少女漫画の主人公に転生した私はなぜか手元に残っていたスマホを駆使して推しの負けヒーローの愛人になろうと思います。
※この作品はアルファポリスとカクヨムで投稿しているものを短編向けに再編集したものになります。
わりとご都合主義ななんちゃって異世界ものです。温かい目で見てやってください。
「はあ?!」
漫画を読み終えた私は、買い替えたばかりの黒いスマホを思いっきりクッションめがけて投げつける。
「意味わかんない! なんでサリオスくんルートじゃないの?! ネットの広告じゃあ主人公と良い感じだったじゃん!!」
腹の底からぐつぐつと湧いて来る怒りを声に出してぶちまける。それでも私の腸は煮えくりかえったままだ。
「しかも散々色んなやつとやりまくった挙げ句、ぽっと出と結ばれるとか……何それ。結局金じゃん」
私の名前は久栖梨沙。アラサーの看護師である。今日は休みだったのでかねてよりスマホの広告で有名になっていた少女漫画「ギリアを胸に」の電子書籍版を購入し読んでいた所だ。
あらすじを簡単に紹介すると、王宮公認の娼館に所属する高級娼婦な主人公・マーレはそろそろ結婚したいと考えていた所に夜の街でかつての元婚約者の軍人・サリオスと再会する。マーレは酔ったノリでサリオスをやや強引に誘い自身が所属する娼館へと向かうが、サリオスがシャワーを浴びている時に彼の妻から電話が来た事で、彼はすっかり萎えてしまいお開きとなる。
その後サリオスは再登場する事は無し。代わる代わる様々な男達と浮名を流したマーレは、最終的にぽっと出の伯爵家次期当主・カーティスと結ばれる。カーティスは寡黙で地味でマーレとはあまり会話は成り立たないし、取り得はお金持ちだけ。特別な絆で結ばれているというような描写も見受けられない。
なんならサリオスの方が少ない登場回数ながらも、劇中ナンバーワンとも言うべき爽やかな容姿に合わせて気遣いが出来、既婚者でありながらマーレへの未練も抑えられないでいる人間臭さがある。そんなサリオスに惹かれて私は漫画を購入し、読んだのだった。
「はあ~せっかくサリオスくん推しになったのに。まじで納得いかないわ」
私はベッドの上に寝転がって大の字になる。天井を見上げるも胸の中のもやもやとした黒い霧が晴れる事は無かった。
「もし私が主人公ならサリオスくん一択なのに。不倫関係なくサリオスくんしか選ばないし」
天井を見上げたまま呟いたその言葉は、いつになく空虚に響く。
「あーーあ、私が主人公だったらいいのにー。はあ、ムカついてたらおなか減ったな……」
私は空腹を満たすために立ち上がって、スマホをズボンのポケットに入れると財布を持ってコンビニへ外出する事にした。
「はあ、おにぎりでも買おっと」
道路を横切った時だった。体の右横に鉄の塊らしき衝撃と血の匂いを感じた瞬間、目の前の空間が徐々に白一色になっていく。目を閉じてしまうほどの眩しさは無いが、それでも白色しか視界に入ってこない。
「え」
死んだという文字が脳内に浮かんですぐ消えた。すると徐々に白い部分が霧のように晴れて来た。うっすらではあるが、ベッドの上らしき景色が伺える。
「ん……?」
薄いピンク色の布団に、薄い黄色の木材でできた古めかしい天蓋付きベッド。この景色に私は思わず首をかしげる。
「これ、もしかして」
ここで真っ白だった視界が完全に晴れた。アンティークな調度品や内装からして女性が住んでいる部屋の一室とみて間違いないだろう。それに黒塗りに金色の装飾が施されたダイヤル式電話に、ぎっしり本が詰まった大きな棚もある。
ただどうしても胸の中で釣り針のような引っ掛かりが取れなかった私は、なぜか右手に持っていたスマホを持っているのに気が付いた。
「えっ……え?」
(なんかスマホがある!)
どっからどう見ても自分のスマホである。なんで? とは思ったがここでも使えるのはありがたい。なので改めて「ギリアを胸に」の第3話のスクショを開く。
「そうじゃん! ここって主人公の部屋じゃん!!」
そんな私の目に留まったのは姿見鏡。おそるおそるその鏡に向かって歩き、近づいた所でゆっくり目を見開いた。
鏡に映っているのは明るい茶髪のウエーブがかったセミロングに、白を基調としたドレスを着た少女漫画らしく出てる所は出てるけど華奢な体つきの女性。
間違いなくマーレその人だった。
「……私が、主人公に……マーレになってる……!」
(さっきの呟きが叶ったんだ……!)
鏡に映さず自身の目で手足や服を見ても、疑いようもなくマーレそのものだ。マーレになったという事実を受けて私の脳はすぐさまある考えに到達する。
「じゃあ、私が主人公になったという事は……サリオスくんエンドもイケるって事?」
脳内で点だったものが星座のように線に繋がり、一気に神経回路が猛スピードで動き始める。
「不倫だろうが関係ない。絶対、推しのサリオスくんと結ばれて見せる!!」
私はその場でぐるぐると回りながら、部屋全体を見渡す。改めて見直しても内装はまさに中世の貴族の家と言ったいでたちだ。
「確かにマーレの部屋だ」
作戦を立てる為ここでサリオスについてもう一度簡単に振り返る。サリオスは軍人でマーレの婚約者だったが、ある日マーレの両親が亡くなった事でサリオスの両親がその婚約を強引に破棄した。そしてサリオスは別の女性の結婚し子供をもうけ、マーレとの再会に繋がるという訳である。
「多分だけど部屋を出たら、物語が始まるんだよね」
私はサリオスの簡単な振り返りと部屋を見渡し終えた後そう呟く。大きな振り子のついた時計は午前7時を指している。
「どう、サリオスくんを攻略すべきか…まずは家に連れ込んで朝チュンまで行きたい所だけど」
(確かシャワー中に奥さんから電話掛かってきてやる気失くして萎えるんだよな。どう萎えないようにすべきか……)
私は顎に指を乗せた。すると脳内にあるものがよぎる。
「薬飲ませるか」
そうと決まれば一直線。私は娼婦館に向かう途中に立ち寄った薬屋で精力剤を購入する。薬屋の主人曰く感想させた蛇やスッポンをすりつぶして粉にしたものに、魅了魔法がかかっているのだという。
「水だと流石に味でバレそうだし、コーヒーあたりに混ぜて飲まそう」
(てかこの世界コーヒーあるのかな? 無いなら紅茶辺りにしこむか)
精力剤を購入してマーレが所属する娼館に出向いた私を、ボーイと下働きの娘達が出迎えた。
「マーレ様おはようございます」
「皆さんおはようございます。今日もよろしくお願いします」
私が頭を下げて挨拶すると、十代くらいの見た目のボーイの一人が私専用の控室まで先導し、ご丁寧にドアを開けてくれた。
挨拶が終われば早速娼婦3名と貴族の館で開かれるサロンへ馬車で向かい、お茶をしながら貴族の婦人達との話に花を咲かせる。話の中には漫画では殆ど描かれなかった王宮の噂話などもあった。
ちなみに貴族の婦人が用意してくれたティーセットにはコーヒーもあった。こうして私は婦人の一人からコーヒーパックをゲットする事に成功した。
(よし)
すると外の庭園の東屋にて貴族の女性二人が扇子片手にひそひそと話している姿を目撃する。
せっかくなので近くの植え込みまで行き、聞き耳を立てる事に決めた。
「そう言えばカーティス様が花嫁を探しているそうね」
「ええ……カーティス様ねえ。私はあまり好みでは無いわね。だって不愛想で地味だもの」
「あははっ確かにあの方の妻は嫌だわあ。華がないし」
そんな会話に私は心の中で頷きつつも、にこにこと看護業務にあたっている時と同じように無言でその場から離れるのだった。
(あれだな。お局看護師と変わんねえな)
夕方16時。私は漫画通りに花を買うために娼館から街へ外出をする。勿論彼との再会のためだ。
(この通りだったな。あとは、サリオスくんとの再会を待つだけ)
通りで待っていると、黒い軍服を着た彼が通りがかった。間違いなくサリオスだ。
「サリオス様!」
漫画と全く同じ構図で全く同じセリフを私は吐く。すると向こうも漫画と同じように振り返り、私の姿を見た。
「マーレ……!」
「サリオス! 会いたかった……!」
私はドレスの裾を持ち、いつもより小さな歩幅でサリオスの元へと駆け寄った。
「ずっと会いたかった……! サリオス様!」
「マーレ……!」
サリオスの目は穏やかだが、口角はあまり上がってはいない。
(そら妻子いるからこんな表情にもなるわな)
サリオスはしきりに目玉をきょろきょろ動かしている。その落ち着きのない様子に気づいた私は、すかさず彼の手を取り、娼館へ向かって駆け出す。
「ま、マーレ!」
サリオスは私の行動へ一瞬驚きの声を出したが、私の手を振り払う事は無いまま私の手に引かれ娼館のドアの中に入る。
(やはり未練あり、か)
娼館の中は既に客である貴族の男達と娼婦で一杯になりつつある。娼婦らが片手にワインの入ったグラスを持ったりして客との喋りに花を咲かせている様子を横目で見ながら、サリオスを自室へと素早く連れ込む。
部屋の中の椅子にサリオスが座るように誘導させると、私は飲み物を用意すると微笑みを浮かべながら彼へ告げる。
「コーヒーをご用意いたしますね」
「わかった」
私は階段を降りた先にいたボーイにコーヒーを用意するよう声をかける。しばらく待っているとボーイが階段を上った先まで持っていくというのでその通りにさせた。
(今の自分なら溢しそうだし、途中まで運んで貰おう)
「ありがとう。もう大丈夫よ」
「わかりました」
近くに誰もいないのを確認してから、ドレスのポケットに隠してあった精力剤をさっと入れて、ティースプーンでかき混ぜて震える手でドアを開く。
「コーヒーお持ちしました」
「ありがとう」
サリオスに両手でお皿に乗ったコーヒーカップを手渡した。サリオスはそれをさっと受け取ると一気に飲み干す。
(っし飲み干した!)
「おかわりいりますか?」
「ああ、よろしく頼む」
「では、お先にシャワー浴びられますか?その間にコーヒーをご用意いたします」
サリオスをシャワールームへ案内させ、私はもう一度一階に降りてコーヒーをボーイに持ってきてもらった。
(それにしてもやけにサリオス素直だな…精力剤の効果が出るまで気を引き締めないと。でも足が痛い)
慣れないヒールを履いているせいか、歩くたびに足の親指と小指がずきずきと痛む。なので今回は部屋の前までボーイにコーヒーを持たせてもらったのであった。
「忙しいのにごめんね」
「いえ、これくらい大丈夫です」
ボーイは爽やかな笑みを浮かべて階段を駆け足で降りて行った。私はコーヒーを机に置くと、自室のベッド横にある椅子に腰かける。
カーテンがかかった窓からもすでに日が落ち暗闇の世界が広がっているのが分かる。
(そういえばそろそろ……サリオスの妻から電話がかかって来る筈。とりあえず言い訳考えないとな)
私は立ち上がって、部屋のドアを開けた。するとボーイがこちらへ向かって小走りで走って来るのが見える。
(やはり来たか)
「マーレ様!」
私がお静かに。とボーイに声をかけると、ボーイは声のトーンを落とした。
「あの、サリオス様の奥方から……」
「電話なの?」
「は、はい」
(やっぱり。そしてサリオスにこの事が知られてはまずい)
「サリオス様はここにはいないわよ。奥方にもそう言ってちょうだい」
「えっでも……」
躊躇う様子を見せるボーイへ私はもう一度念を押した。
「サリオス様はここにはいない。そう言いなさい」
「はい。かしこまりました」
ボーイは駆け足で廊下を歩き、階段を降りていった。
(効いてるだろうか)
私が部屋に戻るもサリオスはまだシャワールームから出てこない。
(何かあったか?)
私は立ち上がり、シャワールームの二歩手前まで歩み寄った時、ガチャと扉が開いて裸のサリオスが現れた。頬に赤みが増した彼の様子を見て私はごくりとつばを飲む。
(精力剤と魅了魔法が効いている!)
私はベッドの上にサリオスを座らせた。コーヒーを彼へ手渡すと、先ほどと同じようにコーヒーを一気飲みする。
「どうですか?」
「うーーん……」
「もしかして最近ご無沙汰で?」
「そうだな。妻が相手してくれないというのは……ある」
その後もしばらく様子を伺ってはいたが、どうやらサリオスの気分は変わらないようである。顔も体も赤くほてったままだ。そして苦しいような快楽に溺れていそうな息をしている。私は覚悟を決めて戸惑いの表情を見せるサリオスにぎゅっと抱き着いたのだった。
それから。気が付けば窓の向こうの景色は夜明けを迎えていた。
「大丈夫か?」
「はっ!」
私の左横で寝ていたサリオスに声をかけられ、ばちっと目を覚まして体を起こそうとするも、体中の関節にばきばきと痛みが走る。
「っ!」
「急に起き上がってはいけない。ゆっくり起きた方が良い」
「っすみません……もう一度横になります」
私はそのままゆっくりと横になって布団に潜った。カーテン越しから入ってくる朝日は眩しく、どこからともなく雀の鳴き声も聞こえてくる。朝でかつ隣にサリオスがいるという事は最初に考えた目標が達成されたという事を表している。これをようやく理解出来た私は、徐々に早まる胸の鼓動を抑えるので精いっぱいだ。
「マーレ、すまんがちょっといいか?」
ここで私を制するように、サリオスが声をかけてくる。
「すまない、そろそろここから出なければ……」
「もうそんなお時間なんですか?」
「ああ、そろそろ軍へ顔を出さないとな」
(そうか、じゃあ空腹で行かせるのもアレだし朝食か何か出しといた方がいいかな)
「何か食べるか飲むかしていかれますか?」
私がサリオスへそう質問すると、サリオスはうーんと顎に手を乗せて十秒ほどうなる。
「じゃあ、コーヒーとサンドイッチあるか?」
「わかりました。ご用意いたします」
その後、手早く朝食とシャワーを済ませて軍服をびしっと着直したサリオスを、娼館の玄関のドアの横まで見送った。
「ありがとう。あと、この事は内密にしてくれないか」
(チャンス!よし、いつまた会えるか分からないしここでもう一押ししたい……!)
「ええ。勿論ですわ。そしてまたおいでてくださいませんか?」
「マーレ……」
サリオスの視線が泳ぐ。私はさらにもう一押し加えるべく彼の両手をにぎり、彼の目をぐっと見つめる。
「私はサリオス様をお慕い申し上げております。婚約破棄されてから今もお気持ちは変わりません」
「マーレ、お前は……そんなにも」
「ぜひ、またお会いしましょう。サリオス様!」
(頼む、サリオスくん!会いたいと言ってくれ!)
「マーレ、お前はまだ私を愛してくれているのだな」
「ええ、はい!」
「婚約破棄となりはや十年。今や私には妻子がいるが、それでもなお愛してくれるのか」
「はい!」
サリオスはぎゅっと唇をかみしめながら私へ穏やかに語り掛ける。その口調はこれまで聞いた彼の声の中で最も優しい声色だった。
「ではこうしよう。毎週金曜日にここに来る。時々同僚や部下達を連れてな」
「サリオス様……!」
「そしてお前と朝まで過ごそう。これで良いか?」
(まじ? 毎週花金にサリオスと会えるってコト?!)
「はい、勿論構いませんわ!」
私は即答した。胸の内から湧いて出てくる興奮を抑えきれず鼻息を荒くしてしまうが、それと同時に一つ何か引っ掛かりが胸の中で生まれた。
(はたして本当に来てくれるのだろうか)
「サリオス様」
「何だ」
「その約束、本当にお守りいたしますよね?」
(サリオスは妻子持ち。推しだけど信用できない部分も少しだけある)
「わかった。では、魔術をかけよう」
「へ?!」
サリオスはズボンのポケットから赤い毛糸のような糸を出した。その糸の先端を丁度心臓の真上にあたる位置に置くと、もう片方の先端部分を私の心臓の真上の位置に置く。
まるで糸を通してサリオスと私の心臓が繋がっているような、そんな構図になっている。
「プロムシェル……」
サリオスがおまじないのような呪文を唱えると一瞬糸が赤く火花のように光った。
「わっ」
驚く私をよそにサリオスは糸を自身と私の胸から離し、何事もなかったかのように糸をポケットの中にしまった。
「これは約束を守らなければしばらく心臓が止まって一時的に仮死状態になるという魔術だ。もちろん発動すると心臓に痛みが走る」
(そんなものかけたの?!)
「これくらいした方が、お前も安心できるだろう?」
「は、はい」
(重い……思ったより重いぞこれ……)
「では、また会おう」
サリオスは踵を返して朝の街へと消えていった。振り返るとドアからは続々と客の貴族達と彼らとの別れを惜しむ娼婦が出て行き、サリオスと同じように朝の街へと向かって行く。
「マーレ、おはよう」
挨拶してきたのはマーレと同じ高級娼婦で一つ先輩にあたるリズだ。漫画内では気さくな女性キャラでマーレのよき相談相手として描かれている。
「おはようございます。リズさん」
「こちらこそ。今日も良い一日になりますように」
リズが朝日へ体を向けてそっと目を閉じて手を合わせた。
(よし、頑張ろう!)
娼館から一度自宅に戻った私は、マーレの部屋にある古びた椅子に座り机と向き合う。
「まずはこの世界の情報収集をしなきゃね、今後の計画も練りたいし」
(最終的にはサリオスくんの妻を別れさせて私と結婚させたいけど、すぐには無理だろうしなあ)
そして私はある事に気づいた。スマホの存在だ。ドレスのポケットからスマホを出すと、もう充電が残り20パーセントになっている。
「どうしよ、充電器は流石に無いだろうし……うーーん困ったなあ」
(てかなんで転生先に私物持ち込めてるんだろ。しかもよく見たら無傷だし)
スマホの画面を見ていると、ある部分に目が行く。電波の部分だ。画面を見る限り転生前の現代世界となんら変わりなく反応を示している。
「え、この世界でもネット使えるの?」
(部屋の中にWi-Fiの機械みたいなやつでもあるのか?)
試しにネット検索の画面を開くと、検索欄の下にこの世界における魔術書や医学書に関する広告らしきものが出てくる。ネット検索画面を閉じて今度はメール画面を開くと、四、五十通程ある私の死を悼むメッセージ以外にこんなメールが届いていた。
「この世界でスマホを使えるのはあなただけです。スマホは電話の横に置けば充電できますしネット回線も黒電話から出ています。また漫画だけでは分からないこの世界の仕組みについての画像を添付しております。ぜひともサリオスを寝取ってください」
差出人の欄は空欄だった。これでは差出人を問うために返信を送ろうにも送る事は出来ない。
(えらい不気味だなあ。画像は後で見よう)
黒電話のダイヤル部分がぴかぴかと光っているのが見えた。私がスマホを黒電話に近づけると、電波の強度がMaxまで上がる。
「多分こっから何か出てるんだな」
メールに記されているように、スマホを黒電話の横に置くと、スマホは充電モードに入った。
その様子に私はまじか。と唸る。
(メール通りじゃん)
スマホ画面を見ながら私はやる事を一つ決めたのだった。
「とりあえず充電しながら、スマホで情報を集めよう」
粗方情報を集め終わったので、ざっくりとまとめていく事にする。
まずサリオスの妻はメラニーという。こげ茶色の髪に同じ色をしたきっつい瞳を持つ、いかにも悪役令嬢な見た目である。このメラニーは半ば親同士の斡旋による結婚によってサリオスと結ばれ、彼との間に1人息子のマルクを儲けている。
夫婦仲はそこまで良くも無ければ悪くも無いようだが、サリオスは昨日妻が相手してくれないと言っていたことから、いわゆるレスなのは間違いないだろう。
サリオスは陸軍の幹部の内の1人で、彼らとの仲は良好という。その他にも陸軍の重要人物らの名前と見た目、メラニー周りの人物らの名前と見た目等を知る事が出来た。
そして興味深い話がある。最近メラニーは自宅に王家御用達の魔術師をよく招いているという。このホスト風のチャラ男な見た目をしたイケメン魔術師はマーレやサリオスと同い年の男性で、名前をジェインと言う。
メラニーはここのところジェインと2人っきりで過ごす時間が増えており、そこまで表立ってはいないものの二人の仲を怪しんだり浮気ではないかと言う噂もまことしやかに流れているようだ。
(これ浮気なんじゃねえの? 絶対そうでしょ)
ちなみにこの世界における魔術は、現代で言うおまじないに近いらしく人の体を対象としているようで、従って火や水を操ったり、何かを召喚する…といった類は出来ないようだ。
「なるほーーねえ」
(まずはサリオスくんとの逢瀬を楽しみつつ、メラニーがなんで魔術師を呼んでいるのか探る必要があるな)
この世界で夫が愛人を持つ事はオッケーなのに対し、妻・第1夫人の浮気は重罪もので、なぜか第2夫人以下愛人は浮気しても正式な妻ではないと理由からセーフらしい。
なお娼婦から貴族王族の愛人に登りつめた例もかなりあるのだとか。
更に大事なのは愛人は妻・第1夫人が認めた者とそうでない者とで扱いに雲泥の差がある事だ。認められれば同じ屋根の下で同居出来る上にその他生活も諸々保証されるのだ。
(メラニーに認められたほうがメリットあるのか)
「でもなあ……」
(テンプレ悪役令嬢の相手はめんどくさいしなあ)
私は机の上に突っ伏して、脱力しながら息を大きく何度か吐いた。目を閉じて唾を飲み込み覚悟を決めると息を大きく吸ってその場で立ちあがる。
「よし、まずはメラニー浮気の証拠を見つけながらサリオスくんとイチャイチャしよう。証拠が揃えばこっちのもんよ。頑張るぞ、自分!」
私は両手で頬をパンと叩き、気合いを入れたのだった。
あれから一週間が過ぎた。娼館の生活と客との接待にも慣れて来た頃。そして夕方に約束のサリオスがやって来る日である。
「マーレ最近何かいい事でもあった?」
ここはリズの部屋。白い陶器の花瓶に飾られた色とりどりの花から良い香りが広がっている。リズお気に入りの紅茶と小さなサンドイッチにクッキーを頬張りながら話に花を咲かせている。
「いえ、そこまで」
「本当?」
リズが近づき私の目を覗き込んだ。私は目を伏せようとしてしまうのを我慢して、そのままリズの目を見る。
(さすがにサリオスの事は言えないしなあ)
「まあ、何かあれば私に相談するのよ、1人で抱え込むのは良くないしね」
「ええ、そうね」
「あ、そうだ。昨日ワトソン様から茶会のお誘いがあってね。マーレも行く?」
ワトソンとは国王に仕える大臣だ。スマホで女好きとは記されていたが、そのような存在も娼館に来ているとなると、かなりの著名人が訪れている事の証左になる。
(サリオスやメラニーに関する噂も聞けるかもしれない)
情報収集の為にも私は茶会への参加をリズに伝えた。リズは軽く笑ってワトソンへ伝えておくと告げたのだった。
(リズは頼れるな)
夕方。娼館がのドアが開き客の貴族達がやって来る。一気に騒がしくなる娼館の自室の中で私は外の景色を眺めていた。
「もう来るかな」
スマホを開くと待ち受け画面にサリオスが娼館の目の前まで来ているというバナーが表示された。どうやらこのスマホにはそういう機能もあるらしい。
「サリオスが来館しました」
(来たっ!)
私はスマホを服のポケットにしまうと、駆け足で部屋を飛びでて階段を降りた。丁度一階のエントランスホールにサリオスとサリオスと同じ軍服を着た軍人の二人の姿が見える。
「サリオス様……!」
「マーレ!」
第十一話 推しの部下には興味無いんですが
私はサリオスの両手を取り、こんばんは。と挨拶をした。
「こちらがマーレ様で?」
サリオスの隣にいる金髪ベリーショートヘアの軍人が私とサリオスそれぞれに目線を向けながらそう答える。
「ああそうだ。クラウド」
「初めまして、マーレと申します」
「こちらこそ初めまして。クラウドと申します」
「マーレ。こいつは私の部下でな。ここに来るのは初めてだから色々教えてやってほしい」
サリオスにそう頼まれると私はかしこまりました。と笑顔で返した。が胸の内は笑顔とは真っ向から食い違う状態である。
(断れないよなあ…クラウドはまずはサリオスくんと一緒に話しながら様子見と行くか)
「では、こちらのホールで色々お話しましょうか。飲み物もご用意いたします」
ボーイに三人分のワインを用意させ、ホールの一角で立ち話する事に決めた。その間に私はクラウドについてある程度知る為に一旦席を外して誰もいない倉庫に入る。
倉庫内でスマホを取り出し、クラウドについて検索する。
(ふむふむ、クラウドはマーレの二つ年下の独身・童貞でそろそろ妻が欲しい、と…)
検索し終えると素早くスマホをポケットにしまって、二人が待つホールへと戻った。ホールの傍らで二人と私の分であろうワインを持つボーイが何やら話している。
「お待たせしました」
「マーレ様のワインです」
「ありがとう」
ボーイからワインを受け取ると、ボーイは一礼してホールから去っていった。クラウドがワインを一口飲むと、はあ…と肩で息を吐く。その動きは私から見てもぎこちないものだった。
「緊張しているのか?クラウド」
見かねたのかサリオスがクラウドに声をかけると、クラウドははい…といかにも自信なさげに肯定しつつちらちらと私の方を見てくる。
「いかんせん、初めてなもので」
「大丈夫だ。私とマーレがいる。それにお前は奥方にふさわしき女子を見つけたいのだろう?」
優しく語り掛けるサリオスへクラウドは口元を少しほころばせながらそうですね。と返したのだった。
だが、私はサリオス一筋である。無いとは思うがクラウドが私へ矢印を向けるような事はあってはならないし、そうならないよう芽とフラグは潰す必要がある。
「クラウド様、よろしければ他の手の空いている娼婦を紹介しましょうか?」
私がそう告げると、クラウドは今は必要ないと素っ気なく否定する。その態度にサリオスと私は思わず目を細める。
「今はマーレ様とお話したいので」
「今なんとおっしゃいまして?」
私はもう一度聞き返す。クラウドは真っすぐな目線を私に向けてもう一度口を開く。
「マーレ様とお話したいのです。サリオス様から素敵な女性だとお伺いしていたので……!」
(これはまずい!私に矢印向けられるのは避けたい!)
私は周りに悟られないよう考えを巡らせるが、良案は全く脳内に浮かんで来ない。するとサリオスが横から割るように口を開いた。
「おいおい、マーレが困っているぞ」
このサリオスの言葉を真横で聞いていた私は、ほんの少しだけ安堵する事が出来た。しかしクラウドの目線はまだ私の方へ名残惜しそうに向けられている。
「クラウド様、焦らずとも私はここにおりますよ」
「マーレ様……ですが」
「クラウド、焦ってはいけない」
サリオスにいさめられたクラウドは流石に反省したのか、その場で頭を下げて申し訳ありませんとか細い声で謝罪した。
だが、時折放たれるクラウドのおもちゃを欲しがっている子供のような視線を見てもまだ安心はできないままでいる。
(ヤリ目かガチかまでは分からないけど……安心できんな)
するとたまたま私の横をリズが通りがかった。ワインを片手に一人で移動しているように見える。私はたまらずリズに声をかけた。
「ねえリズ!」
「あらマーレ。そしてサリオス様とクラウド様こんばんは。お楽しみいただいているでしょうか?」
リズは普段と変わらない気さくさで私とサリオスらに接してくれる。その姿はまさに頼りがいのあるものだ。
私はリズに罪悪感を感じつつも、ちょっといい?と口元を手で隠しながら小声で告げる。
「クラウド様のお相手お願いできるかしら?」
「ええ、いいわよ。丁度暇だったし」
即答だった。リズはにこにこと穏やかな笑顔を浮かべたままクラウドに近づくと、そのままクラウドの左手に自身の右腕を回す。
「クラウド様。ぜひお話してみたかったんです」
「えっ」
クラウドの視線が私とリズをあちこち行ったり来たりしている。誰が見ても分かる通りの困惑っぷりを見せているクラウドに対し、リズはやや強引にクラウドを腕を引っ張りながら自室へと連れ込んだのだった。
(助かったーー!!)
そして私とサリオスだけが、娼婦と貴族だらけのホールに残されたのだった。私はサリオスを見上げると、サリオスは私の手を取った。
「では、私達も行こうか」
サリオスの誘いに対し、私は自然に笑みがこぼれた。彼と共に自室へと入るとワインを机に置いてそのままもつれ合うようにしてベッドの上で絡み合う。
サリオスに身を任せたまま時間は過ぎていく。私はふとサリオスが見せていた表情に目が留まった。
(なんか寂しそうだ)
私はその言葉をサリオスに投げかけた。するとサリオスの動きがぴたっと止まった。
「……すまないな」
「いえ、サリオス様は悪くは無いかと」
「正直に言うと、家でいるよりここでお前といる方が楽なんだ」
サリオスのその言葉は、私の胸を矢のように貫いた。サリオスは妻子持ちである。その彼が妻子がいる家でいるよりも、私といる方が楽と語っているのだ。
「そういえば、お前との婚約が先だったな」
そう語るサリオスの瞳は憂いを帯びている。私はそんなサリオスをどうにかしたいと言う一心に駆られるも取るべき行動が中々脳裏に出て来ない。
(こういう時、どう慰めたらいいんだろ)
朝。客が次々帰宅及び出勤の途に就く中、娼館横の道でクラウドは太陽のような眩しい笑顔を私とサリオスに見せていた。
(こいつほんま……)
クラウドはサリオスに先に軍へ赴きますと言い、スキップしながら去っていった。結局リズがどうにかしたのだろう。
「また来るよ。色々ありがとうな」
「はい……!」
サリオスもまた軍の元へと去っていく。私は彼の背中が見えなくなるまで見送ったのだった。
娼館に戻ると体中に痛みと疲れがどっと出てくる。私は我慢できずホールの一角の机に突っ伏してしまった。
「はあ、疲れた」
「マーレ、大丈夫?ボロ雑巾みたいになってるけど」
その様子をなんと背後からリズともう1人の娼婦・キールに見られていた。キールは私やリズよりも年下で、新進気鋭の娼婦である。長い艶のある黒髪はエキゾチックで既に客も多い。
私はすぐさま立ち上がって姿勢を正すと、リズは我慢しなくてもいいのに。と諭す。
「昨日は色々あったからねえ……」
リズが頭を抱えながら苦笑いを浮かべると、キールは何があったのですか?とリズと私へ何かを伺うような視線を向ける。
「あーー、詳しくは私の部屋で話すわ。マーレ、キール」
そしてリズは部屋で昨日のクラウドとの出来事を嫌味たっぷりに語ったのだった。
「うっわ……めんどうな方ですねえ。クラウド様がそんな方とは……」
愚痴が終わって開口一番、キールはあからさまに嫌そうな表情を見せた。どうあがいても生理的に無理な相手に見せるその表情に、私はほんと大変だったわ…と返す。
「私も気を付けときますね」
「ええそうね……」
(モブ客達は礼儀正しいしすぐ終わるんだけどな)
こうしてリズの部屋内では昼過ぎまでクラウドや迷惑客どもの愚痴でわいわいと盛り上がるのだった。
「ワトソン様、初めまして。マーレと申します」
ここはワトソン邸。宮殿を小さくしたかのような豪華な造りである。私はワトソン邸の玄関ホールにてリズ、キールと共にワトソンとその妻・マーガレットと共に歓迎を受けていた。
「今日は来てくれてありがとう。楽しいお茶会にしよう」
「たくさんお話しましょうね」
マーガレットは華奢な体に似合わぬほどの豪奢な真紅のドレスを着用している。
ワトソンは腕を組み、にこやかに笑った。白髪交じりの七三分けヘアに背が高く恰幅の良い姿は、どこか私の母方の祖父と似ている。
(おじいちゃんに似てるな、元気にしてるかな)
ちなみに当のおじいちゃんは、今もおばあちゃんと共に農家をやっていている。ニンジン等野菜を栽培しており時折実家に戻っては畑で作った野菜を様々な料理にして食べていたが、もう転生した今会う事は出来ない。
(おばあちゃんが作る炊き込みごはんとか、美味しかったな)
昔の思い出に浸っていると、ワトソンが私達へ外の庭についてくるように。と告げた。広くて装飾が豪華な広間に廊下を歩いていくと、中庭に到達する。
「わあっ…」
四方八方をレンガの壁で木々に草花がたまにどこかから漂ってくるそよ風に揺れて、爽やかな香りを放っている。まるでファンタジーに出てくる秘密の花園のようだ。
ど真ん中に東屋があり、そこには既に何人かの男女が雑談に興じているようだ。
「皆様、お待たせしました」
ワトソンが、その男女へ向けて声をかけた。私達は横一列に並び彼らへお辞儀をすると、男女も遅れてぺこりと礼を交わした。
「では、お楽しみくださいませ」
「仲良くいたしましょうね」
男女は合わせて四人、男が三人女が一人だ。そこへ私達娼婦三人が加わるという構図になる。
その男女の中に、あのカーティスがいたのを私は見逃すはずもなく。
(カーティスがいる?!)
無愛想で堅物、ぼさぼさの黒いショートヘアという見た目をしている男こそカーティスである。ティーカップこそ持っているが、誰かと話そうとする様子は今のところ見られない。
漫画ではここで出てくる記憶は無かったはずだ。もっと展開が進んでからだったはずだが、なぜこのタイミングでいるのだろうか。
「マーレ様、初めまして。モーリスと申します」
「初めましてモーリス様。マーレです」
タイミングよくモーリスと名乗る若い金髪の男が話しかけてきたので、私は彼と雑談に興じる事に決めた。モーリスはニコニコと微笑み雰囲気も軽く、朗らかな人物と言った印象だ。
(話しやすいな)
リズとキールはもう一人の男性・ジョージと話していた。茶髪の髪にひげを蓄えた姿は所謂イケオジっぽく見える。
「ジョージ様の好物は何かしら?」
「やはりサンドイッチかなあ。忙しくても片手で食べられるからね。あとは紅茶」
「こだわりのブレンドもあったりするんですか?」
「ああもちろん」
とこんな具合で盛り上がっている。カーティスだけ会話の輪の中から離れて一人ぽつんと木々を見つめていた。
(可哀想かもしれないけど話しかけては駄目だ。フラグが出てくるし)
私は心を鬼にして、モーリスと語らいながらカーティスを徹底的に無視し続ける。その調子で茶会はようやくお開きとなる時間を迎えたのだった。
結局サリオスやメラニーに関する情報は得られずに終わり、私は胸の中で息を吐いたのだった。
(結局収穫なしか。はあ、疲れた……)
最後に参加者と帰りの挨拶をして、リズとキールと共にワトソン邸から出ていく時だった。
「マーレ様、お待ちください」
声がした方へと振り返ると、そこにはカーティスがいた。カーティスは私のハンカチを持ってそこに立っている。
「これ、落としましたよ」
(カーティス?!いつの間に?!)
私は胸の中のざわつきを抑えきれないまま、私はカーティスが持っていたハンカチを奪い取るようにして回収する。
「これは失礼いたしましたわ」
(やべえ、これ以上は絡んだらまずい!)
私はリズ達の元へ早足で戻っていったのだった。彼女達と合流した後馬車の中へと乗り込む。その際リズから何があったのかと聞かれたので、何もないと答えたのだった。
馬車の中では茶会で話した男性についての話で盛り上がる。
「ジョージ様との話面白かったわ、ねえキール」
「そうですね。特に食べ物の話とか趣味が合って良かったです」
「マーレはモーリス様と話してらっしゃったのよね?」
「ええ」
「どうだったの?」
「とても話しやすい方だとは思ったわ」
「そうだったの。今度お会いしたら私も話してみるわ」
結果、この場でカーティスの話題が出る事は無かった。馬車を降りると娼館での娼婦の仕事が待っている。
「マーレ、よろしく頼むよ」
「ええ、よろしくお願いいたしますわ」
それにしても貴族のおじさんは本当に行儀が良い。ちょっと適当に話して一回ベッドの上でヤったら、満足してすぐにぐっすりと夢の中へと直行だ。
(楽だ)
看護師時代は主に病棟での勤務が主だった。病棟にいるのは老若男女様々な人物たち。迫り来る様々な恐怖に打ちのめされて泣いてしまう子供に、不穏状態となる老いた患者、セクハラ野郎にクレーマー等振り返ってみれば苦労まみれだったな。と自分でも頷いてしまう。
それから日々が過ぎ。またもワトソンからの茶会の誘いを受けたのだった。
「マーレ、良かったら名簿見る?」
「いいの? じゃあ見てみようかしら」
リズから名簿を受け取り、参加者の名前を見る。前回の茶会より大規模なものになりそうなのは人数からして明確だ。
その参加者の名簿にはなんとあの人物の名があった。
「サリオスがいる! メラニーも同伴か。カーティスもいるな……」
(メラニーとはこれが初対面になる……気を付けとかないと)
心の炎が静かに燃え上がろうとしている。
「今日はお招きいただき、誠にありがとうございます」
リズとキール、そして娼館トップの高級娼婦・クララと共に私はワトソン邸へとやって来た。ワトソン夫妻に挨拶すると、茶会が行われる大広間へと通された。
「皆様、どうぞお楽しみくださいませ」
「楽しい茶会にしましょう」
大人数による茶会が始まった。私は早速サリオスに目を付ける。いつも通りの軍服姿のサリオスには、常時装飾が派手な茶色と白のドレスを着たメラニーが付き従っている。
(一応挨拶いくか)
私はサリオス(とメラニー)に挨拶すべく、彼らの元へそっと近づいた。先に私の存在に気づいたのはサリオスだった。
「サリオス様、メラニー様。ごきげんよう」
「マーレか。今日はよろしく頼む。こちらが妻のメラニーだ」
メラニーはにこっと微笑みながら礼を返す。その表情からは鉄筋コンクリートで出来た頑丈なビルのような、余裕さが醸し出されている。
「メラニー様初めまして。マーレと申します」
「こちらこそ初めまして」
(ああ。きつそうな見た目だな)
メラニーは私を一瞥すると、すぐにサリオス……でもなく大広間の装飾や他の参加者達にきょろきょろと目線が移っていった。
(落ち着きがないのか何考えてるのかよくわからんな……)
その後他の参加者や、リズらと談笑し、時間は過ぎていく。
ある時私はリズと話をしていた。するとドン! と左肩に衝撃が走る。
「っ!」
メラニーとぶつかったのだ。その衝撃でメラニーと私が持っていたティーカップに注がれていた紅茶が私のドレスに丸ごとぶちまける。
「あっ」
(これは悪役令状ものでよくあるあれだ!)
「申し訳ありません!! お怪我はありませんか?!!」
私は「わざと」「大きな声で」メラニーを「気遣う」のである。看護師時代の経験が若干役に立った瞬間にもなった。
その効果かどうかは分からないが、メラニーは一瞬きょとんとすると、あ、あのーと言葉にならない声を出す。
「メラニー様、お怪我はございませんか? 大丈夫ですか?! やけどしてはいけませんので濡れタオルご用意いたしますね!」
「あっ……待って、大丈夫よ! 私無傷だから…!」
メラニーが私の動きを両手で制した。きっつくつり上がっていた眉は八の字に下がっており、見るからになんだか申し訳ないと言った表情を浮かべている。
このタイミングでサリオスとワトソンの妻マーガレットとそのメイドが2人、駆けつけて来た。
「大丈夫か?」
「ええ、私は大丈夫……」
「サリオス様、私も大丈夫ですわ」
(紅茶がぬるくて良かったわ)
「マーレ、替えのドレスを用意させるわ、ついてきて頂戴」
私はマーガレットに促され、シャワールームのある別室に通された。メイドら人がいなくなったのを確認してからドレスを脱ぎ、ポケットからスマホを取り出して、電源を付けると普通に起動した。
「良かったあ」
このタイミングで私はスマホで今日の茶会の参加者の情報を収集する事にする。ざっと目を通すとやはり「妻」では無く「妾」狙いの男が多い事に気づく。
そんな中カーティスは童貞で恋愛経験も無く、その事を両親、特に父親から心配されていると検索画面には表示されている。
(だろうな)
その後。スマホ検索を終えてさっとシャワーを浴び終えるとメイドが用意した変えのドレスに着替える。ドレスは青と白に黄色の華やかなものだ。
私はマーガレットとメイドに感謝を伝えると、大広間に戻る。
「マーレ、大丈夫?」
すぐさまリズ、キール、クララが私の元に駆け寄ってきた。次いでサリオスも姿を見せる。
しかし、メラニーはいない。
「メラニー様は?」
「ああ、ついさっきまではここにいたのだが……」
(え?)
メラニーが突如として消えた。その事実にサリオスも娼婦する皆も私も困惑の表情を隠しきれないでいる。
私はお手洗いに行くと言ってその場から離れた。メイドにお手洗いの場所まで案内してもらうと、個室に入ってスマホを開く。
個室の中は勤務場所の多目的トイレを2つ足したくらいには広い。
(位置情報はこれか)
すると、メラニーはワトソン邸の敷地内にいる事が分かった。私はスマホをポケットの中にしまいトイレの水を流して手を洗い、トイレから出るとメラニーがいる場所へと駈ける。
「えーーと、この辺に!」
誰もいない部屋の一角にメラニーはいた。箪笥の影に隠れるようにして、三角座りの状態で縮こまっている。その姿に悪役令嬢らしさはどこにも見られない。
「メラニー様、探しましたよ」
「なっ……マーレ?!」
「さあ、帰りましょう。皆さん心配していますよ」
しかしメラニーは嫌だと言って、まるで子供のように首を振る。私は何か嫌な事でもあるのですか?と問うと黙り込んでしまった。
「と、とにかく……嫌なの。出来たら私の事は放っておいて頂戴」
「わかりました」
(そう言われたらそうする方が良い)
私はメラニーに言われた通りに部屋から出て、大広間に戻った。サリオスにメラニーの様子を報告すると、頭を抱えいかにも困った様子を見せる。
「最近あんな感じでな……」
「そうなのですか」
(なんだろ、メンブレ?)
私は大広間全体に目線を向けると、いつの間にか忽然とカーティスの姿が消えている事に気づく。
(カーティスも消えた……?)
私は胸のざわつきを必死に抑えようとしていた。その為に近くにあった小さなハムロールサンドイッチを頬張るも中々落ち着かない。
(なんか嫌な予感がする)
その直後。カーティスが大広間に戻って来た。しかもメラニーを連れて。である。
(カーティスとメラニー?!)
その姿に大広間にいる男女はざわめきたった。サリオスも一瞬ぎょっとした目で二人を見るが、すぐさまいつも通りの軍人らしい顔つきに戻り、二人を出迎えた。
「メラニー、大丈夫か?」
「……申し訳、ありません」
しおらしい態度でメラニーは反省の意思を示す。サリオスはそんなメラニーを一瞥すると、カーティスに礼を言う。と告げ、メラニーの右肩をそっと抱いて大広間の隅っこにある椅子へと連れて行った。
そんなメラニーをカーティスは心残りがあるような目でしばらく見つめている。
(どういう事?)
その後。茶会はお開きとなり、私達は娼館へと戻ったのだった。しかし帰りの馬車の中でも、なぜカーティスがメラニーを連れて戻ったのか。カーティスのメラニーへ対する視線と胸の中で釣り針のように引っかかる。
(よくわからん……てかカーティスはメラニーがいる場所知ってた? 知ってたならどうやって知った?)
(まさか、私の後をつけてた……?)
その後。私は娼館の自室に戻り、今後の行動について考える事にした。
メラニーはあの落ち込み及びメンタルからしてただの悪役令嬢には見えない上、カーティスの行動にも謎が残る。
ここである案が閃いた。
「……いっそ、直接メラニーの元へ凸るか?」
もしかしたら、メラニー及びジェインが「何か」を知っている可能性がある。と私は結論付けたのである。
「こんにちは。マーレです」
私は今、サリオス一家の屋敷の玄関前に来ている。あれからサリオスに取り次いでもらって、正式に屋敷を尋ねる事が出来た。
ワトソン邸程ではないにしろ、こちらも十分広い邸宅である。
「マーレ様。どうぞこちらに」
うら若いメイドに付き添われて、私は邸宅の中へと入った。リビングに通されると、その真ん中付近の椅子にはメラニーが座っている。
「ごきげんよう。メラニー様」
私はぺこりとお辞儀をすると、メラニーは椅子に座ったままでごきげんようと硬い声音で返したのだった。メイドが損場から去ると、部屋にいるのはいよいよメラニーと私だけとなる。
「どうぞ座って」
「分かりました」
メラニーに促され、私は椅子に座った。メラニーと向かい合う格好だ。その構図に私は腹の内で彼女と向き合う覚悟を決める。
(さて、どう来るか)
「実はね。あなたの方からお会いしたいと申し出を受けて助かったの……」
「どういう事でございますか?」
私は彼女の言葉の意味が理解できずにいた。メラニーは私の事などお構いなしに少し間を置くと、思い切ったように口を開いた。
「あなた、マーレじゃないでしょう?」
(!!)
「え、どういう事で?」
「体はマーレだけれど、魂はマーレでは無いという事よ」
私がマーレでは無いと語ったその言葉に、私はまるで電気ショックを打たれたかのごとき衝撃を全身に受ける。
「どうしてわかったのですか?」
「だって私、マーレだもの。……より厳密にいうと私の魂はメラニーでもありマーレでもある」
「え……? え?」
今目の前にいるのは、サリオスの妻メラニーである。しかしそのメラニーはメラニーでもあり、マーレでもあると語っている。
「あなた、本当の名前を聞かせて」
メラニーが静かな口調で私へ語り掛ける。そこに怒りや憎しみと言った負の雰囲気はどこにも見当たらない。
私は口を閉ざし、彼女の様子を見つつ自らの身の上を語る意志を固めた。
(教えるか)
「久栖梨沙と申します。…梨沙って読んでください」
「リサ、ね。聞きなれない名前だけれど、良い名前だと思うわ」
「ありがとうございます」
私は事務的にぺこりと頭を下げる。メラニーの話はまだまだ続く。
「あなたはどうやってここに?」
(そう言われてもどう説明したらいいのか……)
私はなんかよく分からないけど気づいたらこうなってた。とメラニーに語ったのだった。メラニーは軽く頷きながら私の話を聞いていた。まるで何かを感じ取っているようだ。
「成る程ね……」
「何か心当たりでも?」
「いや、私もなんでこうなったのかわからなくて…ジェインに調べさせてもらってはいるのだけれど」
「ジェイン?」
(あの、屋敷に出入りしてるチャラ男魔術師か!)
思わず私は脳内で頷く。
(もしかして、浮気ではない……?)
私は意を決して、ジェインとの仲をメラニーに聞いたのである。
「調べさせてもらってるだけの仲よ。そういう気持ちは無いわ」
私はその言葉にほっと胸の中で息を吐いた。のも束の間。新たな疑念が生じてくる。
(じゃあ……カーティスは?)
「あの、こないだの茶会でカーティスと大広間に戻ってこられましたよね」
「ええ」
「それは一体?」
私は胸で生じていた疑念を丸ごとメラニーへとぶつけてみた。するとメラニーはそのまま実はね、と口を開く。
「前々からカーティスと話してみたかったのよね。あの方となら仲良くやれそうって言うか」
その言葉を聞いた私は脳内で「ギリアを胸に」のラストシーンが浮かび上がる。マーレとカーティスが結ばれ結婚式を挙げるシーンだ。
そこにはサリオスの姿は無く、マーレがカーティス以前関係を持った男も描かれていなかったと記憶している。
(やはりマーレだからか。カーティスに惹かれるのは……じゃあ、サリオスについてはどう思っているのだろうか)
「あの、ではサリオス様は……?」
「……もう、冷めてしまったというか……でも好きだったのに。なぜかはわからないのだけれど」
メラニーは首をかしげながらそう語った。自分でも何を言っているかよく分からないと言った表情に、私は頭の中でどういう事だろうかと呟きながらじっと注視する。
(サリオスは最近ご無沙汰だと語っていたし、今はサリオスよりカーティスの方が気持ちが勝っているという事か?)
メラニーは肩で大きく息を吐くと、視線を真紅のカーペットが引かれた床へと落とす。もう一度私の顔へ視線を向けたのはしばらくしてからの事だった。
「そうだ。あなたは気になる男性とかいる?」
「私は……」
(勿論)
「サリオス様です」
(私はサリオスくんが好きだ。推しだから。サリオスくんしかいない)
私はメラニーへはっきりとそう告げた。メラニーは一瞬目を丸くするも、すぐに穏やかな笑みを浮かべる。
「そうなのね」
「はい」
「なんだかすっきりしたかもしれない」
「?」
「よくわからないけど、何かね」
メラニーはくすっと微笑んだ。その表情からは雲一つない爽やかな青空が想起させられる。
その反応に私は目を丸くしている。更にメラニーが即答した少し経った後、部屋の扉を叩く音がする。
「どうぞ」
現れたのはチャラ男風の見た目をした若い男だ。その見た目通りと言うべきかへらへらと笑っている。
「この方がジェインよ」
「どうもーージェインでーーす。よろです」
(うっわ、チャラ男だ)
やはり喋り方も、へらへらとしている。私は彼のそんな態度に若干の嫌悪感を感じながらも我慢して挨拶をした。
「じゃあジェイン、約束の魔術をお願い」
「畏まりでーーす」
以前サリオスが私にかけたように、ジェインは上着のポケットから赤い毛糸を取り出すと、互いの先端を私とメラニーの胸に当てて魔術をかけた。
「はい、終了でーーす」
「ありがとう、ジェイン」
私もメラニーに続いてジェインにお礼を告げると、ジェインは右手を振って部屋から退出したのだった。
「ふう」
メラニーが息をつく。そしてまた私の顔にじっと真っ直ぐな視線を向けた。
「一緒に暮らさない?」
「は?」
あまりにも唐突な提案に私はもう彼女のペースに付いていく事が出来ずにいる。
(なんでこうどんどんと提案できるんだこいつ……)
だが、私の事などお構いなし。というペースでメラニーは話を続けていく。
「決めた。あなたを正式な愛人として迎えるわ。それなら私と色々共有できるしいいでしょ?」
「へ?」
「あなたもサリオスと一緒に暮らせるから、いいかなーって」
(そんな簡単なノリで?!)
…それからはもうあれよあれよという間に事が進んだ。
まずはなし崩し的に娼婦の仕事を辞める事となった。あまりにも急だったので、リズらは事態を飲み込めていない状態だった。勿論私も事態は呑み込めていない。
そして同居にあたって、邸宅のメイドらの紹介に、マルクとの挨拶を澄ませる。マルクは元気で明るい少年で、そろそろ軍の学校の寄宿舎での新生活が待っているのだという。
「マーレ様、面白い話聞かせてください!」
このように幼いながらも敬語を使ってしゃべるくらいには、しつけがきちんと施されている印象を受ける。やはり軍人の子として生まれたならそれ相応の教育を受けているのだろう。
「マーレ、急な話だったがよろしく頼むな」
サリオスとも話をし、正式に私は愛人として迎えられる事になった。
「はあ」
引っ越しが済み、与えられた部屋で私は椅子にもたれかかっている。スマホ充電にも使える黒電話もきちんと部屋の中に移している。
部屋をぐるりと見渡しながら、ぼそりと胸の内をつぶやく。
「今後どうすっかなあ」
夕食が始まった。この日のメインディッシュは鴨肉のステーキだ。濃厚なデミグラスソースにしっかりとした鴨肉との相性がばっちりと合う。
添えられた野菜にこっそりデミグラスソースをつけて食べてみたが、これもまた相性が良い。しかも今回はライス付きだ。不思議な事に形も味も日本のお米とほとんど変わらない。
私は右後ろにいたメイドに米の産地について聞いてみる事にした。
「このライスはどこの産地ですか?」
「西の方ですね」
「ありがとうございます」
メイドは透き通った声音で説明すると、ぺこりとお辞儀をしたのだった。この間サリオスとマルク、メラニーは黙々と夕食を食べ進めている。
そしてサリオスはというとライスとメインディッシュをあっという間に完食した。
「ステーキとライスのおかわりを」
サリオスの食欲は凄まじい。私はしばらくその光景が目に留まってしまい、ナイフとフォークが止ってしまったのである。
夕食は続く。静かな空気の中、口を開いたのはメラニーだった。
「今日もジェインと会ったの」
その言葉に、サリオスのフォークとナイフが止まった。
「何か話したのか?」
「メンタルについてね。ちょっと楽になれたわ」
「そうか」
メラニーは満足そうに微笑みを浮かべている。サリオスはそんなメラニーに対してそれ以上尋ねる事は無かった。マルクも何か察しているのか、何も言わずに黙ってライスを口に放り込んでいる。
(メラニー?)
メラニーの満面の笑みに、私はちょっとした違和感を覚えたのである。
「何か嬉しい事でもあったのですか?」
「ええ、ジェインと話せて楽になれたから」
「成程」
(こないだはカーティスと仲良くやれそうって語ってたのに、今度はジェインかい)
胸の内に引っ掛かりが残ったまま、夕食は終わったのだった。
こうして日もすっかり落ちて夜が来た。入浴を終え、白い寝間着を着た私はメイドに促されてサリオスの寝室で待機している。
(メラニー何かあったのかな)
夕食で見せた、ジェインの事を嬉しそうに語る彼女の笑みが未だに私の胸と頭の中で引っかかっている。
(もしやあのチャラ男何かしたか?)
すると部屋のドアが開いてサリオスが中に入って来た。私と同じ寝間着姿である。私はその場でサリオスに向けて礼をすると、サリオスは軽く一礼した。
「ここに来て初めてか、私と寝るのは」
「そうですね」
「今日はよろしく頼む」
サリオスの朗らかな笑みに私も同じように笑みで返すのだった。
夜。ベッドにてサリオスは憂いを含んだ目で私を見下ろしていた。私は彼の瞳に吸い込まれそうになるくらいに見つめてしまっている。
「マーレと再会できてよかった」
「サリオス様……」
「メラニーの心の中に私はもういないようだ……」
「…っ」
(夫の目の前で他の男の話をするのは流石に堪えるよなあ……)
私は無意識にそっとサリオスの頭を撫でた。サリオスはそんな私に驚いたのか一瞬目を大きく見開く。
「マーレ…」
「私がおります。サリオス様」
(そうだよ、私がいるんだから…)
心の中でそう呟く。
あれから。私はスマホで撮影したジェインとメラニーの秘め事の動画を再生している。しっかり音声も動画も撮影出来ていた。
(とりあえずこの動画達をサリオスくんに見せた方が良いのかな)
第一夫人の浮気不倫は重罪である。だが世間体というのもあるだろうし、何よりサリオスが今以上にショックを受けるのはサルでも分かる事柄である。
「どうしよっかなあ」
私がメラニーと全面対決姿勢であればサリオスへこの動画を躊躇なく見せていただろう。だが現状はそうでは無い。
(なんか、躊躇してしまうというか…)
未遂とはいえ良心の呵責に苛まれるという事はこういう事なのかもしれない。と私はスマホの画面を閉じて黒電話の横に置いたのだった。
夕方。ジェインはいつの間にか姿を消し、サリオスが軍から邸宅に帰って来た。私はマルクとメラニー、メイド2人と共に玄関で出迎える。
「おかえりなさいませ」
「ただいま」
「旦那様、先に夕食になさいますか?」
「ああ、そうだな」
にこやかに笑うサリオスだったが、その笑みは少しぎこちなく見える。その後私含め家族全員食堂の椅子に座り、夕食を取っている時だった。
急にメイドが青ざめた顔でこちらへと走って来る。
「旦那様大変です!王宮の警官達が…!」
すると間髪入れずに玄関の方から大人の男の声が聞えて来た。耳をつんざくほどの叫び声である。
「サリオス! メラニーとマーレを突き出せ!!」
「証拠はあるんだぞ!!早く出てこい!」
何が起こっているのか理解が出来ない。メラニーは両耳を手で押さえながらじっと座っている。マルク警戒しながらあちこちを見渡し、サリオスは何なんだ…?と呟きながら歩き出す。
「話してくる」
サリオスはそう言い残して早足で食堂から出て行った。
(一体何が起きているんだ…?)
結果から言うと私とメラニーは警官に逮捕され、今は王宮内にある塔の中にある牢に繋がれている。牢と言っても貴族用らしく、現代の刑務所とは違って部屋自体は割と広い。
(マジで意味わかんねぇ!!)
と言う事でこうなった経緯をもう一度振り返る事にする。
私はあの後やって来た警官達によってメラニー共々捕縛された。罪状は第一夫人の不貞及びそれを唆した事。要はメラニーの浮気は私が唆した。と言う事である。
(思い返してみてもなんでこうなったのかわけわからん)
告発者はジェイン。ジェインの言い分としては私がメラニーにジェインをたぶらかせと唆し、メラニーが実行に移した。ジェインはメラニーに襲われた。と言う事らしい。
そんなよく分からない言い分だが、この言い分をサリオスが信じているか否かが私にとっての一番の気がかりとなっている。
(ジェインの言い分を信用されたら嫌だ……)
と、ここまでがさっきあった出来事である。暗く光がほとんど入らない牢の中で私は石造りの床に腰を下ろした。
「冷たっ」
床はひんやりと冷気を纏っており、お尻にダイレクトに当たっている。スマホは死守して充電も90%残っているが、黒電話は無いので充電は出来ない。
「はあ……どうすっかなあ」
いつここから出られるかは分からない。私はその場で三角座りをして、小さく開いた窓の向こうを見つめるのだった。
捕縛されて2日目。私の体のあちこちから痛みが来ている。粗末なベッドと石造りの床の上で過ごすのがここまで堪えるとは頭の隅にも置いていなかった。
どうすべきかを考えた結果、1つ妙案が浮かんできた。それはスマホに収められたメラニーとジェインの秘め事を見せる。という事だ。
(これを見せれば、少なくともジェインが襲われた。と言う事にはならないはず)
というのもこの絡みのシチュエーションはどっからどう見てもジェインが攻めでメラニーが受けだったからである。むしろメラニーが襲われている。と言う風に捉える事も出来るくらいだ。
(メラニーがジェインにレイプされた。と証言すればどうにかなるんじゃないか?)
そして第一夫人の浮気は重罪だが、レイプは罪にはならず逆に襲った側の男が重罪となる。これも逆手に取る作戦だ。
(メラニーもきちんと救った方が、サリオスはショックを受けずに済むだろうし。その後どうするかはその時考えればいい。とりあえずこの動画を誰かに見せないと)
充電は残り60%。充電が尽きる前に誰かに見せねばならない。そしてここから出れない以上、わずかでもチャンスは無駄には出来ない。
かといって看守はあてにはならないのもある。実は動画を見せようとしたが口を聞いてさえくれなかった。
「話すなと固く申しつけられているので」
今振り返っても怒りが胃の底から押し寄せる程の態度である。
(どうしたらいいんだ)
すると、かつかつと靴の音が聞こえてくる。看守が4名ほどこちらへと近づいてきた。しかもサリオスを連れて、である。私は飛び出す勢いで入り口に向かう。
(来たっ!)
「扉を開けます」
なんと看守が扉を開いたのである。扉の向こうには険しい顔つきのサリオスがいる。
(あ……ここで喜ぶのはダメな方のフラグだ)
私は喜びを胸の内に秘め、真面目な顔をして彼らに目線を向ける。
そしてがちゃん。と重い扉が開いたのだった。
「マーレ……メラニーを唆したというのは本当なのか」
(やっぱ聞いて来るよな)
「教えてくれ。お前は本当に我が妻を唆したのかどうか……!」
サリオスの珍しく動揺している姿を見ながら、口を真一文字に結び首を横に振る。
(見せるならここだ。ここしかない)
「サリオス様ならびに皆様にお見せしたいものがございます」
その言葉にサリオス始め一同は、なんだ…?とざわめき始める。皆向ける視線はばらばらだ。そんな彼らに真っすぐ視線を投げかけながら、スマホを取り出して例のメラニーとジェインの動画を爆音で再生した。
「こうして記録として残っていますので、言い逃れは出来ませんよ」
「なっ……」
看守達のざわめきが一層激しくなる。
「これが動かぬ証拠です。皆様ご理解いただけましたか?」
ここで動画の再生をやめてスマホの画面を閉じる。看守達はまだざわめいていたが、サリオスは無言のまま突っ立っている。
そして固く閉ざしていた口をスマホを指さしながらようやく開いた。
「これはなんだ……鏡か?」
(と言う事にしておくか)
「ええ、そうです」
「この鏡に映っているものは本当なのだな?」
「ええ、本当です。事実です」
私はサリオスに真っすぐに視線を投げかける。サリオスは黙ったままだ。私はここで更に言葉を紡ぐ。
(ここで一気に決める…!)
「この鏡は真実だけを映します。というか考えてみてください。私はあなたの正式な愛人です。第二夫人です。もうこれだけで十分なのです。メラニー様が別の男と関係を持つように唆す動機など…今更ながら考えられますでしょうか?」
サリオスは目を見開いた。そして一瞬魂の抜けた顔を見せると、目を閉じてうんうんと何度も頷く。
「マーレ……私はお前を疑っていたようだ」
「サリオス様……」
「疑ってすまない。お前を信じよう」
(来た!)
サリオスの笑顔は、私の全身に温かいシャワーのように降りかかる。
その後。すぐさま国王同席の元裁判が始まった。私はようやく牢の外に出る事が出来たとはいえ、それは一時的なもので囚われの身である事には変わりはない。
メラニーも同じく牢の中から出る事は出来たが、彼女の表情は誰が見ても分かるほど完全に憔悴しきっている。
「では被告人、前へ」
裁判長に促され、私は法廷に出た。裁判長も国王も白髪交じりの髪をした中肉中背のおじさんである。
「名は」
「マーレです」
「では、そこに座れ。検察人は罪状を読み上げよ」
「はっ」
裁判の部屋にはジェインも座っている。そしてサリオスも同席していた。ジェインは憎らしい笑みを浮かべ、あちこちをちらちらと見ている。
対称的にサリオスは口を真一文字にぎゅっと結び、時折ジェインをにらみつけるような格好となっている。
私の罪状が一通り読み上げられると、証言が求められた。
(よし、見せるしかない)
私は看守とサリオスに見せたように、もう一度スマホを取り出してジェインとメラニーの秘め事を裁判長及び国王に見せた。勿論音量は爆音である。
「な、なんと……!」
その映像に国王と裁判長及びジェインは思わず目を丸くした。そしてメラニーの顔は完全にうつむいている。
(メラニーにはちょっと申し訳ないけど…)
そんな中でサリオスは微動だにしていない。分かり切っていると言った具合に腕を組んで座っている。
「これはジェインに襲われているメラニー様の様子です。わかりますか? ジェインはメラニー様を強引に抱いているのです!」
「なっ、てかお前……スマホ」
ジェインが声を荒げる。と同時に彼の口からスマホという声が聞えたのを私の耳は逃がさなかった。
(今スマホって言った? と言う事はまさか)
「今スマホって言いました?」
「はっ!」
「言いましたよね?」
スマホは現代の物だ。一応中世の時代である「ギリアを胸に」の世界にとっては完全にオーパーツな代物である。
それをジェインが知っている。と言う部分から考えられるのは私と同じ現代から転生してきた。という事だった。
それにチャラチャラした髪型も中世と言うよりかは現代っぽい。
「くっそ……」
ジェインは分かりやすくうなだれている。そんなジェインと裁判長と国王に私は更に追撃を決めていく。
「この動画に映っているのは全て真実です。陛下」
「……っ」
「サリオスは信じると仰っていただけましたが、あなたは?」
「なっ……無礼であるぞ!」
裁判長が私を制すると、国王はよい。と制する。
「本当なのだな?」
「はい」
「サリオスは?」
「その鏡に映っている事は全て真実かと」
「メラニー」
「……はい。全くもって事実でございます」
動画で自身が犯されている姿がばっちり映っているメラニーも、事実であると認めのだった。
「成程な……」
「国王陛下」
「私はこの鏡? スマホ? という代物に映されている物は概ね真実であると認めよう。裁判長は?」
国王の言葉に裁判長は目を大きく見開き、手を震わせながら小声で私も認めますと渋々答えるのが精一杯だった。
「いっ……異議あり!」
とここでジェインが叫ぶ。私は彼を制するべく口を開いた。
「自分の醜聞がこれだけさらされているにも関わらず異議ありですか?」
「なっ」
「スマホがどういう物か、あなたも分かっている筈ですが」
「ぐっ……」
「そしてそろそろあなたの正体を知りたいのですが。ただの魔術師じゃないでしょう?」
「ただのってなんだよ!」
「あなたはこことは違う所から転生してきたんじゃないですか?」
「ああ、そうだよ…俺は所謂異世界転生ってやつでここに来たんだ。いや、異世界転移の方が正しいか。それまでは…ホストやってた」
ようやくジェインは観念した様子で自らの素性について明かした。
「お前は何だよ」
(私も……言うべきか)
「看護師やってた。それで車に引かれて死んで、マーレになった訳」
あたりはざわざわ…と次第に騒がしくなっていく。
「あいつら、一体何を話しているんだ……?」
「異世界? 何の事だ」
先ほどまで腕を組んで無言を貫いていたサリオスも、流石に顔色が変わり驚きを隠せなくなってきているのが彼の表情で分かる。
(そりゃそうなるよなあ)
そんなサリオスからジェインに目線を移すと、彼は苦々しく口をゆがめている。そんな彼へ私は胸の内で沸き起こっている疑問をぶつける事に決める。
「なんでこんな事したんですかね?」
「全部言えってか」
「そらそうでしょう。いきなりあんたによってこうなってんですよこっちは!」
怒りもジェインにぶちまけた所で、彼は観念した様子で口を開いたのだった。
「広告で漫画知って、で、漫画読んでみたら主人公のマーレとやってみたいなって思ったのが最初のきっかけっつーか」
その後、この世界に転生した彼は、ある事実をスマホに届いたメッセージで知る事になる。それが私がマーレに転生しているという事だった。
「まさかマーレの魂が知らない女だなんて思ってもみなかったし」
それでマーレの魂を持つメラニーに茶会で偶然出会い、少しずつ薬を盛るなどして誘惑していったのだという。
かつ自分が犯した罪として糾弾されないよう、メラニーと私に罪を擦り付けたのだった。
「で、こうなったって訳」
ジェインは両手を広げながら悪びれずにそう言い放った。
「はあ?!」
至極どうでもいい理由から、こんな無茶苦茶な出来事が起きたという事を知り、私の中から思わず怒りが消えた。
(呆れた……ほんまこのチャラ男は!)
だが1つ疑問が残る。それは私とジェインのスマホに誰がメッセージを送ったのか。という事だ。どうやらジェインでは無いという事は分かったのだが。
「ジェイン、誰がスマホにメッセージを送ったのかは知らないの?」
「あーー、それはマジで知らん。なんか勝手に来てた。確か……」
「黒電話で充電する、とか?」
ふと私の口を割って出たこの言葉に、ジェインはそうそれ! とぽんと手を叩く。その軽いノリにはあっと小さくため息をつくが、黒電話というキーワードが手に入った事には一種の手ごたえを感じ取れた。
「おふたり、盛り上がっている所悪いがもういいかね?」
と裁判長が答えたので、私とジェインは互いにもういいです。と口をさっとつぐんだのだった。
(盛り上がりすぎたか)
「国王陛下、どうしますかね?」
そんな私をよそに裁判長は困ったように頭を掻きながら国王へと判断を仰ぐ。国王はうーんと右手を顎に乗せながらしばらく目を閉じて考えた末に、ではこうしよう。と語り始めた。
「あの鏡に映された物はおおむね真実であると私は認めた。ならもう無罪放免で良いのではないか?そのおなご2人は元の家へと戻すがよい」
(へ?!)
「ああ、それだとジェインは…嘘を言った事になるな。ふむ……では代わりにジェインを牢につなげ」
「はっはあ?!!」
国王は半ば投げやりな表情でそう答えたのである。答え終えると興味が失せたと言わんばかりに立ち上がる。
意味が分かんねえと叫ぶジェインなど気にするそぶりも見せず、その場をすたすたと後にしていく。
帰り際、国王は裁判長にそっと耳打ちしたのだった。
「へ、陛下!」
「後始末は頼んだぞ」
「は、はい……」
こうして。ぐだぐだでよく分からぬまま裁判は幕を閉じた。
「やっとゆっくり出来る…」
邸宅に戻りお風呂から出た後は、自室の椅子に座って本を読む。本自体は英語っぽいフォントで日本語では無いのだが、なぜか読める。
(これも転生で得たものなのかな)
そして部屋の中には変わらず黒電話がある。黒電話が視界に入った瞬間、私の脳内でジェインが裁判の時に発した言葉がそれぞれ浮かんで来た。
……この黒電話が何かカギを握っている。
「けど、どうしたらいいのかなー?話しかけてみるにしたってモノだしなあ」
試しに黒電話の受話器の真ん中を手ではたくようにして叩いてみる。しかし何も起こらない。
「うーーん……」
次に受話器を取って、電話するように左耳へと当ててみた。そして頭の中から言葉を絞り出し、声を出してみる。
「あの、私とジェインのスマホにメッセージを送ったのあなたですか?」
「そうです。私です」
(ファッ?!!)
確かにはっきりと受話器の向こう側から声が聞えた。しかも若い女性の声だ。と言ってもよくコールセンターとかで聞く、録音済みまたはAIで作られたような、機械的な声だ。
人らしさがどこか薄れたその声の主へ、私は質問を投げかける。
「なんで送ってみたんですか?」
「ファンの為です。広告からかマーレとサリオスがくっつくルートを望む声がたくさん聞こえてきましたので…」
受話器の向こうから聞こえてくる声は、なんだか申し訳ないとでも言っているような低くか細いものである。
「あなたは誰なんですか?」
と、ここで私は核心に迫るべき質問を投げかけたが、内緒だとはぐらかされる。
(あれか?この世界の創造主と言うかそんな感じか?)
「私の正体については答えられません。すみませんがご了承ください」
「そうですか」
低くか細いもののはっきりと拒絶するようなその態度と声に、私は正体について問い詰めるのはやめたのだった。
「ちなみにあなたが看護師をされてらした事は存じております」
その言葉に私はなぜ?と問い返したが、やはりはぐらかされるも、お会いしてお世話になった事があるとだけは答えてくれた。
(……患者かなあ。そんな患者いたっけ?)
そんな疑問をよそに、電話の向こうからはちょっといいですか? という声が聞えて来た。
「あのですね、元の世界に帰りたいですか?」
「え?! 私死んだんじゃなかったんですか?!」
「大丈夫ですよ。確かに死にましたけど」
(なんかいまいち会話がかみ合ってないような)
とツッコミを胸の内で入れつつも、彼女の提案に乗るかどうかを慎重に見極めていく。
確かに生き返って元の世界に戻れるなら生活面ではそちらの方がメリットが大きい。仕事はデメリットではあるが、やはり文明の発達に差があるのを考えると、現代の方が私にとっては都合が良い。
(だけど……)
サリオスとは二度と会えなくなる。かもしれない。というかサリオスは漫画のキャラクターなので、会えなくなる可能性の方がずっと高いんじゃないか。
それは気が引けるし、二度と会えなくなるならこの世界でずっといたい。
こればかりは相手に聞いてみないと分からないので質問してみる事に決めた。
「あの、生き返ったら……元の世界に戻ったらサリオスとは会えなくなるんですよね?」
「いや、そんな事は無いですよ」
「はい?」
そんな事は無い。という言葉が、頭の中で大きく響いている。
「どういう事ですか?」
「そのままの意味です。元の世界でもサリオスと暮らす事は出来ますよ」
(暮らすって……漫画のキャラクターとして?)
「漫画のキャラクターとして、ですよね?」
「いえ、普通に人として暮らす事も可能です」
「えっ」
つまりはサリオスが漫画のキャラクターから人になるかもしれないという事である。
「サリオスが人に、なるんですか?」
という声が震えている私の問いに対し、電話の向こうから聞こえてくる声ははい。とはっきり肯定した。
「そうです」
「そんな事が……可能なんですか?」
「はい」
「どうしてそこまで……」
と、胸の中で湧いた疑問がそのまま口を割って出てしまう。それに気づいた私ははっと口を押えようとしたが、相手の声の方が先だった。
「あなたには世話になったので」
と、電話の向こうの相手が言い終えた時、ドンドンと部屋の扉を叩く音が聞こえてくる。私は一旦切りますね。と前置きしてから急いで受話器を置いて、はーい。と叫んだ。
「失礼します」
現れたのは1人のメイドだった。私は何ですか? と彼女に聞く。
「メラニー様がお呼びでいらっしゃいます」
「メラニー様が? 体調は大丈夫なんですか?」
「はい、かなり回復されたとの事です。では……」
と、メイドは頭を下げて部屋から早足で去っていった。そんなメイドの後ろ姿を眺めながら私も部屋を出る事にする。
(なんだろうか)
あれから体調を崩していて寝込んでいたメラニーの部屋に入ると彼女はまだ寝間着を着てベッドの上に座っていた。顔色は少し良さそうに見える。
「ごきげんよう、メラニー様」
「ごきげんようマーレ。急に呼び出してごめんなさいね」
「いえいえ。お気になさらず。お話とはなんでしょうか」
「ああ、その……結論から言うとね……」
「はい?」
メラニーは一瞬真下へと視線を落とすが、すぐに私の方へと向き直した。
「サリオスとは離婚しようと思うの」
「え?」
メラニーの突然の離婚宣言に、黒電話との話に私の脳内はもうパンク寸前である。
「離婚、するおつもりで?」
「ええ」
「なぜ?」
「……もう疲れてしまって」
はあと大きく息をつくメラニー。私は黙って彼女の様子を見守りつつ、話を続ける。
「疲れたとは?」
「この生活に……でしょうね。私はサリオスの妻メラニーで、メラニーはサリオスとは親同士の斡旋で結ばれた仲。そして私はマーレでもある」
「ええ、そうですね」
「私は今、カーティスの事が気になるというのもあるし…それだとまたサリオスに迷惑をかけてしまう。だからもう離れた方がいいと思って」
(あ、ジェインからカーティスに戻ってる……)
「それに、メラニーとして生きるのに疲れちゃった」
メラニーが見せる笑みは、どこか悲し気なものに見える。私はそうですか。と答えるしかできなかった。
「あなたといた方がサリオスも喜ぶわ、きっと」
「そんな……」
「ふふ……」
メラニーとの話が終わって、部屋に戻る。部屋のドアのかぎをがちゃんと閉めて、もう一度黒電話の受話器を取った。
「もしもし、終わりました」
「お待ちしておりました。どうしますか? 元の世界へ戻りますか?」
(……なら)
「あの、1週間くらい時間ください。あっできたら2週間くらい!」
私が黒電話へそう伝える。自分でも驚くくらい、声には熱量がこもっていた。その熱をくみ取ってくれたかのように、人気はそこまで無いが穏やかな口調でわかりました。という声が聞こえてくる。
「ではまたお電話ください。待っています」
「! あ、ありがとうございます!」
受話器を置くと、思わずガッツポーズがあふれ出したのだった。しかしメラニーとの会話が脳裏によぎった私は、胸の中の熱が冷めていくのも感じてしまう。
「メラニー……」
私はもう一度メラニーの部屋へと向かう。
メラニーのいる部屋の前で改めて深呼吸をして、扉を3度ノックする。まもなく部屋の主のどうぞお入りくださいと言う声が中から響いてきた。
「メラニー様、すみません」
「ええ、大丈夫よ」
メラニーは先ほどと同じように寝間着を着てベッドの上で座っている。その両手には、お白湯の入ったティーカップが握られている。
「本当に、離婚されるおつもりで?」
「ええ」
「後悔しませんか?」
「ええ、もう決めた事だから」
メラニー笑ってはいるものの、その笑みは硬い。
「本当に?」
「ええ。だって離婚すれば私に合わない役割を演じなくていいもの」
その言葉にメラニーの意思が固い事をどんっと崖に落とされるように突きつけられたような、そんな感覚を覚えたのだった。
それから、夕方に帰宅したサリオスへメラニーは離婚の意思を伝えたようで、メイド達はばたばたと慌ただしく動き始めている。
「……」
そんな様子をマルクはいつもの利発そうな表情を崩さず、黙って見つめていた。メイドの1人に聞けば、彼は学校での生活を控えているのでこのままサリオスの元へと留まるのだという。つまり母親とは生き別れになる可能性が出てきている。
「マルク」
「マーレ様」
「寂しくないの?」
「……いえ、大丈夫です」
その笑みは先ほどメラニーが私へ見せたものとそっくりだった。穏やかだけれど硬い笑み。その笑みを見た私は胸の真ん中がちくりと痛む。
「いつかは別れますし」
「……強い子ね」
「そうでしょうか」
「無理はしないでもいいのよ」
私の言葉にマルクはほんの少しだけ、頷いた。マルクはありがとうございます。と礼を言って自分の部屋へと戻っていった。
「強いなあ……」
という私の言葉が、じんわりと身に染みる。
「今までありがとうございました」
メラニーの出立の日があっという間に訪れた。大きなトランクを持ち帽子をかぶったメラニーへ、私とマルクは玄関にて彼女へ挨拶をする。
「マルク、ごめんね。頑張って自分の夢を叶えてね」
「はい」
「マーレ、後はお願いね」
「はい」
こうしてメラニーは家を去っていった。最初、ドテンプレな悪役令嬢に見えた彼女は実は優しく穏やかで、最後の最後まで自由だった。
そして私は後妻として正式にサリオスに迎えられる事となったのである。派手な結婚式は私の意向もあって挙げる事は無かったが、それでも祝う事は出来たのである。
「それでは行ってきます」
「マルク、強くなれよ」
「はい」
マルクもまた、陸軍の学校へと入学し邸宅は私とサリオスの2人だけとなった。勿論メイド達も健在だ。その変化もあってか、サリオスが陸軍にいる日中はとても静かになった。
黒電話との話を終えて4日が経とうとした日の夜。サリオスから驚きの提案を受ける事になる。
「良かったら、旅行に行かないか?」
「旅行、ですか?」
「ああ、明日から3日程休みが取れてな。2人でゆっくりするのも良いと思ってな。マーレはどうだ?」
「はい、勿論行きたいです!」
断る理由は勿論無い。推しとの旅行が決まった事で、私の胸の中の鼓動が速くなっていく。
(よし、よしよし!)
朝。身支度を済ませた私は黒電話と正面から向き合っていた。ちなみに旅行の目的地は海沿いにある別荘である。
息を二度吸って吐くのを繰り返した後、受話器を取って、もしもしと声をかける。
「おはようございます」
「おはようございます」
「今からサリオスくんと旅行行ってきます。返事はその後でもいいですか」
「いいですよ。無事をお祈りしています」
「ありがとうございます。あとこの事を…サリオスくんへ伝えても良いですか?」
「はい、勿論」
通話を終えて受話器を置き、荷物を持って部屋を出る。玄関にはもうサリオスとメイド、そして馬車が待機していた。私は慌てて遅くなりすみません。と馬車の前まで向かうとサリオスからは焦らずとも良い。となだめられた。
「では、いってらっしゃいませ」
「いってくる」
「いってきます」
メイドらに挨拶を済ませて、私はサリオスと共に馬車へと乗り込む。
(よし、思い出作るぞ)
馬車の乗り心地には思ったより振れ幅があった。揺れるときは大きくがたごとと揺れるし、揺れない時は揺れない。私は幸い乗り物酔いとは無縁ではあるが、人によってはきつい道のりになっていたかもしれない。
サリオスは終始、窓の向こうの景色を見つめている。その横顔は憑き物が全て落ちたかのように、晴れやかだ。
「そろそろつくな」
サリオスの言葉通り、しばらくして馬車の動きは止まった。サリオスに促されて馬車の外に出ると、そこには中世のお城に広い芝生の庭園、山と海に囲まれた景色が広がっている。
更にほのかに磯の香りが広がっており、鼻腔を刺激する。
「良い景色ですね」
「そうだろう。幼い頃はよく行っていたものだ」
「そうなのですか」
「ああ、昔は……」
サリオスが私に目線を向けながら昔話を語り出した。海で貝を取ったり、鯨を探したり、山へ山菜やキノコを取ったり、メイドと共に庭園の整備をしたり…と充実した思い出を穏やかに語ってくれた。
「マーレ、ここはとても良い所だ。楽しんでくれたら嬉しい」
「はい!」
別荘に入自室へ荷物を置く。部屋の中はサリオスの邸宅にある私の部屋よりも古風だが、広さは変わらない。その足で私はサリオスと共に海へと訪れた。
「貝、ありました!」
さっそく浜辺の白砂に半分埋もれかかっていた貝を見つけた。サザエっぽい見た目で色は白ベースに茶色い縞模様が入っている。
「ああ、よく見るやつだな」
「そうなのですか?」
「ほら、こっちはもう2個見つけた」
サリオスは私が持っている貝と同じ貝を2個、左手に持っていた。縞模様の入り方に若干ばらつきはあるものの、同種なのは間違いないだろう。
「これはどうだ?」
更にサリオスが貝を拾い、私に見せてくる。
「わあ」
「綺麗だろう?」
その貝は内側がオーロラのようにきらきらと光り輝いていた。おそらくは夜光貝、螺鈿でよく使われている貝に見える。
サリオスはその貝を右手でつまむようにして持つと、近くまで顔を寄せてじっと覗き込んでいる。
「この貝の内側をはぎ取って、装飾として使うのだ」
「成程……」
サリオスの話を聞く限り、この世界にも螺鈿の技術はあるようだ。そしてサリオスは貝をじっくりと観察しながら、このような貝が好きなのだと語る。
「これ……夜光貝でしょうか」
「そうだ。合ってる」
「良かった、合ってました」
(あってた)
聞けばサリオスは幼少期から夜光貝をよく集めていたという。それは今でも変わらないのだとか。
「では、一緒に集めませんか」
「そうだな。マーレは貝に興味あるのか?」
「あんまり詳しくはわかりませんけど……」
「そうか、では一緒に探した方がよりいいな」
その後もサリオスと共に浜辺で貝を探し、拾い続けたのだった。
昼食を取った後は、サリオスと共に部屋でティータイムを楽しむ。
「紅茶の銘柄を変えてみた。どうだ?」
「爽やかで……飲みやすいと思います」
「そうか、なら何よりだ……所で」
サリオスが紅茶の入った白いティーカップをすっと机に置いた。そして私へ真っすぐな目線を向ける。
「こないだの裁判の事だ。あれは一体何を話していたんだ?」
(!)
ジェインとの会話の事を指しているのはすぐに理解できた。私は思わず目線が泳いでしまう。
「教えてほしい。一体何だったのか」
「サリオス様……」
サリオスが向ける視線からは逃れられない。私は一つ二つ深呼吸をして、すべてを打ち明ける覚悟を決めた。
「長くなりますけど、聞いてくれますか?」
私は全てを包み隠さずサリオスへ告げた。私は久栖梨沙というこの世界とは別の世界にいた人間である事。漫画…本でサリオスを知り、推すようになった事。本ではマーレはカーティスと結ばれた事。そしてマーレ本人はメラニーと合体していたという事…
それらを全てゆっくりと、打ち明けた。
「……」
話が終わった後もサリオスは黙ったままだ。言葉を必死に絞り出そうとする彼を見て、私は少し胸が痛みながらも、最後にこう付け足した。
「サリオス様、私のいた世界へ行きませんか?」
「なんだって……?」
「嫌であれば、私はこのままこの世界に残ります」
サリオスは黙ったままだ。目線はあちこちに泳ぎ、いかにも落ち着きのない様子であるのがひしひしと伝わって来る。全て話しつくした私はそんな彼を黙って見る事しか出来ないでいる。
「……そうだ」
ここでようやくサリオスが口を開いた。
「まずはお前がいた世界がどんな世界だったか聞きたい」
「サリオス様。ではご説明いたします」
「ああ」
「一言で言えば今よりも文明が発達した時代です。馬車では無く四角い形をした車という物が平らに舗装された道を疾走しています。そして、衣服に家も大きく違いがあります」
「そうなのか」
「はい。不便な所はありません」
サリオスは腕を組み、うーーんと悩ましい声を出している。
彼ははたして、どのような決断を下すのだろうか。
「少し、考えさせて欲しい」
サリオスはひねり出すようにそう告げると、紅茶を一口飲み込み、ティーカップを持って静かに椅子から立ち上がる。
「済まないがしばらく1人にさせてくれないだろうか」
「……分かりました」
私はそう言う他無かった。1人ぽつんと残された私もティーカップを持って自室に戻る事にした。
到着すると部屋の扉の鍵を閉めて、ベッドの上に座る。
「はあ……」
(そりゃ、そうなるよな)
胸の中がどうにも落ち着かない。背中も同じだ。どこか痛くて冷たくて寒い感覚が胸の奥の奥からとめどなく溢れ出ている。
(もしかして嫌われた……? 私、マーレじゃないから? マーレを名乗っていたから?)
紅茶の水面に映っている自分の顔が、これまで見てきた自分の顔の中でも一番醜く見えてしまう。
「はあ……」
頭の中ではマイナス、ネガティブ、不安といった内容の言葉がぐるぐる回りだして止まらない。
その流れを止めたいのだが、どう止めたら良いのだろうか。
私は水面に映る自分の顔をかき消すように、紅茶を全て飲み干すと、立ち上がって、近くの小さな棚の上にティーカップを置いた。
ガシャン
その時、私のスマホが服のポケットから落ちた。音を立ててカーペットの上に落ちたスマホを慌てて拾い上げる。
「わ……」
幸い、スマホのどこにもヒビや傷は入っていなかった。試しにスマホの電源を入れると、問題無く反応する。
「良かったあ」
そして何事も無かったかのように、「ギリアを胸に」のサリオスのイラストが画面には表示されていた。
「あ」
(サリオスくんだ)
推しの姿が描かれたイラスト。そのイラストを見て、広告で彼と出会ってからずっと彼の事を考えて来た事が頭の中で改めて浮かび上がった。
(そうだ……)
サリオスには幸せになってほしい。サリオスには主役のマーレとくっついて幸せになってほしい。出番もあってほしい。しかしそれは漫画の中では叶わなかった。
だから私はマーレに転生した時、マーレとして振る舞った。サリオスとくっつきたくて、その為に精力剤を盛ったりクラウドやカーティスには冷たく接した。
サリオスには、マーレとくっついてほしかったのだ。
それからサリオスとは全く会話が無いまま、帰る日の前日の夜を迎えた。
「夕食も1人かな」
そう自室の中でぽつんと呟く。すると1.2分ほど経って部屋のドアをノックする音が聞こえてくる。はい、と返事をしてすぐに年老いたメイドが1人部屋の中に2歩ほど入って来た。
「お夕食は旦那様と一緒に食べられますか?」
「え……」
「旦那様はぜひご一緒したいとの事です」
私は断る理由も無いので了承すると、メイドはすぐに来るようにと告げた。メイドに案内されて食堂に入ると既にサリオスが席に座っているのが見える。
「こんばんは」
私がおそるおそるサリオスへ挨拶をすると、彼は無言で頭を下げた。席に座ると、先ほど自室へ入って来た年老いたメイドともう1人、30代くらいのメイドがそれぞれ前菜を持ってくる。
「すまない、2人だけにしてほしい」
と、このタイミングでサリオスはメイドにそう伝えた。メイド2人は頭を下げて食堂から退出し、ドアを閉めた。
「……」
ただでさえ曇り空な空気が更に曇るのが分かった。サリオスは何も無かったかのように前菜を食べているが、私は前菜を食べようにも手が震えて思うようにフォークとナイフが扱えないでいる。
「では、話をしようか」
手の指の震えが止まらない私へ追い打ちをかけるように、サリオスが口を開いた。
「は、はい……」
私はなんとかフォークとナイフをなんとか置くと、サリオスを見る。彼の鋭い視線に思わずひるみそうになるが、ここは推しでもある彼をじっと見つめる。
「まずはお前の考えを聞きたい」
「私、ですか」
「そうだ」
サリオスに促され、私は語る。
「私は、自分の考えを押し付けていました……私はマーレとサリオスがくっついて幸せになってほしかったんです」
「……うむ」
「ですが私は死にました。ですがそこからマーレに生まれ変わったんです。だから」
「私に近づいたと」
「そうです。サリオスとマーレが漫画の中で結ばれなかったのが……辛くて悔しかったんです」
私の想いを聞いたサリオスは目を細めた。
「私は、マーレを愛していた」
サリオスは私では無い部屋のどこか遠くを眺めながら、過去を懐かしむような口調で語り出した。
「マーレとは婚約していたが、破棄となった。そして私はメラニーと再度婚約をしたのだが、それでもマーレの事は忘れられずにいた」
「サリオス様」
「だがお前から全てを聞いた時、混乱してしまった。マーレの中身は別の女性……お前の魂となり、マーレの魂はメラニーの魂と一体化してしまった。誰が誰なのか分からなくなってしまったのだ」
言われてみればサリオスが混乱するのも無理のない話だ。見た目は良く知るマーレそのものでも、中身は私・久栖梨沙という全く違う人物である。そしてメラニーもまた、見た目はメラニーそのものでも中身はマーレとメラニーが一体化しているという訳である。
訳が分からなくなるのも、仕方ない。
「お前、名は梨沙と言ったな」
ここでサリオスに私の本当の名前を聞かれたので、私は素直にはいと頷いた。
「梨沙、お前は……私の事をどう思っているんだ」
聞かれるまでも無い。推しだ。大事な……推しだ。
「勿論大好きです。推しています。ただ……」
「ただ?」
「私、サリオス様におせっかいを押し付けてたのかもしれません」
「おせっかい?」
「はい、マーレとサリオスが結ばれてほしいっていう、私の願望を……です」
振り返ればこの願望の為に、私はサリオスに精力剤を飲ませたり誘惑したりとしてきたのだった。そこへサリオスの事を考えた部分はあっただろうか?
いや、無いかもしれない。
ここでサリオスが私に獣のような視線を向け、口を開く。
「では聞こう。そのおせっかいが先か、私を好きになったのが先か」
「…」
「どちらだ、或いは両方か? 答えてほしい」
「……あなたが先です。広告で見て好きになって、そしてマーレと結ばれてほしいと思ったけど…漫画はそうは進んではくれなかった……」
「なんだ?」
ここで私はある事に気づく。それは自身を漫画内のマーレに投影させていた、と言う事だった。
「そうか…私、大事な事に気づいたんです」
「それは何だ?」
「漫画を読んでいる時、自分をマーレに投影させてたんです」
「投影?」
サリオスが私にそう尋ねた。その為私は身振り手振りで、自分の姿を漫画内のマーレに自己投影していた。つまり私はマーレに自分を重ね、マーレに成りきっていたという旨をサリオスに説明する。
「例えばある物語の中で囚われのお姫様が出てきたとします」
「うむ」
「読み手がその囚われのお姫様に自分を重ねたりする……と言った具合です」
「成程な」
サリオスはうんうんと2.3度大きく頷いた。その様子は私の説明を上手く咀嚼しているような、そんな具合に見えた。
「そう言う事、か……」
「はい」
「つまりは…私の事は純粋に好きで、そこには裏も何もないのだな?」
「はい、ありません」
「……」
サリオスは天井、部屋の壁、残り少ない前菜とあちこちに目線を移す。それが3分ほど続いた。この約3分の時間が半日かかっているくらいに長く感じる。
(サリオスくん)
耐え切れなくなった私が祈るような目で彼を見た時、サリオスは真一文字に結んでいた口をようやくゆっくりと開いた。
「結論を言おう」
「は、はい」
「梨沙、お前と暮らしたい」
「!」
(う、うそっ)
お前と暮らしたいという熱のこもった言葉に、私の体に雷が落ちたような熱い衝撃が降って来た。彼の話はまだ続く。
「そこでだ、梨沙」
「はい」
「お前がいた世界でも私が暮らせる、と言ったな?」
「はい、そうです」
「そちらで暮らしてみようと思う」
「え?」
そちらで暮らしてみようと思う。つまりは私が死ぬ前にいた世界……現代で暮らしたいという事になる。目を丸くさせたままの私に、サリオスは優しく穏やかに語る。
「もうマルクは学校に入ったし、良い子だから心配はいらない。メラニーもいない。私にはお前しかいないからな」
「サリオス様」
「それなら後腐れも無く、そちらに行けるだろうと考えてな」
「本当にいいんですか?」
私の問いにサリオスはふっと笑みを見せたのだった。
「ああ、梨沙。一緒に暮らそう」
「……はいっ!」
それからサリオスはメイドを再び呼び、メインディッシュが運ばれてきた。
「この地で育った豚のステーキとなります」
老いたメイドがそう自慢げに語る。聞けばこの地は海産物に穀物が豊富に取れ、それらの一部を餌として与えられ育った豚なのだという。
「とても美味しいですよ、おかわりもありますからね」
「ありがとう」
サリオスはライスと共に笑顔を見せながら豚のステーキを頬張っている。私も食べてみたが柔らかい肉質にステーキソースがよく合ってとても美味しかった。
ナイフであっさり切れる程の柔らかさに、豚肉のほんのりとした塩味としょっぱすぎず薄味過ぎないソースが絶妙なバランスを醸し出している。
「美味しいです……!」
「ふふっありがとうございます」
こうして夕食が終わり、夜。私は入浴を済ますとサリオスに呼ばれて寝間着のまま彼のいる部屋に向かった。
「ここからの景色も良い眺めだと思ってな」
窓の向こうには星に照らされ青白く輝く砂浜と大海原が見えていた。そしてその上には星が煌めく夜空が無限大に広がる。
「わあ」
私は思わず転生前の癖かスマホを取り出してその景色を写真に収める。その様子をスマホをまだよく知らないサリオスは不思議そうに見つめていた。
「なんだそれは?」
「この景色を残せるんです」
「あの裁判の時に見せたような?」
「ええ、そうですね」
私は何枚か景色を写真に収めたのち、スマホを寝間着のポケットの中にしまった。サリオスは夜景を感慨深そうに眺めている。
「梨沙のいる世界でも、このような景色は見られるのか?」
「どうでしょう? 私がいた家からは見られなかったけど、探したらあると思います」
「そうか。では目に焼き付けるとしよう」
サリオスはその後もじっと夜景を眺め続けたのだった。
翌朝。いよいよ邸宅に戻る時が来た。荷物をまとめ終え着替えも済むとサリオスと共に馬車へと乗り込む。馬車が進みだした時、年老いたメイドがにこやかに笑いながら礼をして見送ってくれた。
邸宅に到着し、私はすぐにサリオスを連れて自室の黒電話の前に立つ。
「これは」
「この受話器を取ると、話が出来るみたいです」
「して、相手は?」
「教えてくれなかったので、それ以上は聞きませんでした……」
ここで私は受話器を取り、帰宅しサリオスと共に元の世界へ戻る意志を示す。電話の声の主は機械的だが少しだけ温かみが感じられる声で、そうですか。わかりました。と告げる。
「それでは、元の世界へ転送開始します。お2人は手をにぎっていてください」
彼女の声が言う通りに、私はもう片方の手でサリオスの手をぎゅっと握る。握って五秒ほど経った時、視界は真っ白一色に包まれた。
目が覚めると、視界には見覚えのある天井がぼんやりと映し出される。そう、自分が住んでいたマンションの自室だ。
「あ……」
ベッドの右横、壁沿いに置かれた目覚まし時計は20日の夜の21時を指している。そして目覚まし時計の上にあるシフトが書かれたカレンダーには、20日は休日である事も確認でき、同時に当時の記憶がおぼろげながら、脳内で再生される。
「そうだ、この日は休みで次の日が夜勤だったか」
カレンダーに目を通して左に向き直った時、ベッドの下に何かあるのが見えた。私は這ってベッドの下を確認するとそこには彼が倒れているのが見える。
「サリオス様……!」
「ん……」
あの軍服姿の、あの漫画のままのサリオスがそこにはいた。サリオスがゆっくりと目を開くのを見た私は、思わず彼の肩に手を添える。
「サリオス様!つきました!」
「そうか…」
「ここが…私のいた世界です。部屋はちょっと狭いですけど……」
私が苦笑いを浮かべていると、サリオスは床に手を付き、立ち上がって私に抱きついた。
「いや、狭くても良い」
「あ」
「お前と一緒ならどこでも良い」
サリオスの暖かな体温が、じんわりと胸の奥にまで届くのが分かる。そして呼応するかのように涙が溢れてきた。
「これからも、ずっと一緒だ」
「はい……!」
サリオスとの新たな生活が、始まった。彼へこの現代社会の仕組みを一通り伝えた後、何をしたいか聞いてみるとこのような答えが返ってきた。
「料理をしてみたい、と思う」
「料理ですか」
「ああ、陸軍にいた時は兵站を専門にしていたからな。それもあって料理には興味がある」
「成程…」
「梨沙、良かったら色々教えてほしい」
と、サリオスが語るので私は目を閉じてサリオスが一番最初に作る料理は何がふさわしいかを思案してみる。しばらくしてひらめいたのは…
「じゃあ、カレーライス作ってみます?」
ーーーーー
こうして私はこれまで通り看護師として働く日に戻ったのだった。これまでの違いは自宅に戻ると必ずサリオスが迎えてくれるという事だ。サリオスはあっという間に家事を覚え、手の込んだ料理も作れるようになっていった。
「ハヤシライス作ってみたが、どうだろうか?」
「とても美味しいです! 丁度良い酸味と甘さですね」
「そうか、それは良かった」
ある日。この日は夜勤だった私はナースステーションにて引継ぎを終えると、患者に提供された夕食の片付けに向かっていた。
「後は、ここの個室か。失礼しまーーす」
私が個室に入った時、ガシャンと何かが落ちる音がした。音の方に駆け寄ると黒いタッチペンが落ちていたのですぐさま拾い上げて患者へ渡す。
「あっすみません、ありがとうございます」
「いえいえ」
「夕食頂きました。美味しかったです」
「では夕食おさげしますね」
患者は私より数歳年上の女性だ。眼鏡をかけて黒いロングヘアをした彼女は、自宅で転んで肋骨を折ってしまい入院生活を送っている。そんな彼女は白いキャスター付きのテーブルを自分の目の前に配置し、テーブルの上には全て空っぽになった夕食と、筆記用具とスマホ、黒いタブレット端末が置かれている。
そのタブレット端末でどうやら何かしていたようだ。そして患者の声。どこかで聞いた事があるような…
「何か書かれているんですか?」
「あっはい。実は私漫画家なんです」
患者が画面を見せるとそこには見覚えのある姿が映っていた。そう、サリオスである。しかも画面に映し出されているのはサリオスが映っているコマ(線画)である。
「これ、もしかして「ギリアを胸に」のサリオスくんですか!?」
「え、知ってるんですか?」
「はい、サリオスくん好きなんで…!」
「そうなんですか!嬉しいです…!あ、実はですね…私、「ギリアを胸に」の作者なんです」
「え」
そこにいるのはあの「ギリアを胸に」の作者である。私はその事実を受けて思わずその場で卒倒しそうになるのをお腹に力を込めて気合いで沈める。
「それでこれは内緒にしたいんですけどね、今はサリオスルートの話を書いてるんです」
「えっ!」
「本編はカーティスエンドだったんですけど、広告のおかげかサリオスルートが見たいっていう声をたくさん聴きまして。というかカーティスよりもサリオスの方が人気みたいで…ちょっと複雑と言うかなんというか」
「そうだったんですか……」
「あ、内緒ですよ!これオフレコでお願いします!!」
患者がそう慌てて両手でバツ印を作りながら訴えてきたので、私は夕食のお膳を持ちながら誰にも言わないと約束したのだった。
それから半年後。職場の休憩室にてネットサーフィンをしていると、サイトの下の方に新たな「ギリアを胸に」の広告バナーが飛び込んできた。
「え」
その内容に私は勢いに任せて飛び上がる。なぜなら、それは
「マーレに転生したサリオスの夢女子が、彼の愛人となる話」
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