった。
「だけど、もし僕を殺そうとする人物がいるとしたら、
そいつは僕のすぐそばにいるはずだ。
たとえば、原稿の締め切りを言い訳に、夜中でも平気で僕の家に来るような人間とか」
僕は思わず息を止めた。
夜中でも平気で家に行く。
それはまさに、僕自身のことだった。
けれど、名指しはされていない。
Mは、あくまで「信頼している」側に置かれている。
この微妙な距離感が、かえって不気味だった。
作中でKは、最近立て続けに起きた三つの出来事を列挙している。
一つ目は、匿名の脅迫メール。
二つ目は、Kの過去作品と酷似したプロットを持つ盗作騒ぎ。
三つ目は、Kの愛用していた睡眠薬の成分が、医師の処方と違っていたこと。
脅迫メールの送信元は特定できず、盗作騒ぎは出版社の謝罪文で一応の決着を見た。
睡眠薬の件は、Kが病院に怒鳴り込んで発覚したが、「薬局の誤り」とされ、うやむやになった。
Kは小説の中で、それぞれの事件に仮名をつける。
脅迫者を「A」。
盗作をした若手作家を「B」。
処方を誤ったとされる薬剤師を「C」。
そして、編集者Mを四人目として挙げる。
「そしてもう一人、僕の死に最も近い位置にいるのは、Mだ。
彼は僕の原稿も私生活も、誰よりよく知っている。
僕の死が、自殺なのか、他殺なのか、事故なのか。
それを一番正確に判断できるのは、Mのはずだ」
画面の前で、僕は指先の震えを抑えられなかった。
神林は、なぜここまで「担当編集」にこだわるのか。
ただのキャラクター付けにしては、視線があまりにも僕自身の輪郭に近すぎる。
ページの最後に、ひときわ短い一文があった。
「だから、もし君がこれを読んでいるなら、
僕の死の真相は、君自身が一番よく知っていることになる」
昼間の通夜で見た、棺の中の神林の顔がよみがえる。
眠っているようだった。
首には、きつく絞めたような痕も、薬を大量に飲んだ跡もない。
公式発表は「自殺」。
理由は、書斎の机の上に残されていた、たった一行のメモ。
「これ以上、書けない」
それを警察は遺書として扱った。
しかし僕は、あれを見た瞬間からずっと胸に引っかかっていた。
あの言葉は、本当に「絶望」の言葉だったのか。
それとも、まったく別の意味を持っていたのではないか。
USBのファイルは、まだ始まったばかりだ。
スクロールバーは下の方にたっぷりと余白を残している。
僕は、覚悟を決めて読み続けることにした。
◇
ファイルの第二節は、「自殺の準備」と題されていた。
ただし、その内容は「自殺の方法」ではない。
Kが自分の死を「物語に仕立てるための準備」について、淡々と書き連ねている章だ。
「まず、世間にとって納得のいく“動機”を用意しなければならない」
Kは、そう書き始める。
「幸い、作家という職業は、心を病みやすいと思われている。
締め切りに追われ、売り上げに脅かされ、批評に傷つき、
その果てに自殺したと聞いても、誰も驚かない」
皮肉たっぷりの文章に、僕は苦笑いした。
神林自身、そんなイメージを散々笑い飛ばしていたからだ。
「そこで僕は、編集者のMにだけ弱音を見せるようにした。
『最近、全然書けなくてさ』
『もうミステリーは書き尽くした気がするんだよ』
そういう言葉を、少しずつ、しかし確実に散りばめておいた」
胸の奥が、じわりと冷たくなる。
確かに、ここ数ヵ月、神林はそんなことを何度か口にしていた。
僕はそのたびに、「そんなこと言いながら、どうせまた傑作を書くんでしょう」と笑って返していた。
それすら「計画」の一部だったというのか。
「次に、遺書として解釈されやすい短い言葉を用意した。
長々と書く必要はない。
むしろ、短く、解釈の余地を残す言葉の方が、人は勝手に意味を膨らませてくれる」
そこで、あの一文が引用されていた。
「これ以上、書けない」
そうか、と僕は思った。
あれは、やはり神林が意図して置いた「記号」だったのだ。
「この一文を、机の上に置いておけばいい。
警察もメディアも、きっとそれを“作家の限界と絶望”だと解釈する。
僕が本当に書けなくなったのかどうかなんて、誰も確かめようとしない」
画面の文字が、じわりとにじんだ。
僕は目頭を押さえる。
あのメモを見たとき、僕の頭に浮かんだのは、
「まさか本当に、もう書けなくなっていたのか」という、悲しみと悔しさだった。
だが神林は、その感情すらも計算に入れていたのだ。
「僕が本当に書けなくなったかどうかは、たった一人だけが知っている。
原稿を一番近くで見ている編集者のMだ。
だからこそ、僕は最後の“真実”を、ここに書き残す」
そこで、節は唐突に終わっていた。
次の節の冒頭には、こう書かれている。
「ここから先は、君にしか読めないようにしてある」
僕は、思わず画面に顔を近づけた。
第三章 歪んだ敬愛
「君にしか読めない」とは、どういう意味なのか。
文章は、そのまま日本語で書かれている。
暗号らしきものはない。
スクロールしていくと、いつもと少し違う筆致の文章が現れた。
普段の神林の、冷静で、どこか突き放した文体とは違う。
もっと、生々しく、ぶっきらぼうで、感情の揺れがそのまま文字になったような文章。
「M、お前は読んだだろう。
例の盗作騒ぎの原稿を」
唐突な二人称呼びかけに、僕は息を呑んだ。
盗作騒ぎ──。
それは、半年前に実際に起きた出来事だ。
新人賞で佳作を受賞した若手作家・小坂のデビュー作が、
神林の短編「影のない部屋」と構造が酷似していると、ネット上で騒がれたのだ。
出版社は急いで調査し、小坂が過去に神林の作品から強い影響を受けていたこと、
しかし「完全な盗作とまでは言えない」ことを理由に、
公式には「若さゆえの不注意」として収束させた。
小坂は、謝罪コメントを出し、
その後、表舞台から姿を消した。
「お前は覚えているはずだ。
あのとき、編集会議で誰が何と言ったか、
小坂がどんな顔をしていたか、
俺が何を言い、何を言わなかったか」
文字を追いながら、会議室の光景が蘇る。
長机を挟んで、向こう側に座る小坂の青ざめた顔。
編集長は、「これは完全な盗作だ」と声を荒げた。
法務担当は、「でも構成だけ似ていると言い張られたら苦しい」と冷静に言った。
そのとき、神林は笑ってこう言ったのだ。
「いいじゃないですか。若い子が真似したくなるようなものを書けたってことですよ。
ちょっと自慢です」
僕は、安堵と尊敬が入り混じったような気持ちで、その言葉を聞いていた。
あの瞬間、神林は間違いなく「大人」だった。
だが、USBの文字は、違う顔を見せている。
「俺はあのとき、本当は怒っていた。
自分の作品というより、“物語”そのものが軽んじられていると思ったからだ。
俺が積み上げてきたロジックも、構図も、全部“ちょっと参考にしました”で片づけられるのか、と」
スクロールバーが、静かに下へと進む。
「だから俺は決めた。
誰か一人くらい、本気で物語の“怖さ”を思い知るべきだと。
物語は、フィクションだからこそ人を救う。
だが同時に、フィクションだからこそ、人を簡単に追い詰めることもできる」
その言葉の重さに、僕は喉が渇くのを感じた。
「小坂の件は、一旦棚上げした。
あいつは多分、自分が何をやらかしたのか、まだよくわかっていない。
責めるなら、ちゃんと責めなきゃいけない。
だがその前に──」
そこで、文章はいったん途切れ、
一行あけて、こう続いた。
「俺は、もっと近くにいる“標的”に気づいたんだよ、M」
目の前の文字が、急に現実味を帯びて迫ってくる。
「お前だよ」
その一行を見た瞬間、心臓がどくんと跳ねた。
スクロールする指が止まる。
画面の中の「お前」という二文字が、じっとこちらを見返しているような錯覚に陥る。
僕は、無意識に椅子の背にもたれ、天井を仰いだ。
標的。
なぜ僕が、彼の標的になるのか。
USBは、容赦なく続きを示してくる。
「お前は、俺の原稿を一番最初に読む。
俺がどんなトリックを使ってきたか、どんな手をまだ使っていないかも知っている。
お前は、俺の“兵器庫”の鍵を持っているようなものだ」
そこまでは、以前から冗談めかして言っていた。
「俺のトリック盗んで自分で書いたら?」などと笑いながら。
だが、その次の一文は聞いたことがない。
「だから、お前の“虚像”を壊すには、物語を使うのが一番手っ取り早いと思った」
虚像。
僕の虚像。
自嘲気味に笑いがこみ上げた。
僕は、自分が虚像だなんて考えたことはなかった。
だが、編集者という仕事は、確かにどこか「透明なまま」評価される職業だ。
作家の背後にいて、作品を支えながら、自分は表に出ない。
それを「虚像」と呼ぶなら、そうなのかもしれない。
「お前は、いつだって“正しい読者”の顔をしている。
作品を冷静に評価し、問題点を指摘し、時には褒める。
だが、お前自身の物語については、どうだ?」
画面の文字が、じりじりと近づいてくる。
「お前は自分の人生を、他人に読んでもらう勇気があるか?」
その問いに、僕は答えられなかった。
USBの文章は、なおも続く。
「だから俺は、こういう計画を立てた。
俺が“自殺したことにする”。
世間には、作品に追い詰められた作家という物語を見せる。
その裏で、俺はお前にだけ、もう一つ別の物語を読ませる」
それが、この『虚像の遺言』なのだろう。
「お前は、二つの物語の矛盾に気づくはずだ。
一つは、ニュースや警察の発表が語る、俺の死の物語。
もう一つは、このUSBが語る、俺の計画の物語。
その二つを突き合わせたとき、
“第三の物語”──お前自身の物語が浮かび上がる」
第三の物語。
僕自身の物語。
そこから先の文章は、なぜか途切れていた。
画面には、ぽっかりと空白が広がっている。
スクロールバーを動かしても、次の文章は出てこない。
ファイルの末尾に、ただ一語だけ書かれていた。
「続きは、君が書け」
それを見た瞬間、背筋に冷たい震えが走った。
第四章 計画の骨格
時間だけが、書斎の静寂を刻んでいた。
机の上の時計は、夜の十一時を回っている。
窓の外には、マンションの向かいの部屋の灯りがちらほらと見える。
神林のUSBのファイルは、途中で終わっている。
だが、完全に未完成のままではなかった。
別のフォルダに、「note」と名付けられたテキストファイルがあった。
開いてみると、箇条書きのメモが並んでいる。
・表向きは首吊り自殺に見せる
・遺書は一文だけ
・遺体発見者は妻
・その前日に編集者が原稿を受け取りに来る
・睡眠薬の件を再度ほのめかしておく
・盗作騒ぎと脅迫メールは、「過去の積み重ね」として動機に使える
まるで、ミステリーのプロットメモのようだった。
実際の報道と照らし合わせてみる。
神林の死は「自宅書斎での首吊り自殺」とされていた。
遺書は机の上の一文のみ。
発見者は、買い物から帰ってきた妻。
死亡推定時刻は、前日の午後十時から翌午前二時の間。
僕は、紙とペンを取り出し、メモを取り始めた。
一 首吊り自殺
二 遺書は一文
三 発見者は妻
四 前日に僕が訪問
五 睡眠薬の件
六 盗作騒ぎ・脅迫メール
USB内のメモと、現実の出来事は、ほぼぴったり一致している。
違うのはただ一つ。
「表向きは首吊り自殺に見せる」とあるが、
実際の現場で、警察がどこまで詳細に調べたのかは、記事からはわからない。
首吊り自殺は、検死の結果、
「他殺の可能性」も一応検討されたはずだ。
だが最終的に「自殺」と結論づけられたということは、
現場に目立った不審点がなかった、ということでもある。
だが、USBには別のメモがあった。
・本当に首を吊る必要はない
・外形上、そう見えればいい
・致命傷は別に用意しておく
その一文に、僕は思わずペンを握る手に力を込めた。
致命傷。
別に用意された、もう一つの死因。
睡眠薬。
心臓。
脳梗塞。
いくつかの単語が頭の中をよぎる。
僕は、通夜のときに撮影された写真を思い出していた。
棺の中の神林の首には、確かにうっすらと赤い痕があった。
だが、それは「ロープで吊った」ほどくっきりとしたものではなかった気がする。
あれは、本当に「首を吊った」痕だったのか。
僕は自分のスマートフォンを取り出し、ニュースサイトを開いた。
「人気作家・神林隆臣さん、自宅で死亡」といった見出しの記事をいくつか確認する。
どの記事も、警察の発表をなぞるような内容だ。
首吊り自殺。
書斎。
遺書。
精神的に追い詰められていた可能性。
しかし、ひとつだけ違和感のある記事があった。
地方紙のウェブ版らしき小さな記事。
そこには、こう書かれていた。
「首に圧迫痕のようなものがあり、
司法解剖の結果を踏まえ、自殺とみられると発表した」
圧迫痕。
首吊りにしては、歯切れの悪い表現だ。
僕は思わず、声に出していた。
「本当に、首を吊ったのか?」
神林のメモにあった、「外形上そう見えればいい」という一文が、意味を持ち始める。
もし彼が、本当に「自分の死を利用した計画」を立てていたのだとしたら。
致命傷を別に用意し、首の痕は後付けでつけることも、理論上は可能だ。
問題は、その「致命傷」が何だったのか。
そして、その計画がどこまで成功し、
どこから狂ったのか、ということだ。
USBのメモの末尾には、さらにこうあった。
・計画の最終段階では、Mが動かなければならない
・Mが動かなければ、計画は未完のまま終わる
・その場合、俺の死は、本当にただの「自殺」になる
僕は、息を詰めた。
M。
編集者のM。
USBのファイルは、途中で途切れている。
そこから先は、僕が「書かなければならない」とされた部分。
つまり、神林の計画は、
僕が何をするかに委ねられていた、ということになる。
それは、神林の死が「自殺」なのか、「他殺」なのか、
あるいは「事故」なのかを、
僕自身が決める立場にある、ということでもあった。
そう気づいた瞬間、
胃のあたりに、重たい鉛の塊が落ちてきたような感覚に襲われた。
第五章 僕の物語
僕はペンを持ったまま、しばらく動けなかった。
頭の中で、ここ数ヶ月のやり取りが巻き戻されていく。
神林が睡眠薬の話をした夜。
盗作騒ぎの会議のあと、二人だけで飲みに行った帰り道。
初めて会った十年前の冬。
断片的な記憶の中から、ひとつの場面だけが、妙に鮮明に浮かび上がる。
死亡推定時刻の前日、
つまり、神林が死ぬ前日の夜。
僕は、原稿の受け取りのために、彼の家を訪れていた。
◇
その夜の空気は、やけに冷たかった。
マンションのエントランスに入ると、かすかに消毒液の匂いがした。
エレベーターで十階まで上がり、廊下の突き当たりにある神林の部屋の前に立つ。
インターホンを押すと、
しばらくして、少し息の上がった声がした。
「はいはい、開いてるよ。入って」
玄関の鍵は、いつものようにチェーンロックがかかっておらず、
僕はノブを回して中に入った。
「お邪魔します」
スリッパに履き替えながら声をかけると、
書斎の方から、「適当に上がって」という声が返ってきた。
いつものことだ。
十年も通っていると、もはや親戚の家に行くような気分になる。
書斎のドアをノックし、そっと開けると、
神林は机に向かってパソコンに何かを打ち込んでいた。
「あと五分。待ってて」
「締め切り、昨日でしたよね」
「うるさいな。五分で終わらせるから」
冗談めかしたやりとり。
その背中を見ながら、僕は本棚の背表紙を眺めていた。
自分が担当してきた彼の著作が、きれいに並んでいる。
棚の一角には、海外ミステリーの名作がぎっしりと詰まっていた。
その中の一冊──、
僕が以前貸したままになっていた文庫本が、まだそこにあることに気づく。
「それ、結局読んでないでしょ」
僕がそう言うと、神林は肩をすくめた。
「読む前に、自分で似たようなの書いちゃったからさ。
読んだら“参考にしました”って言われそうで怖いんだよ」
そう言って、短く笑った。
その笑い声を、僕ははっきりと覚えている。
五分ほどして、神林はキーボードから手を離し、
プリンターの電源を入れた。
「はい、これで本当に“これ以上書けない”」
そう言って立ち上がり、プリントアウトされたばかりの原稿を束ねて、僕に差し出した。
「タイトルは?」
「まだ仮だけど、『虚像の遺言』かな」
その言葉を聞いたとき、
僕はただ、「さすがに重いですね」と笑っただけだった。
しかし今は、その言葉の意味を、
まったく違う重さで受け止めている。
◇
あの夜、神林は、もう一つ別のものを僕に渡した。
「これも預かってくれない?」
そう言って、机の引き出しから出したのが、例の黒いUSBだったのだ。
「なにこれ。バックアップですか」
「まあ、そんなところ。
万が一、俺が突然死んだりしたときのためのね」
その言い方が、やけに引っかかった。
僕は、その場でUSBのラベルを確認した。
手書きの文字で、「K-Last」と書かれていた。
「なんか縁起でもない名前ですね」
「そう? 俺のラストメッセージってことにしとこうかなって」
神林は、冗談とも本気ともつかない声で言った。
「でも、まだ全部は書いてない。
途中までだから、勝手に読んじゃダメだよ。
最後まで書き終わったら、“読んでいいよ”って連絡するから」
そう言って、にやりと笑った。
──結局、その連絡が来ることはなかった。
◇
記憶を辿りながら、僕は愕然としていた。
あの夜、USBを預かったあと、
僕はバッグの内ポケットにそれをしまい、
そのまま編集部に立ち寄って、原稿のコピーを取り、
深夜に自宅へ帰った。
翌日、神林は「自殺」した。
彼の計画がどこまで進んでいたのか、
僕はそのとき、何も知らなかった。
だが、USB内のメモによれば、
「計画の最終段階では、Mが動かなければならない」とある。
ならば、僕は、
「何もしなかった」ことで、
彼の計画を未完のまま終わらせてしまったことになる。
それとも──。
ここで、ふと、別の可能性が頭をよぎる。
僕は「何もしなかった」のか?
本当に、そうだっただろうか。
あの夜の記憶を、さらに細かく巻き戻していく。
玄関を出る前に、神林が言った一言。
「あ、そうだ。薬、ちょっと見てくれない?」
その言葉とともに、
彼はリビングの棚から、茶色い小瓶を持ってきた。
「睡眠薬、種類が変わったんだけどさ。
前のと中身同じなのか、よくわかんなくて」
僕は、そのラベルを手に取って眺めた。
成分名が、やたらと長いアルファベットで書かれている。
「医者が出したなら、大丈夫じゃないですか」
「そうなんだけど、なんか気持ち悪くてさ。
ほら、例の“薬局のミス”もあったし」
僕は、軽く笑ってごまかした。
「そんなに心配なら、明日もう一回病院行きましょうよ。
付き添いますから」
「いや、いいよ。そこまでしてもらうほどじゃない」
そう言って、神林はテーブルの上に小瓶を置いた。
そのあと、僕はバッグを持って玄関に向かい、
ドアノブに手をかけたところで、振り返った。
「じゃあ、また連絡します」
「うん。
続きが書けたら、ね」
そのときの、どこか意味ありげな笑みを、
なぜあのとき深く考えなかったのか。
そして今、僕は気づいてしまった。
あの夜、帰り際のわずかな数分間。
僕は、薬の小瓶を手に取って、
ラベルをまじまじと眺めていた。
そのとき、僕は何を思ったのか。
何を考え、
何をしなかったのか。
そこに、僕自身の「虚像」がある。
終章 虚像の遺言
USBのファイルの末尾にあった一文。
「続きは、君が書け」
それは、単なる比喩ではなかった。
神林は、本気で僕に「続きを書かせよう」としていたのだろう。
彼は、自分の死を巡って三つの物語を用意した。
一つは、世間に向けた「自殺」の物語。
一つは、USBに記された「計画」の物語。
そして最後に、
それらを照らし合わせることでしか見えない「編集者の物語」。
それが、この十年間、
彼の背後に寄り添っていた僕自身の物語だ。
僕は、机の上に広げたメモを見下ろした。
一 首に残った圧迫痕は、本当に「吊った」ものか
二 致命傷は別に用意されていた可能性がある
三 睡眠薬の小瓶
四 盗作騒ぎと脅迫メールは「動機」として利用されている
五 USBは、僕の手元にあった
六 計画の最終段階には、僕が必要だった
ここまで、論理的に積み上げてきたはずなのに、
最後の一歩を踏み出そうとすると、
足がすくんでしまう。
僕は、神林の書斎の椅子に座り直し、
ノートパソコンの新規ファイルを開いた。
タイトル欄に、
「虚像の遺言」と打ち込む。
そして、一行目にこう書いた。
「これは、担当編集者である僕自身の告白である」
その瞬間、
USBのファイルと現実の境界が、
わずかに揺らいだ気がした。
◇
僕は、すべてを書いた。
神林と出会った日のこと。
十年間にわたる仕事のこと。
盗作騒ぎの会議。
睡眠薬の不信。
脅迫メールの話。
そして、あの夜のことも。
玄関を出る前に、神林が見せた、小さなためらい。
彼は、薬の小瓶を手に取り、
短くため息をついた。
「これ、本当に効くのかな」
僕は、何と答えただろうか。
「効きすぎるかもしれませんね」
軽口のつもりで言った、その一言。
だが、今になって思えば、
その言葉には、別の意味を背負わせることもできた。
もし、あのとき僕が、
薬局に連絡しようと言い出していたら。
もし、「明日一緒に病院へ行きましょう」と強く勧めていたら。
何かが変わっていたのかもしれない。
だが僕は、
「締め切り」と「スケジュール」と「仕事の都合」を優先した。
作家の体調よりも、
原稿の納品を優先してしまった。
それは、編集者としては日常の判断かもしれない。
だが、神林はそこに「物語の種」を見つけたのだろう。
人は、何もしなかったことで、人を殺すこともできる。
それを、彼は誰よりよく知っていた。
◇
僕は、新しいファイルに、自分の名前を書いた。
名前を伏せてもよかった。
選考委員たちは、作品だけを読む。
作者の素性は、一次選考の段階では伏せられることが多い。
だが、これは単なるコンテスト応募原稿ではない。
神林が残した「虚像の遺言」に、
僕が書き足した「現実の遺言」でもある。
だからこそ、
そこから目をそらすことはできなかった。
僕は、最後の一文を書き終え、
ゆっくりと深呼吸をした。
「以上が、僕自身の物語である」
保存ボタンを押すと、
パソコンの中に、新しいファイルが生まれた。
神林のUSBに入っていた未完成の「虚像の遺言」と、
今僕が書き上げた「虚像の遺言」が、
同じフォルダの中に並んでいる。
その二つの間には、
かすかな違いがある。
一方は、作家の視点から見た編集者の虚像。
もう一方は、編集者自身がようやく認めた、自分の虚像。
二つ合わせて、初めて一つの「遺言」が完成する。
◇
翌朝、僕は編集部に出社すると、
コンテスト応募用のメールフォームを開いた。
東野圭吾賞・短編部門。
必要事項を埋めていく。
タイトル 虚像の遺言
作者名 (本名)
略歴 出版社勤務。ミステリー編集を担当。
手は、少し震えていた。
だが、途中で止めようとは思わなかった。
原稿ファイルを添付し、
送信ボタンにカーソルを合わせる。
その瞬間、
ふと、あのUSBのラベルが頭に浮かんだ。
K-Last。
それは、神林隆臣の「最後の物語」であると同時に、
僕自身の「最初の物語」でもあるのかもしれない。
そう思ったとき、
少しだけ、肩の力が抜けた。
僕は、送信ボタンを押した。
◇
数週間後、選考委員たちは、
一通の短編原稿を読むことになるだろう。
そこに書かれているのは、
人気作家の不審な死と、
USBに残された謎のファイルを巡る物語だ。
彼らは、それを「ミステリー」として読む。
トリックの精度を測り、
構成の巧みさを評価し、
人物描写の深さを語るだろう。
だが、その誰もが知らない。
それが、実際にあった出来事に基づく「遺言」であることを。
そして、
原稿の最後の一行に記された名前が、
十年間、神林隆臣の影として生きてきた編集者だということを。
物語は、時に人を救い、
時に人を追い詰める。
僕は、
そのどちらにも関わってきた。
だからこそ今度は、
自分自身の物語から逃げないことにしたのだ。
たとえ、その結末が、
どんな形であれ。
これは、虚像ではなく、
僕自身の、ささやかな遺言である。
了




