【4】天文十六年の改変
光秀は井ノ口の町外れに陣所を構えていた。
町外れ──といっても町自体は、ほとんど焼け野原と化しているのだが。
稲葉山への籠城に際して組下にあった兵と、織田信秀を討つための伏勢として所領の明智荘から招き寄せた兵、合わせて三百が、そこにいた。
可児郡明智荘は明智の苗字の地である。
だが、いまやその過半は明智家の手を離れ、他家が領するところとなっている。
土岐一門の名族である明智家だが、身内同士の争いを重ねた末に、近隣の他家に圧倒されて頽勢が著しい。
光秀は辛うじて明智荘の一部を保っているが、そこから動員できる兵がようやく三百であった。
ただし、その三百のうちにも負傷者が出ているため、いまから動かせる兵は二百ばかりだ。
とはいえ、味方を増やす手は、すでに打ってある。
「お戻りなされませ。いかがでございます、大殿は兵をお貸し与えくださいましたか」
陣所に戻った光秀を、にこやかに迎えたのは、腹心の藤田伝五である。
光秀より七つ、八つ年上で黒々と日に焼けており、笑うと白い歯が目立つ。
陽気で前向きな性格で、物事を否定的にとらえることをしない。
──藤田殿にあの笑顔で言われたら、どんなことでも頑張ってみようって気になるんでさ。
兵や領民たちから、そう慕われており、光秀自身も彼を深く信頼している。
光秀は満足の笑みで答えて言った。
「思うた通り渋られたが、まずは三百。これに加えて、かねて約定の通り、日根野殿、竹腰殿が与力を申し出てくれた。総勢一千だ」
「では、蜂須賀、前野らの一党と合わせれば二千は堅いですな」
「うむ、蜂須賀らには舟さえ用意させれば御の字と初めは思うたが、我らの大勝利を知れば、あの者たちも御屋形様の歓心を買うべく功名を上げておこうと考えるであろう」
「それと、勝幡の蔵に積み上げられているはずの銭ですな、彼らが欲するのは」
にやりと白い歯を見せて、伝五は言う。
すでに自身の成功を確信している光秀もまた、にんまりと笑い、
「いま蔵にあるものなら渡してやってもよかろう。だが、これよりのちは津島の富は、我らの手元に流れ込んで来るのだ」
光秀は、日根野や竹腰とは日頃から親交を重ね、いざというとき味方につけられるよう根回ししていた。
たとえば日根野には刀剣を蒐集する趣味があることを知り、光秀は先祖伝来の銘刀を「たまたま親類筋から手に入れたが若輩の自分には不相応」という口実で日根野に譲って、その歓心を買うことに成功した。
日根野はまた『保元物語』や『太平記』などの軍記物を好み、「下手の横好き」と謙遜しながら自ら注釈を加えるほどであるが、古今の文学には光秀も明るく、巧みに話を合わせて交誼を結んできた。
竹腰のほうは和歌や連歌の愛好者であるが、それこそ光秀の得意分野で、連歌会のために互いの領地を行き来するまでの仲となっていた。
──しかし。
日根野の注釈した軍記は『後世』に伝わっていない。
竹腰が詠んだ和歌もまた知られていない。
彼らの趣味嗜好は、光秀が『この時代』において自ら情報収集して知り得たものだった。
そもそも古今の詩歌や散文文学にしても、光秀は初めから知識があったわけではない。
『この時代』に生まれたのちの幼少期から懸命に学んだものである。
光秀が『明智光秀』としてのポジションを手に入れるまでには、並々ならぬ努力を払ったのだ。
その成果として光秀は、いまや学問的知識においては『史実』の『明智光秀』と遜色のないものとなっているはずだった。
しかし判断力や直感のような才覚では、『明智光秀』に及んでいるなどと自惚れるつもりはない。
『明智光秀』は後世に『三日天下』と呼ばれることになるが、それでも一度は『天下人』まで成り上がった傑物なのだ。
だが、光秀には『史実』の『明智光秀』よりも有利な点があった。
それこそ『明智光秀』が『三日天下』に終わることや、その後に徳川家康が征夷大将軍として江戸幕府を開き、真の『天下人』まで上り詰めることなど、歴史の流れを知っていることだ。
光秀は二十一世紀を生きていた戦国時代マニアの魂を持つ『逆行転生者』なのである。
だから光秀は、『井ノ口の戦い』における斎藤道三の勝利も知っていた。
この戦いが行われた年について、『後世』では天文十三年と天文十六年の二つの説が流布している。
西暦ではそれぞれ一五四四年と一五四七年となる。
『転生』前の光秀は、同時代の一次史料に依拠する天文十三年説が正しいものと考えていた。
たとえば愛知県瀬戸市の臨済宗の古刹、定光寺に伝わる『定光寺年代記』には、美濃国井ノ口における尾張勢の大敗が明確に天文十三年の出来事として記されている。
また、連歌師の宗牧が記した『東国紀行』にも、天文十三年に美濃との合戦で手痛く敗れた直後の織田信秀と対面した旨の記述がある。
一方、天文十六年説は『信長公記』の記述から生じた誤解によるものと思われた。
『信長公記』は織田信長の家臣であった太田牛一が著したもので、信長に関する最も有名な根本史料である。
姫路藩主池田家に伝来したのち岡山大学附属図書館に収蔵された牛一自筆本の奥書には、『あったことは除かず、無かったことは加えていない』旨が誇らしげに記されている。
だが、牛一が『信長公記』を著したのは主君の没後、何年も経てからのことで、記憶と伝聞に基づいた記述には少なからず錯誤があることが指摘されている。
同書において『井ノ口の戦い』は、信長が十三歳で元服して翌年に初陣を果たしたという記事のすぐあとに記される。
実のところ『信長公記』は、多くの記事で何月何日かの記載はあっても何年の出来事か書かれておらず、『井ノ口の戦い』もそれに該当する。
しかし信長の生誕が天文三年すなわち西暦一五三四年であることは種々の史料により確定しているから、数え十四歳での初陣は天文十六年のこととなる。
そして還俗した元僧侶であったことが知られる太田牛一は、天文十六年の時点では、まだ織田家に仕えていなかったと考えられている。
つまり『井ノ口の戦い』の記述は伝聞を頼りにしたとみられ、そうであるなら記事の掲載順が実際の時系列の通りとは限らない。
ちなみに年次が書かれている記事であっても、信長の前半生のクライマックスというべき『桶狭間の戦い』が本来は西暦一五六〇年すなわち永禄三年に起きたところを天文二十一年と記すような明白な誤りも見られる。
光秀の考えでは『信長公記』は、太田牛一とその周辺の人々の記憶に基づき『あったことは除かず、無かったことは加え』なかったとしても、随所に記憶違いを含むものと評価せざるを得ない。
ゆえに『井ノ口の戦い』は『信長公記』の記述に関わりなく、天文十三年の出来事と考えていいだろう。
あるいは太田牛一は、この戦いが起きた年がいつか正確にわからなかったため、あえて年の記載を省いたのかもしれない。
ところが──
光秀が期待した大戦は、天文十三年には起こらなかった。
その年、確かに織田信秀は美濃へ攻め込み、井ノ口の町の焼き討ちを目論んだが、率いた兵は五千ほどで、道三が稲葉山城から撃って出ると早々に退いた。
光秀はこのときも伏兵を用意していたが、もともと動かせる配下は少数であり、統制を保ったまま撤退する尾張勢に対して、つけ入る隙はなかった。
道三の本隊は尾張勢を猛追して殿軍の士卒を百ばかり討ち取ったが、『歴々五千ばかり討死なり』と『信長公記』が記すほどの打撃を信秀に与えるには至らなかった。
光秀は、天文十三年の『井ノ口の戦い』が小規模で終わったのは、彼が『転生』したせいで歴史の改変が生じたためではないかと懸念した。
光秀が織田信秀を討つべく伏兵を用意したことは本来の歴史になかったはずの行動であり、それがいわゆる『バタフライ・エフェクト』のように僅かずつ、だが多方面に影響して、歴史の流れを変えたのではないか?
それとも、まさか『井ノ口の戦い』は天文十六年が正解であったのか?
いずれにしろ光秀は、織田信秀を討ち取る布石を打ち続けなければならなかった。
すでに歴史の流れが変わり始めたにしろ、そうでないにしろ、光秀が『明智光秀』として生きるために、それは避けられないことなのだ。
果たして、天文十六年。
織田信秀は朝倉孝景と示し合わせて大軍で美濃へ攻め入った。
光秀が知る『史実』の『井ノ口の戦い』と、まさしく同じ構図であった。
あるいは改変された歴史に揺り戻しが働き、天文十三年に起きるべき事件が天文十六年になって発生したのかもしれない。
事情はどうあれ合戦の経過も光秀の知る『史実』通りで、尾張勢は美濃方の反撃により大打撃を受け、織田信秀は僅かな供回りとともに敗走した。
そして『史実』と異なり配置された光秀配下の伏兵が、これを討ち取った。
同時に『史実』における戦死者である信秀の長弟、与次郎信康や信長の三番家老、青山与三右衛門らに加えて、信秀の別の弟である孫三郎信光と四郎次郎信実、信長の四番家老の内藤勝介の首級も挙げ、美濃方は『史実』以上の大戦果となった。
『史実』では尾張へ生還した信秀は、その後、道三の息女の胡蝶姫と、自身の嫡男の信長との婚姻による和睦を模索することになる。
だが、信秀を討って織田家に対する決定的な優位を得た道三が、娘を信長に嫁がせる可能性は潰えたはずだ。
光秀の次の狙いは、信秀の経済力の源泉であった津島湊を、信長の手に渡さないことである。
この年、すなわち天文十六年、織田信長は数え十四歳であった。
前年に元服は済ませていても、なお若輩である。
いまのうちに信長の戦国大名としての成長の芽を摘んで、機を見てその命をも奪うことを、光秀は望んでいた。
『史実』を知る光秀にとって、織田信長は将来確実に仇敵となる存在であった。
これを討ち取り、首級を手に入れることで、光秀はようやく自身が『明智光秀』であることに絶望せずにいられるのだ。
『明智光秀』は『本能寺の変』で織田信長を討ったあと、その首級を確保できなかった。
そのため信長を天下を騒擾した賊徒と断じて首級を晒し、自らの正当性を示すことができず、かえって信長生存の風説が流布することとなった。
ゆえに朝野の人心は動揺し、味方につけるべき諸将も靡かず、『天下人』の地位を維持し得なかったのである。
光秀は、同じ轍を踏むつもりはなかった。
織田信長は『この世』から抹殺されなければならないのだ。




