第16話
「──っ!?」
不意に、頭を嫌な予感がよぎる。
昔から不思議と俺は、これから俺の身の回りに起こることが、自分にとっていいことなのか悪いことなのかを予知することが出来た。今回はその針が、悪い方向へと振り切れていた。
「この感覚は、まさか……」
立ち上がろうとして、足に激痛が走る。その痛みに喘ぎながら視線を落とすと、先程撃たれた足の傷から、まだ少しだけ血が出続けていた。アイツの言う通り、この足ではしばらく使い物にならないだろう。
けれど、今俺の感じた予感に比べれば、その痛みなどどうということは無い。まるで誰かが死ぬような、底知れぬ恐怖に比べれば──
「……急がねば。何か良くないことが起きている」
歯を食いしばって痛みに耐えながら、俺は少しずつエレベーターの方へと這っていった。
それから俺が49階に着いたのは、随分あとだった。エレベーターに乗ってから気づいたが、49のボタンはエレベーターの上部にあり、這ったままでは届かなかったのだ。この階での移動手段はエレベーターしかないため、無理をしてでもボタンを押す必要があったのだ。
俺が49階に着いて最初に目に入ったのは、倒れている誰かの隣で座っていた、くたびれた白衣を着た、背の小さな男子だった。俺が近づくと、彼はしきりに何かを呟いていた。
「ぐっ──なんだって、こんな──」
彼のちすぐ近くへとやってきた時、俺は初めて、倒れている人物が弟だったと分かった。彼の表情はどこか苦しそうで、しかしどこか安らかだった。
「おい、愁……?」
俺が彼の名を呼ぶと、隣で座っていた男が俺の存在に気づいたらしく、ふっと顔を上げた。その目元にはうっすら涙が流れており、口からは吐血らしき跡が残っている。
「……亡くなったよ、龍羅。先ほど、氷川美沙の凶弾によってね」
彼の言葉には、俺の予期していなかった人物が二人いた。1人は、俺の上司であり首相秘書の氷川美沙。そしてもう1人は、俺自身。
「お前、どうして俺の名を?それより、美沙がやったのか……コイツを?」
俺がそう言って座り込むと、彼は作り笑いを浮かべた。
「ボクはJDCのリーダーだからね、君の情報くらい手に入れているよ。それより……」
そこでいったん言葉を切り、愁の方を見ると、彼の笑みは少し哀しげなものへと変わった。
「本当だよ。ボクと、彼女が実際にこの目で見たんだ」
彼の指差す先には、前に一度会ったことのある関東広域放送のキャスター──たしか、千夜とか言ったか──が体育座りをしていた。その格好のまま項垂れていて、彼女の表情はここからは読み取れない。
「あいつ……」
「泣き疲れて眠っているだけだよ。そして美沙は、煙のようにどこかへ消えてしまった──今この場にいるのは、ボクとキミだけだ」
彼のどこか心に響くような声と、知りたくもない現実を突きつける残酷な発言に、俺は気が付くと叫んでいた。
「くそっ、こんなもの──こんなもの、俺が望んだ正義なんかじゃない!!」
叫びながら、床を大きく叩く。そうしても、彼は口に含んだ哀しげな笑みを崩すことはなく、キャスターは眠り続け、愁は起き上がることはなかった。
ふと視線を上げると、その先には愁が横たわっていた。スラム街ではリーダーを務めていたという彼を近くで見ようと、俺は無我夢中で彼の方へと這っていった。
「教えてくれよ、愁──俺は一体、どうすればいいんだ……」
俺が彼の顔に手を伸ばし、その指先が触れる直前──。
俺の後ろから、誰かの足音が聞こえた。
「豪さん!!大丈夫ですか!?」
「待って、奏多くん!!何だか静かすぎるわ」
少年の声と、それを止めているらしき女性の声が聞こえる。少年の方は聞き覚えがあった。
「……こっちに来てほしい」
俺の隣の男が呼びかけると、幾つもの──恐らく3、4人の──足音が、ゆっくりこちらにやってきていた。振り返った俺の視線の先にいたのは、前に一度ここにやって来たこともある少年だった。
「お前、スラム街の……」
言いかけた俺に、彼は頷いて答えた。
「奏多です、櫻田隆羅さ──」
そこで何故か言葉を切る。立ち止まった彼──奏多の視線はある一点を凝視して、そこから動かなかった。
そんな彼の後ろから白衣を着た男女がやって来るが、俺に向かって何かを言いかける前に、2人とも俺のすぐ後ろにあるものに──弟の安らかな顔の前に、表情が瞬時に強張る。
「──っ!?」
「豪さん、これって……どういうことですか!?」
白衣の男の方が激しい口調で、俺の隣にずっといた男性──豪というらしい──に尋ねる。豪は視線を落とし、声も心なしか先ほどより小さくなりながら答えた。
「……本当なら、ボクがやられるべきだったのさ。けれど、彼がボクのことを庇ってそのまま……」
豪の言葉に反応したのは、白衣を着た女の方だった。声を震わせ、顔を青ざめてしきりに何かを呟いている。
「そんな……私の、せいで……私が、もっと早く、ここに来ようって言っていれば……っ」
そんな状態の彼女を、白衣の男が抱き寄せた。
「別にお前のせいじゃない。お前があそこで考え込んだのは、奏多くんも豪さんも、みんなひっくるめて失いたくなかったからなんだろ?だから、あまり自分のことを責めるな、智子」
そんな二人の様子を静かに見ていた奏多は、豪のように涙を流すこともなく、千屋のように座り込むこともなく、俺のように叫ぶこともなく、ただ静かに愁の顔を見、呟いた。
「そう……だったんですね。確かに愁さんなら、やりかねないです」
「お前、どうして泣いていない?」
今になって思えば、この質問は彼にとって答えたくないものだったのかもしれない。
それでも彼は、なおも静かに、しかしその場で俯き、俺達からは顔が見えない状態で答えた。
「……もう、悲しいのはお腹いっぱいですから」
その彼の発言の真意を読み取れずにいた俺の隣で、豪が息をのんだ。
「まさか──」
言いかけた豪を、奏多は首を軽く振って制すると、再び口を開いた。
「……帰りましょう。もう、ここには居たくない」
そう言って顔を上げた彼の目には、一筋の涙が流れていた。俺は不覚にも、目の前のこの少年を──そして彼の涙を、美しい、と思ってしまった。
そして、彼がその足を、エレベーターへと一歩踏み出した瞬間──
「待ってくれ。俺も、お前たちと共に行動がしたい」
俺は、自分の手を奏多へと向けていた。
* * *
「待ってくれ。俺も、お前たちと共に行動がしたい」
僕の後ろで、少しかすれた、しかしはっきりとした決意の見える声がした。振り返ると、隆羅さんが僕に向かって手を伸ばしているところだった。
そんな彼の様子に、豪さんが再び彼の近くで座り込み、その表情を強張らせた。
「急にどうしたというんだい?弟の代わりを務めようとしたって、彼の遺したものは大きすぎるよ」
彼の言葉に、隆羅さんは首を振った。
「俺はただ、ここにいたくないだけだ。弟が死んで、上の人間は行方知れず──このままだと、どうにかなってしまいそうだからな」
それに反応したのは進さんだった。
「そんなの、自分勝手すぎる!豪さん、こんな奴ほっといて──」
「いや、彼も連れて行こう」
豪さんの落ち着いた声に、彼は何度か深呼吸をしてから再び口を開いた。
「……理由を、聞いてもいいでしょうか?」
豪さんは先ほどと同じように、妙に物静かな口調で話し出した。
「今までの彼の行動は全て、自分の信念に則ったものだ。彼は決して日本医師会の傀儡ではない、というわけだよ。スラム街に連れて行けば、彼の中で間違いなく何かが弾ける──ボクはそう信じているんだ」
「僕も、賛成です。豪さんみたいにかっこいい理由は思いつかなかったけど……ただ、愁さんが今までどんなことをしてきたのか、お兄さんとして知って欲しいと思って……」
最後の方は少し口ごもってしまったが、豪さんは僕の顔を見て笑顔を作った。
「いや、いい観点だよ奏多。隆羅、いいかい──」
豪さんは隆羅さんの方を見、一転して真面目な顔を作った。
「キミはあまりにも、この世界のことを知らなさすぎる。いいや、今まで知らされていなかった、というべきかな?きっとキミが得てきた情報は、全て日本政府、そしてそれと癒着していた日本医師会からもたらされたものだったのだろうね」
「なっ──」
彼の言葉に、隆羅さんは大きく目を見開いた。
「……なるほど、図星のようだ。隆羅、今はただじっとしながら、闇雲に情報収集をしてて構わない。けれど、そう遠くないうちに、必ず時が来る。その時にキミは何をすべきか、じっくり考えるといいさ」
そう言うと、豪さんはゆっくりと立ち上がり、エレベーターの方へと歩き始めた。
「さて、そろそろ出発しようか。もうここにいる理由はないからね」
「そう……だったのか。やはり彼は、主人格を奪われていたんだね」
帰りのヘリコプターの中で、僕は豪さんに事の顛末を説明していた。僕が話を終えると、彼は腕を組んで表情を硬くしてしまった。
「けれど、最後の最後で兄さんが戻ってきたんです。見てるから、頑張ってって……だから僕、兄さんの分まで精一杯頑張りたいんです」
僕がそう言うと、豪さんは少し驚いたような顔をしたあと、柔らかい笑みを浮かべた。
「キミは本当に、よくできた子だよ。愁さんも喜んでいるさ」
僕の頭をわしわしと撫でる豪さんの隣から、涙と鼻水でぐしゃぐしゃになっていた状態からすっかり回復した千夜さんが豪さんに話しかけた。
「そうだ、今後スラムのリーダーはどうなるんスか?」
「不在という形をとろうと思っているよ。それから、混乱を避けるためにも、愁さんが亡くなったことはしばらくここだけの秘密にしておきたいんだ。本当は、愁さんの遺志を継げる唯一の人物として、彼のことを推薦したいけどね」
そう言うと、彼は隆羅さんの方に視線を向けた。
「けれどさっきも言った通り、キミはあまりに知らなさすぎる。信用できる人物を紹介するから、その人のもとで色々と学ぶといいよ」
豪さんからそう言われた彼は、座ったままで目を閉じ、軽く頭を下げた。
「……寛大な措置、感謝する。けれど俺は、まだお前たちの味方になったわけではない、ただ知りたいだけだ。なるべく早くこの世界の真実に辿り着いて、俺はそこで──」
しかし、彼が最後まで言い終える前に、どこからともなく聞きたくもない声が響いた。
「ごきげんよう、みんな揃っているかしら?」
真っ先に反応したのは隆羅さんだった。僕の母親だという人物──氷川美沙のものらしき声の出処を、必死に探している。
「この声、美沙か!?しかし、一体どこから──」
「うふふ、無理もないわね。あなた達から悟られないようにこれを取り付けるの、意外と大変だったのよ?」
再び聞こえてきた彼女の声は、豪さんの方から出ていた。彼は自分の肩のあたりを少しまさぐると、その手には小さな黒い機械が乗っていた。
「これは……拡張式のインカムか。おそらく戦闘の最中につけられたものだろうけど──すまない、ボクの失態だ」
少し申し訳なさそうな彼の言葉に、智子さんが今にも泣きそうな声で答えた。
「謝る必要なんてないですよ。もとはと言えば、私がもっと……」
しかし、そんな二人のやり取りは、インカムから聞こえてきた声に遮られてしまった。
「あらあら、醜い傷のなめ合いもいいけどそろそろ本題に入らせてもらうわよ。今日はあなた達に、耳寄りな情報を持ってきたのだから──」
彼女はいったん言葉を切り、しばらくの沈黙。再び聞こえてきた彼女の声からは、何故か禍々しい気配が感じられた──ような気がした。
「──我々日本政府は、あなた方を国家存続における脅威だと判断しました。一週間後の今日、我々の精鋭が断罪を執行します。首を洗って待っていなさい」
最後まで読んでいただきありがとうございます!話自体は完成していたものの完全に寝坊してました、本当にすみません。代わりに千夜さんが土下座してお詫びします。
さて、今回のお話で愁さんが倒れ、隆羅さんのキャラがブレ始め、千夜さんが突然回復すると少し強引な話でしたがいかがでしたでしょうか?そして次回、久々にあの人が登場です!
それでは次回もお楽しみに!このお話が少しでも面白いと感じていただけたら、感想評価レビューなど送っていただけると日々の活動の励みになります!