鎖の始まり
ルムカが追う剣の師、ウェリオは既に森へと着いていた。ロドソスの裏手は広大な森があり、更に奥には国境である険しい山脈が連なっている。今回、街を襲った赤竜はこの山脈の方角から来たと報告があった。
竜種は知性を兼ね備えた生き物だ。俯瞰的に物事を考える能力がある。つまり人間の視点も理解できる。今現在確認されている竜は進んで人と関わることはないが、稀に接触を図ることがあった。そうした場合、竜は自ら赴くことなく使者として眷属を遣わすことが慣例であった。眷属の種は様々だが、小型の翼竜を始め翼を持つ魔獣が多い傾向にある。
「眷属はいないか……」
街までの道中にそれらしき影は見えなかった。ウェリオは森の入り口付近で騎獣から降り、辺りの気配を探るが何の異変も感じられない。そのことがかえってウェリオの抱く疑念に拍車をかけていた。実際のところ、竜が街を襲ったという時点で異常であることは確定的である。好戦的な竜も中にはいるようだが、竜にとって人間は矮小で脆弱な生き物であり、そういったものに対し無差別な殺戮を楽しむようなことはしない。過去には竜の怒りを買ったがために滅んだ国はあるが、今の時代そのような事例は起こっていない。賢君忠臣の揃ったアルロ国で竜と争い事を起こすなどまず有り得ない。少なくとも、このロドソス含むエスパル領を治める現エスパル公爵家当主オルセムがそのような愚行を許すはずもない。そうして考えを巡らすウェリオの元に、伝令の使役鳥が文を携え飛んできた。使役鳥の足元にあるカプセルにはエスパル公爵家の紋が刻まれている。取り出した文の内容にウェリオは眉をひそめる。
「瘴気の気配ありだと?」
にわかには信じがたい情報、そして差出人が次期当主ロランからであり、ウェリオは文を持ったまま逡巡する。調査せよという指示に素直に従うべきか、現当主であり旧友でもあるオルセムに確認を取るべきか。しかし悩む間もなく、またしても何者かがやって来た。気配の察知に優れているウェリオだが、あまりにも気付くのが遅かった。相当の手練れかと、すぐさま腰の剣へと手を伸ばしたウェリオだったが、足元を見て即座に警戒が緩んだ。
「何だ……こいつは……」
それは銀茶の斑な毛をした獣だった。剣聖で名の知れるウェリオはエスパル騎士団の副団長として数々の討伐を経験してきた。騎士団以外でも個別に討伐依頼を任されることのあるウェリオは魔獣の知識に関しては一線を画す。そんな彼をもってしても、この獣は一度も見たことがなかった。知性の欠片も感じられない面構えのせいで、竜や瘴気といった考え事が一瞬吹き飛んでしまいそうになった。ウェリオが接近に気付くのが遅れたのも、この獣が殺気どころか初対面のはずのウェリオに警戒心すら抱いていないせいだろう。野生の獣としてあるまじきことだ。改めてこの獣は何なのだと別の理由で頭を悩ますウェリオの元に、今度は二頭のサーブが走り寄って来ていた。
「ウェリオ様!」
「……ん?おお、ルムカとミストルか。お前達は団長に頼まれて来た口だろ」
「ええ、手伝えること…………それは犬ですか?」
「咥えているのは、骨か?」
始めにミストルが、次いでルムカも獣の存在に気付いた。ウェリオは弟子二人の様子からして自身同様、獣について知らないであろうことに密かに安堵した。
三人の視線を一身に受ける獣は、懸命に小さな頭を使い考えようとした。しかし考える前に閃き、ある答えを導き出した獣は酷く落ち込んだ様子で咥えていた骨をそっと地面に置いて三人を見上げた。獣は肉が好きだった。肉の味がする骨も大好きだった。三人はこの骨を欲しているのだと、獣は信じて疑わなかった。
差し出された骨を見つめ固まっていた三人だったが、逸早く我に返ったルムカが骨を拾い上げ、獣の口元に差し出した。
「俺達には必要ない。この骨はお前の物だ」
獣は尻尾を振り回し涎を垂らしながら差し出された骨を受け取った。獣はお気に入りの骨を返してくれた三人に感謝を示すように周りを飛び跳ね駆け回った。ウェリオが終始難しい顔しながら眺める傍ら、ミストルは連れ帰りたい衝動に襲われていた。駆け回っているうちに忘れかけた自分以外の存在を思い出し、獣は最後に三人を見上げると潰れたような鳴き声で短く鳴いた。それは獣なりの別れの挨拶であったようで、嬉しそうに森の中へと駆けて行った。
「不思議な気配の獣だったな」
「あの犬モドキは野生のものなんでしょうか。ウェリオ様はご存じですか?」
「知らんな、初めて見た。何かの変異種か新種か」
「ウェリオ様でもご存じないとは…………えっと、何でしたっけ?そうだ眷属がいないか確認しに来たんでした」
珍客に目的を見失いそうになっていたが、後方から聞こえた騎獣の嘶きでミストルが思い出す。
「俺も道中探ったが眷属の方は恐らく心配ない。ルムカ、家から何か連絡はあったか」
「いえ……ウェリオ様の元に何か届いたのですね」
「あぁ、ロランからな」
「兄上から?」
この二人はどう捉えるのかと、ウェリオはロランから届いた文の内容を話した。少しは悩むだろうかというウェリオの予想は外れ、間を置かずルムカは問題なしと答えた。
「兄上は頭の切れる方だ。俺達の動向も知っているし、ウェリオ様伝手に情報を得る事も織り込み済みのはずだ」
「私達に知られたくなければ別の方に頼むんじゃないですかね」
「……それもそうだな」
ルムカとロランの兄弟仲は良いとは言えないが、相手を侮っているわけではなく一定の信頼はあることが伺える。それは傍で長年兄弟を見て来たミストルも同様であった。そうして浮かび上がる問題は、何故現当主を差し置いて次期当主から連絡が送られてきたのか。文に該当する理由は何1つ添えられていなかった。
「お前の親父が気になるとこだが、まずは瘴気のほうだな。事実ならとんでもないことだ」
「僕達が生まれる前に全て浄化し終わったはずでは?」
「当時の事情は団長なら知っているだろうが……とりあえず瘴気の確認が先だ。本当にあれば、だがな」
街道と森の境には防魔柵に加え結界が張り巡らされており、一定の地位と強さを持つ者でなければ入ることを許されない。ウェリオを先導に三人は何からも拒まれることなく森の中へと足を踏み入れた。
「記憶にはないだろうが、お前達は瘴気に触れたことはあるんだったな」
「赤子の時に、とは聞いてますけど」
「あぁ、死にかけたらしいな。結局何が原因だったか未だに知らんが」
「オルセムめ……親バカも考え物だな。ミストルが知らんのもどうせオルセムが口止めしてるんだろう」
「ウェリオ様はご存じなんですね」
「俺もその場にいたからな。すまんが俺から話す気はない。まぁなんだ、瘴気に触れたことがあるなら体が覚えてるもんだ」
知りたいと目で訴える二人に対し、ウェリオはその気は全くないと話を打ち切った。長年の付き合いで彼がどういう性格かを知っているため二人も早々に諦めた。森の奥へと進んで行くにつれ、昼間だというのに徐々に明かりが届かなくなっていくような不気味な暗さが広がっていた。
「嫌な感じですね……もしかしてこれが、」
瘴気の気配だろうかと、ミストルがウェリオに声を掛けようとした時だった。瞬く間にウェリオは懐から剣を引き抜き厳戒態勢を取っていた。驚きながらも同じように警戒するルムカとミストルだったが、彼の視線の先を確認し更に驚いた。
「犬モドキ!」
ミストルの小さくも悲痛な悲鳴が上がる。三人の視線の先には、つい先程別ればかりの獣が黒い靄を発する何かに頭を飲み込まれている最中であった。もう助かることはないだろう獣に駆け寄ろうとしたミストルを押さえるルムカだったが、想像した展開とはならず思わず力が抜けてしまう。
「瘴気を吸い取った……のか……?」
頭を飲み込まれたかと思いきや、逆に獣が瘴気を食らうかのように口元へと吸収されていった。気付けば不気味な暗さは霧散しており、むしろ清浄さすら感じる空気に三人は戸惑うしかなかった。瘴気は消え去ったが発生源らしきものは見当たらず、獣は苦しむ様子もなく盛大なゲップをかまし満足げだ。
「犬モドキ!本当に大丈夫なんですか?」
「おい、ミストルお前……はぁ」
誰よりも獣を心配していたミストルはたまらずと駆け出し、獣を抱き上げていた。獣は抱き上げられてやっと人の存在に気付いた。しかし先程のことは既に忘れかけていた。首を傾げる獣の口元には、やはりお気に入りであろう骨がある。
「ウェリオ様、あの骨」
「あぁ、一瞬だったが精霊文字が浮かんでいた。骨が遺物だと?どうなってやがる」
あの獣はいよいよ何なのだと疑問ばかりが増えていく。どうしたものかと考えるウェリオの隣で、ルムカは無意識に左耳にあるピアスを指で弄りながら数年前のことを思い出していた。何もかもが疑問まみれで、今まで築き上げてきた常識が何も通用しないあの森での出来事。今の状況と紐づくことはないはずなのに、ルムカはある予感を抱いていた。
「わはは!くすぐったいですよ。君が食べるようなものは隠していませんよ」
警戒心がまるでない獣は、自身を抱き上げるミストルの胸元に鼻先を押し当てて執拗に匂いを嗅いでいるようだった。それを眺めていたルムカは、ピアスを弄っていた手を止めた。
「ミストル、お前は確かペンダントにしたんだったな」
「え?あぁ、アレのことですか」
ピアスに触れるルムカを見たミストルは、答えるように胸元からペンダントを取り出した。繊細な銀のチェーンの先には、ルムカのピアスと同じ飴色の石が装飾されたペンダントトップの中央にあった。何故か揃いの色石を見せ合う弟子にこの状況下で何をしているか問おうとしたウェリオだったが、突然獣が激しく反応しだした。
「うわっ!急にどうしたんです?抱き上げられるの嫌だったかな」
「違う、蜜だ。その獣は恐らく蜜に反応している」
「蜜?一体何のことだ」
しょぼくれながら獣を地面に下ろすミストルだったが、ルムカの言う通り獣の視線――常に焦点が合っていないせいでどこを見ているか定かでないが――はそのペンダントトップへと向けられているようだった。試しにミストルがペンダントトップを摘まんで動かすと、獣の頭がそれを追うように動いている。ミストルと獣のやり取りを眺めながら、ルムカはウェリオに問う。
「ウェリオ様、数年前俺達が行方不明になっていた時のことはどこまで聞いていますか」
「何だ突然……奴隷業者に誘拐されたが自力で逃げ出し、遠方だったため数ヵ月冒険業をしながら路銀を稼ぎ旅の末に帰って来たと聞いたが」
「間違ってはいないが、言っていないこともあります」
この先は他言無用であるとルムカはウェリオに目を移すが、言わずとも伝わっているようだった。
「俺達を攫った者は未だに不明です。そもそも攫われた記憶すらありません。一番の問題は俺達が目を覚ました場所が不帰の森であったことです」
「何だと……」
「あの森に俺達の他にもう一人いました」
「禁足地にか」
「はい。おそらく人間ではありません。彼女、いや彼なのか……アイツは自分のことを管理者と言っていました」
言い切ったルムカに対し、ウェリオは目を見開いた。ウェリオは剣聖という立場から、禁足地の事情について特別に王家から教えを受けていた。ルムカは森から帰還した後に、とある筋から“森の管理者”とはどういうものなのかを知るに至った。
「そのピアス、不思議な気配がするとは思っていたが……まさか貰ったのか」
「はい。不帰の森で“妖精王”に貰い受けました」




