4話 神獣アンキル
「――ファよ」
……?
「――ミルファよ」
誰かが呼んでいる。
でも、聞いたことがない声だ。
幻聴なのだろうか。だけど、それにしては……
「――そろそろ目覚めよ、ミルファよ」
やけにはっきりと聞こえる。
まるで直接頭の中に届けられているかのような、不思議な声だ。
だけど、その声を聴いていると、どこか安心感を覚える。
「……困ったな。手遅れになる前に連れてきたはずだったのだが」
目覚めよ、と言われても、今の自分にそのような気力など残っていない。
何日もの間、人目を忍んで飲まず食わずで歩き続けた。
満足に睡眠もとれない状況だったが、それでも寝れば少しマシになると思って大木に寄り掛かって眼を閉じたばかりなのだ。
だが、ここでミルファはある違和感に気が付いた。
「――あれっ?」
不思議と体が軽い。久しく忘れていた、ごく普通の体の状態なのだ。
よく見れば、体だけではなく服にこびりついていた汚れもきれいさっぱり消えている。
これは夢、なのだろうか。それとも死んでしまって、あの世へ来てしまったのか。
周囲を見渡すと、彼女は透き通った海の中のような奇妙な空間に立っていることに気づいた。
果ての見えない、幻想的な世界だ。
だが、美しさと同時に今にも消えてしまいそうな儚さも兼ね備えており、不安定で歪な場所であると感じた。
「ここはいったい……」
「我が作り出した主の精神世界だ。主の体が死の淵に面しているが故、このように歪な形となってしまったがな」
「ひゃっ!? お、おっきい――猫さん?」
「我の姿を見て猫と形容するとは、随分と余裕があるように見えるな。ミルファ・ヴェンディアよ」
「私の名前……どうして知っているんですか?」
「我の次なる契約者の名だ。知っていて当然だ」
その言葉を聞いて、ミルファは頭に疑問符を浮かべる。
ミルファの後ろに立っていたのは、ふさふさで真っ白な体毛を持つ巨大な獣だった。
どちらかと言えば虎や狼の方が例えるにふさわしい生き物だが、いずれにせよそれらとは比べ物にない迫力がある。
大きさ問わず可愛い生き物が大好きなミルファとしては、是非その体を触らせてほしいと言った欲が浮かび上がるが、今はそれどころではないので自嘲した。
「契約者、ですか?」
「まったく。せっかく指名したばかりの次なる契約者が、我の下へ来る前に勝手に死を迎えようとしていたので焦ったぞ。あの男の反応から察するに碌なことになっていないだろうと思い、念のため様子を見に来ておいて良かった」
「あの、ごめんなさい。私、状況が良く分かっていなくて……」
いったい彼は何を言っているのだろうか。
状況がちっとも理解できず、ミルファの頭は混乱する一方だった。
そんなミルファの様子を見て、巨大な獣は膝を折って正面からその鋭い視線を彼女へと向けた。
「そうだったな。まだ主は何も知らされておらなんだか」
「えっと、はい。ごめんなさい……」
「良い。ではまず、自己紹介から入ろうか」
ごくりと息を呑む。
いったい彼からどのような言葉が飛び出してくるのか。
ここ数日で最大限に高まった警戒心を隠すことなく待ち構える。
一呼吸おいて、獣はゆっくりと口を開いた。
「我が名は神獣アンキル。この国では守護獣とも呼ばれている存在だ。以後、覚えておくが良い」
「守護獣――アンキル様……って、ええっ!?」
守護獣。それは長きにわたってこの国に結界を貼り、外敵から護り続けた偉大なる獣。
アンキルという名前は、確かに伝承通りである。
この国に住まう人間ならば、誰もが彼を尊敬し、感謝すべき存在であり、万が一にもその名を騙るような真似をすれば処罰されること間違いなしだ。
だが、ミルファは直感的に分かった。この獣は嘘をついていない、と。
そう信じさせるだけの眼が、獣には宿っていた。
「守護獣様――本物、なのですか?」
「そうだ。我がその、主の認識する守護獣に相違ない」
「だ、だとすればどうして私の前に……? そう言えば先ほど次の契約とか何とか仰っていましたが……」
「その通りだ。ミルファ・ヴェンディアよ。主が現契約者の後を継ぎ、次代の契約者となるべき人間だ」
「――!?」
守護獣の契約者。貴族令嬢であったミルファは、当然その存在についても勉強したことがある。
守護獣の使いに選ばれることは大変名誉なことであり、一度神獣に指名されたら基本的に断ることは出来ない。
ただし、指名された契約者はもちろん、その家族にも多大なる報酬や地位が与えられることになるので、基本的に断る者は存在しないと言っていいだろう。
誰が指名されるかは完全に神獣次第であり、望んでなれるものではないことから、数十年に一度のくじ引きとも揶揄されるほどだ。
「本当に、私が守護獣様の使いに選ばれたのですか?」
「だから何度もそう言っているだろう。ミルファよ、これはゆるぎない決定事項である。この国に生きる人間の中で、我が次の契約者に最も相応しいと判断した者のみが、我が契約者となれるのだ。光栄に思うがいい」
「は、はい。えっと、ありがとうございます……?」
自信満々にそう言われるものだから、ミルファは呼応するようにお礼を言ってしまった。
しかし彼女の頭の中では様々な思考が入り混じっていて、なかなか適切な言葉が出来ない。
本来ならば大変喜ばしい出来事なのだろうが、今は素直にそれを受け入れられるような状況じゃないからだ。
「して、主は何故あのようなところで死にかけていたのだ。辺境も辺境。あと少しで我が領域から抜け出してしまうところだったぞ」
「――それは、ええと」
「何があったか、我に話してみるが良い。場合によっては助けになってやろう」
「……分かりました」
そう言われてしまっては、話さないわけにはいかない。
ミルファは酷く辛そうな顔をしながらも、当時のことを思い出して語り始めた。
王太子シヴァンにされた仕打ちと、今の自分のどうしようもない悲惨な状況を。
すべてに絶望しながらも、何とか活路を求めて彷徨っていたことを。全て余すことなく話した。
神獣アンキルは、時折相槌を入れながらも、妨害することなく黙って話を聞き続けた。
そしてすべてを話し終えたミルファに対して、こう切り出した。
「――成程。状況は理解した。やはりあの男、腹に一物抱えていたか」
「あの男というのは、もしかして――」
「そうだ。主の想像通り、王太子シヴァンのことだ。奴は父王の命により、今は主を我の下へ呼び出す役目を負った」
「…………」
その言葉を聞いて、ミルファは思い出す。
あの時の、彼の顔を。
もう二度とミルファを愛することのない、あの酷く冷たい残酷な眼を。
そんな彼が、守護獣の使いという役目を得た彼女のことを、どのように扱うのか。
考えただけでも悪寒が走る。
「――して、主はどうする。我ならば主の体を無事に王都まで連れて帰ることも可能だが」
「嫌です――って言ったら、守護獣様は、私のことを断罪なさいますか?」
「ふむ、我の意思に逆らうと、主はそう口にしたのか」
「――はい」
尋常ではないほどのプレッシャーを与える神獣アンキル。
しかしそれでも、ミルファは震える足を強引にねじ伏せ、堂々とそう言い放った。
あんな目に合っておきながら、守護獣の使いに選ばれたから戻ってきました、なんてこと、出来るはずがない。
今のミルファが背負っている罪は、王家の者への暗殺未遂。国家反逆罪に問われてもおかしくない重罪だ。
そんな身で国へ帰ろうものなら、いくら守護獣の契約者と言えども碌な人生は待っていないだろう。
下手をすれば一生奴隷のような身分で、ひたすら役目を果たすだけの道具として扱われるかもしれない。
その不安を、神獣アンキルにそのまま伝えた。
すると彼は、怒るどころか逆に穏やかな笑みを浮かべた。
「なるほど、良い眼をしている。覚悟の決まった勇気ある者の眼だ」
「そんな……私はただ、恐れているだけです。私はもう、あの人の元へと戻りたくない――少なくとも、私の心の傷が癒えるまでは。あの人の嘘が嘘であると明らかになるまでは……」
「ふむ……たとえ我が証言したとしても、証拠までは出せん。それに我は契約者を通じてしか言葉を人の子に伝えることが出来ぬ。いくら使いとしての言葉と言えども、主本人の口から言ったのであれば、適当に言い訳されて終わりだろうな」
いくら偉大なる存在である守護獣と言えども、こればかりはどうしようもない。
本当は今すぐ戻って家族と会いたいけれども、そうすればこの一件は有耶無耶にされて終わりだろう。
王都に戻った時点で契約者はミルファに入れ替わる。
ミルファの口から守護獣からの言葉だと発言したところで、虚言扱いされて終わりだろう。
最悪、偽りの使いとして重い罰を受けてしまうかもしれない。
「だから私は戻りません。申し訳ございません、守護獣様」
「――一つ、聞いておきたい」
「はい、なんでしょうか」
「もしこのまま我が精神世界から主を追い出せば、数刻のうちに主は息絶えるだろう。それでも良いというのか」
「――はい。構いません」
「契約者というのは、そう簡単に替えが効くようなものではない。主が命を落とせば、向こう数年、あるいは数十年の間、王国は我の守護を失い、あらゆる外敵の脅威にさらされることになる。それでも良いというのか」
「――はい。今の私は、もうあの人を――この国を、愛せません。例え後世に汚名を刻もうとも、私はこの国のために一生を捧げることなんて、出来ない」
こんなことを言ってしまえば、怒りを買って殺されてしまうかもしれない。
それでも良いのだ。家族のことは気がかりだけれども、それ以上に自分を裏切った人の元へと戻って、一生をかけてこの国を守護し続ける役目を負うなど絶対に御免だ。
それに加えて、万が一にもシヴァンが嘘を認めミルファに謝罪し、この国のために尽くしてくれと頼まれたとしても、今の自分に彼を許せる自信はなかった。
自分勝手と言われても構わない。裏切り者と言われても構わない。
それでも、少なくとも、今は国へ帰る気など一切起きなかった。
ミルファは拳を強く握り、アンキルの言葉を待つ。
だが、返ってきたのは、意外な言葉だった。
「良いだろう。気に入ったぞ。ミルファよ」
「えっ……」
「我と契約を結べ。ミルファ。主の願い、叶えてやろう」
そう言って笑みを浮かべるアンキルを前に、ミルファはぽかんとした顔のまま立ち尽くした。
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