第十六話 微睡みの龍と目醒めの龍
『父さん』
【嵐帝龍】シュトルムと呼ばれていた龍は、深い様で浅い…微睡みの中を漂っていた。
その度に現れるのは、ひとりの白龍……名を、レーヴェンという彼の子供。
既に死んでしまった、大事な息子。
『(これは、夢だ……)』
分かっている。我が子が息絶えるその瞬間を目の当たりにしたのだから。今自分に声を掛けてくるレーヴェンは、自分が見ている幻想に過ぎないのだと───
『あなた』
シュトルムは言葉を、呼吸を詰まらせた。レーヴェンに似た、白い雌の龍。名を……
『フィオー……レ…………?』
ずっと昔に喪った、最愛の妻。その最期は…今もなお鮮明に記憶している。
今まで夢の中で彼女の姿が出てきた事など、一度もなかった。何故、急にフィオーレが現れたのだろうか。
『は…はは……なんと、都合のいい夢か……我も、落ちぶれたか』
喪ったものの幻想など浮かべても、なんの意味もないのに。それでも姿を、声を、名を…浮かべてしまう。大事で大事で仕方なかった存在達だから。
……目を逸らすべきだ。今までの夢とは、明らかに訳が違う。その言葉を…存在を、幻であれど受け入れてしまえば、自分は……
『父さん、どうしたの? 早く家に帰ろ?』
『……何を、言って……我は、我にはまだ…やらねばならぬ事が───』
『それは』
シュトルムの言葉を遮る様に、フィオーレは言葉を重ねながらシュトルムの元にずいっと寄ってくる。
来るな。お前はフィオーレではない。
そう言えばいい。言えば……いいのに。
『それは…私達家族を放り出してでもやらねばならないのですか?』
『ぁ……ちが』
『なら、もう行きましょう? 貴方はよく頑張りました。【嵐帝龍】としての務めを、最後まで果たしたでしょう。……もう、いいのです』
言葉が出ない。彼女の言葉に、納得してはいけない。
だが……シュトルムはもう限界であった。例え幻であろうと、既にこの世にいない存在であろうと、愛する妻に縋りたくなる程に追い込まれていたのだから。
『いい…のか……? 我は…楽な道へ……逃げても……』
『ええ。いいのです。それに見合う苦しみも、貴方は沢山味わった……一度くらい逃げたって、バチは当たりません』
聖母の様に、優しさと慈愛に満ち溢れた声と表情で歩み寄ったフィオーレは、逃げ道へとシュトルムを誘う。
対してシュトルムは残った片目から涙を零しながら、フィオーレを翼で抱き寄せ、彼女の口許に自分の口先を重ねる。
『……フィオーレ……ずっと…お前に会いたかった…!』
シュトルムは理解する。
先の人間の襲撃も。レーヴェンとフィオーレの死も。全て、自分の悪い夢だったのだと。
妻は今もなお生きていて、息子は立派な龍に成長し、自らの領土である森が人間に侵される事などなく、穏やかなまま。
全てを失う事など、ない。
全部、ただの悪夢だったのだ───
『(そうだ……あれは全て、夢だ。…夢なのだ……)』
誇りも、生きる目的も…何もかもを失い、またそれを自覚する事を放棄した黒龍は、さらに深い幸福の夢の中へ沈んでいく。
───その様子を、シュトルムが作り出した幻想である筈の仔龍が、悲しそうに目を細めながら見据えていた。
広大な森に建てられた、無数の建物。その中でも城に見紛う程巨大な研究施設。およそ半年前まではなかった代物だ。
その長々しい廊下を、白い衣服で統一した初老の男が早足で歩いている。
彼の名はファルコという、研究者である。
かつて【嵐帝龍】シュトルムが治めていたこの森の資源の研究・解明……そして龍脈への干渉方法を探るのが主な仕事である。
しかし、彼が現在研究を急いでいる存在が別にいた。
それが、今現在ファルコが立つ部屋の、扉の先にいる。
「……おい、まだ解明できないのか」
扉を開き、薄らと明かりが着いた仄暗いその部屋の真ん中にいた“ソレ”。
純白の体毛と四肢に漆黒の鱗を持つ龍は天井から鉄線で吊るされている。
【嵐帝龍】シュトルムの息子───名をレーヴェンという龍の亡骸。
だが、その死体は…………
「申し訳ありません、ファルコ様。この龍の死体が、今もなお修復し続ける原理は、未だ不明なままで……」
レーヴェンは既に死亡している。呼吸も、血流も、何もかも停止し、そして今後永劫に再開する事はない。
…………その筈、だったのだ。
レーヴェンの死体は今もなお、緩やかに……だが異様な速度で修復されている。
この半年でかっ開かれた首の傷は完全に塞がり、あろう事か欠損した筈の左前肢の部分には新しい腕が生えていた。
それに気付いたファルコを筆頭とした研究者達がこぞって解析を始めたものの、未だ解明できずにいる。
「(この龍に秘める力を解き明かせば、歴史的な発見となるだろう。……そうなれば、私の名も世に轟くというもの…!)」
非常に傲慢で強欲な彼は、自分が見出した成果で成り上がる事しか頭にない。
そんな、一躍有名となった自分の姿を思い浮かべながらレーヴェンの亡骸への解析を続ける中、扉を叩く音が鳴る。
「すまない、失礼する」
入ってきたのは、海藻の様にうねった前髪を持つ茶髪の男。鎧甲冑を纏い、腰に剣を携えている事から騎士であると窺える。
「これはこれはヴァッシュ殿。見回りですかな?」
「ええ」
ヴァッシュ、と呼ばれた男は少々疲れた様子でそうだと答える。
この広大な研究施設はシュヴァリア帝国において重要な施設である事に相違ない。故に多くの騎士が巡回や見張りを行い、時に感知魔法を利用しては施設と研究者達を守る任を持つ。
その中でもヴァッシュはこの施設に就く騎士達の筆頭……団長と言っても過言ではない立場におり、またそれ相応の実力も兼ねている。
ファルコとヴァッシュ。この二人はいわゆる腐れ縁の仲にあり、この施設が数ヶ月で完成し、互いに赴任してからというもの、定期的に会って話し合ったりする程度には仲がよかった。
故に、誰も気付かなかった。
レーヴェンの亡骸の…………右前肢の指が微かに動いた事に。
「今夜は暇か、ファルコ。暇なら久し振りに飲んで───」
どさり。
大きく、重い何かが落ちる音が響く。全員が音の鳴った方を見た。
見ると、鉄線で吊るしていた白い龍……レーヴェンの亡骸が消えている。代わりに、レーヴェンの亡骸の真下には人間大の白い龍が横たわっていた。
「…………痛ったあ…!」
龍が痛がりながらも身を起こす。
龍の、四足歩行を前提とした骨格ではなく、明らかに人に近い……龍人と呼ばれる種族に類似する体付きの白龍は、ボリボリと後頭部を掻きながら上半身を起こした。
「ッッ!!」
突然の出来事であるが故に、誰もが混乱して硬直する最中、ひとりだけ動作に移れた者がいる。
ヴァッシュという騎士。
目にも止まらぬ速度で駆け出しながら鞘から剣を抜くと、真っ先に白龍人の首目掛けて振るう。
「(……コイツは、危険だ…! 今すぐ殺さねば……!!)」
人の域を外れた速度と鍛え抜かれた膂力から繰り出される斬撃は、白龍人の首から上を無抵抗のまま切り落と───
「いきなり」
───す事はなく……龍人の掌から形成された光の剣が難なく受け止めてしまった。
「斬り掛かんないでよ。危ないな」
余裕坦々といった様子の龍人は、剣を受け止める腕に軽く力を込めて押し返す。…………のだが、単純な膂力の差か。ヴァッシュの踏ん張りも虚しく彼の身体は真っ直ぐ吹っ飛び、何人かの研究員を巻き込みながら壁に激突する。
その勢いと衝撃がどれ程凄まじいのかを物語る様に、ヴァッシュが激突した壁には放射状の亀裂が走り、彼自身は壁にめり込んでいた。
「……ごめん。そこまでぶっ飛ばす気はなかったんだ」
対して龍人の方は、申し訳なさそうな表情を浮かべながらそう言う。
ヴァッシュは戦慄する。中途半端な手加減でこれ。すなわち、殺そうと思えば殺せていたという事。
壁から這い出ると、改めて剣を握り直す中、件の龍人は顎に手を当てて何か思案している様に見えた。
「(そこまで力を込めてないのに、なんであんなに吹っ飛んだんだ……もしかして、身体能力はそのままなのかな。それとも無意識に強化しちゃってたのか)」
「貴様、何者だ! 【嵐帝龍】の子供の死骸はどこへやった!」
突然大声でそう問われ、白龍も驚きながらヴァッシュの方を見る。ヴァッシュの方も白龍から目を離さない様にしつつ、手に持つ剣の切っ先を向けてきて、白龍もその敵意から戦闘が避けられない事を悟る。
「【嵐帝龍】の子供……ああそれ、僕の事?」
「…………は?」
その場の誰もが困惑を隠せない。
シュトルムの子供───レーヴェンは龍族の姿を持つ。目の前にいる白龍は、誰がどう見ても龍人の姿だ。そんな様子を気にも留めず、白い龍人は続けた。
「僕は【嵐帝龍】シュトルムのひとり息子…………レーヴェンだよ」
今、この瞬間。
生命の全てを司る龍が、目を覚ました。