3話 前へ
あれから、どれだけの時間、どれだけの距離を歩いただろうか。
今宵は満月。しかし美しい純白の光を地上へ届けるそれは、もう間もなく役目を終えようとしていた。
なるべく人目を避けて、影を縫うように町から町を移動し続けたミルファの足は、もう間もなく限界を迎えそうになっていた。
それでも、誰にも気づかれる前にこの国を出なければならない。
朝を迎えれば、人の往来が増え、自分の存在を知る誰かに見つかってしまうかもしれない。
「どうしよう……私、これから、どうすればいいの……?」
こうして不安の声が漏れ出るのも仕方がないだろう。
元より激しい運動とは無縁の生活を送ってきたのだ。
お世辞にも体力があるとは言えない彼女でも、自分のせいで大切な人に迷惑はかけられないという一心でここまで来た。
しかしとうとう足が言うことを聞かなくなり、その場で座り込んでしまった。
「どうして……シヴァン様……私、何もしていませんよ……どうして、信じてくださらないのですか……」
脳裏にこびりついた、彼女を心底見下したシヴァンの眼が、ミルファの心を締め付ける。
愛していた。身分違いの恋なのは分かっていた。それでも自分を好きだと言ってくれた彼のことを、心の底から愛していた。
自分に出来ることならなんでもする。そのためにはどんな努力だって惜しまない。
そのつもりで今日まで生きてきたのに。
「お父さま……お母さま……助けて……」
今まで心の支えにしていたものを全て失ったのだ。
もう既に枯れるほど泣いたはずなのに、また涙が溢れ出てきた。
もはやそれを拭う気力すらないミルファは、深い絶望を映した虚ろな瞳で空を見上げた。
沈みゆく月の反対側からは、ほんのわずかに朝日が漏れ出ている。
足が痛い。体が重い。お腹もすいた。喉も渇いた。
あのまままっすぐ家に帰れば安息の地と温かい食事が待っていたはずなのに、彼女はそこから逃げるように敢えて反対方向へ進んできた。
今すぐ家に帰りたい。
でも、自分が家に戻ったら、家族みんなが不幸になる。
それだけは――それだけは絶対にダメだ。
「はやく……いかないと……」
震える足に無理矢理力を込めて立ち上がる。
このまま町で朝を迎えるわけにはいかない。
お金もなければ、着替える服もないのだ。
生きていくために必要なものを何一つ持ってくることが出来なかった彼女が、もし町の人に見つかれば間違いなく騒ぎになる。
そうなれば、シヴァンからの命令に逆らったことになり、最悪の事態が訪れることは避けられない。
だからこそ、彼女は前へ進まなければならなかった。
「ひとまず、森の中へ……」
逃げ場所を求めてか。それとも、死に場所を求めてか。
彼女は次の町との境界線にある森の中へと足を踏み入れた。
幸い、彼女には特別な力があった。
あらゆる傷を癒す回復魔法。失った体力を取り戻すことは出来ないが、多少の怪我ならば問題なく治せる。
戦うための魔法は得意としていなかったが、少しならば動物に襲われても大丈夫なはず。
そう信じて、足を進めた。
「それとも……いっそ、死んじゃったほうが、楽なのかな……?」
ほんの一瞬、そんな考えが頭をよぎった。
おそらく、それはシヴァンが自分に望んでいる結末だ。
今まで何一つ不自由のない生活を送ってきた彼女に対して、何も持たず、だれにも頼らせずに国外追放を言い渡す。
それは死刑宣告と一体何が違うのだろうか。
きっと彼は、直接手を下すことなくミルファを始末したかったのだ。
「――でも」
本当にそれでいいのか?
改めて自分に問いかける。
無実の罪を抱えたまま、誰にも看取られることなく、一人孤独に死んでいく。
そんな結末を、本当に認めて良いのか?
「――うぅん、ダメ。やっぱり、それだけは絶対にダメだ」
首を横に振り、自らを鼓舞する。
両親に貰った大切な命を、こんなところで終わらせていいはずがない。
今はこうして醜く地を這いつくばってでも生きて、必ずこの国に戻ってきて自らの無実を証明する。
そして堂々と家に帰るんだ。
そう決心した彼女の体に、再び活力が戻る。
逃げるのではなく、前へ進む。
死に場所を求めてではなく、やり直す場所を求めて前へ進む。
そう。これはきっと神様が自らに与えた試練なのだ。
ここで踏ん張って、乗り越えれば、いつかきっと幸せを取り戻すことが出来るはず。
そう信じて、泥だらけの右手で止まった涙を拭う。
まずは国外へ出て、一番近くの町を目指そう。
そうすればきっと活路が切り開けるはずだ。
それと同時に、彼女の中に小さな復讐心が芽生え始める。
ミルファのことを一生愛すると誓ってくれたはずのシヴァンは、最後の最後で彼女のことを信じることができなかった。
そんな男がいずれ収めることになるであろうこの国なんて、自分から去ってやる。
そう開き直り、いつか彼に天罰が下ることを願いながら、彼女は歩き続けた。
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