第十二話 龍脈の主
身体の感覚がひどく朧気だ。
同時に自分の全てが、深い深い海の底に沈んでいくような感覚が、レーヴェンを襲う。
ふと、レーヴェンは思う。何故、自分には未だ意識があるのだろうか。
首を切り裂かれ、腕を落とされ……出血多量で死んだ筈であるというのに……
だが、意識がハッキリしない。あるのかないのかすら、今のレーヴェンには一切分からない。
やがて、身体……あるいは意識が何かに着地する様な感覚を覚える。それを自覚した途端、己の意識が急速に浮上する。
『こ…こは……?』
レーヴェンは目を開く。何故身体が動くのかはさておき、目に映った光景に顔を顰める。
黒い……否、白い……否、赤、青、黄、緑……絶え間なく色が移り変わり…決まった色を持たぬ、巨大な鱗らしき物があった。
『……なに、これ』
『おぉ〜、なんともまあめんこい龍じゃのぉ〜』
腹の底に響く低い声。周囲に木霊するその声がどこから聞こえてきたのか分からず、レーヴェンは周囲を見渡すと、自分に影が差した事に気付き、上を見上げる。
───そこには、巨大な龍の頭。四つの眼が、じいっとこちらを見つめている。
ただ、その大きさはレーヴェンの体躯の何倍も……否、何百、何千倍と巨大で……
『え……あ……?』
『むっ、そう怯えるな。儂ゃあ別に、お前さんを取って食ったりせんぞぅ?』
『せ、説得力……』
『考えてみるといい。お前さんみたいなちっこい龍を食ったとて、儂の腹の足しにもならんだろう〜?』
『…………たしかに』
見た目とは裏腹に、かなりフレンドリーな態度で話してきて、レーヴェンも思わず拍子抜けしてしまう。
思い返すと、目の前の龍と思わしき巨獣からは敵意の念が全くない。それを自覚した時、レーヴェンはようやく警戒を緩めた。
『ようやく気を抜いてくれたのぉ。…して、お前さんはどうやってここに来たのだ?』
『どうやって……と言われても…気付いたら、ここに』
『成る程のぉ……しっかしお前さん、不思議な魂じゃの〜。人間と龍。ふたつの側面を有する魂など、今まで見た事もない』
突然、目の前の巨龍が核心を突いてきて、レーヴェンの身体は大きく跳ねる。
父…シュトルムにも打ち明ける事はなかった、レーヴェン自身の前世。探り気は無かったのだとしても、まさか一発で見抜かれるとは思ってもみなかった。
見ず知らずの龍に話すのは気が引けるが……レーヴェンは自身の正体についてを明かした。
前世は人間で、登山中の崖崩れに巻き込まれて命を落とし、そして気付けばこの世界で龍として生まれてきた事を。
『ほほぅ。お前さんの気配でもしやとは思っておったが、矢張りシュトルムの血縁だったか』
『父さんを知ってるんですか…?』
『知ってるも何も、シュトルム含めた“帝”の名を冠する龍は皆、儂の兄弟みたいなものじゃよ。……ま、皆儂の事など覚えとらんだろうが』
レーヴェンの事情を聞いた巨龍は、関心するような声と共にそう言う。レーヴェンは知る由もなかった訳だが、シュトルムとはだいぶ深い関係性らしい。
『ああ、そういえば儂は名乗っとらんかったな。我が名は【地脈龍】バハムート。この龍脈を支配・制御を担う者である』
『龍脈の制御…? それって父さん達の役割なんじゃ……』
『はっはっはっ。レーヴェンよ、お前さんは己が目の届くもの全てに…ひとりで対応する事ができると思うかね?』
レーヴェンが彼の持つ役割についてを聞いた際に抱いた疑問を口にすると、微笑みながらバハムートは問う。
突然質問された事でレーヴェンは硬直するも、すぐさま無理だ、と答えた。
『その通り。誰しもが目に映る全てにひとりで対応する事など不可能。それと要領は全く同じなのだよ。特に、地表に近い龍脈はな』
『地表に近い……もしかして、そこを父さん達“帝”の龍が調整して……?』
『物分りが早くて助かるわい。シュトルムも随分いい子に育て上げた様じゃのう』
バハムートの持つ力は世界全土の龍脈の管理。
しかしバハムートと言えど、血管の如く枝分かれをする龍脈全てを干渉する事などできやしない。
故にシュトルムを始めとした“帝”の名を持つ龍達が、バハムートの手が届かない場所を補う形で龍脈を調整しているのである。
『……あれ。そう言えば、どうして僕は龍脈に干渉できたんだろう』
『? どういう事かね?』
『実は僕、龍脈に干渉できるんです。理由は分からないですけど……』
その言葉を聞いたバハムートははて…? と言いたげに視線を左右し、首を傾げ始めると、思い当たる節があった様で目を見開いてはレーヴェンへとその巨大な顔を寄せる。
『ああ…もしやシュトルムの管轄で珍しく雑に調整しようとする気配があったが……それはお前さんだったのか』
『それはホントすみません』
『よいよい。そも、一朝一夕にはできんからのぉ。……話を戻そう。お前さんが龍脈に触れる事ができるのはな、シュトルムの血縁である事も理由のひとつだが、大部分は“権能”を有している事が大きいだろう』
バハムートの口から出てきた、聞き覚えのない言葉……“権能”。
バハムートは続ける。
曰く、それはこの世界から直接賜る、何かしらの概念を能力化したものである。
曰く、それは魔力とは似て非なる莫大な力が流れており、権能を有する者は皆、超人じみた身体能力を持つ。
曰く、それは権能以外の力…魔法等によって権能が引き起こす概念を打ち消す事は叶わない。干渉が叶うのは、権能のみである。
曰く、それは世界の魔力の流れにすら影響を及ぼし、龍脈にすら干渉する。
『儂も権能を有しておってな。決まった名称は持たんが、敢えて名付けるのなら【龍脈の権能】とでも呼ぶべきか。龍脈そのものの管理・維持を司るものである』
『じゃあ……僕は?』
『お前さんの話を聞く限り、おそらくは生命力…あるいはそれに準ずる“何か”に触れ、操るもののようじゃな。どうやらお前さんは、無意識下で権能の全てを引き出す事を渋り、自身の限界を決めてしまっておるやもしれん。敢えて呼ぶのなら……【生命の権能】か』
『【生命の権能】……』
自身の持つ力の由来をようやく知り、レーヴェンは安堵するも、すぐに暗い表情となり、下を向いた。
レーヴェンの心境を知らぬバハムートは、突然暗くなってしまったレーヴェンの様子にオロオロとしながら顔を覗かせる。
『…なんだよ…それ……』
レーヴェンは泣いていた。
後悔の感情が涙という形でポロポロと溢れ出てきていて……いつしかレーヴェンは力無く座り込んでしまった。
『この力を…ちゃんと使いこなせてたら……僕がもっと…強かったら……森も、父さんも……守れたじゃないか。僕が死ぬ事だって…なかったじゃないか…!!』
レーヴェンは既に死んでいる。
───死んでからこの力の正体を知ったのでは、遅すぎる。森は焼かれ、レーヴェンからの視点で父の生死は分からぬが……それでも、レーヴェンにもっと実力があれば、生まれ育った美しい森が人間に侵される事はなかった筈だ。
先のレーヴェンからの話を思い出したバハムートは申し訳なさそうに目頭を吊り下げると、何やら目を閉じる。
『…………これは』
数秒間目を閉じていたバハムートはゆっくり目を開くと、穏やかな顔でレーヴェンの方に向き直ると、その大きな口を開いた。
『レーヴェン。まだ希望はあるぞ』
バハムートは告げる。まだ絶望するには早いと。
その言葉の意味も、真意も理解出来ずにいたレーヴェンは首を傾げる中、バハムートは続ける。
『お前さんの身体は、まだ死んでいない』
『なに…言って……』
『そのままの意味だ。龍脈を通してお前さんの身体を確認してきたのだ。見た所、外傷も酷く心臓の鼓動も呼吸も、全て止まっていた。……だが、それだけだった』
レーヴェンは憤慨しそうだった。
そんな状態で生きている、と言うのは無理がある。そう言いたかったのに、バハムートの言葉に耳を傾けていた。一抹の希望に、縋りたい気持ちがあったからだ。
『本来生命……魂を失った肉体はその時点で腐敗を始める。同時に、魂もまた自我や記憶を失い、“魂魄循環の機構”に則って新たな肉体を得る。……だが、お前さんの身体にはその兆候が見られなかった上、今も魂だけの身でありながら自意識がはっきりしておる。…おそらくだが、お前さんの【生命の権能】が、延命を施しておるのかもしれん』
『それは……つまり……』
『まだ可能性はある。……最も、お前さん自身が、己が権能を使いこなせねば、起きた瞬間に殺されるのがオチだ』
バハムートからの非常な現実を告げられ、希望を抱いていたレーヴェンは再び落ち込む。
余計な一言であった事をレーヴェンの様子で自覚したバハムートは焦った様子で口を開き……
『あ、案ずるでない! 儂が…儂がお前さんを鍛えてやる!』
『……え?』
どうして、と言いた気なレーヴェン。それもそうだ。会って間もない若い龍に、このバハムートという巨龍は気に掛けてくるのだろうか。
気を改め、真面目な表情を浮かべたバハムートは口を開いた。理由のひとつとして、先の失言に対するお詫び。そして……
『……シュトルムは儂の兄弟みたいなもの。そんな彼奴の子であるお前さんは、儂の甥っ子という事になる。……苦しむ甥を、気に掛けん叔父はおらんて』
バハムートにできる事は少ないかもしれない。それでも、最早顔を合わせる事すらできない兄弟達の内のひとりがこの世に生み出した、幼い子龍。
そんな子がひとり悩み、自分の進むべき道すら見出せずに苦しんでいる。
であるのなら……手を差し伸べて救い出さねば。
彼が頼れる数少ない味方として。
レーヴェンはバハムートからの提案を快く了承した。
この出来事こそが、近い将来……レーヴェンが【命廻龍】の肩書きと共に、世界全土の人間から恐れられる存在となる……その始まりであった。