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黄昏の秋桜  作者: 蒼野 壮太


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16/23

16.夏休みと語りきれない思い または初恋の香り

 夏休みに入った。

 また、眠れない夜が訪れる。

 シンセサイザーのキーボードにすら、あの人の面影が見えてしまう。沢田から自分を見つめ直せと言われたが、どうしてもあの人の事ばかりが頭に浮かんでしまう。あの人の僕への態度の振り幅が大きすぎて、やっぱり真意がわからなくなる。

 ダイエット、習い事、半分ずつ食べたチーズケーキ、向かいの廊下での可愛い仕草、あいあい傘、さようなら、じゃあね、いい子だね、嬉しいよ、挫折、ストーカーなの?、尾行はやめようね、たまには君の方を見てあげるよ・・・なにか法則があるのだろうかと書き出してみる。しかし、全く一貫性がないことに気づくだけだ。僕には興味がないという考えたくない解答が出てくるだけだ。

 眠れない夜が明け始め、遠くの漁港から「ぽんぽんぽんぽん」と漁船の音がかすかに響いてくる。この音が聞こえると、なぜかほっとする。夜が明ければ、あの人も目を覚まし、夢の向こうから、また僕のいる世界に戻ってくる気がするから。

 外の空気を吸いたくなって、家の周りを走ってみる。いつのまにか、家の周りどころか北の川あたりまで来ていて、いつもどおり惨めな気持ちを背負って復路を走る。夏の朝の空気は湿り気を帯びていて肺の中にまで水が溜まってきそうな気がする。僕はあの人への思いに溺れ、呼吸ができなくなる。


 苦しい夏が終わり、新学期が始まった。あの人の横顔を見ることができるだけでも、夏休みよりはずっとましだ。

 風が少しずつ涼しくなり、10月の半ばになった。沢田と二人、珍しく放課後の図書室に行ってみた。独特の本の匂い。カビ臭いような、それでいて落ち着く匂い。話し声が殆ど聞こえない中で、本を選ぶために書棚を移動する控えめな足音。ページをめくる音。

 思った以上に生徒がいる。僕は、つい赤いスカーフのあの人を探してしまう。

 あの人はどんな本を読むのだろうか?

 なにげなく書棚からヘルマン・ヘッセの『春の嵐』を手に取って、きっと、誰もが同じことをするように、まず貸出カードを確認してみる。

 偶然か、運命か。そこには2−A 川野秋花という名前が記されてあった。日付を見ると、去年の5月にあの人が借りたらしい。その字は、癖もなく、丸っこくもない。

 あの人の自筆かな。そうだとすると、きれいな字を書くんだな。

「ヘッセといえば、『車輪の下』だよな」

 沢田が、僕が手に持った本の作者名を見て、話しかけてきた。

「それは、推薦図書だったからだよね。そもそもヘッセの他の作品は知らないでしょ?」

「河合。俺を見くびりすぎだ。『少年の日の思い出』だって知ってる」

「中学1年のときに国語の教科書に載ってたよね」

「河合さ。俺が自発的に純文学なんて読むように見えるか?」

「純文学どころか、マンガ以外の活字本は全く読まないように見えるよ」

 僕は、季節は秋だというのに貸出カードに惹かれて『春の嵐』を借りることにした。あの人と僕の名前が並んで載ることになるのだ。「この本を借りたいんですが」と言って生徒手帳といっしょに図書委員へ差し出す。貸出カードには図書委員が生徒手帳から名前を転記していた。

 なんだよ・・・自筆じゃなかったのか。

 と、その時、開けられた図書室の窓の向こうからキンモクセイの香りがした。

 甘く、懐かしさを感じさせる香りだ。

「この時期って、いい匂いがするよな」

 沢田もキンモクセイの香りを嗅ぎ分けたようだ。

 香りは記憶に結びつくことが多い。多くの人と同様に僕はそれを経験上知っている。

 来年、キンモクセイの香りがした時。

 あの人への思いに押しつぶされそうになった今年の夏を思い出すのだろうか?

 あの人の名前が記された貸出カードを思い出すのだろうか?

 沢田との、なんてことのない会話の中に隠したあの人への感情を思い出すのだろうか?


 そして、あの人への思いが語りきれないほどに蓄積されて、季節がめぐるたびに、二度と戻れない日々として、僕の心をざわつかせることになるのだろうか?

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