【7】浮き井楼
昭和三十四年──西暦一九五九年。
愛知県内の旧家の土蔵が伊勢湾台風で破壊された際に発見されたといわれる文書が『武功夜話』である。
戦国時代後期を生きた古老からの聞き書きとして江戸時代初期に成立したもの、という体裁をとるが、原本は非公開とされて少数の関係者の目にしか触れていない。
昭和の『発見』後の活字刊行本を分析した研究者からは、本文中に表れる地名や語彙から見て明治期以前の成立とは考えにくい旨の疑義が唱えられている。
とはいえ同書に記された織田信長の事績と、彼の創業期を支えた『田野の者』たちの動向は迫真の筆致で描かれる。
実際の成立年代がどうあれ、郷土史に関する豊かな知識に基づいた著作と考えてよい。
『田野の者』とは『武功夜話』の主要登場人物である、蜂須賀小六、前野小右衛門、坪内惣兵衛らの一党が自ら称したことである。
彼らが主君を持たない在野の士であると唱えているのだろう。
また『無足の者』と呼ばれる場面もあるが、『足』とは軍役その他の主君に対する義務の負担を伴う領地支配権である。
『無足』という場合、古くは武家の奉公人のうち領地を持たない軽輩な身分を指したが、中世後期から近世にかけては本来の字義通り、一定の支配地を有しながら──自ら耕作する田畑に過ぎないこともあるが──それへの課役すなわち義務を課せられていないことを意味するようにもなった。
『武功夜話』において『無足の者』という言葉が表れるのは、織田信長が尾張一国をほぼ掌中にしながら、駿河・遠江二ヶ国の太守にして三河国をも併呑した今川義元により東方から圧迫を受けていた、かの『桶狭間の戦い』を間近にした状況でのことである。
その時点で蜂須賀、前野、坪内らの一党は信長への協力姿勢を示してはいたが、『無足の者』という呼び名には、なおも信長に完全には服従していない一党の独自性が示されている。
しかしながら『武功夜話』は、彼らを独立不羈の野武士集団として描いたばかりではない。
蜂須賀、前野、坪内らが木曾川流域に勢力を伸長させてその水運交通を掌握し、地域経済に大きな影響力を持ったとするのである。
『武功夜話』は、彼らを『川並衆』と呼称した。
ところが──同書以外の史料に『川並衆』の名は表れないため、これを『武功夜話』の著者による造語とする見解もある。
だが、そうであったとしても、木曾川の流域経済を『田野の者』が支配したとする描写は充分な説得力を備える。
『武功夜話』が説くところは歴史的事実として正確とは限らないが、荒唐無稽な『御伽話』と断じることもできないだろう。
そして、光秀の生きる『この時代』において、蜂須賀、前野、坪内たちは確かに木曾川流域を支配していた。
『武功夜話』と異なっていたのは、彼らが『川並衆』のような全体としての呼称を持たないことで、それぞれの家長が頭領として一族郎党を束ね、各集団には『蜂須賀党』『前野党』などと頭領の名が冠せられていた。
その一方で彼らは互いに婚姻関係を結んで利害の調整を図り、必要なときには共闘して数千の兵を動員し、近隣の大名や領主たちに圧力をかけることも可能な一大勢力となっていた。
光秀は、この『川並衆』と親交を取り結んだ。
『川並衆』に対しては、織田信秀が尾張領内における通行の自由や商取引上の特権を保証して味方に取り込もうと働きかけていた。
光秀は『川並衆』に、信秀は斎藤道三との対決を望んでいるのだろうが稲葉山を攻めるには相当の犠牲を払うことになるし、『川並衆』は使い潰されるばかりであろうと説いて、彼らに信秀と距離を置かせることに成功した。
稲葉山に尾張勢が攻めかかれば、その退路を断とうという光秀の計略は、『川並衆』が尾張方につけば成就しない。
尾張勢に木曾川を渡らせるのが尾張領内の町や村から徴用された非戦闘員の水夫であればこそ、数の限られた光秀配下の兵でも殲滅することができるのだ。
そして『井ノ口の戦い』で光秀は狙い通りに織田信秀を討ち取ると、ただちに使者を蜂須賀、前野、坪内らの許へ走らせ、勝幡攻めへの協力を要請した。
光秀には『川並衆』が必ず手を貸すであろうという確信があった。
織田信秀が討たれた尾張方は、この先は落ち目になることが目に見えており──まだ尾張には織田信長という怪物が控えていることは知られていない──、それよりは美濃方に肩入れするほうが利益になると、彼らも計算するはずだからだ。
果たして『川並衆』は勝幡城攻略のため、光秀が期待した以上の兵力を提供して来た。
その数、およそ二千。
すでに指揮下にある兵と合わせて約三千で、光秀は勝幡城に夜襲を仕掛けることになった。
全ての兵を勝幡まで運ぶ舟も『川並衆』が提供した。
もちろん木曾川を知り抜いた『川並衆』でなければ、中洲や浅瀬、分流の多い木曾川を日没後に航行することなど、できるものではなかった。
「──しかし思いのほかに、しぶといのう。弾正忠の討死の報せが、この城の者どもには届いておらぬのか」
竹腰道塵が、呆れ気味に言った。
木曾川の支流の一つ、三宅川の西岸に設けた、光秀たち美濃勢の本陣である。
竹腰道塵、日根野九郎左衛門、それに光秀と、斎藤道三が付けて寄越した軍目付の乾内記が、並んで床几に座している。
川沿いには葦の繁みが続いているが、この辺りは平坦に開けて、小さな船着場が設けられている。
「その弾正忠が、かつては本拠にした城ぞ。広い水堀など設けて、さすがに堅牢だわ」
日根野が言って、やれやれと首を振る。
「…………」
乾は仏頂面で黙り込んでいる。
光秀の采配の下での勝幡攻めが失敗に終わることを、道三が密かに期待していると、彼も理解していたはずだ。
しかし、光秀が蜂須賀、前野らの一党を味方につけていることを知り、どうやら道三の思い通りにならないと悟ったのだろう。
光秀が勝幡を落とせば、その手柄を道三は称賛するしかない。
しかしそれが道三には面白いはずがなく、八つ当たりでしかない怒りが乾に向くだろう。
竹腰の言う通り、城方の抵抗は予想以上に激しいが、それもいつまでも続くものではない。
光秀は静かな微笑で、時が至るのを待っている。
『川並衆』の一人、蜂須賀彦右衛門によれば、ここは勝幡城に出入りする商人や領民が使う船着き場であるという。
勝幡城を攻める本陣を置くにはちょうどいい場所だと、伝令を寄越して勧めて来た。
彦右衛門──諱は正利──は、高名な蜂須賀小六正勝の父であり、蜂須賀党の『現』頭領だ。
光秀と同年代の蜂須賀小六は、天文十六年時点では若輩であり、いまは父の彦右衛門の下で鉄砲組を束ねる小頭の立場にあるらしい。
勝幡城は陣所の西側、水堀を隔てた築堤の上に見えている。
土塀に囲まれた城内には篝火が焚かれ、夜空を赤く染めている。
外周には川の水を引き入れた堀が設けられ、敵を近づけまいと備えてある。
舟で接近を試みれば、矢狭間から盛んに矢と鉄砲を射かけて来る。
主君である織田弾正忠の討死を知れば城兵は戦意を喪失し、城を明け渡して退散することもあるかと期待したが、そこまでラクにはいかなかった。
竹腰が眉をひそめて、光秀に言った。
「いったい蜂須賀、前野どもは、いかがしておるやら。搦手から攻めると申して兵を分かってから、音沙汰ないぞ」
「草莽の者には彼らなりの戦い方があるようです。いましばらく待ちましょう」
光秀は微笑のままで言う。
彼としては仕掛けは怠っておらず、心配はしていない。
果たして──
配下の兵が、ざわつき始めた。
三宅川の下流を指差している。
竹腰、日根野もそちらを見て、驚き呆れた声を上げた。
「なんじゃあ、ありゃあ」
「車楽舟……で、ござろうか。津島の天王祭の」
二艘の舟を横並びに繋げた上に板を張り、その上に櫓が組み上げられていた。
そうした舟が六組、三宅川を遡航して来る。
櫓の上には置楯が巡らされ、その向こうに数人ずつの兵がいて、板張りの上にも置楯が並び、その間から棹を伸ばして水夫役の兵たちが舟を進ませる。
光秀は、にんまりと笑って告げた。
「いかにも、あれは天王祭の車楽舟。そう申しますのは朝祭の折のことで、櫓には金襴緞子を張って花や人形を飾ります。また宵祭には同じ舟に提灯を三百六十ばかり吊るして巻藁舟と称しますが、いずれにしろ櫓を組み上げた造りが城攻めに向いておりましょう」
「まさか、すでに津島衆まで味方につけておるのか」
唖然とする竹腰に、光秀は得意げに胸を張り、
「我が明智家は多年に渡り津島衆とは昵懇でございますゆえ、彼らを説き伏せ、津島五ヶ村とその下流の市江村から車楽舟を一艘ずつ借り受けました。とはいえ津島衆も織田勢に直接、刃を向けることを躊躇う者はいまだ多く、漕ぎ手には蜂須賀党、前野党らが加わっております」
三宅川を少し下ると、西から流れて来た萩原川と合流する。
その先は天王川と名が変わり、東岸一帯が津島湊であった。
水辺は船着場として整備され、大小合わせて百を超える舟が常に出入りして、堤の上には土蔵が建ち並び、荷の出し入れが盛んに行われる。
土蔵の向こうは町の本通りで、商家と旅籠、料理屋が軒を連ね、昼夜を問わず賑わいを見せる。
大永六年──西暦一五二六年──、津島を訪れた連歌師の宗長は、『寺々家々数千間(軒)』と、その繁栄ぶりを表現している。
対岸は天王向島と呼ばれ、牛頭天王信仰の総本社とされる津島天王社の境内地である。
津島は木曾川流域で最大級の川湊として、かつまた津島天王社の社前町として富み栄えていた。
織田信秀は、その津島を支配下に置くことで莫大な利益を得て来た。
そして信秀の津島支配の拠点となっていたのが、勝幡城であった。
ゆえに光秀は、勝幡城を奪わなければならない。
津島の富を、信秀の後継者となる信長の手に渡してはならないのだ。
幸いなことに、明智家は津島に伝手があった。
津島周辺五ヶ村に勢力を張り、津島湊の利権を握る土豪たちを津島衆と称し、堀田家や大橋家などが知られるが、明智家は彼らと数世代にわたり通婚を重ねて来たのである。
津島衆にとっても土岐一門に連なる明智家と縁を結ぶことは、木曾川を介した美濃との交易において利があると判断したのだろう。
『三日天下』で終わった『明智光秀』に直系の子孫はないが、一族縁者の末裔が系図を伝える。
その一つ、『明智氏一族宮城家相伝系図書』は東京大学史料編纂所に謄写本が所蔵され、明智氏関連の系図として特に知られたものだが、これに明智光秀の叔母が堀田道空に嫁いだという注目するべき記事がある。
堀田道空は実名も詳細な事績も後世に伝わらない謎の多い人物だが、『信長公記』には、彼の津島にある屋敷の庭で織田信長とその家臣たちが鬼や弁慶、天女などに仮装して踊りの興行をした旨が記される。
また同書の別の場面、信長と斎藤道三が対面した世にいう『正徳寺の会見』には道空も立ち会っており、彼が津島衆のうちでも有力な立場であったことが推察される。
──後世の歴史小説などでは堀田道空が斎藤道三の家臣であったと語られることがあり、確かに『信長公記』による『正徳寺の会見』の描写はそのようにも受け取れるが、それでは道空が津島に屋敷を持ち、そこで信長が踊り興行をしたことの説明が難しい──
光秀は『この時代』において堀田道空と交誼を結ぶことは叶わなかった。
道空はどうやら若隠居を気取った自由人であるらしく、諸国を巡り歩いて文人墨客と交遊する一方、津島の屋敷に在ることは稀だった。
光秀は叔母を介して道空へ幾度か文を送り、面談の機会を求めたが、道空からの返書は「いずれ折を見て、こちらから訪ねましょう」というばかりであった。
ならば津島天王社参詣のついでに叔母への挨拶に立ち寄ったという口実で、実際は道空との遭遇を狙って屋敷を直接訪ねようと目論んだが、叔母によれば道空は帰宅する際に家人への先触れはなく、出立の際は行き先も告げず不意に姿を消してしまうので、いつならば道空が在宅しているか予測することは困難だという。
結局、光秀は堀田道空との親交はあきらめたが、彼以外の津島衆の主立った者と関係を深めて、「美濃と尾張の関係が美濃方の優位に傾いたとき、津島衆の有志は織田家への従属を断つべく蜂起する」という密約を得ることに成功した。
光秀は、日本史上でも稀有な自治都市として会合衆と呼ばれる有力商人が統治する堺や、南蛮の都市共和国であるヴェネツィアの例を挙げて、津島もまた近隣の大名や領主による支配を受けずに独立することが可能であると、巧みに津島衆へ説いたのである。
櫓を組み上げた六組の舟は、光秀たちの陣所の前を通過して、三宅川から勝幡城の堀へ繋がる水路へ回り込んで行った。
奇怪な舟の接近に城兵たちも気づき、矢や鉄砲を射掛けるが、まだ届く距離ではない。
竹腰が愉快そうに声を上げた。
「城方にしてみれば、川から堀に水を引き込む水路を繋げておったのが仇になったのう」
「『浮き井楼』の計とでも名付けましょうかな」
日根野も感心した様子で、光秀に告げる。
「御見事でござる、明智殿」
「いや、竹腰殿の言われる通り、川と堀とが繋がっておりましたゆえ、成り立った策です」
光秀は苦笑交じりに謙遜してみせる。
舟の上の櫓は、勝幡城を囲む土塀と変わらぬ高さであった。
つまり水堀に入って城に近づいたところで、櫓から弓なりに矢を放てば、容易に城内へ射ち込むことができた。
放つのは火矢である。
織田信秀は配下の兵を挙って美濃へ攻め込んだ。
勝幡からも半ば以上の兵が出陣して、城の守りには最低限の人数しか残していなかった。
城に籠もって矢狭間から寄せ手を狙い撃つことはできていたが、土塀を越えて降り注ぐ火矢に対処するには手が足りなかった。
城内の建物の屋根や壁に次々と火矢が突き立ち、城兵たちは慌ててそれを払い落としたり、建物に引火したのを消し止めようと右往左往する。
城からも舟を狙って火矢が放たれるが、鉄鋲で補強した置楯に弾かれる。
櫓組みの柱に刺さった火矢は、水夫役の兵たちが槍や棹で払い落とした。
そして、
──ズ……ドンッ!!
櫓の上で火花が散り、轟音が上がった。
同時に城兵たちが悲鳴を上げ、その場に倒れたり、うずくまったりした。
そうした城内の様子は、光秀たちの陣所からは見えていないが、櫓の上から何かが放たれたことは理解した。
竹腰が目を丸くして、
「なんじゃあ、鉄砲かあ」
「高麗鉄砲でしょう。蜂須賀党のお気に入りのようです」
光秀は説明する。
「南蛮式の鉄砲と異なり、遠くの敵を狙い撃つには向きませんが、塀の向こうの敵に向けて弓なりに放ち、火薬に焼けた鉛玉を霰の如く降らせることができるとか」
それを聞いて日根野が、眉をひそめて首を振り、
「なるほど、鉄砲を巧みに用いることが、草莽の者の戦にござるか」
「いえ、これからは武士のする戦も、こうしたものになりましょう。好むとも好まざるともです」
光秀は慰めるような微笑で答える。
「鉄砲が戦の有り様を変えるのです。数さえ揃えば、あえて狙い撃つ必要もなく、鎌で草を薙ぎ払うように敵を屠ることができましょう」
「すると鉄砲をどれだけ買い集められるかという、懐の豊かさで戦の勝ちが決まるのか」
「そうとばかりは限りません。現に、弾正忠は御屋形様の策で命を落としました。つまるところ、銭をどれだけ巧みに用いるかでしょう」
本当のところ、織田信秀を討ち取ったのは光秀が用意した伏兵であるが、ここは道三を持ち上げておいた。
あえて口にしなくても、日根野や竹腰なら本当の手柄が誰にあるかは理解しているだろう。
ついに城内から火の手が上がった。
消火が間に合わなくなったのだ。
次にできるとすれば延焼を防ぐため、周りの建物を打ち壊すことだが、それも追いつくかどうか。
落城は時間の問題だろう。
「城を落ちようとする者があれば見逃してよいと蜂須賀らには伝えておりますが、さて」
光秀は、にんまりとほくそ笑んだ。
「津島への押さえとなる勝幡ですから、蔵には豊かな蓄えがあり、城兵が逃げ出すときは、それを持ち出すだろうと蜂須賀らは考えるでしょう。生け捕りにするか、殺して奪うか……いずれにしろ、タダでは逃がしますまい」




